君の願い 僕の祈り
出産に関するグロテスクな描写がありますので、苦手な方はできるだけ読まないようお願いします。
「残念ですが、お子さんはもう……」
白い診察室で白衣に身を包んだ40過ぎの医師が、内容とは裏腹の淡々と落ち着いた口調で僕らに絶望を宣告した。
「あの、どういう事でしょうか?」
ベッドに横たわった臨月の妻が血の気を失った顔で訊ねる。僕は不吉な予感に妻の手をしっかりと握り締める。
「あなたのお腹の中の胎児はすでに亡くなっています。できるだけ早く処置をしないと感染症などの恐れがあります」
「うそ……」
「いえ、これは事実です」
白衣の医師はあくまで冷静に、僕らを見つめる。
「うそよっ!」
つないだ手に痛いくらい力がこもる。
「すぐに手術をして……」
「いやっ! いやよ!」
妻の体が震えている。
「この子は死んでない! 生きてる! ねえあなたそうだと言って」
僕はただ手を握り締める事しか出来なかった。
「残念だけど……僕らの子は……」
「いやよ! この子は生きてるの、絶対生きてるの! 絶対……」
妻の体から力が抜け、僕の方に寄りかかってくる。もともと青かった顔色がさらに蒼白になっていた。
「いかん! すぐに処置を!」
白衣の医師が珍しく声を荒げている。それほどの事態なのだろうか。
嫌だ。
僕はいつの間にか診察室の外にでていた。
嫌だ。
妻がストレッチャーに乗せられて廊下を移動している。
君まで居なくなってしまうのは嫌だ。
妻を乗せたストレッチャーは、手術室の大きな扉の向こうに消えていった。
僕は気がつくと、手術室前においてある長椅子に座っていた。両膝の上に肘をおいて、顔の前で両手を組んでいる。
誰かに祈りたかった。神様がいるのなら、祈りたかった。
助けてください。どうか妻を助けてください。
僕らの子だけじゃなく妻まで連れて行くのはやめてください。
どうか、どうか……
どのくらいそうしていただろう、ふと顔を上げる。
「うわああああ!」
突然、手術室の方で悲鳴と何かが倒れる大きな音がした。僕は思わず椅子から立ち上がる。
固まったように動けない僕の視線の先で、手術室の扉が少しずつ開きだした。
手術は、手術はうまくいったのか。妻はどうなったのか。
少しずつ、少しずつ、開いていく扉。しかし扉の向こうには誰もいない。隙間から見えたのは、赤い何かが飛び散った壁。
ぴちゃ、ぴちゃ。
どこかから音がする。水に濡れた音が聞こえてくる。
音のする方、扉の下を見ると、赤く濡れた小さな塊がいた。小さな塊から生えた手が前に伸ばされ、床につく度、ぴちゃ、ぴちゃ、という音がする。
あれは……もしかして……
必死にこちらに向かおうとしている小さな塊。赤く濡れているけれど、膨らんだ瞼に覆われた目、小さな鼻と口、楓の葉のような手を前に伸ばし、へその緒を引きずり蛞蝓のように赤と透明の跡を残し、薄い皮と赤い小さな塊を床に置き去りにしながら必死に進む……あれはひょっとして、いや、間違いない、僕らの子だ、僕らの子供だ。
僕は思わず駆け寄った。まだ目の開かない赤ん坊に手を伸ばす。赤ん坊は僕の手を小さな手で掴むと、ゆっくりとした動作で僕の親指を口に入れた。
激痛が親指に走る。あわてて僕の手を見ると、親指が根本から無くなっていた。赤ん坊は嬉しそうにくちゃくちゃと咀嚼している。
僕の指を……食べてる? 赤ん坊が? 何故?
そうか、そういえば、確かお食い初めというんだった。こんなに早いなんて、この子は元気な子だ。僕は思わず笑みをうかべていた。
赤ん坊の両脇に手を回し、抱き上げようとする。持ち上げようとした拍子に、もろりと柔らかい赤ん坊の片手が落ちてしまった。
ああ、ごめん、抱き方が悪かったんだね、こんなに早く父親になるなんて思わなかったから練習なんてしてなかったよ。
今度は注意深く抱き上げ、優しく抱きしめる。肩に激痛が走った。本当に元気な子だ。
僕は赤ん坊を抱えたまま手術室に入る。天井、壁、床、一面に赤い物が飛び散っている。女性の看護士が床に倒れ、赤く染まった手術着を着た医師が床にへたり込んでいる。僕は、ありがとうございます、おかげで元気な子が生まれました、と医師に頭を下げた。
僕は手術室の中央、妻が横たわっている寝台に近づいた。妻の上に敷かれた緑の布の真中にあるお腹は、まるで赤い噴火口のように見えた。
「あ……あな、た……」
妻がごぼごぼと血の泡を吐きながら僕に話し掛けてくる。
「わ……わたし、のあかちゃん……は」
僕は、君の願いが叶ったんだね、とても元気だよ、と言いながら妻に赤ん坊を抱かせた。
「あ、あ……わたしの……あか、ちゃん」
妻はいとおしそうに赤ん坊の頭に頬擦りし、鼻と口をこすりつけた後、ゆっくりと口を開き、柔らかい頭の皮膚に歯を立て、一気に齧り取った。
しっかりと抱きかかえ、ひたすらに口に赤ん坊を運ぶ妻。
ああ、そうか、君もそうだったんだ。
君の願いだけじゃなく、僕の祈りも通じていたんだ。
どんどん赤ん坊は妻の中に取り込まれていく。僕の手の中には、抱きかかえる時に取れた赤ん坊の片腕があった。妻だけに赤ん坊を任せたら父親として失格だ。僕も手の中のそれを口に入れてみる。柔らかく、水っぽい味が口の中に広がった。
僕が腕を半分ほど口に入れた頃、妻の手から赤ん坊はすっかり消えていた。寝台からゆっくりと起き上がり、床に足をつける。土気色の肌に見開かれた目、お腹からは内臓が垂れ下がりまるでへその緒のように見えた。
妻は緩慢な動きで僕に向かって歩き出す。僕も妻に向かって歩き出した。
僕の眼前に頬まで裂けるほど大きく開かれた妻の口がゆっくりと迫ってくる。
ああ、これで、ぼくらは――