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第19章

「しっかし要、おまえって天才な」


 翼は火星人の描かれたTシャツ、要はストライプのシャツに着替えたあとで、ふたりはこれからやって来る客人たちを招くため、部屋の微妙な最終調整を行っているところだった。


「最初はさ、ゴッホのひまわりをパソコンから印刷して拡大したものを額に入れるって予定だったのに、それじゃあんまり安っぽくて臨場感出ないとか言ってさ、たったの三時間くらいで油絵を模写しちまうんだもんな」


「天才なのは僕じゃなくてゴッホだろ」


「ゴッホゴッホ、そうでしたとか、俺に言わせるのだけはやめて欲しいんだけど」


 そんなふうに翼と要が軽口を叩きあっていると、最初にまず、西園寺紗江子が隣の部屋からやって来た。彼女は悲しみの喪に服している美女といった装いで、やはりブランド物の黒のスーツ姿だった。ただし、西園寺圭が死んだ夜と違うのは、その細い首まわりに本真珠のネックレスが飾られていたことだったろうか。


「本当にこちらで、主人が亡くなった時のことを再現するんですの?」


 ムンクの『叫び』にも似た火星人のプリントされたTシャツを見、西園寺紗江子がどこか軽蔑したように翼を見やる。


「ええ、まあ」翼がここで余計なことを言っては、すべてが台無しになると危惧し、要がふたりの間に割って入った。「ご主人のこと、大変お気の毒でした。でも、これから行われる再現を通して必ず犯人がわかるものと、赤城警部は信じておられるようです」


 噂をすれば影、というべきか、その時ちょうど、開け放しになったドアの向こうから、赤城警部に従えられるような形で、ラインハルト・ヘルトヴィッヒがやってきた。そして次に西園寺翔、白河刑事と一緒にアファナシエフ・ギレンスキーが通訳とともに入って来――最後にやって来たのがルカ・ドナウティ・ミサワであった。


「さて、それではあの悲劇の夜の再現をはじめたいと思います」


 赤城警部は注目、とでもいうように、一度パン!と厚い手のひらを打ち鳴らしたあと、そう話しはじめた。この間、ラインハルト・ヘルトヴィッヒと西園寺紗江子は挨拶さえ交わすことなく、互いに目が合うことすら避けている様子であった。アファナシエフ・ギレンスキーは美人の通訳に「喉が渇いた」といったことをロシア語で洩らし、キッチンの片側に立つ要に、「水を頂戴できませんか?」と聞いている。


 ギレンスキーの通訳が美人であったため、翼は喜んでキッチンにすっ飛んでいくと、コップに<南沢湖のおいしい水>を注いでやった。そしてルカ・ドナウティと西園寺翔とは、それまで小声でレジーナのことを話していたのだが、赤城警部の手の音で、その会話をピタリとやめていたのである。


「まず、あの日の朝にあったことからはじめるとしましょう。それではギレンスキーさん、よろしくお願いします」


「はい、わかりました」


 少しばかり微妙なイントネーションの日本語でギレンスキーが話しはじめると、ヘルトヴィッヒの顔に、どこか揶揄するような意地の悪い笑みが浮かぶ。彼がこれからちょっとした言い間違いをした場合、すぐにも訂正してやろうと待ち構えているような顔つきであった。


「あの日の朝、いつもと同じく、先生にお会いしたのは私が最初だったと思います。先生は食事を終えられて、<みずうみの宿、胡蝶>のほうで風呂を借り、丸太小屋のほうへ戻っていったのを私が追いかけるといったような形となりました。というのも、先生が見えられた時には宿の従業員にすぐ知らせるよう、伝えてあったからなんです。でもその日私は仕度に少しばかり手間取りまして、気がついた時には先生は旅館を出ていかれたあとでした。そこで走って追いかけていき、丸太小屋でその日のプログラムのことについて色々と打ち合わせたりしました。本当ならこの時、いつもならすでに翔さんが来ているのですが、珍しくも彼は遅刻してきたのです。もっともそれも無理からぬことで、舞台の演出家として、音楽祭の間は不眠不休と言いますか、それに近い状態になりますのでね、先生もそれをわかってらっしゃるので、他の弟子や楽団員たちが遅れてきた時のようには、叱ったりされませんでした。そういう時先生は大抵、その時の機嫌にもよりますが、「怒る口実を与えたおまえが悪い」といった調子で、くどくど説教されることがあるのです。そしてその時、そちらにおられるピアニストのルカが、バンガローを訪ねてきたんですよ。では、続きはルカさんのほうからどうぞ」


 ギレンスキーがそこまで淀みなく話し終えると、ヘルトヴィッヒはどこか「チッ」と内心で舌打ちしているような顔つきをした。それだけでも翼と要は、この兄弟弟子の力関係のようなものを見てとった気がしたのだが――なんにしても次は、ルカ・ドナウティの言を辛抱強く待つということになる。


 ギレンスキーはといえば、これで自分の仕事は八割方終わったとでもいうように、よく冷えた水をごくごくと喉を鳴らして飲んでいた。


「その、僕はこの日、先生と特別なお話があったのです。その日の午後からのリサイタルのことで……まあ、曲の解釈についてとか、そんなことですが。なんにしても、この時西園寺先生とお話した内容については、すでに刑事さんにお話してあります。ですから、次は翔にバトンタッチしたいと思います」


 ここで西園寺翔が何か言いかけると、「ちょっと待て」と、ヘルトヴィッヒがさも偉ぶった調子で聞き咎めた。


「赤城警部、これは事件の日の再現なんでしょう?だったら、どんな小さなことでもおろそかにすべきでない。そういう意味で俺は、ルカにその時西園寺先生とどんな話をしたのかを是非聞いておきたい気がする。それとも、人に聞かれては困る話をふたりはしていたのかな?」


 ルカが赤城警部と白河刑事のいるほうを見やり、どこか助けを求めるような顔をした。すると、赤城警部がやんわりと助け舟をだす。


「ヘルトヴィッヒさん。実はそこのところは本件とあまり関係がないように思われる箇所です。確かに、正確を期するという意味において、あなたの指摘は大変貴重なものでした。しかしながら、それと同時に我々には時間が無尽蔵にあるわけではないのですよ。ゆえに、必要のない箇所は出来るだけはしょり、より重要な部分のみを繋げていきたいと思いますが……それで構いませんかな?」


「まあ、いいでしょう」


(いけ好かない奴だな、こいつ)――ラインハルト・ヘルトヴィッヒと直接口を聞いたことがあるわけではなかったが、翼はどうもこのドイツ人とは性格が合いそうにないと直感した。


「ええと、僕はですね」


 余計なことを言うんじゃないわよ、という母親からの無言のプレッシャーを感じたのであろうか(実際のところ、彼女は実に強烈な目つきで、自分の息子のことを睨んでいた)、少し戸惑ったように西園寺翔は言った。


「その前日、ホテルのラウンジのほうで仲間と一緒に飲んでまして。ここにいるルカや彼の妹のレジーナと深夜三時くらいまで盛り上がったあと、部屋へ戻ったもんですから……あまり寝てなかったのですよ。ですがまあ、親父は特段機嫌が悪いということもなく、<火の鳥>の演出のことなんかを僕に聞いてきました。演奏途中にね、色のパネルを使って少し効果を演出するといった趣向があったもんですから。まあそこらへんのことはすでに、リハーサルの時に何度も確認してましたから、親父も指揮するのを楽しみにしているようなところがあって。なんにしても、そういったような事情で僕とルカ、それにギレンスキーの足跡や指紋といったようなものはあの部屋に残っていておかしくないんじゃないかってことです」


