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第1章

 結城翼はその夜、夢を見ていた。


 薄青いインクを流したような水の中を泳いでいると、向こうから巨大な恐ろしい生物がやって来る気配が感ぜられ、思わずその通り道を開けようと体を反転させようとする。


 だが、巨大な体躯に似合わず、体長がゆうに七~八メートルはありそうなその化け物は、翼が考えていたよりずっと敏捷だった。


 ちょうど脇すれすれのところを化け物が通過した瞬間、相手のおぞましい思念のようなものが伝わってきて、翼はぞっとした。


 この、体の中央に青い眼のある、イカのような生物には、人間と同じ知能が――いや、あるいは人間よりもさらに優れた知能が備わっているのだとわかり、翼はとにもかくにも一目散に泳いで逃げようとした。


(あんなものに捕まっちゃ、俺の人生はおしまいだ)


 そんな焦燥にかられるものの、泳ぎ自体のスピードとしては、向こうのほうが圧倒的に優位であり、翼はついにはこむらがえりを起こして、薄青い海の底へとゆっくり沈みはじめた。


 その間も、化け物の猛追をかろうじて体をひねることにより、何度となく交わし、ついにはしつこい化け物のほうでも、「こいつは暗い水底で気の毒にも死ぬ運命なのだ」ということがわかったのであろう。


 巨大なイカに似た生物は、不気味なくらい青い瞳で最後にじっと翼のことを見つめ、あとは彼が沈んでいく姿を静かに見守っていた。


(ああ、俺、たぶんきっとこのまま死ぬんだな)


 だがまあ、それも悪くない――翼はそんなふうに思いながら、真っ暗な虚無の孤独なあぎとの中へと、ゆっくり吸いこまれるようにして消えていった……。



 目が覚めた時、夢の中でと同じように、部屋の中は薄青かった。


 ブラインドの隙間から、真夜中の街の光が微かに流れてくるため、翼は自分の寝室内で<完全な闇>のようなものは経験したことがない。


「しっかし、おかしな夢だったよな」


 微かに寝汗さえかいていることに気づいて、翼は苦笑した。


 それからナイトテーブルの煙草に指を伸ばして、一本吸いはじめる。


 枕元には、ブロンドの髪の女と、彼女から漂う微かな香水の香りが存在していたが、翼はまるで彼女がいることを無視するように、自分の考えごとに没頭していた。


 ブロンドの髪の女、などといっても、本物の外国女というのではなく、単に黒い髪をそれっぽく染めているというだけの話であった。


 翼は彼女の名前を思いだそうとして思いだせず、それからはもう自分が今見た夢のことだけを考えていた。


 いや、煙草の煙をくゆらせながら、翼が考えていたのは夢に何かの解釈を与えようとしてのことではなくて――そういえば以前も、似たような夢を見たことがあると、ぼんやり思いだしてのことだった。


 その時翼は、夕暮れ時に丘の道を歩いており、右手には何か棒切れのようなものを握っていたと記憶している。そしてそれを指揮棒のように振りまわしながら、良い気分で散歩していたのだ。自分の人生は上場で、これからもきっといいことがあるに違いないと、なんの根拠もなく信じながら歩いていると、突然脇の草原から、巨大な獣が現れたのである。


 夢の中でその時感じた恐怖といったら、まったく言葉に尽くせぬほどであった。もしそのままその獣に押し倒され、喉を喰い破られたとしたら、現実の自分の身の上も危うかったのではないかと思われるほどである。


(だが所詮、あんなものはただの夢だ)


 翼はそう結論づけると、これもまた名前の思いだせない女のくれた灰皿で、煙草を揉み消し、金髪の女の首筋に口をつけて眠った。


 こういう時、とにかく誰でもいいからそばに人がいてくれるのはいいものだと、翼はそう痛感する。仮にその相手が、酔っていた時に知り合い、名前すら思いだせないような価値の女であったとしても。



 翼には、きのう見たような不思議な夢を見ることが、時たまあっただけでなく、彼にとっては自分が何故ああした夢を見るのかについても――とっくの昔に解答が出ていた。


 結城翼は、とある有名医大病院で、救急救命医をしている。


「おまえなぞ、救急救命医でもしていないことには、人間としてはただのクソ、男のクズだ」と、先輩医師から言われ続けて、一体何年になるだろうか。


 なんにしても翼はその日も、夕方から病院に詰め、医師や看護師たちの緊張感を煽るためなのかどうか、黒電話がけたたましく鳴り響くたびに、自分があるべきポジションにつき、患者たちの診察に当たっていた。


 絞扼性腸閉塞の患者の緊急手術をしたのち、脳梗塞の急患を脳外科の夜勤医にまわしたり、あるいは異物を飲みこんだ幼児の診察や処置をし(というのも、この日は小児科の医師が誰もいなかったため)、はた迷惑な自殺患者の経過を見守り、さらには交通事故で運ばれてきた血だらけの人間の命をどうにか取り留め……こんな日常を送っていれば、おそらく時たまおかしな夢を見ても変ではないだろうと、そんなふうに翼は分析している。


