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第17章

「美音、あんた……!!」


 水上ゆう子は、自分と幼馴染みの泊まる部屋へ戻ってくると、両手いっぱいに持ったショッピングバッグを、一斉に床へ落としていた。


「どうしちゃったのよ、そんな面やつれした顔しちゃって……幽霊みたいな顔してるわよ、あんた。なんかあったわけ!?」


 もちろん、ゆう子にしても美音にとって敬愛する指揮者が死んだ、それも殺されたということは、精神的に相当なショックだろうとは想像していた。だが、ここまでとは思っていなかった。


 ゆう子が帰ってきたのは夕暮れ時のことだったが、部屋に厚いカーテンがかかっているのを見ただけで、美音が昼間からずっと、そのようにして過ごしていたのだろうということが、容易に想像される。


「ねえ、ごはんは食べたの!?美音、なんとか言いなさいよ!!」


 相手からの反応があまりに希薄で、ゆう子は苛立つあまり、ベッドサイドに座る彼女の正面に回ると、美音のことを繰り返し揺すぶった。


「……ごはんなんて、食べても意味ないよ、ゆう子。先生が亡くなったのに、ごはんなんて……」


 もしかして、起き抜けのところに西園寺圭が死んだ、それも殺されたという電話でも来たのだろうか。美音はいつも着ているワンピースタイプのパジャマ姿で、腰まである長い髪をだらしなく垂らした格好のまま、再び顔を覆って泣きはじめた。


「どうしよう、ゆう子。わたしのせいで、先生……きのう、携帯に電話があったの。夜中の三時ごろ。それで、警察の人が言うには犯人の偽装工作でなければ、それが先生の亡くなった時間だろうって。あたし、すぐ起きて先生のところに行けば良かった。そしたら、もしかしたら助かってたかもしれないのに……」


 北央市にある某アウトレットモールで買ったばかりの服――プラダの丈の短いスーツスタイルの白い服、その腰のあたりに両手をあて、ゆう子は怒ったようにまくしたてる。


「あんたねえ、ここから西園寺圭のいたバンガローまでいくのに、車で五分はかかるのよ!?先生から電話があった、すぐ起きてタクシーに乗って現場へ向かった、でも先生はすでに亡くなってたってなるに決まってるじゃないのよ。なんにしても、あんたが西園寺圭の死にいくら責任を感じたところで、今さら意味なんてないの。わかった!?」


「でも、ゆう子。先生がいないのに、生きててももうなんの意味もないよ、あたし。先生がわたしみたいな出来の悪い生徒のことでも、投げださずに根気よく教えてくださったから、ここまで来れたのに……先生のいない世界なんて、あたしには意味なんて全然ない……」


「美音……」


 幼馴染みが絞りだすような声でここまで言った時点で、ゆう子にもようやくわかることがあった。それは西園寺圭と美音の関係が、師と弟子、先生と生徒以上の強い繋がりに満ちた何かだということだった。この時初めてゆう子は、彼女が西園寺圭の愛人だとは言わないまでも、少なくとも数回は体の関係を持ったことがあるだろうと直感した。


 これ以上、自分が何をどう言い聞かせたところで、美音に言うことを聞かせることは出来ないだろうとゆう子は思い、携帯を手にすると一旦部屋の外へ出ることにした。


 そしてエレベーターホールの片隅で、先ほどかけたばかりの藪医者に、再び電話するということになる。


「ああ、キャプテン翼?あんたの友達の画家先生に速攻かわって欲しいんだけど、いい?」


『俺をあんな、性格のいいさわやかな主人公と一緒にしてんじゃねーよ。要、IQの低いバカ女が、なんかおまえに用があるんだって。たぶん、美音ちゃんのことだと思うけど』


「IQ低いは余計よっ!!それとあんたこそ、翼じゃなくてツバカって呼ばれたほうがよっぽどいいんじゃないの!?」


『ああ、ごめんごめん。なんか翼が馬鹿なこと言ったみたいで……それで、僕に用っていうのは?』


 要の柔らかい物言いに、ゆう子は少しばかり落ち着きを取り戻すと、心の中で溜息を着きつつあらためてこう切り出した。


「あの、美音のことなんですけど……あたしが帰ってきてから、少し様子がおかしいんですよ。たぶん、今日は朝から何も食べてないんじゃないかと思います。あたし、ついさっき北央市から戻ってきたんですけど、その間ずっと地元のラジオ局にチャンネル合わせてて。そしたら、音楽祭を中止せずに明日からまた続けるって言ってました。でも、あの様子じゃ美音はとてもヴァイオリンを弾くなんて無理だと思うんです。それで、時司さんに彼女のこと、慰めて欲しいなと思って……」