「ちょっとお待ちになって」と、今度は駄目を出すように西園寺夫人が口を挟む。「どういうことですの?掃除のほうは主人がいつも、音楽祭へ出かけてから掃除婦の方が行っていると聞いてますわ。それだとこのあとにバンガローのほうは掃除がされ、それ以降バンガローにやって来た人間があやしいとなる……違いますかしら?」


 その理論でいくと、自分の息子と愛人らしきピアニストとロシア人指揮者、この三者は是非とも嫌疑をかけられるべきだ、ということになるが、赤城警部は西園寺翔のことを一瞬見やり、彼のことがとても気の毒になった。自分と白河刑事に対しては、母親のことをあれやこれや堂々と悪く言ったにも関わらず、いざその母親を前にすると、彼が言いたいことの半分もいえないような態度を見せたからである。


「そのですな、奥さん。理由は簡単なのですよ。あの日、西園寺さんは朝起きて、食事をしたあと近くの旅館まで風呂へ入りにいったのです。そして旅館まで歩いていく途中で、キャンプ場の清掃員の女性とすれ違い、彼女が『風呂へ行くのなら、その間に丸太小屋を掃除していいか』と訊ね、西園寺さんがそれでいいと言ったために、ギレンスキーさんとルカさんと息子さんが行った時にはすでに掃除が終わっていたという、これはそういう話なんですよ」


「わかりましたわ。ではどうぞ、続きを」


 今度は息子のほうではなく、西園寺紗江子はあらぬ方、窓の向こう側の闇、湖の方角を睨みつけるようにしてそう言った。まるでその方角に自分の夫を殺した犯人がいる、とでもいうように。


「ええとですな。次に西園寺さんが丸太小屋へ戻ってきたのは、夜の十時くらいではなかったかと思われます。というのも、先生はオペラ<カルメン>が終わると、何故かすぐに自分の仮の住まいへ戻ってしまわれたからです。先生はいつもそうなのかと、楽団員たちに聞いてみたところ、先生は気まぐれで、その日によっていつまでも残っていたり、またラウンジに飲みに来たりもするが、すぐに帰られることもあるとのことでした。なんにしてもこの日、バンガローへ戻った西園寺さんはギレンスキー氏と別れたあと、最初に時司さんとお会いすることになった……そうですね?」


「はい、そうです」


 キッチンの隅のほうから前に進みでると、要は前もって赤城警部たちと打ち合わせていたとおりの行動をとった。


「まあ、誰もいないと話にくいですからね。僕の友人に西園寺さん役を務めてもらおうと思います」


 要がそう言って合図すると、クリーニングから戻ってきたアルマーニのダークブルーの背広を着て、翼は黒い革のソファにどこか尊大に座りこんだ。あの日、西園寺圭はこれとよく似たダークブルーのスーツを着用していたのである。


「僕はこうして、西園寺さんの目の前に座り、彼にあることを話しました。そのあることというのは、彼が愛している女性のことです。西園寺さんは妻子がありながら、僕がとても好感を持っているその人に対し、相応しい態度を取っているとは思えなかったので……西園寺さんの話いかんによって僕は、『そういうことなら彼女のことは僕がもらいうける』といったことを彼に宣言しようと思ったのですよ。ですが西園寺さんはその時僕にはっきりこう言いました。『彼女とのことを真剣に考えている、妻とは離婚するつもりだ』と。僕の見る限り、西園寺さんはとても真剣だったと思います。自分の可愛い愛人に言い寄る邪魔な野良犬を一時的に追っ払おうとして適当なことを言ったとか、そういうことではまったくなく……そこで僕は、簡単に言うとすれば『それで彼女が幸せになるなら』と思い、西園寺さんの部屋を後にしたというわけです」


 要が話をする間、白河刑事がコーヒーカップにコーヒーを入れて持って来た。翼は彼がテーブルに置いたそれを足を組んだままの姿勢で適当に一口か二口飲んでいる。そして次に白河刑事はワイングラスを二客とロマネ・コンティではない、違うワインボトルをテーブル上にセッティングしていた。


「さて、みなさん。ここが事件の実に肝要なところです。時司さんが向かい側の椅子に腰掛けた時、西園寺さんは自分の分のコーヒーだけを入れてもってきたそうですが……時司さんの用向きが大体わかるなり、最後には上機嫌となって彼にワインを勧めてくれたそうなんですな。しかしながら時司さんは車で来ていたこともあり、せっかくの上等のワインを一口も飲まずに丸太小屋を去っていくことになった。ところが、このワインからはある人物の指紋と口唇紋が検出されています。その指紋はとりあえず、時司さんのものとは一致していません。このことからも彼が真実を語っていると言えると思いますが――時司さんがバンガローを出ていく時、ワイングラスには確かにワインが三分の一くらい注いであったそうです。ところが、翌日殺害現場に我々が駆けつけてみると、それは誰かが飲んだあとでした。ということは、時司さんがお帰りになったあと、間違いなく誰かが氏を訪ねてやって来たということなんですよ。さて、ここまでのところで御質問などありましたら、なんなりとおっしゃってください」


 赤城警部がまたしても分厚い手をパン!と打ち合わせると、ルカ・ドナウティは一瞬びくりとしたように顔を上げ、ラインハルト・ヘルトヴィッヒはといえば、小さく口の中で「チッ」と舌打ちしていた。西園寺紗江子は誰の目から見ても蒼白な顔つきをしており、彼女の息子は無表情、そしてギレンスキーはといえば、日本語の微妙にわからなかった箇所を通訳を介しロシア語で確認しているといった具合であった。


「さて、正直に名乗りをあげていただけないとすれば、こちらから逆に指摘せざるを得ないということになります。といっても先に、その証拠品には証拠能力はないということを申し上げておきましょう。というのも、この中のある人物が指紋の提出を拒否したがために、我々は彼がある飲み物を飲んだ紙コップをこっそり鑑識へ回すことにしたのです。そして、指紋の一致したその人物とは――」


「そんないやらしい言い方はいい加減にしてくれ、ミスター・アカギ。あんたは俺が飲んだカフェオレの紙コップを鑑識に回し、指紋だか口唇紋だかが一致した。そう言いたいんだろう?」


 流石に観念したらしく、ラインハルト・ヘルトヴィッヒは大仰に肩を竦めている。


「言っておくが、俺は先生のことを殺しちゃいない。確かにあの日、俺は先生のことを訪ねてはいったよ。というのも、先生から夜中の十二時頃に電話があって、『話がある』と言われたからだ。もちろん俺は、先生のいる丸太小屋へ行くには蛾の大群が満ちている道路を歩いていかねばならないと知っていた。だが、忠実な弟子というものはキリストが呼んだらすぐにも飛んでいくものだ。ちょうど、新約聖書のペテロやヨハネが網を捨ておいてすぐ彼に従ったように」


 この場面で聖書の逸話などを持ちだされ、今度はギレンスキーが「チッ」と口の中で舌打ちする番だった。彼はいかにも忌々しそうに自分の兄弟子のほうを睨みつけたままでいる。


「なんにしても刑事さん、あなた方は俺にこう聞きましたね。西園寺先生の携帯の発信記録によると、彼は日付の変わる午前零時頃に俺に電話をかけている、その時に一体どんな話をしたのか、と。そうですよ――あなた方の御想像どおり、先生はその時俺を丸太小屋へ呼んだんです。何故最初から素直にそう言わなかったのかといえば、音楽祭のことがあったからだ。俺は先生が愛されていたこの<南沢湖音楽フェスティバル>を自分のこの手で成功へ導きたかったんです。それなのに、師の殺害容疑が濃厚な者が、まるで跡を引き継ぐように指揮なんて出来ますか?だから俺は音楽祭が終わるまではと思い、指紋の提出を拒んだ。たったそれだけのことです」


