四
六月に入って数日が経ったある日、藤和は呼び出されてシルファの執務室にやって来た。
見知った恋人以外に、数か月ぶりに会う人物がいたことにぽかんとしてしまう。数秒後、我に返った藤和は慌てて敬礼をする。
「お久しぶりです。ゴディア=べディアス少将」
「うむ。元気そうで何より」
「ありがとうございます」
厳格そうな面差しのゴディアは、目元をわずかに和ませる。
「べディアス少将が、話を聞きたいそうだ」
「……話?」
「我が家の末弟のことで。御挨拶もかねて様子を伺いたいと」
シルファの言葉に首を傾げ、ゴディアの言葉に納得する。
「やはり、べディアス少将の弟君でいらっしゃいましたか」
訓練兵のノエルの言葉を思い出し、間違いではなかったと確信する。
四十代半ばのゴディアと二十代のノエルは、親子と言ってもいい年の差がある。複雑そうな事情が見え隠れしたので、半信半疑でも問いただすことはなかった。
はっきり言って、他人の面倒事に首を突っ込みたくなかったからだ。
「…父が、死ぬ前に引取ってきた子でな。少々、気を遣いすぎるようで、上手くやれているのかと…。甘いと思ってくれて構わぬ」
苦笑と自嘲が混じった言葉に、複雑な事情が見えた。
ありきたりだが、ノエルは妾の子なのだろう。実父に引き取られはしたが、親子ほどに離れた異母兄や家の者に引け目を感じたに違いない。しかも、べディアス家は代々軍人の家系だ。貴族ではないが、名家中の名家と言ってもいい。先代当主、ゴディアとノエルの父は、不屈の勇士とたたえられた武人だ。その名に泥を塗ってはならないと感じ、重圧を受け続けていただろう。
異母兄弟の父親は、藤和がエメディアに来る二年前に亡くなっているので、面識はない。
純粋に、腹違いであることで苦しんでいる弟を気にかける兄の姿に、藤和の口元が穏やかな笑みを浮かべる。
「ご安心を。少しばかり積極性に欠けるようですが、気が利き真面目です。士官達からも好評です。新人ですのでミスは多いですが、そこはこれからに期待、というところでしょう」
あえて言葉にしなかった部分もあったが、おおむね真実を告げる。言わなかったのは、ノエル自身ではなく、周囲の変化が必要だからだ。
「私が、軍に入ったばかりの頃は、父の武名で苦労することが多かったが……」
「大丈夫です。弟君は、頑張っておられます」
言わずに置いたことを読み取ったのか、少々不安げなゴディアに、藤和は深く頷く。それにほっとしたように瞳を細める。
「よろしければ、様子を見て行かれますか?私どもの部屋で書類整理をしている最中ですが…」
「いや、私が行っては迷惑だろう。元より、他部署の者が長居するのは歓迎すべきではない。こちらに届ける書類があったので、ついでに様子を伺いたいと思っただけだ。お気づかいはありがたいが…」
厳格そうな見た目を裏切らず、真面目なゴディアが頷くとは最初から思っていないのか、藤和は、ならば、と言葉を続ける。
「せめて、お見送りさせましょう。きっと、べディアス訓練兵も喜ぶでしょう」
複雑そうな微妙な苦笑を浮かべながらも、申し出事態は嬉しいのか、今度は素直に頷いた。
「では、失礼いたします」
藤和が出て行った扉を見ながら、ゴディアは小さく息をはく。
「エメディア中将」
「何でしょう?」
「良い方を、お選びになられましたな」
背中越しに向けられる言葉に、シルファは満面の笑みを浮かべる。
「当然、俺が選んだのですから」
自信たっぷりで自慢げな声のシルファに、呆れたような表情で振り返る。
「さようですか。時に、エメディア中将」
「はい」
「私に敬語はおやめください。貴方は中将、私は少将。地位が違うのですから…」
「敬意というのは、位に向けるものではないでしょう?俺は貴方を先達として尊敬しています。それを形にするため、言葉に飾りをつけているだけのことです。お気になさらずにどうぞ」
皮肉でもなんでもない言葉だが、シルファの性格を知っているからこそ、ゴディアはそれを素直に受け取る事が出来なかった。胡散臭さ爆発である。胡乱げに見つめ、ゴディアはあきらめたように息をつく。
シルファに敵うのは、やはり、藤和しかいないのだ、と理解した。
尉官や左官の執務室の隣は、部下が執務を手伝う為の部屋で、資料室にもなっている。
藤和は、資料室ではなく自分の執務室に入る。
「お帰り。用は何だったんだ?」
「いつも、私が中将に呼び出されると楽しそうだな、ロウェイル中尉」