 夕方から、翌朝にかけて、あるいは真昼になるまで、時には夜勤のあとにそのまま日勤の業務に就くような生活を送っていれば――過重なストレスが蓄積するあまり、また日ごろから人間の<死>や<苦痛>といったものと隣接した生活を長く送っていれば、あの種の夢を見たとしても、大して驚くべきことではないと、そんなふうに翼は感じていた。


 なんにしても、比較的何事もなく無事終わったといえるその最終勤務日、翼は小っ恥ずかしくも、看護師たちに花束なぞ手渡され、医師仲間からは「ご苦労さん!」とか「ご苦労さまでした、先輩」といった声かけをされながら、拍手ともに救急病棟をあとにしていた。


 病院の地下にある、着替えのためのロッカールームで白衣を脱ぎ、またその下に着た緑色の術着を脱ぎ捨てると、クリーニングの容れ物に投げ入れ、最後にロッカーのネームプレートを外し、翼は挨拶がてら事務室までそれを持っていくことにした。


 そこでも大いに退職のためのねぎらいの言葉をかけられ、(やれやれ。面倒くさいな)と思いながらも事務長に挨拶し、そして最後に院長室へも翼は赴かねばならなかった。


 何故といって、この大学病院の院長は翼の父の同期であるだけでなく、彼の専門の科(外科)のトップに立つ人間でもあったからである。


「次の職はもう、決まっておるのかね」


 毛織の絨毯の敷かれた応接室に通されると、医療秘書が茶を運んできた。


 翼は(なるべく早く話を切り上げたいんだがな)と思いながらも、(まあ、これで最後なんだから)と自分に言い聞かせ、どうせならコーヒーが飲みたかったなどと思いつつ、緑茶に口をつけていた。


「ううむ」



「特に、決まってはおりませんが」

 蓮水院長もまた、節くれだった浅黒い手で茶碗を掴み、苦虫を噛み潰したように眉間に皺を寄せ、茶をすすっている。


「最初に君が退職すると聞いた時――私は自分の出来る限りのことはなんでもしようと言った気がするんだがね。確か、図書室で偶然会った時のことだったと思うが」


「ええ、覚えています。俺は繊維筋痛症の症例についての本を探していて、院長先生が見つけてくださったんです。緊急の患者だったんですが、俺は相手の症状がそれとわからなかったもので……自分の不勉強をつくづく恥じていた時のことです」


(嘘つけ)というような眼差しで見返され、翼は思わず唇の端で笑った。


 夜勤を無事終えたあとというのは、脳がどこかハイテンションになっていて、時々自分の顔の表情をコントロールするのが難しくなる。


「結城君、君はこの五年、実によく働いてくれた。大学病院を卒業後、すぐに研修医としてこちらに来たにも関わらず……新米の医師とは思えないくらい飲みこみも早く、あっという間に職場の雰囲気にも馴染んでしまった。みんなも実に残念がっていたろうね。何しろ救急病棟のムードメーカーといっていい医師が退職したわけだし、若い看護師の中には泣いてる子もいたろうね」


(随分、情報が早いな)


 そう思いながら翼は、先ほど病棟から見送られた時のことを思いだしていた。正確には、むしろいじめ抜いてしごいてやったといってもいいくらいなのだが――その若い看護師は翼のどのような意地悪な言動にもめげず、最後までついてきたようなところがあった。


「まあ、救急救命医というのは、他の科と違って十年も二十年も続けられるような場所ではないからね。君が辞めるのは仕方ないことなんだが、何故まわりのコネクションに一切耳を貸そうとしないのか、そこのところが不思議でね。君と仲の良かった先輩格の茅野君などは、今K病院で外科部長をしておるし――その他にも、紹介のつては色々あったろうに」


「べつに俺、このまま救急救命医として、十年でも二十年でも働き続けられますよ」


 漆塗りの茶受けに、葡萄の描かれた茶碗を置きながら、人から見ても感じが悪いだろうと自覚している微笑をもって、翼は答えた。


「院長先生もご存知のとおり、俺、負けず嫌いな上に生意気なんです。だから常に上とはぶつかり通しだし……うまく胡麻をすったりとか、そういう能力にもまったく長けてません。だから、これからも一匹狼でやっていくしかないんですよ」