「とりあえず、我々に嘘をついたことは良いとしましょう。それよりもヘルトヴィッヒさん、その時一体あなたはどんなことを先生とお話されたんですか?その時のことを時司さんに代わってここへ来て、再現してみてください」


「いいでしょう」


 ヘルトヴィッヒはいかにも気が進まない、といったように、重苦しい溜息を着いてから、要にかわって翼の正面の椅子に腰掛けた。その時翼はやはり足を組んだまま、何気なくワイングラスをくゆらせていたのだったが――正直、翼と目が合った瞬間、ラインハルトは胸がドキリとした。


 まるで、たった今目の前の男に一時期的に西園寺圭の霊が乗り移っているのではないかと、疑いたくなったほどに。


「俺は……」ラインハルトはごくりと生唾を飲んでから続けた。「いや、俺が入口のドアから入って来た時、先生は背中を向けてソファに腰掛けていました。そして、今この人がちょうどやってるみたいに、ワイングラスを片手に何か考えこんでおられる様子だったんです。テーブルの上は確かに、こんな感じだったと思います。飲んだあとのある空のコーヒーカップとワイングラス、それと銘柄は違いますが、ワインのボトルが一本ありました。他に、シベリウスの楽譜の束が置いてあったように記憶していますが」


「シベリウス?」と、要がラインハルトの背後に立ったまま、何気なく聞き返す。


「警部、それは僕が西園寺さんの部屋へいった時にはなかったものです。つまり、僕が帰ったあと西園寺さんはどこかからシベリウスの楽譜を取り出してきたということになりますよね?」


 それが事件と一体なんの関係が、といったようにこちらを見る、西園寺紗江子の眼差しを鋭い眼光で退け、赤城警部がそのあとを引き継いだ。


「そういうことになりますな。そして確かに、シベリウスの楽譜……正確には総譜というんでしたかな。それはテーブルの上に置いたままになってたんですよ。もっとも、我々が見た時には氏の血痕か、それともワインのあとなのかもわからぬ状態で発見するという、なんとも痛ましい状態ではありましたが」


 続けてください、と赤城警部が言外に目で語るの見て、ラインハルトは溜息を着いて続ける。


「俺はその時、ちょっとだけ「おや」と思いました。というのも、先生には少しばかり意地の悪いところがあって、人が蛾の大群を踏みつけて自分の元へやって来るのを楽しみに見ているようなところがある……だから俺はこの時も、先生が薄い夏用カーテンの隙間から、自分のほうを見ていたに違いないとばかり思ってました。そういう時大抵、先生はこちらの到着を予期していたように、自分のほうからドアを開けてくれるんですよ。ところがこの日はそういうことがなく、先生はシベリウスの総譜に目を通しておられるところだったんです。みなさんご存知のとおり、今回の音楽祭でシベリウスは曲目の中にはありません。ですがまあ、先生は大抵の楽曲を暗譜しておられるし、別の公演会のことでもすでに考えておられたのだろうかと、俺はそんなふうに思いました。そして今、こちらの画家の方の話を聞いていて、正直俺は少しばかり恥かしくなったという次第です」


 ラインハルトは後ろの要のことを振り返ると、足を組み、両方の手を組み合わせて言った。見も知らぬ男のことを彼の敬愛する西園寺圭と錯覚するなど、自分はどうかしていたのだと、今はもうそうした開き直りの境地に達している。


「というのも、ワイングラスが目の前にあるのを見て、俺はすごく嬉しかったからなんです。今まで、先生のほうからそんなことをしてくれたことは一度もなかった。そこで俺は、何か先生のほうからいい話でもあるに違いないと早とちりして――それで余計に、そのあと先生から告げられた言葉にショックを受けたんです。先生はその時おっしゃいました。『自分は紗江子と別れるつもりでいるが、おまえはそのあとを引き受けるつもりはあるのか』と」


「やめてちょうだい、ラインハルト!!」


 ここで西園寺紗江子がたまりかねたように、鋭く叫んだ。


「そんなことを人前で言うなんて……第一あの人、本当に愛人の女と結婚するだなんて、そんなこと言いましたの?わたしたちの間では、離婚するのしないのと言って、もう十何年にもなりますもの。でもあの人、結局はただお茶を濁すような態度しか取ってこなかったんですのよ。それなのに今回だけは本気だなんて保証、一体どこにあります?いいえ、わたしは信じませんわ。誰がなんと言おうと、実際現実に本当に離婚といったものが法律を経て成立するまでは――わたしはあの人の妻です。そして結局、すべてはわたしの望みどおりになったわ。すべて、わたしの望みどおりに!!」


 西園寺紗江子は痛ましい姿を見せて泣きはじめ、スーツのポケットからハンカチを取りだすと、それで頬の涙を拭った。


 お話をお続けください、といったように、赤城警部がヘルトヴィッヒに向かい、有無を言わせぬ眼差しで伝える。


「……それで俺は、『先生にもわかっているはずだ』と言いました。俺と紗江子の関係というのは、先生がいらしてこそ成立する三位一体のようなものなのだと。その内の誰が欠けても成立はしない。だから、俺は……」


「何が三位一体だ!!」


 今度はギレンスキーが堪りかねたように、怒鳴りはじめる。


「あんたらの醜い肉欲関係に、よくも先生のことを巻きこむようなことが言えるな!!だからラインハルト、おまえはいつまでたっても二流だと言うんだ。先生は私によくこうおっしゃっていたよ――『ラインハルトの奴には俺の猿真似をやめて、自分の指揮をするように言ってあるんだがな。どうにもあいつには俺の言わんとするところが通じんらしい』って。まったく、貴様が先生の真似をしてタクトにキスする仕種を見るたび、こっちは反吐が出そうになる。その上、先生の奥さんにまで手をだして……恥を知れと言うんだ、このドイツ野郎!!」


「なんだと!?このチャイコフスキーとムソルグスキーしか振れないような、ロシ公風情が!!」


 ラインハルトは立ち上がると、つかつかとギレンスキーの元まで詰め寄るようにして駆けていった。


「そもそも西園寺先生がおまえのことを弟子にしたのは、ちょうどムソルグスキーに狂っていて、ロシア的精神なるものをロシ公のおまえから感じとりたかったという、たったそれだけのことなんだよ!!何か大事なことを話す時には、俺の前でもこそこそロシア語で話しやがって。てめえのことは前から気に入らなかったが、ここの音楽祭の監督の座は、来年からは俺のものだ!!村雨館長たち主催者側とも、そういうことで話がほとんどついてる。だから、来年からはギレンスキー、おまえの居場所はこの南沢湖にはないと思え!!」


 ドイツ野郎とロシ公風情とは、互いにイタリア製スーツの胸ぐらを掴みあっていたが、その間に白河刑事が入りこむことで、なんとか事態の収拾をみる。


「肝心の話のほうを続けましょう」


 赤城警部はふたりの外国人が荒々しい息を整えるのを待ってから、もう一度ヘルトヴィッヒに対し、椅子のほうへ戻るよう目で促した。


「ところで、少し話が逸れますが……西園寺先生には指揮棒にキスをするといったような、癖があったんですか?」


「ええ」と、どこか罰の悪い顔をしながら、ギレンスキーが服の襟を整えて言った。「毎回舞台へ出られる前に、袖のところでタクトに一度キスをしてから指揮台のほうへ上がるんです。その時の先生の仕種はなんていうか、本当にとても魅力的で……実際にはただの『公演がうまくいくように』という験担ぎらしいんですが、先生ほどの方でも公演前は緊張なさるのでしょうね。彼はあくまで他人に見せるためにではなく、音楽の神にでも祈っているかのように、いつもそうしていました」


