第14章
南沢湖滞在五日目――翼と要とは、この日もやはり正午過ぎに目覚めていた。もともと要は、画家などという自由業を生業としているため、朝決まった時間に起きるといったようなことが少ない。そして翼はといえば、病院に勤務時はちょっとした刺激にも敏感に目覚めていた感覚から解放され、元のズボラな睡眠リズムを取り戻していたといって良い。
それでもこの日、翼はぱっちりと目が覚めるなり、無駄に左や右へごろごろするでもなく、速攻がばりと起き上がっていた。それというのも、隣のベッドに眠る親友に、昨晩の西園寺圭との会見について詳しい経緯を聞きたかったせいである。
「おい要、起きろよ!!俺きのう、首藤朱鷺子の本を読みながらおまえのこと待ってたんだけど、早々に脳の支配を睡魔に譲り渡しちまったからな。それで、どうだったんだよ!?西園寺圭との話し合いは!!」
「ん~、今何時だよ、翼。僕、今朝はもし早起き出来たら、西園寺圭の<火の鳥>を聴きにいこうと思ってたんだけど……」
ここで翼は、ナイトテーブルの上のデジタル時計に目をやり、それはもう無理だろうということを親友に教えてやった。
「えっ!?もう昼過ぎかよ。参ったなあ。また奴さんの貴重な生の演奏を聴き逃しちまった」
「何言ってんだよ、要。おまえ、断然寝ぼけてんじゃねえの?それよか、早くきのうどうだったのかを教えろよ。さあ、さあ!!」
翼にシーツを上から強制的に取り除かれ、こうなっては要としても起きざるをえない状況に追いこまれた。しかしながらここで、さらにまた翼を焦らすような事態が生じる。何故といってこの時、部屋のドアがノックされ――客室係だろうと思って返事をしたその先には、刑事がふたり立ち塞がっていたからである。
「西園寺圭が、殺されたあ!?」
(まったまた、ご冗談を)といったように、普段であれば翼も続けたかもしれない。だが、やけに貫禄のある赤城と名のる警部は、見るからに沈痛な面持ちをしており、これが紛れもなく冗談事でないことを翼に伝えていた。
もうひとりの比較的若め(といっても三十代だろう)の刑事のほうは、椅子を勧めたにも関わらず立ったままでおり、窓のほうから湖の方角を疑い深そうな目で眺めやっている。
「それは、本当に本当なんですか?」
要にしても俄かには信じ難く、きのうの夜彼の指揮するオペラを聴き、またその後話をしたとあってはなおのこと――西園寺圭の遺体を今目の前で見でもしないことには、事実として到底容認できない気がした。
「本当に、本当ですよ」
赤城警部は、生まれてこの方自分は笑ったことがないとでも言うように、陽に焼けた顔の口許を、一文字に引き結んでいた。そして重量のありそうな体格のいい体から、まるで必要な時だけ声を取りだすように、耳に快い引き締まったバリトンで話をはじめる。
「死亡推定時刻のほうは次期判明するでしょうが、我々はとある筋からあなたが、昨晩西園寺氏と何か話をしたらしいとお聞きしました。それは事実ですか?」
「ええ、まあ」
くしゃくしゃの浴衣を着て、顔も洗ってない男ふたりの様子を、窓辺にいる刑事がどこか軽蔑したような眼差しで見返してくる。その視線になんとなく腹立たしいものを感じた翼は、思わずこう茶化していた。
「俺たち、べつにゲイのカップルってわけじゃないぜ?単にきのうは魂の国へお出かけしてから戻ってきて、そこに近い眠りの国についさっきまでいたってだけの話」
「翼、まだメシも食ってなくてイライラするのはわかるけどさ、そんなことで大切な話の腰を折るなよ」
「へいへい」と返事をすると、翼はトランクスが丸見えなのも構わず、大股に足を組み替えている。
「そちらの方の御職業が医者だというのは本当ですか?」
「本当ですよ」と、笑いながら窓辺の刑事に答え、要は赤城警部に話の続きを促した。
「どうも、申し訳ありませんな。ですがやはり、事態は急を要するもので……今起きたばかりということは、おそらく御存じないのも無理からぬことですが、すでにここのホテル前にはマスコミ連中が詰めかけているほどですよ。我々は北央市の警察署本部のほうから派遣されてきたのですが――御遺体のほうは、朝一番に朝食を届ける係の女性が発見しました。その時刻が朝の七時頃。今朝は朝靄が濃かったですが、連絡を受けて我々がやって来たのが大体八時半頃でしたな。キャンプ場から一番近いところに<みずうみの宿、胡蝶>という場所がありまして、西園寺氏に朝食を届けるのは、そこの従業員だったそうです。また、氏は大抵こちらでお風呂を借りて入っていたらしいですね。なんにしても、胡蝶で早朝から働く女性が西園寺氏の遺体を発見し、地元警察に届け、尋常ならざる事態と認めた巡査部長が、こちらへ応援を要請したわけです。そして……」
「その巡査部長って、黒部巡査のこと?ついでに聞きたいんだけど、つい先日殺された首藤朱鷺子のことはどうなってんの?あいつ、きちんとそっちに自殺でもなく事故でもなく、他殺の可能性があるって報告してる?」
「翼、そんなことより今は……」
珍しく要が深刻な顔つきで自分のほうを見てきたため、翼は一旦黙りこんだ。窓辺にいる髪を角刈りにしたラグビー選手のような刑事は、ますます不信の念をこの自称医師に対して強めたようだったが――当の翼はといえば、救いようのない馬鹿を見るような目で、彼のことを見返すのみだった。
「どうやらあなた方は、我々以上に色々なことをご存知のようですな。まあ、そちらのお話についてはいずれ触れることとして、今はまず西園寺氏の話です。我々がバンガローの入口を見張る警官ふたりに挨拶し、中へ入っていくと、すでに鑑識班が先に動いていました。とりあえずその時点でわかったことは、暖炉の前で西園寺氏が俯せに倒れていたこと、また何か切っ先の鋭いもので頭を何度となく殴られたのちに、絶命されたということです。凶器のほうはまだ見つかっていませんが、それが一体なんだったのかということは、司法解剖の結果おそらくわかるでしょう」
「切っ先の鋭いもの、ですか……」
(そんなもの、あの室内にあっただろうか)、そう考えながら要は、口許に手を当てて、思わず呟いた。
「それはナイフとかではないんですか?もちろん、ナイフで頭を刺して人を殺すなんて、聞いたことがありませんが……」
「我々もです。ですがまあ、傷口を外から見た限りにおいては、そのように見えたというだけの話ですから。ところで、誰がそう言ったのかを明かすことはできませんが、我々は時司さんが昨晩、西園寺さんのバンガローまで訪ねていったことを知っています。そこでお聞きしたいのですが、あなたは何故彼のことを訪ねていったのですか?」
(やれやれ。このボンクラどもはもしや、要を疑ってるのか?)と思いつつ、翼は目やにをとると、それをティッシュにこすりつけ、屑籠の中へ捨てた。
「簡単な理由ですよ」これ以上の爽やかさはありえないといったように、要は微かに笑って言う。「僕は西園寺さんの愛人である、川原美音さんのことが気に入って、彼女をモデルにして絵を描きたいと思っていました。そこで、美音さんとはまだ出会って間もないんですが、彼女が彼との関係で思い悩んでいる気配を感じ、これからどうするつもりなのかと西園寺氏に直談判したわけです。直談判なんて言ってもまあ、そう大したことじゃありません。お互い、いい大人なんだし、会話のほうは大体二十分か三十分程度で終わったんじゃないかと思います。彼は美音さんには伝えていないが、奥さんと離婚するつもりでいる、またずっとそうしたいと思い話しあってきたが、妻が承知しないので伸び伸びになっている……といったことを僕に言っていました。けれど、今度こそ本気で離婚調停に入るつもりだと。そして別れ際、西園寺さんは僕にワインを勧めてくれたんですが、何分車で来ていたので、僕は何も口にせずに帰ってきたというわけです」
「じゃあ、テーブルの上にあったワインは、あなたに対して出されたものということですね?」
「だと思います。ですがまあ、口をつけませんでしたから、そのあと誰か来客があったとすれば――その人が飲んだという可能性はあるかもしれません」
「そうですか。ところで、きのうあなたが出かけていった時の服や靴などを見せてもらえませんか?」
(やれやれ。もしや僕は彼らにとって、第一容疑者だったりするのかね)などと思いつつ、要は立ち上がってクローゼットへ向かい、そこからヴェルサーチのスーツ、それに本革の黒靴を取りだした。途端、角刈りのラグビー刑事が素早く近寄ってきて、両手に白い手袋をしはじめる。
「こちらの靴を証拠品として預からせていただいても、構いませんかな?」
「ええ、まあ。構いませんけど。靴ならもう一足ありますから。ですが、服のほうはいいんですか?」
「とりあえず、クリーニングには出さないでおいていただきたいと思います。見たところ、返り血のようものもついてないようですし、まずは靴のほうだけお預かりしていきます」