『そっか。うん、わかった。今、僕がそっちに行っても構わないかな?それとも、電話で話したほうがいいなら、こっちから美音さんの携帯にかけ直すけど』


「あ、出来れば直接こっちに来て会ってやってください。あたしじゃあんまりあの子にとって感覚の刺激にならないだろうけど、時司さんが相手なら、少しはハッとして正気を取り戻すと思うから」


『じゃあ、今からそっちへ行くけど、ゆう子さんは今どこ?』


「十五階の、エレベーターホールの隅っこのほうで話してます。なんにしてもあたしは、部屋の鍵だけ開けたら消えるつもりなので、ご心配なく」


 ゆう子は携帯電話を切ると、何故かにんまりと笑っていた。結城翼という男と話していると、「あんたそれでも医者!?」と怒鳴りたくなるくらい、ゆう子は血圧が上がりっぱなしだが、その点画家の時司要に対しては、彼の声を聞いているだけで心の安らぐものを感じる。


(まあ、西園寺圭も確かにいい男だけど、あんな恐ろしい奥さんが背後にいたんじゃ、どっちにしろ諦めるしかないわよ。美音もこの機会に<先生>とやらに対する憧れから卒業して、もっと前を向くべきだわ)


 そんなことを考えながらゆう子は部屋へ戻り、自分側のベッドにショッピングバッグを整理して置いた。それから室内の乱れたところを、他人から見て見苦しくない程度に整えはじめる。


「美音、これから時司さんが来るわよ。あんたも少しは恥かしいと思う気持ちがあるんなら、髪くらい梳かしておいたらどう?」


「だ、駄目よ、ゆう子。わたし、今要さんになんて会いたくない……」


 それでも若干声のトーンが高くなっているのを聞きつけ、これはいい兆候だとゆう子は感じた。そして幼馴染みのベッドのほうへ乗りこむと、有無を言わせず彼女の髪をブラシで梳かしはじめる。


 といっても、コンコンというノックの音がしたのはちょうどこの時のことで、ゆう子はナイトテーブルの引きだしにブラシを隠すと、すぐに甘ったるい声で「はあい」などと返事をしていたのだった。


「それじゃあ、あたしはこれで」と、小さな声で囁いたのち、ゆう子は要と入れ違いになるようにして出ていった。 


「大丈夫?」


 実際に髪の毛をほどくとこんなに長いのかと思い、要は暫くの間美音には近寄らず、部屋のドア付近に立ったまま、斜めに振り向いた彼女のことを静かに見つめていた。


「あの、わたし、こんな格好で……」


 そういえば顔も洗っていなかったと思い、美音は自分でも顔が熱くなるのを感じるほどだった。


「うん。でも、美音さんはそのままでも十分可愛いよ、やっぱり」


 ベッドの上に腰掛けている女性――それもパジャマ姿の女性に近づくのはどうかという気がして、要は化粧台の前にあった椅子を手にとると、ある一定の距離を置いて、美音とは斜めに向き合いながら話をすることにした。


「本当はもっと早くに会いにくるか、電話しようと思ってたんだけど……僕も容疑者として疑われててね。それで警察の人となんのかんのと話してたら、すっかり遅くなっちゃったんだ」


「そんな。どうして……」


 と言いかけて、美音はハッとした。そういえば彼はきのう、自分のことで先生と話をすると言ってはいなかったか?そのことを思いだすと、それもまた(自分のせいだ)という気がして、美音は目の縁に再び涙が盛り上がってくるのを感じた。


「ああ、泣かないで。っていうか、美音さんが僕のために泣く必要はないよ。西園寺さんのためなら別としてもね。それに、二度目に警察の人と話した感じだと、僕以外にどうも有力な犯人候補がいるらしいんだ。話をすると長いけど、おそらく近いうちに犯人は科学的な証拠が決め手となって、逮捕されるんじゃないかと思う。まあ、そんなことよりもね――僕は彼を殺した犯人以外で西園寺さんと会った最後の人間として、美音さんに伝えたいことがあるんだ」