「ふむ。ありがとうございます。それでは、話を元に戻しますが……ヘルトヴィッヒさん、率直なところを言ってあなたはようするに、西園寺先生とお別れになった紗江子さんには興味がない、そう先生におっしゃったということですか?」


「違いますよ」


 ラインハルトは蒼白な顔をしている西園寺夫人のほうをじっと見つめて言った。まるで彼女のことを心から愛している、とでもいった思いを、強く眼差しにこめて。


「ただ、俺と先生と紗江子のことは、俺たち三人にしかわからないということです。俺はね――西園寺先生が亡くなった次の日、あんたら刑事が音楽ホールにやって来たあと、紗江子の部屋へ行ったんです。そしたら彼女、『自分たちの関係はもう終わりだ』と俺に向かってはっきりそう言いました。『あなたにもわかっているはずよ、ラインハルト。わたしたちの関係というのは、圭がいてこそ成り立っていた。でもその圭が亡くなってしまった以上は……』って、泣きながらね。刑事さん方、あんたらはもしかしたら紗江子や俺のことを疑っているのかもしれないが、俺たちの関係というのはあくまでも先生が間にいてこそ成立するものだったんだ。だから俺はあの日の夜、先生に言ったんです。『先生にもわかっているはずです。紗江子は単に夫であるあなたの気を引きたくて俺のことを誘惑したにすぎない。簡単にいえば、先生の気を引くために使えなくなった男のことなど、彼女は見向きもしないでしょう』とね。そしたら先生は『やはり、そうか』と言われました。そして俺に対し、『そろそろ自分の元を完全に離れて独立しろ』といったようなことをおっしゃったんです。そこまで話が来た時点で、俺はハッとしましたよ。そうか、紗江子の話はただの前振りのようなもので、先生は俺に有無を言わせぬある決断をされたのだ、ということを。そして、来年の<南沢湖音楽フェスティバル>の音楽監督の座は、ギレンスキーに譲るようにと俺に言いました。俺はとにかくそのことが屈辱で……目の前にあるワインを一気に飲み干してから、「わかりました」と答えたんです。そして先生のいる丸太小屋をあとにしました」


 ――ラインハルト・ヘルトヴィッヒのこの話はすべて、とても真実味があった。というのも、おそらく彼が口が裂けても言いたくないだろうことがその内には含まれていたからである。つまり、来年の<南沢湖音楽フェスティバル>の音楽監督の座は、弟弟子に譲るようにといった箇所がそれである。


「これでわかっていただけましたか、警部さん。俺が指紋の採取を拒否し、本当のことを話そうとしなかった理由が……どう考えてもすべての証拠が自分に対して不利に働くからですよ。何よりも、西園寺先生自らが<南沢湖音楽フェスティバル>の後継者としてはっきりギレンスキーを指名していたことも告白しなければならない。だから、せめて音楽祭が終わるまではと、俺はそのことに固執したんです。でも、今はもう何もかもがどうでもいい。確かに俺は先ほど、自分のこの口で紗江子は夫の気を引く道具として俺のことを使っていた、みたいには言いましたよ。でも俺はね、西園寺先生が亡くなったあと、彼を失った悲しみを出来ることなら彼女と共有したいと思ってました。それなのに、『この女は本当に俺を利用したかっただけなんだ』ということがはっきりとわかり、絶望したんです。そして今こうして話している間も、『もしやラインハルトが圭のことを殺したのでは?』といったような、微かに疑いの混ざった眼差しで俺のほうを見ている……刑事さん、俺は本当は今夜、もう少しうまく立ち回るつもりでいたんです。でも、今はもう何もかもがどうでもいい。ただ、ひとつだけ言わせてもらうとすれば、なんにしても俺は先生を殺した犯人ではないということだ。先生を殺した奴はおそらく、俺が帰ったあとにやって来たんでしょう。まあ、そのことをあなた方日本の警察がどこまで信じるか、俺にはさっぱりですがね」


 ここで西園寺翔が声にだして笑うの見、「一体なんですか」と、赤城警部が聞き咎めた。


「いえ、すみません。またしても母のために不幸な男がひとり増えたのだな、と思ったもんですから。僕の母という人はね、僕の覚えている限り、小学生くらいの頃からそんなことを繰り返していた人なんですよ。あれは僕が小学四年生の頃だったかな。名前は申し上げられませんが、当時新進気鋭の若手ピアニストとして売り出し中だった男が――それも父の弟子であるその彼が――うちに乗りこんできたことがありましたっけ。『あなたは自分の妻が夫のあなたのことでどんなに苦しんでるかわかっているのか!?』みたいに怒鳴ったんですよ。対する父はといえば、実に平静なものでした。胸ぐらを引っ掴んできた彼に対し、『おまえは紗江子のことが何もわかっていない。頭を冷やせ』と、あの腹の底から出る声で普通に言っただけでした。いわゆる男の貫禄っていうんですかね、僕は子供ながらに父のことをその時『格好いい』と思ったものでした……ただ、あとにしてみると『そういうことだったのか』と、子供としては少し複雑な気持ちにもなりましたが」


「翔!!事件とはまるで関係のない、余計なことを言うのはやめてちょうだい!!」


 血走った目で鋭く睨む母に対し、西園寺翔はといえば、軽く肩を竦め、呆れたような顔つきをしただけだった。


「確かに、母の言うとおりでしたね。赤城警部、どうかそのまま話をお続けください」


「では、ヘルトヴィッヒ氏の話がすべて真実だとした場合……我々としてはやはり、彼のことをこのまま署のほうへ引いていかざるをえないということになりますな。西園寺さんの携帯の発信記録や着信記録を見る限り、ヘルトヴィッヒさんに電話をかけて以降、二時五十一分までは先生は誰にも電話していなければ、また誰からも電話がかかってきた形跡がないということになる。ただ、これだと確かに時間のほうに引っかかりが出来るというのも事実です。ラインハルトさんの証言によると、先生から電話がかかってきたのは午前零時頃。そして先生のいる丸太小屋までやって来たのが……」


「午前零時半前だったと思いますよ。そしてキャンプ場の駐車場へは車で行きました。つまり、先生をお待たせしてはいけないと思い、急いで駆けつけたということです。そして先生とお話をしてバンガローを出たのが午前一時過ぎだったと思います。何分、西園寺先生の話があまりにショックで、時間のことなんてあまり気にしている余裕がなかったもんですから、正確さには欠けるかもしれません。でも、俺が二時五十一分まで先生の丸太小屋にいなかったことだけは事実ですよ。もしそんな時間があったら、自分にとって都合の悪い証拠品であるワイングラスを片付けたりとか、きっとそんなことをしていたでしょうね。あとは電話会社に問い合わせられればわかってしまうのに、気が動転するあまり、先生の携帯の発信記録を消しておこうとか、そんな無用な小細工まで弄していたかもわかりません」


 ヘルトヴィッヒがどこか皮肉げにそう言う顔の表情を見て、翼はふと、(こいつは確かに真実を言っているな)と感じた。だとすれば、当然他に犯人がいるということになる……にも関わらず、自分と親友とは冤罪の手助けをするためだけにこの茶番をセッティングしたということになってしまうだろう。


 翼が要のほうを見上げると、彼もまったく同じ思いだったらしく、「なんとかしなければ」と、必死に知恵を絞っている様子が見てとれた。


「赤城警部、僕は思うんですがね」と、要はすぐ隣に立っている赤ら顔の警部に向かって提案した。「もし、首藤朱鷺子と西園寺圭を殺した犯人が同一人物なら、ヘルトヴィッヒ氏の彼女を殺した動機は何かということになると思うんです。僕は最初、彼が西園寺夫人に頼まれて彼女を殺したのかもしれない……その可能性もあると思ってました」