「はあ……ところで、この靴から何かわかることでもあるんですか?」
翼が好奇心に爛々と輝く瞳で、角刈り刑事が証拠品袋にブランド靴を入れる姿を見守っている。
「バンガローの床は松材で出来てるんですが……きのうの夜は蛾がすごかったらしいですね。で、キャンプ場へ来ていた人にも聞きましたが、夜になるとここら一帯は、まるでホラー映画のように蛾の海になると。地面のほうも蛾を踏まなければ歩けないほどだと聞いた時に、室内に散らばる粉状のものがなんなのかがわかったんですよ。ついでにいくつか、靴の跡らしきものも点在してまして……誰が西園寺氏を殺したにせよ、おそらくその靴跡のどれかに犯人のものが混ざっているに違いないと、我々はそのように踏んでいます」
「殺人犯はシンデレラってことか。良かったな、要。これでおまえが犯人と同じサイズの同じ靴でもはいてない限り――すぐに容疑者リストからは外されるぜ」
ラグビー刑事にジロリと睨まれても、翼は涼しい顔をして口笛すら吹いている。
「ではそろそろ、首藤朱鷺子さんのお話に移ることにしますか。彼女の検屍結果には不審な点があるとの報告を受けて、私は黒部巡査部長に電話で連絡を取りました。これは事故だったのかどうかという確認をを取るためです。すると、彼の言葉遣いがなんとも曖昧であったため、いずれにせよこの件についてもまた、我々が調査し直すということになっていたのです。ところで、先ほどあなたは私にはっきり、首藤朱鷺子が殺されたとおっしゃいましたな。あなたがそう言ったことの根拠がどこにあるのか、お聞かせいただいてもよろしいですか?」
「ああ。1526号室の水上ゆう子って女が――ベランダから彼女のことを突き飛ばしたと思しき<手>を見たんだと。で、背面からダイビング。っていうことは当然、他殺なんじゃねえのって話」
「なるほど。その女性とあなたとは、どういった御関係で?」
「特にこれといって、何も関係はないな。単に一度寝たってだけの話」
「ふむ……」
赤城警部は、少しばかり混乱した思考を整理するように、暫くの間黙っていた。それから再び顔を上げ、要のほうを鋭く見やる。
「先ほど聞き忘れてしまったのですが、あなたが西園寺氏のバンガローにまで行った理由は、川原美音さんのため、ということでしたね?実をいうと、彼女にはすでに話を伺っているのですよ。ショックのあまり、ろくに口も聞けないといった様子でしたので、あまり立ち入ったことまではまだお聞きしてませんが……というのも、西園寺氏が最後に電話をしたのが、彼女だったからなんです。これがもし犯人の偽装工作でなければ、彼は昨晩の深夜二時五十分頃までは生きていたということになる。川原さんの話では、真夜中に携帯が鳴り、相手が西園寺さんとわかり、すぐ取ったそうです。ところが、「もしもし」と言ったところで、プツリと切れてしまい……どうしたんだろうと思いはしたものの、あえてかけ直すことはせずに、そのまま眠ったということでした。さて、ここでひとつ質問があるのですが、何故時司さんは大量の蛾の海を踏み越えてまで、あんな夜分に西園寺さんを訪ねていったんですか?それに、こう言っては失礼ですが、会話の内容のほうも不自然だという気がしました。西園寺さんという方は非常に気難しい方だったそうですが、その彼が突然胸襟を開いて「妻とは離婚するつもり」だの「長年愛人としてきた女と一緒になる」といった話を、さして親しくもないあなたにするものですかね?しかも、たったの二十分か三十分程度の間に?これもまた、とある筋から聞いた話ですが――時司さん、あなたは音楽ホールの駐車場で、西園寺さんに殴られたことがあるそうですね。そしてその翌日には、音楽ホールの中央ロビーから、あなたの描いた絵が西園寺さんの命令で消えている……私が思うには、あなたはそのことに腹を立て、氏に直談判しにいったんじゃありませんか?そして言い合っているうちに、ついカッとして何か身近にあった先の尖ったもので、西園寺さんを死に至らしめた……どうですかな?」
翼も要も、あまりのことに、互いに顔を見合わせて笑いだしたくなった。翼はといえば、「やべえ、腹筋切れる!!」と言って実際に笑いだし、要のほうはといえば、儀礼的に浴衣の袖で顔を隠し、なんとかその笑いを押し殺すのみだった。
「いえ、失礼。警部さんの推理があんまり突拍子もないものだったもんですから……まあ、誤解しないでいただきたいんですが、僕にも翼にも悪気はないんですよ。人がひとり――いや、ふたりかな。亡くなったというのに、なんという不謹慎な輩だと、詰られても仕方ないと思います。でも、なんていうかこう……僕にはまだ、あの西園寺さんが、昨晩話をしたばかりの彼が亡くなった、それも殺されたといったようには、実感できないんですよ。何かこう、これは朝靄の中の、質の悪い冗談だというふうにしか思えないと言いますか。なんにしても、昨今は善意から良いことをしようなどとは思ってはいけない御時勢なんでしょうね。警部さんには信じていただけないかもしれませんが、先ほど申し上げたことは、間違いなく事実なんですよ。僕は感じやすい心を持つ女性というのが好きでしてね、そうした女性というのは一目見ただけでわかることが多いんです。だから、特にこれといって理由なんかないんですよ。僕はただ美音さんのために、その苦しみの元となっている彼女の<先生>と、ひとつ話でもしてやろうと思ったという、それだけなんです。そしたら、彼のほうでも僕に美音さんを取られるかもしれないという脅威を若干感じていたらしく、僕自身ですら驚くほど打ちとけて話してくれたという、これはそういう話なんですよ」
「そうでしたか」
青二才の若造ふたりに笑い者にされた格好となり、それまで一貫して無表情だった赤城警部の顔は、僅かながら不機嫌になったように見えた。そして彼が「行くぞ」と部下に命じて立ち去ろうとすると、要は最後、そんな彼の背中に向かい、こう言葉を投げかけた。
「忘れていましたが、美音さんが西園寺さんの愛人だということは、なるべく口外しないでいただけませんか?楽団員の方の中にも、そのことを知っている方はほとんどいないでしょうから……当然、西園寺さんの奥さんや息子さんの耳にも、出来ればお入れして欲しくないんですよ。捜査上やむなくといった事情のある場合は、仕方ないとは思いますが」
「承知しました。ところで、おふたりはいつまでこちらに滞在する御予定ですか?」
「まあ、音楽祭の終わる最終日まで、と最初は考えていましたが――聞くところによると、楽団員の方などは、さらに二、三人日程を伸ばして、湖畔で遊んでから帰られるとか。僕たちももしかしたら、同じように若干日にちを伸ばすかもしれませんが、今日明日突然帰るということだけはありませんので、どうかご安心を」
赤城警部とラグビー刑事が一礼してから立ち去ると、翼は思いっきり伸びをし、それから大きな溜息を着いていた。
「ごめんな、要。やっぱり俺って、人前でこういう態度だから駄目なんだよな……けど、おまえが殺人犯だなんて、傑作じゃないか。こんなに面白い話、俺はここ数年一度も聞いたことがないくらいだぜ」
「まあなあ。いくら潔白とはいえ、実際に蛾を踏んづけた靴を持っていかれたりすると、あまりいい気持ちはしないな。しかもあの、若い角刈り刑事のほう、クローゼットの中にある他の靴のサイズも調べていったぜ。それも僕のだけじゃなく、おまえのもな」
「やれやれ。あの赤城警部とやらの言ってることは、確かに筋道が通ってるっちゃ通ってるんだよな。つーか、俺が刑事でおまえみたいな軽佻浮薄な雰囲気のイケメン男にあんな説明されたら――まあ、まず疑ってかかるだろうな。しかもその横じゃ、医者なのかホストなのかわかんないような男がワンワン吠えてるとあっちゃ、なおさらっつーか」
「なんにしても、話の続きはごはんを食べながらしよう。翼、おまえも腹減ったろ?」
「ああ。俺は今日、<こだわりの洋食プレート>じゃないほうにするぜ」
「じゃあ、僕はその<こだわりの洋食プレート>にしよう。きのう、美音さんが食べてるのを見てて、すごく美味しそうだったから」
ふたりは交代で洗面台を使い、顔を洗ったり服を着替えたりしたあと――客室係が届けにきた、和食セットと洋食セットを食べながら、先ほどの赤城警部と角刈刑事との話をまとめ直すことにした。
「しっかし、驚いたよなあ。あの西園寺圭が殺されるとはね。実際のところ、要はどう思う?奴さんが死んだとすれば、要があいつと話をしたその後ってことに当然なるだろ。大量の蛾を踏み越えてまでねえ……そんなにあのあたりって夜になると蛾が大量発生するのか?」
「ああ、僕もびっくりした」
ロールパンを食べ、海老グラタンに口をつけながら、要が言った。翼はといえば、おだまき蒸しにしいたけが入っているのを見て、早速とばかり箸で取り除いている。