「ということは、父上の病院を継ぐということかね」


 頭が痛いというように、蓮水院長は額に手を当てて言った。


「いいえ、違います。何も親父のような、地域に密接した町医者で終わりたくないとか、それこそそんな生意気なことを思ってるわけじゃないんです。ただ俺、気づいちゃったんですよ。『あ、俺って医者に向いてねえ』って。それまでもなんとなく薄々は気づいてたことなんですが……どうにかうまく自分の心を誤魔化しとおして、これまでやってきたんですよ。なんていうのかな、他者に対する共感性に乏しいっていうんですかね。俺、自分の担当した患者が死んでも、悔悟の念に駆られたことって一度もないんです。たぶん、自分の手術ミスで患者が死んでも、それほど悩まないでしょうね。極端な話、自分が死ぬまでに千人の患者をもし救ったら、その犠牲のような形で数人が不幸にも亡くなったとしても――ま、いいんじゃねえの、とか思ってるんです。流石にヤバイでしょう、これは医者として」


「まったく君は、もっと本音をオブラートに包んで話が出来ないのかね」


 蓮水院長は苦笑しながら茶を飲み、また同時に目には翼の話を面白がるような光をたたえて、溜息を着いていた。


「なんにしても、気が変わったらいつでも、私のところでも茅野君のところでもどこでも、電話しなさい。君はそういう性格だが、腕がいいというのは確かだし、その才能を埋もれさせてしまうのは勿体ないと思うからね。さてと、そろそろ私も回診があるのでいかねばならないが……お父さんに、よろしく伝えてくれたまえよ」


「はい」


 それからも、翼は実際に病院を出るまで――何人もの医師や看護師、あるいは医療関係者に声をかけられるあまり、かなりの時間を要した。


「花なんか持っちゃって、どうしたんですか、先生。もしかしてこれからデートですか?もてる男は大変ですねえ」


 エントランスのところでモップがけをしていた掃除婦にそう言われ、翼は手にしていた花束を、その掃除のおばさんに手渡すことにした。


「もらいものなんだよ。だから、自分で買ったわけじゃないんだ」


「あらまあ、嬉しいですね、先生。あたし、主人からだって花なんかもらったこと、一度もないですよ」


 翼はこの時、五十絡みの掃除婦の、白髪の混ざった頭髪を眺めながら――ふと、自分の母親のことを思いだしていた。彼女ならばおそらく、不特定多数の人間が使用した便器を磨くなど、想像してみたこともないだろうと、そう連想する。


 医師免許を持った時から、いや、医学生になった時から、翼は周囲の人間が尊敬の眼差しで自分を見ることに慣れていたが、本当に偉大であるべきなのは、ひたすら無心に汚れたものを磨けるような人間だろうと、そんな気がしてならない。


 なんにしても、手に持っていた邪魔っけな花束がなくなってほっとするのと同時、駐車場にとめてある黒のシトロエンの中から、翼は自分が唯一親友と呼んで差し支えない男に電話することにした。


 そもそも、この左ハンドルの高級車にしても、翼自身の趣味で購入したものではなく――彼から<もらった>ものだった。


 勤労上のすべての義務から解放された今、翼の心は、いや魂はといっても良かったが、とにかく解放感に満ち満ちており、二十四時間以上眠っていないにも関わらず、これから一騒ぎしたいような気分ですらあったのである。


「おう、要か?俺だよ、俺」


『俺って誰だよ』


 携帯電話の向こうから、くすくすというような忍び笑いが洩れてくる。女の声だった。


「もしかして、取り込み中か?だったら、また電話し直すよ」


『いや、違うさ。いつもどおり、モデルを相手に絵を描いてたってだけだ。ただの道楽だよ』


「何をおっしゃいますやら、時司ときつかさ画伯。日本画壇の寵児とも称せられる方のお言葉とは、とても思えませんな」


『そう担ぐなって。それより、どうした?僕からいつも電話すると、沼の底から聞こえるような声でしゃべるおまえが――今日は声色も明るく、浮き浮きしてるって感じだ。何かいいことでもあったのか?』


 翼は黄信号の交差点に突っ込んで右折するのと同時、携帯を持つ手を変えた。


「何もないさ。単に仕事を辞めたってだけ。ヒャッホー!!ホッホウ!!」


 翼の尋常でない叫び声が聞こえたせいだろう、受話口の向こうから、再びくすくすと笑う女の声が響いてくる。


『なんだ?とうとう医療事故でも起こしたのか?それで裁判になって、立場上泣く泣く辞めるってことに……』


「そう話を作るなって。なんにしても、近いうちに会おうぜ。暫くの間は俺、何もしないでぼんやりすごすって予定だからさ、どっかいい旅行先でも案内してくれや」


『女付きでか?それともなしで?』


「いやいや、女なんかもうどーでもいいっての。俺はこの世のあらゆるしがらみから解放されて、羽を伸ばしたいっていう、単にそれだけなんだから」


『ふうーむ。これはたぶん、天変地異の前触れか、この世の終わりの前兆か……』


「なんにしても、よろしく頼むぜ、画伯。それじゃあな」


 翼はプツリと携帯電話を切ると(というのも、対向車線側にパトカーがやって来るのが見えたので)、それを助手席に放りなげ、なおも魂の勝利感に酔い痴れるような形で、自宅マンションまで戻っていった。




 >>続く……。





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