ガラスの音
本日も雨天なり。
今日で三日連続の雨模様となった。窓の外ではまるでスコールのように絶え間なく水滴が地面へと降り注いでいる。空は一面暗い雲に覆われていて、見ているだけで気が滅入ってきそうだった。
五十嵐はカーテンを適当に引いて窓の近くから離れると、去年買った小さめの冷蔵庫の中から飲みかけのお茶のペットボトルと取り出して、それを一気に胃袋へと流し込んだ。それから、これまた小さいテーブルの上から携帯を取り時間を見た。バイトの時間まで、十分すぎる時間があった。
数分、何せずにぼぉっとしていると、外からものすごい音が聞こえてきた。どうやら雷が近くに落ちてきたようだった。
その音を聞いて、五十嵐は中学の頃の理科の授業のことを思い出していた。その中で雷について幾らか授業をやったことを頭の中で思いめぐらしてみたが、何一つ思い出すことはできなかった。
そんなことを考えていると、またしても近くで大きな音が鳴った。そこで五十嵐の思考は別のところに向かった。
「中学校……」
五十嵐はそう呟いて渋い顔をした。嫌なことを思い出したのだ。思い出したくない、忘れてしまいたいことに限って鮮明に記憶が残っているというのは人間の悪癖かもしれない。
五十嵐は携帯のアラームをバイトの時間三十分前にセットして布団の中に潜りこんだ。
寝ている間は楽だ。何も考えないでいいから。
ほどなくして五十嵐は深い眠りに落ちていった。
アパートを出るころには雨脚はちょっとだけ弱まっていた。そうはいっても強いことに変わりなく、五十嵐のさしている黒い傘に勢いよく当たり、ボンッと音をたてている。
この雨のせいか、いつもそれなりに賑わっているはずの道路に五十嵐以外の人影は見当たらなかった。賑やかである所が急に静かになっていると随分と不気味な感じがした。
公園の横を通る時に五十嵐はその中に人影を見た。その人は公園の隅の方に段ボールやら新聞紙やらを敷いてあるところをビニールシートで覆いかぶそうとしていた。
ホームレスだろう。
五十嵐はその様子をしばし立ち止まって見つめていたが、やがて興味を無くしてバイト先へと足を運んで行った。
コンビニ店内は一時間前から客がいない状態だった。誰も客がいない店内に音楽が空しく繰り返し、繰り返し流れている。五十嵐はレジの前に立ったまま首を回して外を見た。外は相変わらずの強い雨に加えて風も出てきたようで、ときよりガラス張りの壁に当たって振動させていた。
暇だ。
五十嵐は心の中でそう呟いた。深夜のコンビニにはそもそもそんなに客はこない。それに付けて今日はこの雨で、さらに客足が遠のいていた。客がこないのなら仕事のしようがない。もちろん仕事が全くないわけではないが、それらは本来客が来る合間、合間にやることなのですぐに終わってしまっていた。
「暇だねぇ」
煙草の在庫をチェックしながら山口がいった。
「そうですね」
「でもまぁ、この雨じゃしょうがないっちゃしょうがないよね。俺だったら絶対に外に出たくねぇもん」
山口はチェックし終えたのか、髪の毛をいじりながら五十嵐の横にきた。
「なんだかさぁ、ほとんど何も仕事してないのにバイト代貰うのって悪いっつうか申し訳ない感じしないか」
「確かにしますね」
「だよな、でも結局貰うんだけどな。金ねぇしな」
「五十嵐休憩まだだっただろ、今からしてきていいぜ。どうせ暇だしな」
「わかりました、じゃあそうさせて貰います」
「混んだら呼ぶからな」
山口は笑いながらそういった。
バイトからの帰り道。五十嵐は襲い掛かってくる睡魔にうとうとしながら歩いていた。
唐突に犬の吠える声がして思わず身を縮めた。
「太郎、やめなさい」
すぐさま犬を叱る人の声が聞こえた。その声に聞き覚えがあり、五十嵐は少しだけ傘をあげて相手を見た。相手は人のよさそうなお爺さんだった。それは五十嵐の予想通りの人だった。
「相良さん、どうも」
「あぁ、五十嵐君、いつも悪いね」