「あれは大量発生というか、異常発生だね。道という道、あるいは芝生という芝生に隙間なくびっしり蛾が張りついてて――最初はどうにか避けて歩こうと思うんだけど、最後にはもうすっかり諦めて、ムシャムシャって音がするくらい、踏みつけて歩くことになった」
「うえっ。食事中にするには、最高の話だな、それ」
「ごめん、ごめん。でもおまえ、僕が家に遊びにいった時――カップヌードル喰いながら、大腸ガン手術のビデオを見てたことあったろ?あれに比べたら、まだしも可愛いもんだよ、蛾なんて。それより、さっきあの警部に言い忘れてたんだけど、西園寺圭と会ったそのあとでさ、キャンプ場の駐車場で西園寺紗江子に会ったんだよな。なんていうかこう、ちょっとストーカーっぽい雰囲気を感じたっていうか……たぶん、彼女の頭の中は夫のことばっかりで占められてるんだろうなって感じた。まあ、もしかしたらその前に、西園寺圭から奥方のことを聞いてたそのせいかもしれないけど」
「ふん、ふん。そんでそんで?」
ホッケの身を骨から取り外しつつ、翼が先を促す。
「まあ、大体のところはさっき赤城警部に言ったとおりなんだけど……西園寺圭の奴はね、とっくの昔に奥さんと別れる覚悟があったってことだった。けど、あの奥さんのほうが頑として離婚に同意しないらしくてね。それでも西園寺氏は美音さんと一緒になるために、離婚調停も辞さないつもりでいたみたいなんだ。僕に対してはね、どうやら自分がそこまで色々苦労してるとも知らないくせに、この若造が!って思ったんじゃないかと思うよ。なんにしても、僕がこの話の中で印象的だったのは、彼がそこまで美音さんのことを本当は愛してるってことと、西園寺氏が自分の妻を評して<どこか病的>とか<歪んだ嫉妬>っていうような言葉を口にしてたことかな……どうも彼女が愛人を作ったりするのは、肉体的欲求を満たすためとか、本当に相手を愛してるとかじゃなくて、単に夫のことを苛立たせたり、自分と同じように嫉妬で苦しめばいいと思ってのことらしいね。彼はそこまではっきり言いはしなかったけど、まあ大体そんな文脈にとれるようなことを言ってたと思う」
「そっか。そういや俺、きのう初めて西園寺紗江子のことを生で見たんだよな。美音ちゃんを送って、エレベーターで上がってきたら、そこでバッタリ顔を合わせちまってさ。すごい美人だったぜ。たぶん今、四十いくつだろうけど、大袈裟にいえば、二十九くらいでも通用するんじゃね?みたいな感じだった。でもまあ、そんな美貌の奥さんを放っておいて、遊び歩いた揚げ句、今度は若いかわいこちゃんと人生やり直すってか?流石にそりゃ調子良すぎなんじゃねーの?」
「翼、おまえの場合、自分の身につまされるあまりの発言だろ、絶対」
「当たり」と、だし巻き卵を口に放りこみながら、翼は何度も頷いている。「俺もさ、もし仮になんかの間違いで二十代で結婚してたら――絶対浮気してるぜ。で、そのたんびにワイフが「キーッ!!」ってなってるの見たら、気持ちなんか絶対覚める。もちろん、自分が悪いってのは一応わかるよ。けど、そういう楽しみでもなかったら、仕事なんかする気、微塵もわいてこねーな、俺の場合」
「やっぱりなあ。僕とおまえと西園寺氏は、そういう意味で同類グループに分類されちまうんだろうな、きっと」
要は溜息を着くと、四種類あるチーズのうちのひとつを口に入れ、それからコーヒーを飲んだ。
「彼にも言われたよ。おまえはひとりの女で満足するタイプじゃない、みたいなこと。なんにしても、僕や翼みたいなタイプは、三十代後半とか四十代くらいまで独身でいてさ、その頃に病気でも患って、そんな時に優しく看病してくれた女とでも結婚するしかないんだろうな。なんとなく、そんな気がする」
「ま、俺も今要が言ったのとまったく同じことを思ってたよ。つい最近まではね。なんにしてもとりあえず、今の要の話でいくと――一番あやしいのは、西園寺紗江子ってことか。それにしても、キャンプ場の駐車場なんかであの奥さん、一体何してたんだ?」
「僕にもわかんないよ」茄子のピザを口にしながら、要は曖昧に笑った。「最初は、旦那と話をしに来たのに、大量の蛾に阻まれてまた車に戻ってきた……みたいに思ったんだけど、どうもね、ちょっと違う気がする。西園寺紗江子はあの日の夜がキャンプ場の駐車場へ来た初の日ってわけじゃないだろう。だったら、何故彼女はあの夜、あそこにいたのか――なんだかちょっとだけミステリーだよな。もしかして、西園寺氏のことを張ってたんだろうか?氏も車をあそこに止めていただろうから、夫が来たらそのあとをつけるつもりでいたとか……」
「いや、それだとすぐバレるだろ。逆に、彼女は夫の元に誰か愛人の女がやって来ないか見てたっていうほうが、辻褄が合うんじゃないか?自分の元にはほとんど戻って来ないか、あるいは戻ってきても、侃々諤々の言い合いをするだけなわけだろ?にも関わらず、西園寺紗江子のほうにはそれだけ夫に執着する情念があるってことは……まあ、女の場合はどうなのか、俺にはわからんがね。俺がもし愛人に会いにいく場合は、蛾の群れなんか喜んで踏みつけにして、相手に会いにいくだろうな」
「そうか。なるほどな……西園寺紗江子は夫の本命の相手が誰なのかまでは、まだ掴んでなかったってことか?そこで、どこかそれらしい女が車から出てきたら、あとを尾けていこうとしたのかもしれない。で、窓から覗きこむようなことをして、現場を押さえようとしたってことか?もしそうだとしたら、僕にとっては大量の蛾なんかより、よっぽどホラーな話だって気がするね」
「ああ、女は怖いよ」
そう言ってから、翼と要は互いに顔を見合わせ、またもゲラゲラと笑いあった。そして、男同士で気味が悪いとも特に思わず、竜田揚げやフライドポテトをトレードしたり、相手が残したものを「勿体ない」と言って食べたりしたのちに――空になった皿を重ね、その上に蓋を被せたワゴンを、部屋の外へ出したのだった。
「さて、と。音楽祭のほうはどうなってるべか。最悪の場合は当然中止ってことになるだろうけど……要、午後からのプログラム、今からでも見にいってみるか?」
「ああ。でもその前にフロントにでも電話をかけて、どうなってるのか聞いたほうがいいかもしれないな。ほら、翼もテラスから下を見てみろよ。あのステーションワゴンとか、たぶんマスコミ関係のじゃないか?」
「どれどれ」
何分、二十階から下を見た場合、人が蟻の群れのようだとまでは言わないものの、かなりそれに近いものがある。それでも、ここ数日とはまったく違う車両の出入りや人の群れが出来ているのが、はっきりと見てとれた。
「なんか、あの目の前はなるたけ通りたくないって気がするな。『音楽祭がこんなことになって、ファンとしてどのようなお気持ちですか!?』、『西園寺先生がこんなことになるなんて……ぐすっ。本当にとっても悲しいです。ぐっすん』とか、そんなのは見るのも自分でやるのも絶対嫌だね」
「でも、西園寺圭を失ったことは、日本の、引いては世界の大きな損失だっていうのは、確かだよ。そういえば僕、言い忘れてたけど、きのう西園寺圭の居場所を聞くついでに、東京オーケストラの近藤さんと弥生さんに首藤朱鷺子のことを聞いたんだ。そしたらふたりとも、西園寺家に纏わるスキャンダルをリークしたのは彼女だろうって、大体のところ認めてたよ。で、彼女が楽団を辞めた理由なんだけど――簡潔に言ったとすれば、西園寺氏に第一ヴァイオリンからセカンド・ヴァイオリンに下げられた揚げ句、『おまえは違う。外れろ』って指摘されたことが原因らしい。彼女、もともとは西園寺圭のファンで、彼が自分の所属する楽団の指揮者になることを人一倍喜んでいたらしい。でも、こうなっちゃもう可愛さあまって憎さ百倍っていうか、何かそれに近いものがあるよな」
「そっか。なるほどな……西園寺圭が殺される前にもしそのことがわかってたら、俺は要とは違って奴のことを第一容疑者か第二容疑者だと思ってたかもしれん。けど、それにしてもわっかんねえよな。こんなに近接した期間に、身近で死体が二体も上がった。これが偶然のわけがあるか?」
「っていうことはつまり、翼はこれ、同一人物の犯行だと思うわけか?」
「他に考えられるか?たぶん、探せば何かあるんだよ――首藤朱鷺子と西園寺圭を繋ぐ何かがさ。大きな声じゃ言えないけど……」と、ここで翼は一旦、小声になった。「一番ありえそうなのは、西園寺紗江子犯行説かもな。揺すられてカッとして首藤朱鷺子を突き飛ばし、ひとり殺したことで勢いがついて、むしろ前からずっと憎んでいた夫のことも殺害した……一番わかりやすいのは、このラインじゃないか?」
「なるほどね。っていうことは、警察もそう馬鹿じゃないから……」
要もまた若干小声になり、隣の部屋のテラスの様子を、手すりから身を乗りだすようにして窺った。エアコンの冷たい空気を逃さないため、窓は閉められている可能性が高いとはいえ、そこがもし開いていたら今の会話が聞こえてしまう危険性がある。
