第2章
「来週、南沢湖っていうところでさ、音楽フェスティバルが開催されるんだけど、行く気ないか?」
「音楽フェスティバルねえ」
悪友、時司要に電話をかけた翌日、翼はせっかちな性格も手伝ってか、早速とばかり彼のアトリエがある、城のような住居に邪魔をしていた。
和洋折衷型のなんともおかしな建造物で、奇妙なところで行き止まりになっていたり、あるいは抜け道や隠し部屋のあったりする、作るのに数億かかったと言われる、要曰く、彼の<おもちゃ>だった。
その時、薄いガラスを透かして、数人のモデルをしている美女が、何気なく同時にこちらを見た。全員、同じかつらを被り、まったく同じ古代ギリシャ風の服装をさせられている。
「おまえってさ、変わってるよな。モデルは人形にすぎないから、絵を描いてる間は必ずガラス越しに彼女たちを見て、一切話はしないだなんてさ」
「指示はするよ。けど、こっちの声は向こうに聞こえるけど、向こうで何か言っても、僕には聞こえないね。ま、口の動きで大体、<おしっこ>とか、言いたいことはわかるけど」
(やれやれ)と思いながら、キャスター付きの椅子を後ろ前にして座り、翼はその椅子をくるくると何度も回転させた。要はといえば、絵を描いている時独特の集中力を漲らせて、彼が何をしようとも一切頓着しない――とにかく、この部屋にいる時はいつもそうだった。
「おまえさ、トイレいく時に「おトイレ」って上品に言わずに、おしっこなんて言う下品な女ばっかモデルにしてんの?」
「さあ、どうかな」と、要は絵筆を動かし続けながら言った。「知能指数の低さとモデルとしての優秀さっていうのは、意外に比例するもんでね。下手にお上品な女性なんか雇うと、むしろあとあと面倒だっていうのもあるし」
「なるほどね。納得」
――ある程度絵が描き終わると、下の食堂にモデルの女性たちを招待し、美味しい食事とシャンパンが<ご褒美>として振舞われた。もっとも、ご褒美などといっても、彼女たちにはそれぞれ時給で結構な額が支払われてもいたのだが。
「俺さあ、おまえみたいな自由業って絶対向いてないって思ってたんだけど、要見てると、いつもほんと、羨ましいって思うわ。自由自適な生活で、セレブとしての品格も漂っててっていうかさ。なんていうか、要には凡人にない高貴な気品っていうのがあるよな。俺、もし自分が女で、おまえみたいな男に一瞬でも軽蔑の眼差しで見られたら――明日には自殺してるかもしれん」
「なんだ?もう酔ったのか?」
遠くに夕陽の見えるテラスに出て、モデルの女性たちがひとり、またひとりと車で帰っていくのを見送りながら、ふたりの男は茜色の空を背景にして語りあっていた。
「いや、俺は単に自分の品性の卑しさの話をしてるってだけの話。俺がおまえみたいな王子的ルックスで、絵の才能なんかあったら、まず最悪だな。今日はAと寝て、明日はB、それから次は……っていう感じで、無駄に才能をすり減らして駄目になってくっていうタイプの典型だな。というよりむしろ、なんでおまえがそうならないのかが不思議っつーか」
「またその話か」
要はスプマンテをフルートグラスに注ぐと、よくバーテンダーがそうするような指使いで、翼のほうへ差しだした。
「前にもこの話、翼にしなかったっけ?僕はおそろしく飽きっぽいから……まあ、おまえとはまた別の意味で、女性とは長続きしない。それでも、名前が売れだす前までは良かったんだよ。たとえば僕が、この屋敷のバスルームで刺されてるのが発見されたとか、そんなことがあってもね。でもまあ、今は色々迷惑をかける方面の人もいるしで、あまり遊べないっていう感じだな。僕にしてみたら、自由な身の翼のほうがよっほど羨ましいって思うけどね」
「結局、ないものねだりっていうことか。有名になって金が入るようになると、それ相応のものをどっかに支払わなきゃいけないってことだよな。まったく、面倒なこって」