誤魔化すようにへらりと笑い、曖昧に流そうとするノーフィスの頭を小突き、窓際で書類整理をしていたノエルに声をかける。
「べディアス訓練兵」
「はいっ」
唐突に呼ばれ、驚いた拍子に手の書類が数枚散らばる。それを拾おうとするよりも早く、アリサが先に腰をかがめていた。
書類はアリサに任せ、姿勢を正したノエルは表情を強張らせる。
「航空機兵部の少将殿を、お見送りしてきてほしい」
「少将殿、ですか……?」
問い返されて、藤和は首を傾げる。二人して疑問符を浮かべて黙ってしまった。それを見ながら笑いをこらえていたノーフィスが、助け船を出す。
「航空機兵部部長補佐ゴディア=べディアス少将、だろ?」
目を丸くするノエルに、藤和はようやく問い返された理由を知る。
少し、藤和は言葉足らずな時がある。今回のように、自分が理解していることを相手も理解していると無意識に思ってしまうのだ。
「そうだ。早く行って来い」
複雑そうに口ごもるノエルの背を押す。部屋を出て行ったのを見て、ノーフィスとともに苦笑する。
そんな上官達を見ていたアリサが、意を決したように口を開く。
「…あの、中尉…」
「「「何だ?」」」
控え目な呼びかけに、三人が一斉に返事をする。
数秒おいて、ここが中尉の執務室で、現在三人の中尉がいることに気付く。
「藤和中尉っ」
「ん?」
頬を淡く染めて声が上ずっているアリサに、フィニアとゲイルが笑いを噛み殺そうとして、肩を揺らしている。
「資料の整理中、過去の事例を見たのですが…。訓練兵は、教育係を務めた上官の部下になるのが通例、とありましたが……」
「そうだな。人数によるが、たいていはそのままだ。だが、お前達は少し多いからな。半数は配属が別になるだろう」
「僕やノーフィスなら、問題はないね」
おっとりと、口を挟んできたのは、もう一人の中尉、エルリックだ。
「残念だが、二人はすでに規定数の部下を持っているからな。移動はできない。シザーヌ中尉なら、喜んでお願いしたいところでしたが…」
苦笑気味に本音をこぼせば、エルリックは目じりを下げて困ったように笑う。
その表情は、とても三十を超えた中年男性とは思えない。
「ひとまず、出向中の奴らには任せたくないからな………色々考えておく」
アリサの質問でそれらを思い出して、藤和はこめかみをかく。それが良い、とノーフィスとエルリックは真剣に同意する。
上官達の話を聞いて、三人は困惑下に視線を交わす。
訓練兵になってから、十一人いるはずの中尉の内、実際にあったのはここにいる三人だけだ。ほとんどの者が様々な理由でここにいないのは分かっているが、一ヶ月以上たっても影すら見たことはない。
だから、藤和を含めた三人しか『知っている』上官はいない。そんな三人の人柄は好ましいもので、不安はない。だが、会ったことのない他の中尉達は、藤和達の話しぶりでは問題があるようで、できればそんな人の部下にはなりたくない。
「オーガ訓練兵」
「はいっ!」
思わず暗くなりかけていたアリサに、声をかければばね仕掛けの人形のように姿勢を正したのを見て、吹き出しかけるのを何とかこらえる。
「ひとまず、配属のことは今は気にするな。まだ先のことだ。仕事を続けろ」
「はいっ、申し訳ありません!」
「それから、私は単独任務専門だったから、部下がいない。過半数は必ず私の下に残る。希望者を優先して募るつもりだ。気にするな」
どこかほっとしたような三人を同僚達は微笑ましそうに見ているが、藤和は眉を寄せる。
(生き残れれば、な……)
現状、いまだ一回も実戦に出ていない。教育期間中に一回は実戦を経験させる必要があるが、藤和はまだ時期ではないと判断して、先延ばしにしていた。さすがに残り一ヶ月をきり、そろそろ決めなくてはならないと情報を選別しているが、任務難度が高い物しかない。
どれだけ、難度が低い物を選んでも、訓練兵が生き残ろう確率は低く、半数生き残れれば奇跡に等しい。
「お前達はそのまま仕事を続けろ。隣を見てくる」
一度廊下に出てから、執務室から資料室へ行ける扉がほしい、と藤和は忌々しげに思う。毎回廊下に出なければならないのはめんどうなのだ。
ノックをして数秒間を置くが返答がなく、扉を開けた瞬間に険悪な空気に包まれた。
「…どうした?」
思わずこぼれた、拍子抜けしたような問いかけにはなにも返らない。
誰もが緊張をもって見ているのは、ソレイとドレイクだ。