そして折も折、ふたりがそんなことを話していた時に、隣のスイートの窓がガラリと開き、西園寺紗江子がそこに出てきた時には、翼と要は思わず身をかがめ、即その場に隠れていた。
「ほほほ。刑事さん、それじゃこのあたしがあの人を殺したっておっしゃるんですの?確かにおっしゃるとおり、あたしと主人との関係はうまくいってませんでしたわ。でも、殺したりなんか絶対しません。何故といえば、生きたままじわじわと苦しめてでもやらないことには、あの人には全然足りませんもの。愛人ですって?もちろん知ってましたわ、そんなこと。そしてあたしにとってはね、相手が誰かなんてこと、どうでもいいんですの。自分にもそうした存在がいるからとか、これはそうしたお話じゃありませんのよ。あの人、結婚した当初からずっとそうでしたわ――主人には音楽ってものが<永遠の恋人>なんですもの。体が健康である限り、あの人は壇上に立ち続け、指揮棒を振っている時にでも脳梗塞か心筋梗塞で死ぬっていうのが、最上の喜びって感じの人ですわ。おわかりになりますかしら、刑事さん。つまり、あたしには何もないんですの。あの人は体の自由が利く限りは指揮者であり続けるでしょうし、また愛人を作り続けるでしょう。そんなことあたし、とっくに諦めてますわ。だって、最初からあたしの敵は、人間の女なんかじゃないんですからね――といっても、あたしが何を言っているのかは、並の凡人なぞにはおよそわからないことでしょうよ」
『おい、あの奥方が何言ってるか、わかるか要』
『あとで説明するよ』
翼と要はそんなことを小声で話しあい、なおも隣のテラスから聞こえる会話に耳を澄ませ続けた。
「申し訳ありませんが、奥さん。私はあなたの言うその、並の凡人という奴でしてね、もっと噛み砕いて説明していただかないと、理解しかねるんですが……」
「そうでしたわね。刑事さんはようするに実際的なことをお知りになりたいのでしょ?主人が亡くなったのがもし、午前三時頃だとおっしゃるなら、その時間はあたし、この部屋でぐっすり寝てましたわ。もちろん、アリバイを証明できるような方は誰もいません。でも、むしろそれが普通なんじゃありません?誰だってそんな時間には寝ているか、アリバイを証明してくれるのは家族や親しい友人ってところで、信憑性に欠けるんじゃないかっていう気が致しますけれど」
「確かに、それはそうなんですがね。ちなみに奥さん、きのうの就寝時刻は何時になりますか?」
「午前零時頃ですわ、たぶん」
「失礼ですが、その前にお出かけになったりはされませんでしたか?それも、フロントへはキィを預けずに」
「……何をおっしゃりたいんですの」
「目立つ美貌を持った方というのは、サングラスをかけたほうが実は余計に目立つということを、ご存知ありませんでしたかな?フロントの人間が、午後十時頃でしたかね――あなたが出かけていくのを見たそうですよ。音楽祭の公演はきのう、大体九時半頃に終わったそうで、あなたが一体外へ何をしにいくのか、若干不思議に思ったとか」
「随分いやらしい聞き方をされるんですのね、刑事さん。男らしく、はっきり聞きたいことをおっしゃったらどう?」
「では、ズバリ聞きましょう。先ほど鑑識のほうから連絡があって、西園寺氏のバンガローには盗聴器が仕掛けられていたそうです。奥さん、これはあなたが仕掛けたものではありませんか?また、西園寺さんのバンガローの隣に別荘を持っている方などが、昼間に時折、あなたの姿を見かけていると聞きましたよ。そして、旦那さんのバンガローの周囲を回って何か調べていたり、窓から中を覗きこんだりしていたそうですね」
ここで数秒、沈黙が流れた。翼と要とは、互いにしゃがみこんだまま、顔を見合わせ、じっと息を殺すようにしたままだった。
「……確かに、そのことは認めます。盗聴器のことではなく、主人のバンガローを見にいったことについては、ということですわ。でも、そのことの一体何がおかしいんですの?主人は音楽祭の間、そのことで頭がいっぱいで、あたしの元へはあまりやって来てくれませんの。ですから時々、ちゃんとごはんを食べているかとか、どうしているのかが気になって、あのあたりをうろついていたというだけの話ですのよ。妻として夫のことを知るのは当然の権利ですわ。それのどこがいけませんの?」
「そうですか。では、最後にもうひとつだけ。ご主人のことを恨んでいたような人物に、心当たりはありませんか?妻であるあなたの目から見て、彼、あるいは彼女こそが怪しいのではないかといった人物について」
「主人は、恨みならある意味方々から買っているはずですわ。何しろ、楽団員や他のお弟子さんたちには、「血反吐を吐くまで努力しろ」っていうのが、あの人の口癖でしたからね。あの人のスパルタ式のやり方についていけなくて、楽団を辞めた方もいらしたでしょうし、指揮法について教えたお弟子さんの中には――あの人のことを中傷して歩いた人もいたくらいですもの。そして、今度は五年続けたこの音楽祭も突然辞めると言いだす始末。主催者の方々は困惑するあまり、あたしからも説得してくれって泣きつかれたくらいですわ。でも、あたしに一体なんの力があります?主人は、一度自分がこうすると決めたら、必ずやり通すような人です。止めるだけ無駄というものですわ」
「では、あなたとの離婚もそうだったということですか?これは、とある筋から聞いた話なのですが――西園寺さんは、今度こそは離婚するという決意を固めていたとお聞きしました。でもあなたが頑として離婚については受け入れないと聞きましたが……」
「ほほほ。それがあたしの妻としての、唯一の特権なんですもの。絶対手放したりしませんわ。第一あの人、お金のことに関しては、まるっきり子供みたいな人なんですのよ。よくいえば、毎日音楽音楽ばかりで、欲ってものがまるでないんですの。もちろん、音楽のことに関していえば、大変な野心家ですけれどね、主人は。他に愛人ってものがいるかわりの罪滅ぼしとして、お金のほうの実権はあたしが握っているんです。結婚した当初からずっと、その点についてはすべて押さえてきましたから、あの人があたしと別れないのはそうした理由もあったでしょうね。最低でも、財産の半分以上は慰謝料としてあたしのものになるでしょうし……不動産関係の名義については、うまくやって今ではすべてあたしの名義になっています。これで主人を殺したからって、あたしにはなんのメリットもありませんわ。そうお思いになりません?」
(これでおわかり?)といったような空気を言外に感じ、ここでもまた、翼と要は目と目で会話を終え、互いに肩を竦めたり、おそろしげに首を振ったりした。
「ですが、息子さんのお話によると、ですな……そうした犠牲を払ってでも、親父はおふくろの魔の手から逃れたいと考えていたろうということでしたよ。離婚調停ということになれば、当然泥沼になると。何故といえば、ご主人には確かに愛人がいらっしゃったでしょうが、あなたにもそうした存在が複数いた以上――世間的な名誉をどんなに守ろうとしたところで、不利なのはあなたのほうだろう、とね。何故といえば、俗世間といったものは夫の浮気には比較的寛容なのに、妻のそれに対しては冷たい侮蔑の視線を与えるからです。そうしたことを考えあわせた場合、両者の弁護士を通して示談という形で取引するしかない……親父は最終手段としてそう考えているだろうということでしたが」
「あの子が、本当にそんなことを赤の他人のあなた方に言いましたの?」
「ええ、まあ。むしろあっけらかんとしているくらいでしたね。もちろん、父上の死については非常に悲しんでおられましたが、息子さんはどうやら、あなたよりも父である西園寺氏の全面的な味方といった感じでしたよ」
ここまで言うのは、流石に少し酷だと感じたのだろうか。赤城警部は身を引く時節を心得ているように、「それでは我々はこれで」と、海から潮が引く時のようにサッとテラスから去っていった。それから暫くの間があったのちに、ピシャリという音とともに窓が閉められ――翼と要はようやくのことで、欄干の上に顔を出したのだった。
「ふ~う。やれやれ。俺たちもここでは気をつけて話さないと、不用意な会話を隣人さんに聞かれちまうってことだな」
「そういうことだな。じゃ、なんにしてもとりあえず中に入ろう。色々と新しい情報も得られたし、それらをすべて総合的にまとめる過程で……全体像として何かが見えてくるかもしれない」
翼と要は、随分長い間(といっても、十分もなかったであろうが)身を縮こませていたせいで、すっかり強ばってしまった筋肉をほぐすと、テラスから室内へ戻った。そしてエアコンの温度設定をリモコンで二度ほど下げ、籐のカウチに並んで腰掛ける。
