嘘つきヘビと湖の男
エブリスタにて、緒環小呂窩名義で重複投稿しています。
ヘビは嘘をつくのが好きでした。他のものをだましては、彼らが失敗する姿をこっそり眺めて、笑い転げました。
しかし、そんなことを繰り返すうち、いつしかヘビは誰からも信用されなくなり、やがて誰もヘビの言葉に耳を傾けなくなっていきました。
ヘビに後悔などありませんでした。ただ、一番の楽しみだった嘘をつけなくなったことが、残念でなりませんでした。
――ヘビは住み慣れた故郷を離れる決心をしました。ただ嘘をつく、それだけのために今までのすべてを捨てて、自分のことを誰も知らない所へと旅に出たのです。
野を越え、山を越えるうちに、ある時ヘビは一人の男に出会いました。彼は湖の底をなんとも悲しそうに覗き込んでいました。
「どうしたんだい。その湖の底になにかあるのかい」
男の様子があまりにも悲しげだったため、ヘビはつい声をかけてしまいました。
「……この湖の底には僕の大切なものが沈んでいるんだ」
「大切なもの?」
おかしなことを言う男だと、ヘビは思いました。
「そんなに大切なら、なんでこんな所に突っ立っているんだい。潜って取ってくればいいじゃないか」
「だめなんだ。――僕は泳げないからね」
男はまた湖面を覗き込んで、小さく息を吐きました。それきりなにか口を開く様子もありません。
「そうかい。なら仕方ない。すっぱり諦めるがいいさ」
そう言って、ヘビは男のもとを去ろうとします。
少し進んだ所で後ろを振り返ると、やはり男はその場に佇んだまま。じっと湖の底を覗き込んでいました。
「いつまでそうしている気だい」
「……どうしても離れる気にはなれないんだ」
ヘビが尋ねると、男はヘビのほうを見ようともせずに言いました。ヘビは男の態度に腹を立てました。
「なんだい。ひとと話すときは相手の目を見て話せって教わらなかったかい。大体、そんなに大切なものなら、なんで湖に落としたりするんだい。しっかりと持っていれば落としたりなんかしなくてすむんだ」
男は黙ってしまいました。辛うじてすすり泣くような息づかいだけが聞こえてきました。
その時、ヘビの頭に名案が浮かびました。この男はヘビが嘘つきヘビだということを知らないのです。
「よし、わかった。その湖に沈んでいるっていう、あんたの大切なもの、おいらが取ってきてやるよ」
男は目を丸くしました。
「君がかい?」
ヘビはわくわくして、自然と口元がゆるむのを感じました。
「そうさ。おいらがあんたの大切なものを、湖の底からすくい上げてやろうっていうのさ」
男は嬉しいような悲しいような、あるいは困惑したような顔をしました。
「しかし……いや、でも……」
そう言って、しばらく考え込むようなしぐさを見せましたが、最後には大きくうなずきました。
「そうだな。そのほうがいい。きっと、そうだ」
男はそうつぶやくと、ヘビのほうに向きなおりました。
「けれど、本当にそんなことができるのかい?」
「勿論さ。おいらはこう見えて、実はとても力がつよいのさ。それに泳ぎだって大の得意だからね」
勿論、嘘でした。ヘビには最初から、男の大切なものを取ってきてやろう、なんてつもりはなかったのです。
「ありがとう。君はやさしいね。――本当にすまない」
男はどこか遠い目をしながら、ヘビに感謝しました。
しばらくして、ヘビはびしょ濡れになって、男の前に現れました。しかし、なにも持ってきてはいませんでした。
「やっぱり、だめだったか……」
男の、ひどく落胆した様子に、ヘビは内心ほくそ笑みました。
「――いいや、ちゃんと引き上げてきたさ。けれど、大切なものだからね。他の誰かに盗まれないように隠しておいたのさ」
勿論、嘘です。ヘビは男を喜ばせておいて、大切なものが手元に戻ってくると思った直後、そんなものはじめから取ってきてはいないことを知らせるつもりでした。
「……本当に?」
まずい。怪しまれている。数えきれないほどの嘘を重ねてきたヘビは、それを肌で感じることができました。
「本当だとも。もし嘘だったら、この舌を二つに裂いたっていい」
しばらくの間、男は疑わしそうな視線をヘビに投げかけていましたが、最後にはヘビの言葉を信じた様子でした。
男はヘビに何度も何度もお礼を言いました。しかし、男の表情は、嬉しそうと言うより、まるで今にも泣き出してしまうのではないかと思うほど、悲しそうなものに見えました。
ヘビは大切なものの隠し場所へと男を案内しました。そこは一本の痩せた木が生えているだけの、寂しげな原っぱでした。
「一体どこに隠してあるんだい」
「なあに、もうすぐさ」
そう言って、ヘビは木のそばに近づいていきます。目印の石の前で足を止めました。
「ここだよ」
男は怪訝な表情を浮かべます。
「何もないじゃないか。こんな何もない場所のどこに隠したっていうんだい」
「もう少し進んでみれば見えるよ」
男は尚も疑わしそうにヘビを見ながらも、ゆっくりと歩を進めました。
瞬間。男の足が草の合間に沈んだかと思うと、枝の折れる音や草のこすれ合う音と共に周囲の地面ごと男の身体は地中深くに落ちていきました。
これにヘビは大喜び。自分で作った落とし穴の縁へと急いで駆け寄ります。底を覗いてみると、草やら土やらにまみれた男が四肢を投げだしたまま、呆然と空を見上げていました。
男のその顔を見ると、ヘビはそれ以上笑うことができなくなってしまいました。
「なんで? なんで怒らないんだい」