 西園寺紗江子がギロリと、恐ろしげな目で要のほうを見やるのと同時に、<首藤朱鷺子>の名で場の空気が一変したのを感じ――要だけでなく、翼と赤城警部、それに白河刑事までもが驚いた。


 それほどまでに、<首藤朱鷺子>の名には魔術的効果が一同にはあったようなのである。


「いえ、失礼、奥さん。僕はただ<可能性>だけを取りだして話をしているのだと思ってください。でも首藤朱鷺子が死んだ時間帯、ラインハルトには立派なアリバイがあるのですよ。その時彼はワーグナーの<ニーベルングの指環>を振っていたんです。当然ながら全曲ではありませんがね。なんにしても、となると西園寺さんを殺したのと首藤朱鷺子を殺した犯人は別にいるということでしょうか?」


「まあ、この際ですからみなさんに名乗り出ていただきたいのですが……この中に首藤朱鷺子さんに脅されていたような方はいらっしゃいませんか?」


「あの女のことなら、一応は知ってますがね」と、ギレンスキーが最初に口火を切った。「なんでも先生のことを脅していたらしいんですよ。一度など、馴れ馴れしく楽屋までやって来ていたことさえありました。『よく俺の顔をまともに見ることが出来るな』と、先生は怒るというよりは呆れてさえいるようでした。そして奥さんのことや翔さんのことを彼女はまたしても同じネタで脅していたらしく……あの女が近づいてきても一切取りつぐなと、先生は私にそうおっしゃっておいででした」


 ギレンスキーが<南沢湖のおいしい水>を飲み、憤懣やるかたないといった顔をしていると、通訳を間に挟み、その隣にいたルカ・ドナウティの顔がサッと青ざめた。


「すみませんが、刑事さん。僕はそろそろ失礼したいと思います。これ以上話しあいを重ねたところで、有益な結論には達しないように思われますので……」


「おや。そうですかな?」


 赤城警部は、顔が青ざめただけでなく、わなわなと手すら震えはじめているルカのことを、明らかに不審に感じたようだった。


「そういえば、ドナウティさん。いえ、ミサワさんとお呼びしたほうがよろしいのかな?なんにしても、首藤朱鷺子はあなたの隣の隣の部屋でしたよね。あの日、というのは、彼女が転落した日、ということですが――ルカさんはどこでどうされておいででしたか?」


「その、はっきりとは思いだせません。部屋の中にいて、明日のリサイタルの楽譜などを見ていたとは思いますが……窓を開けっぱなしにしていたので、何か子供のような女性の悲鳴と、「人が落ちたぞ!」といったような声は確かに聞きつけました。そしてベランダから外を見てみると、たくさんの人が同じように窓から頭を突きだしているところだったんです。でも、亡くなったのが隣の隣の部屋の女性だっただなんて……それは、あとから両親に聞いて知ったことです。なんでも刑事の方が来られて、何か彼女についておかしなところはなかったかと、そんなふうに聞いていったということでしたが」


 彼はこのことを話す間、誰とも目を合わせようとしなかった。翼と要とは無言で顔を見合わせると、互いに(これは絶対に何かある)と、目と目で会話を終えたほどである。


「すみません、ヘルトヴィッヒさん。どうやら先ほどあなたがおっしゃっていたことは、真実だったようです。どんな些細なことに対しても、正確をきすべだと……申し訳ありませんがね、ルカさんが黙っておきたいお気持ちはわかりますが、やはり言わせていただく以外に道はないようです」


「わたしのことなら、お気遣いなく、警部さん」と、西園寺紗江子は何故か勝ち誇ったように顔を上げて言った。「その人が主人とクラウディア・ドナウティの息子だってことはあたし、とっくに知ってますもの。というのも、他でもない首藤朱鷺子自身が、あたしにそのことを知らせてきたからですわ。だからあたし、ルカのことを自分の部屋へ呼んで慰めてあげたくらいですの。そんなことをネタにして、今度は美沢一家のことをも苦しめようとするなんて、あの毒虫みたいな女は、死んで当然だってね。あなたはこんなつまらないことで心乱すことなく、ピアノに専念したほうがいいってそう言ったのよ。当然、覚えているわよね、ルカ?」


「はい、奥さまのおっしゃるとおりです。僕は、西園寺先生にはとても、自分から息子だと名乗るようなことは出来ませんでした。そしたらそんな時、奥さまが僕に声をかけてくださって、『首藤朱鷺子があなたのことも脅してるんじゃないか』と言ってくださったんです。あの女がそのことを仮にマスコミにバラしたところで、大したことではない。だからあの女に脅されても、一円たりとも金を渡す必要はないと……僕はその言葉にほっとして、ただ自分のピアノだけに専念することが出来たんです。そして正直、自殺にしろなんにしろ、彼女が死んでくれて良かったと、ほっとしていました。今、僕はひどく動揺しているように見えるでしょうが、それはつまりはそういうことなんです。自殺した気の毒な人に対し、心の片隅ででも「良かった」だなんて思うだなんて……僕はもう、彼女のことなんて思いだしたくなかった。それなのに首藤朱鷺子という名前が出て、今本当に嫌な気持ちになりました」


「ほほーう」


 ルカ・ドナウティの今の受け答えには、赤城警部から見ても明らかに不審な点があった。もちろん、音楽家の繊細な神経には、隣の隣の部屋の住人が亡くなったというだけでも、仮に無関係であったにせよ、もしかしたら強く響くものがあるのかもしれない。だが、赤城警部も白河刑事もやはり、そうは感じなかった……というより、刑事の性としてそう信じることは到底出来なかったのである。


「ルカ・ドナウティ・ミサワさん。そもそもあなたは何故、西園寺さんに自分はあなたの息子ですと、よりにもよってあの日の朝、打ち明けたりしたんですか?もしかしたら、それはこういうことだったのではありませんか?実の父親に捨てられたということで、あなたは西園寺さんのことを密かに長い間恨んでいた。そしてその人物像を探る過程で、あんなにも美しい奥さんのことを苦しめているということもわかり、その気持ちが殺意にまで高じていったのではありませんか?また、首藤朱鷺子に対しては、今ではあなたには立派な動機がある。彼女の部屋からは、ジャーナリストならばおそらく持っているはずのパソコンや携帯といったものが出てきませんでした。そして特にこちらのパソコンについては、部屋の中に食事を運んだ客室係が、彼女がノートパソコンに向かって原稿を打っている姿を確かに見たという証言がある。首藤朱鷺子は、あなたが西園寺さんの息子であることをマスコミにバラすとあなたを脅し、家族のことを守らねばならないと考えたあなたは、偶然にも隣の隣の部屋にいた彼女と直談判を試みた。ところが、首藤朱鷺子は『黙ってほしくば金を寄こせ』といった旨のことをあなたに言い、このままでは一度だけでなく何度となく金をせびられるだろうと思ったあなたは、彼女を殺害するに至った――違いますかな?」


 ここで一度、場が水を打ったようにシーンとなった。ルカ・ドナウティ・ミサワは苦しそうな顔の表情のまま、じっと俯いたままでいる。沈黙は肯定なり、とでもいうように、さらに赤城警部が彼のことを問い詰めようとした瞬間のことだった。


「ははははははっ!!」と、世の中にこんなにおかしいことがあるか、とばかり、西園寺翔が高らかに笑いだしたのである。それも、まるで背後に何かが取り憑いたとでもいったような、その声にはどこか邪悪な気配すら感じられ、一同は一瞬、その哄笑に凍りついたほどであった。