「まあ、盗聴器を仕掛けていた人間=西園寺圭を殺した犯人とは断定できないにしても……その可能性はあるってことか。さっきの赤城警部と西園寺紗江子の会話を聞いてて思ったんだけど、西園寺紗江子が嘘をついてるっていう可能性も結構あるんじゃないかな」
「ああ、俺もそれは思った。大体あの奥さん、こうなってくるとそもそも行動がちょっとおかしいって気がするもんな。ほとんど音楽祭のほうへ出かけるでもなく、俺たちの知る限り初日からずっと部屋に篭もりっぱなしでさ。誰か人が来たかと思えば、愛人と思しき男だったり、部屋でいつも何をして過ごしてるんだかって思っちまうよな」
「もちろん、隣の部屋の住人がいつも部屋にいて何してようと、僕らには関係ないといえば関係ない話なんだけど……僕が想像するには、彼女が音楽祭へ出かけていかないのはたぶん、エスコートしてくれるに相応しい相手が誰もいないせいじゃないかと思う。本当だったらね、夫なり息子なりがしょっちゅう部屋に出入りして、妻や母親のことを下にも置かない待遇でエスコートするもんだと思うよ。それで、「今夜の公演はどうだった?」とか、そんな話をするのが家族のあるべき姿なんじゃないかって気がする。でも、僕が見る限りというか感じる限り――隣の一家の関係っていうのは冷え切ってるんだろうね。西園寺紗江子自身は認めたがらないだろうけど、それはあの奥さんの性格に起因するところが大きいんじゃないかって気がする。<愛着>と<執着>っていうのはまったくの別物で、自分の妻なり母親なりが愛情ではなくただ執着してきたとしたら、男としてはただもう逃げたくなるばかりだろうし……で、その執着心の行き着く先が殺人であったとしても、僕はもうまったく驚かないよ」
「だよなあ。俺、思うんだけどさ、要。もし西園寺紗江子が夫の住まうバンガローに盗聴器を仕掛けた犯人だとした場合――きのうキャンプ場の駐車場にいた理由もわかるんじゃないか?ここからじゃとても、盗聴電波をキャッチするだなんて不可能だろうから、車の中で聴いてたっていう可能性が高い。俺らも、隣の部屋の動静なんて大して気にしてなかったけど、勝手ながら想像するにはさ、彼女の行動原理の中心は西園寺圭だったんじゃないかな。つまり、朝七時頃起きて、旅館の女性が持ってきた食事を食べ、それから身仕度して音楽祭へ出かける……まあ、プログラムを見れば、今夫はベートーヴェンの交響曲を指揮してる最中だろう、なんていうことがわかる。でも、問題はそのあとだよな。夫は音楽祭の曲目が終わったあと、バンガローで何をしてるのか。もちろん、明日やる楽曲の総譜を見てるのかもしれないし、疲れてすぐ眠ったという可能性もある。でももし、愛人に会ってたとしたら?ずっと部屋に籠もってそんなことばっかり考えてたら、そりゃ夜中に出かけていって車の中で盗聴電波聴くことにもなるって」
「ということは、現段階では、西園寺紗江子が夫を殺した容疑者の第一候補ってことになるか」
要は溜息を着くと、ガラステーブルの携帯電話に目をやった。彼自身にも経験があるのでわかるのだが、こういう時にはなるべくそっとしておいてもらいたいものだ。と同時に、気にかけていることを伝えるため、要はあとで美音に対し、何気ない電話をかけることにしようと思っていた。
「でもそうなると僕、西園寺さんが死んだことに対して、物凄く重い責任を感じるな。だから複雑だよ。もし僕がきのう、西園寺さんに会いにいかなかったとしたら――蛾の大量の群れにひるんで、ホテルに引き返してきていたら、彼は死なずにすんだかもしれないんだ。西園寺紗江子がもし夫殺しの犯人で、彼の部屋を盗聴していたのも彼女なら、僕と彼との会話を聞いて殺害することを決意したんだろうからね」
「うーむ。けどさ、要。警察だってそんなに馬鹿じゃないだろうから……西園寺紗江子が夫殺しの犯人だったら、彼女が捕まるのにそう時間はかからないんじゃないかって気がするぜ?なんでかっていうと、西園寺圭の奴は妻のことを邪険にして、自分の丸太小屋へは近寄らせなかったんだろう?にも関わらず、そこから彼女の毛髪が一本でも発見されたり、あるいは指紋が検出されたりしたら――明らかにおかしいわけだよな?それと、靴跡のこともある。要の靴を早速とばかり持っていったことを考えると、あの奥方のブランド物のパンプスだって当然持っていっただろうし」
「翼、よく彼女がブランド物のパンプスなんか履いてたって知ってるな」
「だから、きのうの夜エレベーターのところで会ったって言ったろ。俺はそこらへんのことには詳しくないけどさ、彼女みたいな女はシャネルだのグッチだの、そういう服にしか袖を通したりしないんだろうから、当然靴だってそうだろうなって話」
「パンプスって、大分踵の高い奴か、やっぱり?」
「うん。ヒールが十センチばかりあったと思う。あの踵で蛾の群れを踏んづけて歩いたとしたら、踏んづけられた蛾が可哀想で仕方ないって感じの奴。なんにしても、彼女が犯人だと仮定した場合――最初は盗聴目的のみでキャンプ場の駐車場へ行ったにも関わらず、要と西園寺圭の話を聞いて、夫を殺すことを決意したってことか。その場合はやっぱり、一旦部屋へ戻ってくることになるんじゃないかな。凶器がなんであるにしても、それを取ってくるためと、よりわかりにくい格好に変装して出かける必要があるからだよ。ああ、俺ほんと、きのう首藤朱鷺子の本なんか読んでないで、隣の様子にもっと耳を澄ませておけば良かった」
「いや、翼。もしかしたら彼女は犯人じゃないかもしれない」
要は突然、一条の光を見出したとでもいうように、飾り暖炉の上に飾られた、ゴルフコースの絵を見上げている。
「もちろんね――西園寺紗江子は夫の不動産の名義を自分のにすべて変えてるくらい、おそろしく抜け目のない女性なんだとは思う。でもね、それだって何も金銭的なことが問題ってわけじゃないんだよ。彼女が愛人を持つのも大体のところ同じ理由で、そうすることで<夫が苦しめばいい>っていうことが動機なわけだ。きのう、西園寺圭が自分の妻を評した言葉の中に、<本人は気づいていないようだ>っていう言葉がどこかであったと思う。さっき、赤城警部も言ってたよな?奥さんは気づいてないようだが、目立つ美貌を持つ人は、サングラスをかけたほうがより目立つ、みたいなこと。つまり、彼女は自分の気づいてないことでは、結構間が抜けてるんじゃないだろうか。黒づくめの黒い墓標みたいな格好をしてたほうがより目立つし、ヒールのカツカツいう音で、当然人も振り返って見るだろう……でも西園寺紗江子は自分では、それで精一杯目立たない格好をしてるつもりになってたんだよ」
「う~ん。でも、そこを逆手にとってっていうことはないか?」
「もちろん、当然ある。でも彼女の夫に対する恨みつらみっていうのは、殺して解決する程度のものじゃないんだと思う。彼女自身も言っていたとおり、じわじわ苦しめてやってこそ意味があるわけだから……なんにしても凶器はもしかしたら、これかもしれない」
要は立ち上がると、飾り暖炉の脇にあるインテリアとしての火かき棒を手にとった。そして以前翼がそうしていたように、それを五番アイアンに見立て、架空のボールを打つ振りをする。
「この場合、ナイスショットォッ!!とは、流石の俺にも言えない気がするな。なんだ?もしかして西園寺圭のバンガローには暖炉があって、火かき棒もその横にあったりしたってことか?」
「うん。もちろん僕にも確証はないけど、これで頭をぶん殴られた場合、一見してよくわからない刺し傷のような痕跡が残るんじゃないだろうか。つまり、僕が言いたいのはさ、翼――これは計画的な殺人じゃないってこと。もし西園寺紗江子が僕と西園寺圭との会話を聞いて、「絶対にあの人を殺してやるわ」みたいに思っていたとしたら……一度部屋へ戻ってきて凶器を持ちだす必要があるわけだろ?包丁でもなんでもさ。でもこの場合犯人は、氏を殺すつもりではなく出かけていったんだと思う。何かのことで話し合うためにね。で、それがなんなんのかはわからないけど、とにかく犯人にとっては許せないように感じられる発言が西園寺さんからあって――カッとなった時に身近にあった凶器が、火かき棒だったんじゃないかな」
「ふう~む。じゃあ、赤城警部が<凶器はまだ見つかってない>って言ってたってことは、犯人は凶器を持ち帰った……あるいは、夜陰に乗じて湖に捨てるか地中にでも埋めたってことか」
翼と要とは、それぞれの物思いに暫くの間耽り続け、先に翼のほうがソファから立ち上がると、次の行動へ移った。