相良はそう言うと頭を下げた。
「いえ、気にしないでください」
「普段は人にあまり吠えるような子じゃないんだけどね、どうしてだか」
「僕、あんまり動物に好かれないんですよ。きっと、知らないうちに太郎が嫌いなにおいでも発してるんだと思います」
「本当に悪いね」
相良はそれでもすまなそうにしていた。
これじゃあ、かえってこっちが申し訳ない気持ちになりそうなので、五十嵐は話題を変えた。
「相良さんは散歩ですか」
「ええ、私にはもうこいつしか家族がいないからね」
相良はいつくしむような表情で太郎を見つめていた。
相良と別れ、五十嵐はアパートに帰るとジャージに手早く着替えた。それからザッピングしながらテレビを見ていたが、特に面白そうな番組はなかったので消し、就寝した。
目を開けると五十嵐は電車の座席に座っていた。電車が線路の連結部分を通るたびにガタンと揺れている。
五十嵐はこれが夢であることを理解していた。何故だかはわからないが、間違いなくこれが夢であるという確信があった。
車内は人であふれかえるほどではないが、大勢の人がいた。そのほとんどがスーツを着ているか、学生服を着ていた。どうやら朝の通勤、通学の時間帯のようだった。
五十嵐は嫌な予感がしていた。昔これと全く同じ光景を見ていたような気がしていた。
五十嵐はおもむろに立ち上がると、人の間を縫うように進み、嫌な予感があたりませんようにと祈りながら先頭車両に向かっていった。
先ほどの車両よりも、先頭車両はすいていた。けれども、空席はなく座席は全て埋まっていた。しかしながら、そんなことはどうでもよかった。
五十嵐は車両の真ん中ぐらいに着いた時に、急に足を止めた。それは、止めたというよりは止まってしまったといったような感じだった。次いで、五十嵐は目を大きく見開いていた。
目線の先には男子学生がいた。彼は一番前のドアの横にもたれかかりながら、両耳にイヤホンをつけて音楽を聴いているようだった。その顔に五十嵐は見覚えがあった。見覚えがあるというより、いつも見ている顔だった。
男子学生は中学生だった頃の五十嵐だった。
目を覚ますと、今度はちゃんと自分の部屋だった。五十嵐はほっと胸をなでおろすと、体中汗でびっしょりであることに気づいた。それはタイマーをセットしていたエアコンが切れたせいだけではないことは明らかだった。
「なんで今更……」
シャワーを浴びながら五十嵐は今にも消えそうなほどの声でぼそりと呟いた。
カーテンを開けて、窓の外を見た。
やはり雨が降っていたが、昨日ほどの勢いはなくなっていた。
なのに、五十嵐にはきもち昨日よりも雲が暗くなっているように見えた。
散歩でもしようとアパートを出ると、ちょうど家を出ようとしている相良さんに出くわした。もちろんその隣には太郎がいた。
「五十嵐君、こんにちは」
「相良さん」
「五十嵐君はバイトですか」
「いや、気分転換に散歩でもしようかと」
「確かにこう何日も雨が続くと気分転換でもしたくなりますね」
五十嵐はちらりと太郎の方を見た。太郎は吠えることはしなかったが、それでもグルルルゥと唸りながら五十嵐を睨んでいた。
五十嵐は無意識のうちに太郎の目をじっと見つめ返していた。
「それで五十嵐君は、どこらへんにいくつもり……」
「すいません、それじゃあこれで」
「あ、ああ」
五十嵐はいきなり話を区切ると、足早にアパートへと戻っていった。相良は五十嵐の行動に首をかしげたが、そのまま太郎の散歩に戻っていった。
部屋に戻ってくるなり五十嵐は洗面所で顔をジャバジャバと洗った。
何を考えていた。
五十嵐は一瞬頭によぎった自分自身の思考に驚いていた。
それはとても普通では考えられないようなことだった。
五十嵐はまたしても電車の中にいた。
目の前にはあの男子学生がいる。これから起こることなんて知らずにのんきに音楽を聴いていた。
やめろ……。
電車は大きなカーブに差し掛かった。もうすぐだ。