「警部さん、あんたら刑事は一体どこまでボンクラなんだ?ルカは犯人じゃない――ルカは決して犯人なんかじゃないんだよ」


「駄目だ、翔。せっかく……」


「いや、もういいよ。いいんだ、ルカ。首藤朱鷺子のことは、他でもないこの俺がやったのさ。もっとも、最初は殺すつもりなんかまるでなかったがね。あの女が俺たち家族だけでなく、美沢一家の幸福をも壊そうとしたことが、俺は許せなかったんだ。彼らの家ってのは、本当にアットホームないい家庭でね、うちとはまったく百八十度違うんだよ。俺の家族に起こったことっていうのは、最初から壊れてるものに、最後に止めの一撃が下ったみたいな感じのことだった。だからあれはあれで良かったんだよ。だから俺はあの女に、『苦しめるなら、うちだけにしてくれ。美沢一家には手を出すな』と言ってやった。そしたら、その代わりにいくらくれるかって話になって、色々揉めたんだよ。でも、長く話してるうちにあの女、俺にとって触れて欲しくないことについて、次から次へと責め立てて来やがった。『俺にも、ルカのような音楽の才能があったら、西園寺圭はもっとあなたのことを構っていたことだろう』だの、『結局のところ俺が母親に愛されなかったのは、音楽的才能に恵まれなかったからだ』といったようなことをね。まったく見当違いも甚だしかったが、最後には俺が同性愛者だと知ったら、両親はどう思うかだの、まったく痛いところを突いてきやがった。もちろん、今冷静になってみれば、それだからといって殺すほどのことはなかったと思う。でも、たぶんあの女の言った言葉の内容よりも、俺はあの女の嘲笑うような物言いが癪に触ったんだろうな。何故といって、まったくあの女の話し方にはどこか、俺のおふくろを思わせるものがあったんでね。違いといえば、一応表面上は丁寧語かそうじゃないかの違いくらいだったな、まったく。とにかく、なんにしても女は死んだ。俺がハッと我に返った時、左隣のベランダには誰の姿もなかったが、その向こうにルカがいて、こっちのほうをはっきり見ていたんだ。俺はその瞬間に、こう思った――ああ、せっかくここまでやり直してきた俺の人生も、もう終わりだとね。けど、すぐにルカが部屋へやって来て、あの女のパソコンと携帯を持ちだした上、俺に逃げるよう言ったんだ。そしてそのあと、俺とルカは彼の部屋で色々話しあったんだよ。『あんな女は死んで当然だ』と。もしかしたら、自分以外にも今の現場を見た人間がいたかもしれないが、その時には自分が警察にうまく罪にならない証言をするともルカは約束してくれた。まあ、そんなわけで俺とルカはその日から、奇妙な共犯関係を結んだっていったところかな」


「翔、あんた、馬鹿……っ!!そんな、黙ってればわかんないようなこと、今になってどうして……!!」


 西園寺紗江子は、再びハンカチを取りだすと、それで目頭の涙をしきりと拭っていた。


「ははははは」と、西園寺翔は今度は、まったく感情のこもらない声で笑った。「もしかしたら、あんたのその顔が見たかったせいかもしれない。親父のことを殺したのも俺だよ。あの日、俺は前もって親父に呼びだされていてね。一時から二時の間にでも来るようにと言われていたんだ。というのも、俺は舞台演出家として色々人づきあいってものがある。だからどうしてもそのくらいの時間になると、親父にはわかっていたからなんだ。てっきり俺は、次の日のオペラの演出のことででも、親父は打ち合わせたいことがあるのかと思っていたんだが――あの日、二時ごろだったかな、親父のバンガローまで行ってみると、突然真面目な顔つきで、『おまえの母親とは、これから離婚することになると思う』って言うんだ。俺はさ、その時本当にこう思ったよ。『ああ、なんだ。そんなことか』ってね。だから親父にも言ってやった。『そんなこと、前からわかりすぎるくらいわかってたことだよ』みたいに。なんかどうも近ごろ、ふたりが喧嘩してるネタっていうのが、俺のことが原因だとわかった時には笑ったね。親父がおふくろに、俺がなかなかいい仕事をしてるので、舞台を見てやるといいとか言うたびに、おふくろのほうではヒステリーの発作を起こすんだそうだ。ようするに、『何よ、今さらいい父親ぶって!!』って話だよな。まあ、俺にはそういうおふくろの気持ちもわかる。だから親父にも言ったんだ。『そんなくだらないことで、母さんの血圧を無駄に上げる必要はないよ』ってね。そしたら今度は、『川原美音を知ってるか?』って出しぬけに聞いてきたから――『ああ、知ってるよ。父さんの愛人のひとりだろ』って言ったら、親父は少し驚いてたね。そして楽団員の中にも知ってる奴がいるかって、そう聞いてきたから、『俺は父さんの息子だから、他の連中にはわからないことがわかるんだよ』って言ったんだ。そしたら父さんは、『俺は母さんと離婚して、美音と結婚しようと思ってる。今度は本気だし、美音と海外で暮らして暫く日本へ戻ることはないだろう。だがおまえは、何か困ったことがあったらいつでも電話してこい。俺に出来ることならなんでもするから』っていったようなことを言った……まあ、普通だよな。ある意味、ありふれた親子の会話ですらある。けど、なんでだろう。俺が立ち上がって帰りかけたその時――『レジーナ・ドナウティのことをどう思うか』って聞いてきたんだ。『まあ、べつに普通のいい子だと思うよ。オペラ歌手としても有望じゃないかと思うし』と俺は答えた。そしたらさ、本当に何気ない調子で父さん、『あれの兄のルカは、おまえとは腹違いの兄弟になる』って言うんだ。『うん、知ってたよ』とは、俺は言わなかった。そして父さんは『どうも俺の見たところ、レジーナはおまえに恋をしているらしい。べつに妹のほうと血が繋がっているわけじゃないから問題ないとは思うが、多少配慮が必要かと思って、一応言っておいたまでだ』って、そう言うんだ。俺のほうにはもう、言葉もなかった。こんな理由で父親を殺したなんて言っても――誰にも何も理解できないだろう。結果としては、首藤朱鷺子の時と同じだ。ハッと気づいた時には、左手(西園寺翔は父親と同じ左利きである)に火かき棒が握ってあって、暖炉の前には父さんが血だらけになって倒れていた。そして暫くぼうっとしたあとで、凶器を隠したりとか、何かそんな実際的なことをしなければならないと思ったんだ。川原美音に電話をかけたのも俺だよ。今にしてみれば、なんでそんなことをしたのか、よくわからない。なんにしても俺は、その日の朝も自分は出入りしてるわけだし、凶器が見つからなければ犯人が俺だとわかることはないかもしれないと、そう自分に暗示をかけて思いこむことにした。親父を殺したのは俺じゃない、親父を殺したのは俺じゃない、親父を殺したのは俺じゃない……繰り返し、そんなふうにね」


 犯行の自供をする途中から、西園寺翔は子供のように身を震わせて泣きだし、最後には両手で頭を包みこみ、そして体のほうも丸めていた。


 一同はただシンとしたまま、西園寺翔の告白する様子を見守っていたのだが、最初に行動を起こしたのは、彼の母親の西園寺紗江子だった。てっきり彼女は自分の息子のことを殴りつけるか言葉で罵倒するのかと思いきや――蒼白な顔のまま、カツカツとヒールの音を響かせ、黙って部屋を出ていったのである。


 赤城警部が白河刑事にある種の視線を送ると、白河刑事はすぐに西園寺紗江子を追って隣の部屋へ行った。もしかしたら彼女が自殺するかもしれないと、危惧してのことであった。


「翔、西園寺先生のこと、どうして……」


 首藤朱鷺子殺しに関しては一枚噛んでいたルカも、まさか彼が父親をも殺害していたとは思いも寄らなかったのだろう。部屋の隅で体を丸めてしゃがみこむ西園寺翔に対し、ふらふらした足取りで近づくと、そっと肩に手を置いていた。まるで、腫れ物か何かに触れるみたいに。