「なんにしても俺、ちょっち音楽ホールとか野外音楽堂の様子を見てくるわ。建物の案内を見る限り、ホテルの出入り口ってのは、正面玄関と従業員が出入りする裏口、あとは非常口に厨房の勝手口といったところだろ?宿泊客が従業員の通用口から出たり入ったりしてもおかしくないのか、あと一番ありえそうなのが各階にある非常口だよな。地上から一階分階段を上がって二階へ行けば――フロントを通らずに二十階まで戻れるのかどうか、ちょっと試してみる。といっても俺は何も、西園寺紗江子犯行説に拘ってるってわけじゃないんだ。俺もさ、相手のことをマスコミを通してしか知らないのにこんなことを言うのはなんだけど……彼女が犯人ってのは、あんまりだって気がするわけ。だから、従業員の出入り口を通過するにはパスが必要とか、あるいは警備員が常駐してた場合、そこからこっそり戻ってくるのは無理ってことになるし、一応の可能性を全部試しておこうと思って。そんで、要のほうはどうする?美音ちゃんのことを慰めにいくのかベターって気が俺はするけど」
「まあね。そうしたいのは山々だけど……僕のほうはちょっと、西園寺圭の丸太小屋のほうへ行ってみるよ。もし警察関係の人がいたり、もっといいのは赤城警部がいることだけど、火かき棒のことを話してみようと思うんだ。もし僕が行った時にはあった火かき棒が現場からなかったら、それが凶器っていう可能性が高まるし、それがもしそのままあったら、凶器は別のものってことになる。じゃあまあ、お互い情報収集して戻ってきたら、バイキングで夕食にでもするってことにしよう」
「そいじゃお先。時司捜査官」
そう言って翼は、室内履きのスリッパから、スニーカーに履きかえて出かけていった。部屋を出ると、隣室のドア越しに人の話し声が聞こえ、思わず翼は立ち聞きしたくなったが――それでも耳に入った数語で、彼女がどうやらマスコミに向け、夫の死を語っているらしいとわかった。
彼女ひとりの話し声しかしなかったところをみると、おそらく電話で話をしていたに違いない。
(そっか。こうやって一度、少しばかり注意深くなってみると……俺と要の話してる声ってのも、結構外に洩れてるものなんだな。しかも、さっき外に出したワゴンがすでにないあたり、知らない間に従業員がやって来て下げたということだろう。推理小説なんかじゃこういう場合、意外な人間が犯人なものだけど、そう考えた場合、首藤朱鷺子殺しの犯人も西園寺圭殺しの犯人も、俺や要のまったく知らない誰かって可能性もあるわけだよな)
そんなことをふと考えつつ、要は三基並ぶエレベーターのひとつに乗り、まずは一階にある従業員の出入り口を探した。<関係者以外立ち入り禁止>といった札や、<Staff Only>といった表示を一切無視し、ホテル従業員の休憩室やロッカーの並ぶ廊下を通り抜けていくと――やはりそこには思ったとおり、警備員が常駐していた。他に、ホテルの色々な荷物の搬入口からも出入りが可能かどうかを翼は調べてみたが、こちらも常に警備員のチェックが必要であるとわかる。
そして、各階にある非常口についても、内側からロックを解除できても、一度ドアを閉めたあとは、外から開けることの出来ないオートロック式であることがわかったのである。
(ま、当たり前っちゃ当たり前の話ってーか、たぶんそうだろうとは思ってたけど、やっぱり思ったとおりだったな)
西園寺圭が殺されたのは、真夜中のいわゆる丑三つ時である。そんな人のいない時間帯では、いくら目立たないよう変装したところで、フロントの人間の目をごまかすことは不可能だったに違いない。
(それとも、夫を殺したあと、湖の周辺にある林の中に車を止めて、朝になるのを待っていたという可能性もあるか?でもなあ、あの奥さんがそこまで根気強いことをしそうには俺には思えないんだよな。なんにしても、西園寺圭の前にまず、首藤朱鷺子殺しの犯人を探した場合、消去法でいったとしたら、次は……)
翼は<南沢湖クリスタルパレス>の正面玄関から出ると、マスコミの車両やカメラ、リポーターの姿をなるべく避けるようにして、白樺林の小道へ向かっていった。
時刻はちょうど二時三十分である。お昼のワイドショーでは一体、この西園寺圭の殺害事件はどのように報じられているのか……この時翼はつくづく、自分がただの一般人であることが有難いように感じられてならなかった。
(それとも、部屋でテレビをつけて見ていたほうが、警察がどのくらいのことを掴んでいるのかがわかって良かっただろうか?なんにしても、音楽祭のほうは今日は中止だろう。そして今後のことをどうするのかといった話し合いが、今ごろ主催者や楽団員のメンバーたちでなされてるんじゃないだろうか)
翼自身は、妖精などといった存在を信じるつもりはないが、それでもここの白樺林は、特別に空気が清涼で澄んでいる気がしていた。きのうの夜に感じた魔法が、昼間になったら消えてなくなったということではなく――人間の目に見えるものが変化したというだけで、そこここに変わらず<魂の美>の気配が漂っているのを感じる。
(そういや要の奴は、それを他の人間にも見える形、わかる形に絵で通訳するのが自分の仕事だとか言ってた気がするな。おそらく西園寺圭は音楽で同じことをやっていたのかもしれない。西園寺紗江子の言っていた並の凡人になぞわかるまいという言葉はたぶん……自分の敵は最初から人間の女などではないと言っていたのは、そういう意味合いのことだったんだろう)
翼が誰にも出会わずに白樺林を抜け、野外音楽堂へいってみると、そこもまた無人であり、翼はなんだか意外な気がした。翼自身の予想では、野外音楽堂や音楽ホールには西園寺圭のファンが押しかけ、今ごろ涙ながらの集会が行われているのではないかと想像していたからである。
(なんだろうな。もしかしてこのあたりは俺が知らないってだけで、今立ち入り禁止区域になってたりするんだろうか?)
見ると、すぐそばにある売店も<ミッシー食堂>にもシャッターが完全に下りており、近くに人の気配は一切なかった。けれども、翼がそこに誰もいないことに対し、奇妙な満足を覚えて舞台のあたりをうろついていると――出し抜けに、舞台の後ろのほうからけたたましい音が響いてきた。
翼の聞き違いでなかったとすれば、それは間違いなく銅鑼の音で、翼は不思議な気持ちになるあまり、ペパーミントグリーンに塗られた木造の舞台裏へ回ってみることにしたのである。
(ふうん。舞台の後ろ側っていうのはこんなふうになってるのか)
正面からは見えない形で、控え室や舞台に使うための道具類がしまわれた物品庫がそこにはあり、翼は芝生を踏みしめながら、その物品庫のひとつに頭を突っ込んでいる人物のほうへ近づいていった。
「あの、今日の午後の舞台は中止ですか?」
翼にしては珍しく、遠慮がちにそう聞いた時――銅鑼の次にシンバルを叩いていた人物は、くるりと翼のほうを振り返り、一瞬とても不思議そうな顔をした。
「マスコミ関係の方ではなさそうですが、何か僕に御用ですか?」
「いやまあ、正直俺はオペラになんかまるで興味ないんですが、きのうの舞台を見て「ちょっといいな」と思った矢先に、どうやら音楽祭は中止ってことになるのかと思ったもんですから……」
翼がそう言うと、相手のほうでは、翼の頭の先から足の爪先までをまじまじと見返して――また少し不思議そうに小首を傾げていた。
「惜しいですね。あなたがもしオペラ歌手だったら僕は、すぐにも主役に抜擢していますよ。昨今ではオペラも、実力よりビジュアル重視の風潮が強くて、多少実力不足でも容姿が良ければね、舞台へ上がれるチャンスが結構あるもんですから」
今のこの相手の一言で、翼は彼が誰なのかがわかった気がした。西園寺圭や、他の有名な出演者とは違い、彼の顔写真というのはプログラムに一切載っていなかったが――おそらく彼こそが、西園寺圭と西園寺紗江子の息子に違いなかった。
今度は翼のほうこそが、思わず彼のことをまじまじと見返す番であった。何よりもまず、翼が真っ先に思ったのが、彼が父親にも母親にもまるで似ていないということだった。麻薬で逮捕された時には未成年であったため、マスコミの出す顔写真には常にモザイクがかかっていたが、おそらく大抵の人があの美男美女の息子であるからには、なかなかの容貌をした少年に違いないと想像したに違いない。
西園寺翔は決して醜男ということもなく、中肉中背で、人好きのする目鼻立ちをした青年であった。肌の白さは両親譲りといった感じがするものの、父親のように日本人離れした輪郭や鼻の高さ、瞳の大きさといったものは有しておらず、また母親のように華奢でもなければ繊細な印象を人に与えることもなく――どこか大雑把で、ざっくりとした顔の作りをしている。ようするに簡単に言うとすれば、見る人に好感を与えはするものの、あまりにも普通といった印象を、この時翼は受けていたのだった。
「ああ、僕、両親のうちのどちらにも似てないんですよ」
翼の視線の言わんとするところを察したように、西園寺翔は笑って言った。
「べつに、そのことを特にコンプレックスに感じてもいませんけどね。ただ、母はおそらくがっかりしたろうとは思いますよ。大きくなったら自動的に、モデルにでもなれるような容貌の子に僕が成長すると思ってたらしいですからね。しかもこれといった才能もなく、十代の頃には刑務所に入るような事件を起こすし……母にとって僕は、今でも頭痛の種といったところかもしれません」