やめてくれ……。
五十嵐はうずくまりながら懇願した。
電車はカーブを抜けた。男子学生は相変わらず音楽を聴いている。小刻みに揺れているのは音楽にのっているからだろう。
カン、カン、カン、カン……。踏切の音が聞こえてくる。その音は次第に近くなってくる。
キィィィィィィィ。凄まじいほどのブレーキ音。
ドンッ。電車に何かがあたった。
次いでくる鈍い音と振動。
騒ぎ出す乗客。
目を見開いている男子学生。
そこで五十嵐の意識は途切れた。
五十嵐は飛び起きた。すぐさま辺りを見回し、ここが自分の部屋であることを確認すると、ふぅ、と息を吐いて壁にもたれかかった。そのままずるずるとしゃがみこんで両手で顔を覆った。
ここ数日、五十嵐はこれと全く同じ夢に苛まれていた。そのおかげでもともと細かった体はさらにげっそりとして、顔にも生気がなくなってきていた。体だけでなく精神的にもかなりまいってしまっていた。
しばらくそのままの状態でうずくまっていたが、携帯のアラームが鳴り始めるのを
聞くとゆっくりと立ち上がり、アラームを止めた。
バイトに行かなきゃ。
五十嵐はそう自らに言い聞かせると、そのまま洗面所に向かった。
鏡に映った五十嵐の顔は本人が見ても憔悴しているように見えた。
じゃばじゃばと勢いよく顔を洗いタオルで顔を拭い、もう一度鏡を見た。ほんの少しだけマシになったように感じられた。
その時、鏡に映った顔がにやりと邪悪な笑みを浮かべた。五十嵐は自らの頬に手を当てた。口角が上がってないことはすぐにわかった。
「うわぁぁぁ」
五十嵐は叫びながら鏡に向かって殴りつけた。鏡はいくつかの破片になって床に飛び散った。五十嵐は逃げたすように部屋を飛び出した。
その顔は割れた破片の中でもしたたかに笑みを浮かべていた。
五十嵐は山口に頼んで早めにバイトを上がらせて貰った。その帰り道の途中、自動販売機で缶ビールを買うとそれをもって帰り道にある公園に入った。まだアパートに帰る気になれなかったのだ。
雨はついにやんだが、それでも空は厚い雲に覆い尽くされていた。公園の土はぬかるんでいて靴にいくらのかの泥が付着してきた。五十嵐はベンチを見つけると水滴を手で払ってから腰を下ろした。当然すべて払いきれるわけはなかったので、ズボンに湿った感覚があった。
五十嵐はプルタブを開けてビールを一口あおった。喉から胃に落ちていく感じが心地よかった。すぐに缶ビールは空になった。五十嵐は隣に空になった缶を置くと、今よりもさらに深くベンチに腰かけた。続いて、なんとなしに辺りを見回してみると、真っ暗な中で青いビニールシートが見えた。まだそこにホームレスは住んでいるようだった。
五十嵐は空き缶を設置されてあるゴミ箱に投げ捨てて、公園を出た。ところどころ街灯に照らされている道路を歩いていく。
ワンッ。
大分、アパートに近づいたあたりだった。一匹の犬がこちらに向かって吠えていた。
太郎だった。太郎は庭に放し飼いにされているようで、門ぎりぎりまできてこちらにきて吠え続けている。相良はすでに寝ているようで家に明かりはついていなかった。
気づくと五十嵐はアパートの部屋で寝ていた。
なぜだか、とても気分が高揚していた。
いつの間に帰ってきたんだろう。
五十嵐は思い出そうとしたが、相良の家の前で太郎に吠えられたところからの記憶はどうしても思い出すことができなかった。
「……なんだ、これ」
五十嵐は自分の服に黒いしみのようなものがついていることに気づいた。それは一か所だけでなく、服のあちこちにあった。おそらく泥がはねたんだろう。と、そう結論づけると服を脱いでそこらへんに放り投げた。
今日はバイトがないことを確認すると、するすると布団に戻って惰眠を貪った。
再び五十嵐が起きると時刻はもう夕方だった。五十嵐は伸びをして布団から出た。適当に服を着ると、外に出た。雨は止んでいたが依然として空は暗かった。