「親父は俺のことなんか、何も見ていなかった。なんで、昔の愛人の娘のことはわかって、俺のことはわかんないんだよ。ルカ、俺とおまえは友達同士だ。それに、おまえにそういう趣味がないってこともわかってる。だけど、もし俺が何も知らなかったら、そういうことだってあったかもしれないだろ。なんでそういう心配が出来ないんだよ。それに、あの親父が浮気してたのは何も、ルカとレジーナの母親だけってわけじゃないんだぜ――どっかに同じように、親父には黙ってこっそり産んだっていう隠し子がいるかもしれないじゃないか。それに、親父は俺にあやまったことなんか、心の底から悪いと思ったことなんか、いっぺんだってないんだ。浮気のことに関しては、『おまえも男だからわかるだろう』みたいにしか思ってないし、あんな母親と同じ家で暮らすっていうのがどんなことかもまるでわかっちゃいない。自分はそれが嫌で年中逃げだしてるってのに。ルカ、結局おまえには俺の気持ちはわかんないよ。おまえみたいに幸福な家庭で育った人間には、俺の気持ちなんか……」


「翔……」


 赤城警部は、西園寺翔に対し、心からの同情を覚えはしたが、かといって当然、今の自供に適さない態度を取ることは出来なかった。警部は若干くたびれた感のある背広のポケットから手錠を取りだすと――それを西園寺翔の両手にかけたのである。


「お母さんの部屋に凶器の火かき棒を置いたのは君だね?果たしてどうやったのかね?君はさっきから、気づいたら首藤朱鷺子を十五階から突き落とし、気づいたら父親のことを撲殺していたと言ったが……自分の母親の室内にある火かき棒と、凶器のそれを取りかえたのは明らかに故意であるとしか思えない。それとも何かね、それもまた気づいたら勝手に自分の別の人格がやっていたとでも言うつもりかね?」


「もしかしたら、そうかもしれませんよ、警部さん……まあ、僕はもう何もかもどうだっていいんです。ある意味、母にも一番良い方法で復讐してやりました。そういえば、母の部屋に父の部屋にあるのと似たような火かき棒があったと思って、僕はそれを取り替えることを思いついたんです。母の部屋にもともとあったのは赤銅色、父の部屋にあったのは銀色でしたが、母がもしそのことに気づいたとすれば、僕が父殺しの犯人だとわかるんじゃないかと思いました。刑事さん、僕は母に父殺しの罪をなすりつけようとまでは思ってなかったんです。ただ、僕が犯人だと気づいた時、母がどうするのかを見たかった。気づかない振りをするのか、自首を勧めるのか、それとも『このことは黙ってるから、おまえも黙っていなさい』と僕を説得するのか……警部さん、母はたぶん火かき棒がすり替えられていることにすら気づいていなかった、そうでしょう?」


「まあ、おそらくそうだったろうと思いますが……しかしながら、何故です?何故火かき棒がすり替えてあることに気づいたら、息子のあなたが犯人であるとお母さんが気づくことになるんですか?」


 西園寺翔は今ではすっかり落ち着きを取り戻し、まるで運命の殉教者といったような、諦観の境地に達した清々しい僧のような顔をしていた。


「それはですね、火かき棒のようなものを取り替えられるのは、まずもって息子の僕くらいしかいないと彼女はわかってるからなんです。ラインハルトや他の誰かでは、まずもって無理ですよ。母は本当にどこか神経質というか、神経過敏なところのある人で、相手の一挙手一投足を見逃さないんです。というか、見逃している振りをしながら見逃さないといったらいいか……とにかく、相手が少しでも不審なことをしたら気づいていたでしょうね。その点、母にとって息子の僕は透明人間も同然なんです。またこれは、父にとってもそうでした。ただ父の場合は、僕が麻薬でああいう事件を起こしてから、ようやく姿が見えたようなところがありましたがね。なんにしても僕は、母が父のことを盗聴してたみたいに、向こうはこっちのことなどまるで気にかけてないのに、母の行動がよくわかるんですよ。母はね、父が起きるのと同時刻の七時くらいに起きだし、まず朝食を食べるんです。それから、父がそろそろ自分の弟子や僕なんかと音楽祭の打ち合わせをしてるだろうと想像しながら身仕度をし――父が音楽ホールへ向かった頃に、一度部屋を出るんです。これは自分の寝泊りしてる部屋を掃除婦たちに掃除させるためです。そして昼くらいまでたっぷりかけて、ホテル内にあるスパだのエステだのにいって、無駄に美容に金をかけるんですよ。まあ、母の場合は無駄ともいえないかな。何しろ、あの人は父の他の若い愛人たちにひけを取りたくないあまりに、あらゆる努力を払ってあの美貌を保っているわけですから……なんにしても僕は、空のヴァイオリンケースに火かき棒を入れて、次の日こっそり母の部屋へ行きました。もちろん、掃除婦たちが掃除している時間帯を見計らってね。彼女たちは僕が西園寺圭の息子だとわかってるから、「母さんと約束がある」と言えば、簡単に部屋に入れてくれましたよ。そして彼女たちが神経質なまでに掃除をしたそのあとで(何しろスイートルームですから)、僕は例の火かき棒をすり替えてから、部屋を出ていったというわけです」


「それにしても何故……首藤朱鷺子のことはある程度理解できますよ。彼女がしたことのせいで、あなた方の家は最初から壊れていたのが、さらに輪をかけて目茶苦茶にされたわけですから。でも、お父さんを殺すことまではなかったのではありませんか?」


 ラインハルトとギレンスキーもまた、その点では同意見だったらしく、この時初めて互いの意見が一致したというように、頷きあっていた。それまではふたりとも、まるで二卵性双生児のように、ただ呆然と同じ態度で呆けていただけだったのだが。


「でもおかしな話、正直なところ僕には予感めいたものはあったんです。十代の頃、麻薬をやってる時にね、どうにもおふくろや親父に対する憎しみが募って仕方のないことがあって。その自分ではどうにも出来ないどす黒い醜い感情を忘れるために麻薬をやり、麻薬が切れるとまた同じ症状が襲ってくるので麻薬をやる……何かそんなことの繰り返しでした。たぶん世間の人というのは、あんな立派な家庭に生まれてお金もあって麻薬をやるだなんて、とんでもない息子だと思ったことでしょうね。でも、普通の人は知らないんですよ。麻薬の快楽ってものは、絶対に俺を裏切ることはありませんでした。やれば必ず効いている間だけは間違いのない幸福が得られるんです。僕が親父やおふくろにわかって欲しかったのは、何よりもそのことだった。自分たちが原因で息子が麻薬に手を出すところまで落ちたのだと知って欲しかった。でも、おふくろと親父の考え方は違うんです。『それとこれとは別のことだが、確かに親の俺にも責任はある』と親父は考え、母に至ってはもっと無関心でした。たぶん、今でも僕の面倒を見ていた家政婦が悪かったのだろうとか、他人に責任を転嫁することしか考えていないでしょう。確かに僕は、父が刑務所のような場所にまで来てくれて、嬉しいことには嬉しかったですよ」