「伝えたい、こと……」


 美音はハンカチを手にとると、それでこみあげる涙を拭いながら、鸚鵡返しにそう聞いた。


「うん。西園寺さんはね、美音さんにたぶんそんなこと言ってなかったんじゃないかと思うけど……彼は、ずっと前から美音さんと結婚するために、奥さんと離婚することを考えていたらしい。美音さんは確か言ってただろ?彼は自分ひとりで満足するような人じゃないし、他にも愛人の女性がいる、みたいなこと。でもそうじゃなかったんだよ。彼は真剣に美音さんのことを考えて、他の愛人たちとも手を切り、奥さんとも離婚することを検討していたんだ。ただ、西園寺さんの奥さんはああいう人だから……簡単には離婚を承知しそうにない。それで、並の男がよく口にするようなこと――「いつか妻とは別れる」みたいなことは、美音さんに言わなかったんだと思うよ」


「まさか、そんな……先生はわたしのことなんて、そんなに深くは……」


 自分で自分の言った言葉に傷ついた、とでも言うように、美音は再び声を押し殺して泣きはじめた。何故か突然、ずっと以前――初めて彼に『愛している』と言われた時のことを思いだした、そのせいだった。


『おまえだけは、俺の元を離れるな、美音。何もかも全部、俺がおまえに良くしてやる。俺にここまでのことを言わせたからには、これから何があっても絶対に俺の手を離すんじゃない』と……。


 それなのに――自分はほんの一瞬とはいえ、気の迷いを起こしたのではないだろうか?今目の前にいる魅力的な男性に対し、<先生>にも通じるような、よく似た匂い感じとり、ほんの一時とはいえ手を離しかけたのだ。


「わたし、わたし……最低です。本当は先生のことを信じていなかった。先生にとってわたしは、数いる愛人のひとりに過ぎないと思ってて……でもそういうふうに思おうとしたのは、結局傷つきたくなかったから。いつか先生がわたしに飽きて、捨てられるのが怖かったから。先生はいつでも、わたしに対してあんなに良くしてくださったのに……」


「美音さん、部外者の僕がこんなことを言うのもなんだけど――西園寺さんはたぶん、数いる弟子の中でも、君のことを一番愛してたんだと思うよ。ひとりの女性としてもヴァイオリニストとしても……西園寺さんはこうも言ってたな。君には本当は自分などいなくても、ひとりで立つ力があるみたいなこと。西園寺圭っていう指揮者の肉体は、ある意味では消滅したのかもしれない。でもたぶん、彼は今でもやっぱり君の隣にいて、支え続けてくれてるんじゃないかな。そして西園寺さんの教えを受けた他の人たちも、彼の残していってくれたものを支えにして、今の悲しみを乗り越えようとするだろう。うまく言えないけど、彼の死は、他の人のそれとはかなり違う気がするんだ。僕はね――音楽っていう表現形態ではなく、絵を描くっていう意味においては、僭越ながら西園寺さんとは目指すものが同じだったような気がしている。キリスト教でいったら、それは聖霊の働きとでもいったらいいか……」


「わかります」と、ここで何故かとても力強く、美音が頷いた。「先生も以前、似たようなことをおっしゃっていたことがありますから」


「うん。聖なる霊の働き、流れみたいなものだよね。ただ、芸術家っていうのは、それととても似たところにいながら、それに背く、神の言うなりにはならないところがある。たとえば、神のことを褒め称える賛美歌を歌うような時には、聖霊の働き、流れでいいとしても――そこに背いて違うことをやりはじめると、また少し別の霊の流れになるようなところがあって……敬虔なキリスト教徒たちは、真の宗教的生命に生きる時、汚れた肉体を持ちながらも、天の国でのエクスタシーのようなものを味わうらしい。でも芸術家たちに与えられる、恍惚感を伴うこの霊の流れみたいなものは、それと同じものだと断言していいのかどうか、僕にはわからない。そこで仮に、この恍惚感を与える存在に<詩神>といったような名前を与えているわけだ。まあ、僕が西園寺圭の指揮する音楽を聴いていて思うのは、彼の元にもそうした存在が来ていたって断言できるっていうことかな。僕はね、こんなふうに想像するんだ、美音さん。彼は常に音楽を通して<魂の高み>に昇ろうとしていたわけだけど、肉体という枷がなくなった今は、いつでもその<高み>に西園寺さんがいるんじゃないかっていうこと。ようするに、ありていに言えば天国っていうことだけど……今ごろね、彼は僕の姿を高みから眺めながら、『まだ詩神の奴隷のような存在でいるのか。哀れな奴め』とでも思ってるんじゃないかっていう気がするよ」