「ほんとにね」
それから翼と要は、暮れゆく夏の夕景色を暫く黙って眺め、雲ひとつない空に星が瞬きはじめ、空気が生ぬるく感じられるようになってから、室内へ戻った。
「で、どうする?例の音楽祭」
「なんだっけ?クラシックのなんとかいう有名な指揮者と楽団がやって来るんだろ?俺さ、実をいうとブルックナー・アレルギーなんだよな。まだ研修医だった頃、朝比奈教授って奴が、手術中にブルックナーを必ずかけてたんだ。以来、手術室に入る前、緊張のあまり下痢になった時のことを思いだす。特に交響曲の五番と八番は死ぬまで永遠に聴きたくない」
要はカウンターの向こうで新しく氷をだし、さも面白いことでも聞いたというように、大声で笑っていた。
「ふう~ん。翼にもそんな可愛い頃があったのか。でも確か、ブルックナーは曲目の中になかったような気がするから、大丈夫じゃないか。西園寺圭が指揮するのは確か、ラヴェルとベルリオーズとストラヴィンスキー、モーツァルトなんかじゃなかったかな。あとは海外から何人か、著名な指揮者もやって来るし、クラシック好きにとっては垂涎ものの公演なんだけど、翼は興味ないか」
「そういうわけでもないんだけどさ、なんかこう……俺って場違いな気がするわけ。要はセレブなおつきあいとかで、そういうのにも慣れてるんだろうけど、結局俺って田舎者だからな。なんかの拍子にお里が知れちゃいそうとか思うわけ」
「べつに、そう堅苦しい場所ってわけじゃないよ」
お手伝いさんが作っていったという、つまみの皿をカウンターに並べながら、要は新たにワインの栓を抜いた。
高級な酒を、まるで水のように飲める生活を送っていながら、少しも酒や女に溺れるところのない親友が、時々翼は憎らしいようにすら感じられてならない。
「僕は主催者に招待されたってだけなんだけど、その主催者が僕の絵を買ってコンサートホールの建物に飾ってくれたような人なわけ。けどまあ、コンサート自体は一週間の間、野外でも行われるし、人気のある公演は当然、もうチケットが売り切れてないわけだけど……僕とその連れっていうことなら、どこでもフリーパスで入れるだろうっていう、これはそれだけの話」
「それだけの話ねえ」
(大した特権じゃないか)と思いながら、翼はチーズやマリネを口にし、ワインをがぶ飲みした。
「どっちにしろ、失業して暇なんだろ。僕も、誰を誘うにしても気疲れするのは嫌だしね。その点おまえが相手なら、暇な時はホテルのコートでテニスしたり、遊べていいなと思うわけ。あと、ホテルの中には馬鹿でかいプールもあるから、それなりにリラックスして楽しめるんじゃないかな」
「ふう~む。確かにそうだな。俺、要以外に友達いないし、先週酔って寝た子は電話番号がわかんなかったり……なんにしても、日頃の行ないが悪いと、まわりに人がいなくなるっつーか。これで要にまで見捨てられたら、天涯孤独だから、行きますよ。いや、むしろ行かせてくだせえ」
翼の話ぶりは最後、若干呂律が回らないような感じだった。
「おまえさ、そんな生活送ってたらほんと、ある日女に刺されて死ぬよ。そんで、自分の勤めてた緊急病院に搬送されて、元同僚にこう言われるんじゃないか?『結城先生はいつかこんなことになると思ってました』みたいにさ」
「要に、言われたく、ない……」
翼はやがて、カウンターの上に頭をのせたまま、いびきをかいて寝はじめていた。
「やれやれ」
要は溜息を着くと、奥の部屋からガーゼケットを持ってきて、親友の肩にかけてやることにした。そして苦笑する。表面的でないという意味の友達であれば――確かに自分にも、彼以外そのような存在は誰もいないということに、ふと気づいたというそのせいだった。
>>続く……。