 この時、西園寺翔は翼のほうをじっと見つめてからそう言った。まるで、翼が彼の父親当人でもあるかのように。


「でも、違うんです。父の気持ちは確かに痛いくらいわかった。それでももう……ああ、この人に自分の気持ちは絶対に届かないと、絶望的なまでにその時思いました。それと同時に、もうこれでいいとも思った。これがあの人の理解力の限界なんだろうし、人が楽曲の解釈について褒めそやすほどには、息子のことをまるで理解していなくても……それでもこの人なりに自分のことをどうにかしようとしてくれてるんだからって。刑務所を出たあとの僕は、まるで親父の操り人形か何かのように、ただとにかくひたすらに言うなりでした。刑務所の中にはね、僕と同じように両親から完全にスポイルされてる子ってのがいるんですよ。だから僕は、何も自分だけがこんな気持ちを味わってるわけじゃない、自分だけが特別不幸な境遇に生まれついたわけじゃないとも思ってました。それどころかむしろ自分はこれでもずっと恵まれているほうだと思ってもいましたし……でも僕は、自分が殺すとしたら絶対母親のほうだと確信してたんですよ。たとえば、ある日母が死んでる姿が発見されて、僕の手には血だらけのバットが握られてるっていうようなことです。その場合には仮に記憶がなかったとしても、僕は自分が母を殺したのだと潔く認めたことでしょう。でも、僕が実際に殺したのは父のほうだった。ねえ、なんでなんでしょう、刑事さん。なんで僕は母ではなく、多少なりとも色々気にかけてくれた親父のほうを殺したんでしょう。そうすれば母に、一番の復讐が出来るから?もちろん僕はそんなことまであの瞬間に計算したりしませんでしたよ。それなのになんで……後付け的に僕が考えたことは、こんなようなことでした。<そもそも、母があんな母でなく、父があんなに才能のある人でなくてもっと普通の人だったら――自分は首藤朱鷺子を殺すこともなかった。その前段階として麻薬に手も出していなかっただろう。そうしたことも含めて、あんたは本当にわかっているのか!?愛人と海外へ逃避行?そりゃ結構なことだ。何しろ川原美音は僕と四つしか年が違わなくて若い娘だし、そうなれば当然また子供が生まれるだろう。そして父は――彼女とより理想的で完璧な家庭を築こうとするに違いない。そんなことは絶対に許せない。いや、その前におまえにはこの僕に対し土下座し、頭を下げて詫びを入れる必要があるんじゃないのか!?ええ、どうなんだ!?>……たぶん、これが僕の父を殺した理由だったのかもしれません。もちろんこんなこと、あの父の前でこの僕に言えるはずがない。そしてそんなふうに自分を抑えつけていることがしょっちゅうあったから……ほんのふとしたような、ちょっとしたことがきっかけで、父のことを殺してしまったのかもしれません。ただ、今も本当に夢のようなんですよ。あの父が死んでこの世に本当にいないだなんて。いつも、なんかの拍子にひょっと、ドアの影あたりからでも出てきそうな気がして仕方ないのに……もちろんこんなことを、父を殺害した本人である僕が言うだなんて、随分おかしなことなんでしょうね」


 確かに赤城警部は、また麻薬に手を出しているのではないかと、深く疑っているような目つきをしていた。それから警部の呼んだ応援が駆けつけるまで、重苦しいような沈黙が長く続き――赤城警部は応援にきた部下の刑事数名に西園寺翔のことを任せると、「ご協力、本当にありがとうございました」と、要や翼に対してだけでなく、その場にいた全員に対し、深く頭を下げたのだった。


 ルカは連行された西園寺翔のあとを追っていき、ラインハルトとギレンスキーは、「こんな真実なら知りたくなかった」というような、複雑な顔をして部屋を出ていった。ギレンスキーの通訳は、赤城警部から「今度のことはどうぞ、ご内密に」と頼まれ、「もちろんです」と沈痛な面持ちをしながらギレンスキーに続いて出ていったのだった。


「やれやれ。とんだことになりまして、まったくおふたりには御迷惑をおかけしました」


 室内に翼と要だけが残ると、部屋が何故か前以上に妙にがらんとして感じられた。まるで、目には見えない虚しさの濃度が上がったかのようだったが、赤城警部はその種のものに耐性が強いのだろうか。あまり免疫のない翼と要ほどには落ち込んでいない様子であった。


「ですが本当に、あなた方おふたりには感謝しておるのですよ。特にあの時、時司さんが首藤朱鷺子の名前を出してくださったのが絶妙でした。あれで話の流れが急カーブに沿ってぐるっと変わったようなところがありましたからな」


「僕は何もしてないですよ。というより、今では何か無駄に余計なことをしたといったような、徒労感しか感じていません。ただ、ラインハルトのことは良かったとは思います。あれだけ物証や動機といったものが揃っていて、もしあの時西園寺翔が自分から名乗り出ていなかったとしたら――首藤朱鷺子殺しのことは認めても、父親殺しについては否定していたら、やはりラインハルトは冤罪を負わされていたでしょうからね。僕は自分がそんな罪に加担しなくて良かったと、今ではほっと安堵しています。そして何よりもそれは、西園寺さんの息子さんのお陰というか……」


「あいつ、立ち直れるかなあ、これから。たまに聞くだろ?刑務所で看守がちょっと目を離した隙に縊死していたとか、そういうの。西園寺紗江子にはあの息子は重すぎて、あの華奢な肩にはとても背負えないだろうし……人によってはさ、西園寺圭の死はある意味自業自得だったってことにもなるかもしれない。でも、それだけじゃないよな、やっぱり。なんにしても俺、今日は疲れすぎてて考えが何もまとまらんわ。ただ黙って人の話を聞いてるってのが、今夜ほど身に堪えたことはないってくらい」


「同感だね。なんにしても警部、僕と翼の奴に気を遣うことはありません。警部もお疲れでしょうし、これからまたさらに北央市の本部のほうへ一時間半ほどもかけて戻られるんでしょう?しかもそのあとにまた仕事が待ってるんですよね?どうか、僕たちのことは本当に気にせず、署のほうへお戻りになってください」


「そうですか。では、お言葉に甘えて……という言い方も何か変ですな。なんにしても、あなた方おふたりの御協力には心から感謝しています。あらたまったお礼のほうは、またいずれということで……」


 赤城警部がそんな話をしていると、隣室の2001号室から白河刑事が戻ってきた。北央市のほうから来た同僚の女性刑事と、西園寺紗江子のことを見張る役目を交代したとのことだった。男の自分より、女性の彼女のほうがより話をしやすいだろう、と。


「奥方の様子はどうだったね?」


「まあ、思ったよりは落ち着いています。僕が何も言わないうちから、『刑事さん。心配しなくても自殺なんてしませんわ。そんな気力、今は微塵もわいてきません』と、そんなことをおっしゃってました。ですが、逆に言うとすれば、少し時間が経って、ふと人が目を離した時が危ないかもしれませんね。僕の知り合いの精神科医が言うには――冗談ごとでなく、一度死ぬ覚悟を決めた人間というのは、三十階のビルの上からだって平気で飛び降りるだろうという話でしたから」


「うむ。本当は誰か、この際ラインハルト・ヘルトヴィッヒでもいいから……あの奥さんには暫く誰かそばにいる人間が必要だね。ただ、彼女はああいう気性だから、人に弱味など見せたくないといった気持ちのほうが強いかもしれないが。誰か楽団員の中で比較的彼女と仲がいいなりなんなりする人物は見つからないものだろうか。そういう人に西園寺夫人のそばに暫くついていてもらえれば、大変助かるんだがね」


「じゃあちょっと、コンマスの近藤さんに連絡を取ってみます」


 白河刑事が携帯で電話をかけると、副コンマスの弥生遊馬の奥方についていてもらうのが一番いいだろうということで話が落ち着いた。ふたりは比較的仲が良く、特に彼女は口の堅い人物なので、西園寺夫人も少しは気を許すだろうということだった。


「それでは、これで本当に失礼します」


「本当に、ありがとうございました」


 赤城警部と白河刑事は、最後にもう一度、礼儀正しく深々と礼をしてから翼と要が居室としている、2002号室を出ていった。ようやくのことでふたりきりに戻ると、翼と要は顔を見合わせ、自然「酒でも飲むか」といった話運びになる。




 >>続く……。






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