この時翼は不意に、赤城警部が彼のことを評して「あっけらかん」と言っていた言葉の意味がわかった気がした。父親が死んだばかりだというのに、西園寺翔からはまったく「悲しみの気配」のようなものが伝わってこず、また、仮に相手が警察であれマスコミであれ、今とまったく同じような調子で家族のことを話すのだろうという気が、翼はした。
「偉大なご両親を持つと、何かと大変ですね」
翼はあくまでも何気なくそう言ったつもりだったのだが、西園寺翔は、まるでその言葉の裏に魔術的な響きでも感じたように、再び翼のほうをまじまじと見返してくる。
「いえ、失礼。なんとなく今ふと、父や母もあなたのような容貌の息子が欲しかったのだろうなと、ぼんやり思ったものですから。まあ、舞台監督などと言っても、僕にはもともとこの種の才能なんて何もないんですよ。親父の口利きというか、父親の七光りで続けているってだけの話でね」
(いや、それだけではないだろう)ということが、これまでの短い会話だけでも、翼にはわかる気がした。西園寺翔には特にこれといったオーラが何もない――けれどそのかわり、人は誰も彼に対してなんの警戒心も抱かないだろうと翼は感じていた。簡単にいうとすれば、どこか打ち解けてリラックスできる雰囲気が、彼には常時漂っているということだった。
「どうでもいいことかもしれませんが、俺、西園寺紗江子さんの隣のスイートに宿泊してるんですよ。べつに聞き耳を立てるつもりはまるでなかったんですが……彼女は夫殺しの容疑者として疑われているようですね。友人とテラスに出ていたら、偶然そんな話を彼女が警部さんとしていたものですから」
翼は一か八かと思い、思いきってそう踏みこんでみた。西園寺翔は翼が思ったとおり、顔色を変えるでもなく、どこかきょとんとすらしている。まるで、昨晩死んだのは自分の父親ではなく、また夫殺しの嫌疑をかけられているのも自分の母親ではない、とでも言いたげだった。
「まあ、予想はしていましたよ。僕のところにも刑事さんが来ていましたから。父のことを恨んでいる人物に心当たりはないかと聞かれましたが……まあ、母は父のことを恨んではいるにしても、殺すことまではしないだろうと答えておきました。あとは、この音楽フェスティバルの主催者と次の後継者のことで父は揉めているとも話しました。でもそれだって、父を殺してしまえば元も子もないわけでしょう?ついでに、父が指揮者のギレンスキーを推しているにも関わらず、主催者側はラインハルト・ギルトヴィッヒを後継者として選びたがっている……といった話もしましたが、刑事さんというのは、おそらく生まれつき疑い深い人種なんでしょうね。音楽祭の次の後継者の椅子欲しさに、ギレンスキーかギルトヴィッヒが父を殺した可能性はあると思うかと、こう聞いてきました」
ここまで話してから、足許に敷かれたすのこを足で叩きつつ、西園寺翔は大笑いしていた。その笑い方は、赤城警部が要のことを疑う言葉を発した時に、翼が大笑いした声の調子に似ている。
「まさか、こんな日本の一地方の音楽祭の監督になったところで、彼らに一体なんのメリットがあります?今だって彼らは父に頼まれて、いわば慈善の精神でこの音楽祭に参加しているに過ぎないんですよ。僕はこうしたことを刑事さんたちに説明してから、もし彼らが父を殺すとしたら、音楽監督の椅子欲しさではなくて、父のスパルタ式の厳しさを恨みに思って殺害するということのほうが、パーセンテージとしては若干高いでしょうねと答えておきました。しかも、ほんの十パーセントもあるかないの、低いパーセンテージだとは思いますが、と」
「そうですか。実は俺の同室の友人が、西園寺氏を殺害した容疑者として疑われているもので……それでつい、立ち入ったことを口にしてしまったんです。俺も、西園寺夫人が夫を殺したようにはまったく思いませんが、それでも何度か、ご夫妻が言い争っている声を寝室で聞いたもんですから。もっとも、なんのことでそんなに言い争っていたのかは、まったく聞き取れなかったんですが……」
翼がここまで話すと、西園寺翔はどこか天真爛漫といった顔に、興味深げな光を宿し、物品庫のドアを閉めて鍵をかけると、シャッターの下りている売店のほうを指差した。
「まあ、こんなところで立ち話もなんですから、向こうのベンチにでも座って、ジュースでも飲みましょう」
西園寺翔に言われるがまま、翼は売店の前にあるベンチに腰かけると、彼に奢ってもらったメローイエローのジュースを飲むことにした。西園寺翔のほうは、マウンテンデューの缶ジュースを手にしている。
「あなたの友人というのはたぶん、画家の時司さんのことでしょう?僕も面識があるわけじゃないんですが……父が彼の絵を音楽ホールのロビーから外させたと聞いたものでね。といっても、こんなことについて僕は父に「どうしてそんなことを」と言ったりは出来ないので、単に村雨館長がブツブツ不満を洩らしているのを聞いたってだけなんですが。それで、時司さんは父にそのことで話をしにいったということですか?」
「いえ、要の奴はそんなことを気にするような小さい奴じゃないんで、全然別の件で昨晩、西園寺さんを訪ねていったんですよ。なんにしてもその翌日、彼は殺されて発見された……まあ、前日訪ねていった人間があやしいということになるのも、無理からぬ話かもしれません。ところで、息子さんのあなたから見た場合、西園寺圭という人間は、どんなふうに映っていたのか、聞かせていただいても構いませんか?」
今、自分のすぐ隣に座る男が犯人であるという可能性も、十分にありうる――そう思い、あたりに人の気配がまるでないことが、翼は急に気になりだしていた。だが、翼が白樺林を通ってきた時に誰もいなかったのは、ただの偶然だったらしく、今では舞台前の芝生を横切っていく人影が、ちらほらと見えるようになっていた。
「そうですね。僕も明日あたり、マスコミの前でそのあたりのことを話さなければならないでしょうから、練習しておいたほうがいいんでしょうね。今、音楽ホールにある会議室のほうでは、マスコミの報道なんかを分析したのちに、この音楽祭を中止するか否かの決定をすることになってるんですよ。楽団員たちも、父と交流のあるピアニストもヴァイオリニストもオペラ歌手もみな――打ちのめされていますが、僕は音楽祭を続けることこそが父の遺志だろうといったように、みんなには伝えておきました。まあ、べつに中止になったとしたら中止になったで、僕自身はまったく構わないんですがね、そうしたほうが父が喜ぶだろうなと思ったものですから……」
ここで数瞬間を置いたのちに、西園寺翔は再び現実に引き戻されたといったように、ハッとしていた。
「ああ、そういえば、僕が父のことをどう思っていたかという話でしたよね。父は偉大な人でした……というのは、僕が明日マスコミに語らなければいけない言葉であって、本音は少し違うんですよ。僕は、あんなに偉大な父親は欲しくなかった、というのが、僕の息子としての本音です。父という人は、小さい頃からほとんど家に居着かない人でしてね、それで僕が不幸だったかというと、そんなこともなく――ただ、にも関わらず、僕が生まれ育った<家庭>というのは、とにかくひたすらに不幸でした。僕のおふくろという人は、息子の僕のことなどほとんど頭になく、僕が物心着いた頃にはすでに、父に対する激しい嫉妬や怒り、復讐心といったものだけで100%頭をいっぱいにしているといった感じの女でしたよ。そこで気晴らしにショッピングをし、着飾ってくだらないパーティに出席するといったような、薄っぺらな毎日を送るしかなかったんでしょうね。僕のことを実質的に育ててくれたのは、家に雇われていた家政婦だったんです。一度も結婚したことがなく、男ともつきあったことのないような女でしたが、とても母性愛の強い人で、僕は彼女のことを実の母より愛していました。僕がもし母に感謝しているとしたら、母が彼女に対して変に意地悪するでもなく、僕と彼女が仲良くするのを放っておいてくれたことくらいでしょうかね。でも母親がわりの彼女が十五歳の時に亡くなって――心にぽっかり空洞のようものが空いた気がしたんですよ。それから悪い連中とつるむようになり、煙草や酒をのみ、やがて麻薬に手をだすようになって、警察に捕まるところまで転がり落ちたわけです。でもまさか、自分の両親にここまで迷惑をかけることになるとは、当時は思ってもみませんでした。特に父親に対しては、申し訳ない気持ちでいっぱいだったんですが、まさかあの誇り高い父が、刑務所の面会室まで定期的に会いにきてくれるようになるとは思ってもみませんでしたね。それに「おまえはなんていうことをしてくれた」とか、「親の顔に泥を塗りやがって」といったことも、父はまったく口にしないで、ただ「元気か」とか、「こんな辛気くさいところにいたら、頭がおかしくなるだろう」といったような話だけして帰ったんです。僕はね、嬉しかったですよ。あんな場所におよそ似つかわしくない人が、ただ「会いにきてくれた」っていうだけで……出所したあとはもう、何がなんでも立ち直ろうと思ったし、父のツテで有名な舞台演出家の方の弟子入りをして、これもまた父のコネで今のような仕事をしているっていう、そんな感じですね」