相良に会ったのはそろそろ部屋に帰ろうかという時だった。相良は五十嵐を見つけるとこちらに向かってきた。五十嵐はわずかに違和感を感じていた。
「相良さん、どうしたんですか」
相良の額には汗がにじんでいた。
「五十嵐君、太郎を見なかったかい」
五十嵐はその違和感の理由が、太郎がいないせいであることを知った。
「いなくなったんですか」
「ええ、朝起きて庭に出てみたら」
相良は悲しそうな、苦しそうな表情をした。
「それで、どうですか。見ませんでしたか」
「いえ、見てないです」
「そうですか、それじゃあもしどこかで見かけたら教えてもらえませんか」
「わかりました」
相良は礼を述べると、すぐに立ち去った。相良が太郎をどれだけ心配しているか、ありありと伝わってきた。
五十嵐はそういえば、と、昨日の夜に太郎に会っていたことを思い出した。
突如として、フッ、と五十嵐の頭の中に一つの状景が浮かんできた。そこはどうやら近くの河川敷のようだった。五十嵐はふらりと、まるで蜜を見つけた蜂のように河川敷に引き寄せられていった。
河川敷に近づいていくにつれて、五十嵐の心臓はばくんばくんと鼓動を速めていった。
まるでそこに何があるのかを知っているのかのように。
河川敷につくと鼓動はピークに達していた。いつの間にか全身に冷や汗をかいていた。五十嵐は無意識のうちに橋の下までやってきていた。雑草が膝の辺りまで伸びている。
激しい運動をしたでもないのに息が上がっていた。
視界の隅に青いビニールシートが見えた。あれが公園にいたホームレスのものであることを五十嵐は知っていた。五十嵐はビニールシートに近づいていく。心臓はいまにも飛び出しそうなぐらいに唸っている。喉が異常な位に乾いていて、うまく唾液を呑み込めないでいた。
五十嵐はビニールシートに手をかけて、ゆっくりとめくった。
ポツ、ポツ、ポツ。
空から水滴が落ちてきていた。
青いブルーシートの下には太郎と公園にいたホームレスの姿があった。
五十嵐は全てを思い出していた。あの夜五十嵐は静かに門をよじ登ると太郎の首を絞めた。死んだ太郎を片手に掴んで、河川敷に捨てにいった。その際、あのホームレスに会ったのだ。見られた以上殺さないといけない。五十嵐は何の躊躇もなく近くにあった手のひらサイズの石を持つと、ホームレスの頭に打ちつけた。血が服に飛び散っているのも気にせずに何度も、何度も。
動かなくなったのを確認してから五十嵐はそれらを橋の下に置いた。それから、一度公園に戻りビニールシートを持ってくるとその上に被せたのだ。
その一連の行動中、五十嵐はずっと興奮していた。血がたぎってくるのを感じていた。
手を洗おうと川に近づいて水面に映った顔は、鏡に映った時のように邪悪な笑みを浮かべていた。
五十嵐は自らの内にどす黒い衝動があることをしっていた。五十嵐は橋の下を出て天を仰いだ。幾度か五十嵐の頬を水滴が流れていった。それが雨なのか、涙なのか五十嵐本人にもわからなかった。
五十嵐はイヤホンをつけて音楽を聴いていた。去年まで大きく感じられていた制服は今年になってだいぶ合ってきたように感じられた。
電車が大きなカーブに差し掛かった。このカーブを抜ければもうすぐ目的の駅に着く。五十嵐は運転席の窓から外の景色を見た。
カン、カン、カン、カン……。目の前の踏切が閉まっていった。
電車がそこを通り過ぎようとした直前だった。
急に一人の女性が電車の前に飛び出してきた。
耳をつんざくようなブレーキ音が鳴り響く。
五十嵐は見を見開いていた。
ドンッ。衝撃と共に女性が血を吹きだしながら宙を舞っていた。
五十嵐は電車が止まるのと同時に、その場に四つん這いになって胃の中のものを全て吐いた。モーゼの十戒みたいに辺りの人がさっといなくなった。
五十嵐の心臓はばくばくと脈打っていた。
どこかで何かが割れた音がした。
どうやらそれは、自分の中から聞こえてきたものだった。
それは、ガラスが割れる音によく似ていた。