第3章
南沢湖は、イギリスのネス湖のネッシーの妹、ミッシーがいるとされている湖だった。
「流石にそりゃ、無理があんだろ」
「まあ、そう夢のないことを言うなよ」
晴天の夏風の中、フェラーリ・コンバーチブルを走らせる要の横で、旅行のパンフレットを見ながら、翼はなおもけたたましく笑い続ける。
「いーや、言わせてもらうぞ、要。イギリスのネス湖とこの日本の南沢湖と、一体何万キロ離れてると思ってんだ!?にも関わらず、湖のそばに下品にもクッシーの首にリボンをかけたミッシーの像なんかがあって、観光名所になってる。しかも、観光土産がミッシーまんじゅう……絶対何かが終わってるって思うのは、俺だけじゃねえだろ」
「さてね。ミッシーまんじゅうは僕も食べたことはないけど、これもまた、南沢湖周辺の観光業者たちの苦肉の策だったんじゃないかな。ここらへんってほんとど田舎で、湖が綺麗だっていう以外、これといって見るべきところもないからね。この南沢湖で毎年夏にある音楽フェスティバルも――そうした関連から、なんとか人を呼ぼうっていうイベントとして企画されたらしい。んで、何かと噂の指揮者、西園寺圭が東京の楽団を率いてやって来るってことで、おととしくらいから結構、人にも知られるようになったっていうか」
「あ~、あいつってなんとなく、顔は似てないけど、キャラ的におまえと被ってる感じするよな」
山と森の緑に囲まれ、セミやキリギリスの鳴く中、誰も人通りのない信号機で車が止まった瞬間、要はどこか怪訝そうに隣の相棒を見返した。
「なんていうか、血筋のいいサラブレットのおぼっちゃんっていうか、ルックス的に同じ王子タイプじゃん。音楽と絵で、描いてることは違っても、同じような芸術家肌タイプっていうかさ。俺、高校でおまえと同じクラスになった時、なんでかわかんないけど、無条件でぶん殴りたい奴だって、見た瞬間に思った。西園寺圭に対しても、あいつがたまにテレビで気取ったようなこと言ってると、意味もなく殴りたいものを感じる……なんでかはわかんないけど」
「随分懐かしいことを言うな。僕は翼のことを最初に見た時――こいつとは物凄く仲良くなるか、憎しみあうかのどっちかだなって気がしたけど。西園寺圭も意外と、話してみるといい奴かもしれないぜ?僕みたいにさ」
「い~や。あいつはおまえとは違う」
翼が妙にきっぱりと言い捨てるのを聞いて、要は思わず吹きだしそうになった。
「父親が外交官で、小さい頃からヨーロッパのあちこちの国に住んで、五ヶ国がペラペラな上、超有名音楽院を卒業後は、世界中のあらゆる楽団から引っ張りだこだなんて――絶対気なんか合うわけねえだろ。しかも奥さんってのが元ミスユニバースなんだぜ。嫌味にもほどってもんがあらあ」
「まあ、確かにね。でも彼、指揮者としちゃ、典型的なトスカニーニ・タイプらしいよ。もしかしたら翼も、西園寺圭がコンサートで指揮棒振る前のドキュメンタリー・フィルムとか、見たことあるかもしれないけど……徹底した完璧主義者で、厳しいことで有名らしい。それも音楽に対する愛ゆえって感じでね、その<愛>や<情熱>っていう部分がわかるから、楽団員たちもついてくるっていう、そんな感じなんだってさ」
「ふう~ん。で、これから行くホテルとやらには、そういう音楽祭の関係者も多数宿泊してるから、誰も聞いてないからといって、変なところでポロッと本音を洩らすなって言うんだろ」
「ま、そういうこと」
要はサングラスをかけ直すと、湖の光り輝く湖面を照り返すように建つ、<南沢湖クリスタルパレス>なるホテルまで、曲がりくねる湖畔の道に沿ってゆっくり車を走らせていった。
翼は複雑な生態系を持つことで有名な南沢湖を眺めながら、(確かに何か、棲んでいそうだ)と思いはしたが、自分が病院を退職する前の夜、見た夢のことについてはまったく何も思いださなかった。
というより、湖自体が何か魔力を持った神秘的な神聖さをたたえているので、ここでは泳いでみたいという気持ちすら、翼は起きなかったといっていい。そしてその神秘さと不気味さとは紙一重の青さを持っているとも思い――気温は三十度近かったにも関わらず、一度など背筋がぶるっと震えたほどだった。
とはいえ、それは車の中に入りこむ風のせいだろうと翼は思い、特に気に留めはしなかったのだが……。
>>続く。