西園寺翔は、翼に対して話をしているというよりも、どこか自分自身に言い聞かせているかのようだった。もちろん、マスコミの前ではとにかく父親の偉大さのみについて涙ながらに語らねばならないだろうし、これから異常なほど体面を気にする母親とも、とりあえず<表面的>には協力しあい、父の葬儀を執り行わなければならないのだろう――翼は、そんなふうに思いながら西園寺翔の話を聞いていた。
「その、こんなことを聞くのは失礼かもしれませんが……西園寺紗江子さんは料理がお上手なんじゃないですか?前に一度、部屋の中から家庭的な料理の匂いがしてきたことがあったので、そう思ったというだけの話なんですが……」
それがどんな自己中で我が儘な母親であっても、ひとつくらいいいところがあるのではないかと思い、翼は何気なくそう聞いてみた。
「ははは。僕のおふくろという人は、潔癖症というくらい綺麗好きで、料理もよくできますよ。もっとも部屋の掃除なんかは家政婦にやらせて、自分はトイレ掃除なんか絶対しませんでしたがね。ただ、部屋のインテリアを理想的に飾ったりとか、そうした演出をするのは非常にうまいんです。そして料理のほうも作りますよ。唯一、父が帰ってくるという時だけはね。わかりますか?母のこの<演出力>のお陰で――父はてっきり、母が息子のことをうまく育てているに違いないと長いこと錯覚していたんです。僕にとっての父という人は、時々帰ってくるおそろしい人といったイメージだったので、話しかけられても会話が長く続かないといった感じでした。でもその後、あの母が間に挟まっていたせいで、僕と父との関係はうまくいってなかったということに、お互い気づくようになったんです。そんなわけで、僕は母に対して侮蔑的な態度しかとれませんが、それでも唯一哀れみの情だけは持ってるんですよ。自分自身のことと、父に対しいかに復讐してやろうかという二本柱だけで生きているような女ですからね――ある意味、僕はこれから母のことがとても心配です。自分の全生涯をかけて執着してきた男が死んだんですから、もう母にはなんの生き甲斐も残ってないでしょう。父が死んだから、これで安心して愛人と一緒になれるとか、母はそんな<健全な>精神の持ち主ではないのでね。また、いくら金があってもまったくなんの癒しにもなりません。本当に、これ以上もなく哀れな女ですよ」
「それでも、西園寺紗江子さんにも、母として妻として、少しくらいはどこかいいところがあったんじゃないですか?」
翼は、自分でも何故、そんな質問をしているのかわからなかった。すると、西園寺翔はいかにも不思議そうな顔をして、翼のほうを見返してくる。
「その、俺も母親のことは今もあまり良く思ってません。俺が医大に入ることが、自分の人生の最大使命といった感じの女だったので……それでも、あの時は母親らしくああしてくれたとか、こうしてくれたといった記憶はあります。それに、ある意味やはりあなたのお母さんも被害者だったのでありませんか?偉大な才能を持つ夫の……」
「いえ、僕にもあなたのおっしゃることはよくわかりますよ。でも、僕の母の本性については、僕と父にしかわからないことなんです。たとえば、僕が実の母以上に母親として慕っていた女性は、一度も男と接触したことがありませんでしたが、生来の母性愛に満ち満ちているような、そういう種類のいい女でした。ですが、僕の母という人は逆なんですよ。子供を生んだあとも母性といったものがまるで芽生えず、それは夫のせいだ、すべて夫が悪いんだという理論で生きているんです。その後も何か不都合なことが生じると、そもそも夫が……してくれなかったからという理論に常に立ち戻るというね。母はたぶん、父と結婚したことで一生治らない病気にかかったともいえると思います。そういう意味で、本当に哀れで不幸な女ですよ」
「……………」
翼はここまで西園寺翔の話を聞いていて、そもそも自分が彼からどういった情報を得たかったのかを忘れてしまった。名前も名乗っていない自分にここまでのことを話すからには、おそらく彼はいずれ、西園寺圭の悲しみが世間である程度静まった頃にでも――こうしたことをマスコミの前でも流暢にしゃべるのではないかという気がしてならない。
そしてそのことが何よりも、あの異常なまでに体面を気にする西園寺紗江子という女への、彼なりの復讐法なのではないかという気がしたのである。
「そういえば、先ほどオペラにはまるで興味がないとおっしゃっていた気がしますが……にも関わらず何故、こんな辺鄙な町の音楽祭へなどやって来たんですか?」
つい自分のことばかり話してしまった、というように、栗色の髪をかきながら、西園寺翔は照れたように笑っていた。
「友人の……というか、要の誘いで来たんですよ。俺はつい最近まで救急救命医をしていて、五年ほど勤めていた病院をやめたばかりだったので。彼なりにその仕事の労をねぎらってやろうといった感じで、この音楽祭に誘われたというか」
「そうだったんですか。僕もテレビのドキュメンタリーで見たことがありますが、大変なお仕事ですよね。正直、僕は今も迷いの中にいます。父のように魂のすべてを賭けてこの仕事に打ちこもうとか、そんなふうにまでは思えないと言いますか……いえ、仕事自体はとても面白いんですよ。あの西園寺圭の息子ということで、人はみんな僕のことを敬ってくれますし。でも時々、自分は結局裸の王さまなんじゃないかっていう気のすることがありましてね。本当はみんな、僕に舞台演出の才能なんかないとわかっているのに――色々と気遣ってくれてるだけなんじゃないかという気のすることがあって……」
「それは、ないんじゃないですか」
この点についてだけは、翼は何故かきっぱりと断言することが出来た。
「俺も、お宅のお父さんのことは、マスコミで知ってるだけですが……音楽のことに関しては、随分厳しい方だそうですね。そしてきのうの舞台は、素人の俺の目から見てさえ素晴らしいものでした。それに俺が思うには、ずば抜けた才能よりも、舞台の演出家には人とのコミュニケーション能力のほうが大切な部分があるんじゃないんですかね。西園寺氏は音楽の才能については天才的なものがあるかもしれませんが、そういう部分では人間としてどうかって人ですよ。たぶん、俺が思うには、お父さんとあなたとでは才能の授かり方が真逆だったんじゃないかって気がします」
たった今、短い間話してみて感じた印象を、翼は何気なく口にだしていた。すると、西園寺翔のほうでは何故か、「それこそが自分の言ってもらいたかったことだ」というように、ある種独特な顔つきで翼のほうを見返してきたのである。
「ああ、すみません。俺、そろそろ行かないと」
このまま、もう暫く西園寺翔と話を続けていたほうが、もしかしたら翼は自分が得たいと思っていた情報を得られたかもしれないのに――相手からふと<その種の気配>を感じて立ち上がった。その種の気配というのはようするに、このまま隣に座っていたとしたら、手を握られるのではないかということだったのだが……メローイエローの缶を屑籠に放り投げると、(そういうことか)と翼は妙にひとり、納得していた。
自分のことを頭の先から足の爪先まで見つめてきた独特な目つきや、また普通なら初対面の相手に対し、ここまでのことは話すまいということを口にしたのも――ようするにそういうことだったのだと、翼の中では妙に納得がいく。
(もし、これからまた西園寺翔に事件のことで何か聞きたいと思ったら、要の奴を彼に会わせるのがベターだな。あいつ、おかまとかゲイ連中の相手をするのは超一流だから)
翼はこの時、頭の中で、果たして西園寺翔が父親を殺した可能性というのはパーセンテージとして何%くらいになるだろうか、などと考えながら<南沢湖音楽ホール>へ向かったのだが、そこがホテルの前とは比べものにならないほど、マスコミの群れで埋め尽くされていることに驚いた。
(そうか。西園寺紗江子の宿泊しているホテルより、こっちのほうがよっぽどメインってことなんだな)
色とりどりの花の植わった音楽ホールの前庭には、テレビカメラを構えるカメラマンや、マイクを持ったリポーターの姿が多数あり、翼はこの強固な陣営の波を乗り越えてまで、音楽ホール内の様子を見てこようとは思わなかった。そこですぐ引き返したわけだが、売店のベンチにはすでに西園寺翔の姿はなく、今度は銅鑼の音もシンバルの音も何も聞こえてはこなかったのだった。
>>続く……。