今までヘビがだましてきた相手は、いつも顔を真っ赤にしてヘビを追いかけまわしました。もし捕まったらきっとひどい目にあわされたでしょう。しかし、その危険な追いかけっこが、ヘビにとってはこの上なく楽しい遊びだったのです。
男は少しも表情を変えることなく、言いました。
「そうか。やっぱり嘘か。でも、それならそれでいいんだ。それに――。それに、誰かに怒る資格なんて、もう僕にはないんだよ。すべて僕が悪いんだからね」
男はそう言い終えると、静かに瞼を閉じました。もう何も望むまい。目を閉じたまま動かないその姿が、ヘビにはまるでそんな意思表示のように見えました。
いたたまれなくなったヘビは、黙ってその場を去りました。
ヘビには、その男が理解できませんでした。ヘビにだまされて怒らない人間に、ヘビは会ったことがありませんでした。
ヘビは男のことが気になって仕方ありませんでした。しかし、謝ることは勿論、会いに行くことさえ、怖くて仕方ありませんでした。
男の大切なものとは、何だったのだろう。
ふと、そんな疑問が頭をもたげました。湖の底に沈んでいるという、その大切なものが何なのかわかれば男のことが少しは理解できるのではないかと考えました。
ヘビは何度も何度も湖に潜りました。ヘビは泳ぐのが苦手でしたが、何度も挑戦するうちに潜れる距離や時間は少しずつ伸びていきました。しかし、すぐには底に届きそうにありませんでした。
夜になると、ヘビは男のいる落とし穴に行き、野イチゴや木の実をそっと穴の中に落としました。男が食べたかどうか確かめたい気持ちはありましたが、顔を覗かせた時にもし目が合ってしまったらと思うと、怖くてできませんでした。
ひと月ほどが経った頃、湖自体それほど深くはなかったこともあって、ヘビはついに湖の底にたどり着きました。男の大切なものが何だったのか、ヘビには一目でそれがわかりました。それがわかった途端、ヘビはとても苦しくなってとてもその場にいられなくなり、急いで湖面に浮かび上がりました。
――空に月が浮かんでいるのが見えて、ヘビはいつの間にか夜が来たことを知りました。自分がどれだけの時間、湖に浮かんでいたのかヘビにはわかりませんでした。
ヘビは濡れた顔を拭うと、湖の底へと戻っていきました。
再び湖面に現れた時、ヘビは自分より一回り小さなものを抱えていました。
穴に落とされてから幾日が経ったのでしょう。男はそれを気に留めることすらありませんでした。ただ、毎朝目が覚めるたびに、穴の中に食べ物が落ちていることだけは気がついていました。もう生きるつもりもないのに、時折それらに手を伸ばしてしまう自分を心底醜いと感じました。
この期におよんで、まだ生きることを欲するのか。
男は食べ物を口に運ぶたび自嘲めいた笑みを浮かべました。
太陽が真上に来ると、その一部が欠けていることに気がつきました。黒い小さな影が頭だと気がつくのに、そう長くはかかりませんでした。
「やーい、引っかかった」
元気な声が高い所から降ってきました。しかし、その声は少しも楽しそうには響かず、真剣な色をもって男の耳に届きました。
「あんたの大切なものを湖の底から取ってきたってのが嘘だっての。あれな、嘘なんだ」
そう言って、影は小さなものを穴に投げ込みました。それは男の傍らの草の上に落ちました。
それは水苔や藻に覆われ、ほとんど腐り落ちて原型を留めていませんでしたが、それでも、男にはそれが何なのか目にした瞬間にわかりました。
「あ……ああ……すまない。本当にすまない」
そう言って、男がその小さなものにすがりつく姿をヘビは穴の縁で静かに見下ろしていました。
「ありがとう。本当にありがとう」
大粒の涙を流しながらのお礼の言葉は、ヘビの胸に深々と突き刺さりました。ヘビはそれがけして抜けることのないトゲだと悟りましたが、同時に、自分が受けるべきものだとも感じました。
「待っていて。もう一つ――大きいほうは、別の場所に隠してあるから、持ってくるのに時間がかかるんだ」
勿論、嘘でした。そして、その嘘に男も気づいているだろうことはわかっていました。しかし、男はただ一言、「ありがとう」とだけ言いました。
ヘビは何度も何度も湖の底に潜りました。しかし、大きいほうはなかなか持ち上がりません。小さいほうの時は簡単に外れた重石も、それと大きいほうとを繋ぐ紐が複雑に絡み合い、一向に外れませんでした。
もう何度目かも忘れた頃、ようやく重石にくくりつけられた紐を外すことができました。男の大切なものは自ずと浮かび上がっていきます。ヘビはそれがどこかへ流されてしまわないようにしっかりとつかんで湖面に向かって泳ぎました。
地面の上に上がったヘビは、ほっと胸をなで下ろしました。季節は冬。これ以上、寒くなってしまうと、湖には氷が張るでしょう。そうなってしまえば、もう潜ることなんて出来なくなってしまいます。
ヘビは大切なものを崩さないように慎重に抱え上げました。寒さに痺れる身体を引きずりながら、男の待つ穴へと急ぎます。
そこに誰かが通りかかろうものなら、思わず後ずさるか、もしかしたら腰を抜かしたかもしれません。髪は抜け、皮膚は膨れ、腐り落ち、所々骨や頭蓋骨を露出した大切なもの。それを抱えたヘビが震えながらも懸命に足を踏み出す、月明りに照らされたその姿は恐ろしいほどの迫力をもってその目に焼き付いたことでしょう。
その光景を見た者がいたのか。ヘビは男に大切なものを届けることができたのか。それは誰も知りません。
ただ、それからもヘビが嘘をつくことをやめなかったことだけは確かです。ただし、ヘビは二度とひとを傷つけるような嘘はつきませんでした。