「……………」


 美音が黙りこむのを見て、果たして自分の言わんとすることが伝わったかどうか、要としても少しばかり不安になる。要自身もこうした芸術論めいたことは、普段口にすることは滅多にない。ほとんど<アレ>とでも表現するしかないあの恍惚感、強い霊の流れ、素晴らしい魂の啓示といったものは、来たことのある人間にはほんの数語で理解できうるにしても、一度も経験のない人間にとっては、言葉を尽くして説明するだけ無駄というものだろうからだ。


「あの、わたしもうまく言えないけれど、要さんのおっしゃることはよくわかります。だって、わたしにとって先生は……要さんの今おっしゃった、詩神そのものだったんですから。それに、要さんの言う<詩神の奴隷>っていう意味もわかる気がするんです。だって、わたしはただの数いる奴隷にすぎなかったところを、先生に名前を呼ばれて買いとっていただいたようなものだったんですもの」


「うん。呼ばれる人と呼ばれない人がいるのがどうしてなのかとか、僕たちにその理由はわからないにしても――人は一般にそれをわかりやすく<才能>と呼んだりするものだよ。僕はね、美音さんとはこれからも表現形態が違いながらも同じ<魂の高み>を目指す同志になれるんじゃないかなって思ってた。西園寺さんとは実際には、そんなに長いこと話したってわけじゃないけど、彼には僕が言った言葉以上に色々なことが理解できてたって、そんなふうに思ったしね」


「はい。先生はいつだって、人が実際に言葉にした以上のことを理解できる方でした。音楽家にとって耳のいいことは必須条件であるにしても……先生のはそれを遥かに越えていたんですよ」と、美音はここで初めて笑った。「単に肉体の耳がいいっていうんじゃなくて、先生のはもうほとんど<霊の耳>といったほうがいいような、そんな耳の良さでした」


「じゃあ、僕たちの今の会話も聞いてるかもしれないね」


 そう言って、要もまた笑うと、背もたれの高い椅子から立ち上がった。


「美音さんが、君が<先生>と慕う人とまたふたりきりになりたいだろうから……僕はそろそろ部屋へ戻るけど、もし話したいことでもあったら、いつでも電話して。西園寺さんとの思い出話でもなんでも、僕でよければ聞くよ。それと、少しでいいから必ず食事をして寝たほうがいい。それも君自身のためじゃなく、君の<先生>が心配しないためにね」


「はい。あの、時司さん……色々ありがとうございました」


 いえ、どういたしまして、といったように軽く会釈すると、要は1526号室を出た。すると、エレベーターホールの向こう側から、女性が大声で泣き喚く声がして、少しばかりぎょっとなる。


「おまえ、そんなに激しく人前で泣くものじゃないよ」


「あなたには、わからないわ。わかりっこない。あんなに才能のある人が死んだ、それも殺されたのよ!!犯人がもしわかったら、そんな奴、このあたしが首を絞めて殺してやるわ!!」


「ママ、気持ちはわかるけど、しっかりして。他の楽団員の人たちだって、みんなママと気持ちは一緒よ。いずれ警察が犯人を見つけだして、そいつを死刑か終身刑にでもするに違いないわ」


 日本には終身刑という制度はない――おそらくレジーナ・ドナウティはそのことを知らなかったのだろう。彼女は父親と一緒になって母のことを左右から支えるような形で廊下を歩き、そして1528号室へと親子三人で消えていった。


(まあ、無理もないな)


 生前の西園寺圭を知っており、また彼の演奏を生で聴いたことのあるファンなら誰しも、おそらく今のミサワ夫人のようになってもまったくおかしくはない。要にしても、暖炉の上に飾られた絵――ゴッホのひまわりにこびりついた血を見た時には、彼の肉体の血が流されるということは、まるでそこから偉大な才能が血液として流れ出ていったというように感じられたほどだった。


(なんにしても美音さん、明日の公演はどうするのかな。一時的にしろ、ヴァイオリンから遠ざかるより、むしろ少しでもヴァイオリンに触れていたほうが――気持ちが紛れていいんじゃないかっていう気がするけど……)


 要はこの時不思議と、ミサワ夫人の西園寺圭の死に対する嘆きようを、常軌を逸しているとまでは感じなかった。だが、最終的に西園寺圭を殺した犯人がわかる過程で――この時何故自分は気づかなかったのかと、己の勘の鈍さ加減を思い返すことになるのであった。




 >>続く……。






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