この一ヶ月、生真面目なソレイと現状に不満を抱えたドレイクは、よく衝突している。またか、と呆れつつすぐそばにいたスウェンに声をかけるが、反応がない。それに眉を寄せる。
一ヶ月前の試合以後、生来の性格か、人懐っこい笑顔で藤和に対して朗らかに声をかけてくる。声をかけて返事をしなかったことなどなかった。そのいつもは明るい笑みを浮かべる顔が青ざめ、藤和の入室に気付いてすらいない。
他も、青ざめ、うろたえ、怒気を発している者もいる。ガーティは、今にも泣きそうな表情で二人を交互に見ている。
いい加減、藤和も不和ばかりを引き起こす二人に、呆れつつも怒りを抱いてもいた。それが今、一気にあふれ出た。
「オルド訓練兵。説明しろ。何があってこうなった」
静かに扉を閉め、もたれかかって吐き出された声は、低く静かであるがだからこそ恐ろしいものだった。
スウェンはようやく藤和の存在に気付いて、ぎこちない動きで見下ろす。藤和の表情が仏頂面で、眉を寄せた普段通りの姿だが、その空気が違う。殺気よりはましだが、天を衝く勢いの怒気もまた恐ろしかった。
(これが、まさに怒髪天を衝く……)
若干の現実逃避の後、冷汗が背中を流れるのを自覚しながら、説明するために脳内で状況を整理する。
「エンディ訓練兵が、いつものようにヴェノダ訓練兵と口論を……。その時、ヴェノダ訓練兵が、暴言を…」
尻すぼみになっていく言葉から、おおよそを推測する。
口やかましい同僚にいらだち、口が過ぎた。そんなところだろう。
ひとまず、個人的な怒りを押し込めて(あてられたスウェンが気の毒だが)仲裁のために二人に近づく。
歩み寄りながら流れるような動作でそばの本をつかみ……。
ゴゴンッ!!
二人の頭を本で殴りつけると、ようやく藤和の存在に気付いたのか、視線を向けて目を見張る。他も、それで我に返ったように藤和を凝視する。
「ぶつかるんなら、道場をあけてやる。ここは迷惑になるからな」
喧嘩上等の発言に、ドレイクは怒りを、ソレイは不満げな表情を浮かべる。だが、ソレイの表情に、わずかな悲哀が含まれていることに藤和は気付いた。生真面目で強い光を宿した瞳が印象的のソレイに、それは不似合いで、藤和は少し驚いた。
「エンディ訓練兵?」
呼びかけに、ソレイは瞳を揺らして視線をそらす。まわりに視線を移すが、全員の視線が泳ぐ。ただ、トゥリだけはソレイを心配げに見ている。
ふいに、一人、藤和と視線が合う。
「ログラディア訓練兵。何があったか答えろ」
不幸にも視線が合ってしまったメルディスは、血の気が下がるのを自覚しながら、こわごわと口を開く。
「ヴェノダ訓練兵が、『魔婦』の娘が偉そうに言うな、と…」
聞いた瞬間、藤和は表情をゆがめて眉を吊り上げる。誰もが藤和の反応を待っている。だが、藤和はおもむろに首を傾げる。
「聞くが、『魔婦』とは何だ?」
至極真剣な問いかけに、一拍後、全員の肩から力が抜けた。呆れからの脱力だった。
さすがに、ドレイクですらぽかんとした表情になっている。ソレイは呆然とし、表情の乏しいトゥリですら傍目にもわかるほど驚いている。
誰よりも早く復活したのは、兄から話を聞いていたスウェンだ。
(時々、天然発言で爆弾投下するから気をつけろって、このことか……)
実に愉快そうな笑みとともに言われたそれは、藤和のイメージからはかけ離れていたから、適当に聞き流していた。だが、現実に、兄の忠告通りになった。聞き流しながらも聞いておいてよかった、と人を食ったような性格の兄に内心で感謝する。
「知らないんですか?」
もしかしたら、険悪な空気を和ませるためにわざとすっとぼけたのでは、と思ったが、あっさりと頷かれる。
『魔婦』というのは、俗世間で知らぬ者はいない名前だ。知らないのはよほど幼い子供か田舎者ぐらいだろう。
ソレイを一瞥してから、スウェンは藤和に視線を戻す。
「…『魔婦』というのは、蔑称です。基本は花街で違法行為を行っている遊女のことですが、とある事件以降は、その中心となった遊女をさす名称になったんです。ご存じないですか?妖華の乱」
「聞き覚えはある」
詳しい内容は知らない、と素直に答えれば、スウェンは一つ息を吐く。
「妖華の乱は、二一年前、花街でも最高級の妓楼で太夫を務めていた遊女が発端となった事件です」
「二一年前、か。知らないはずだ」
「当時、大夫に貢いでいた貴族の若者が五人いて、全員が身請けしようとしてたんですが、太夫自身は拒み続けたんです。けど、若者達は諦められなくて、家を傾けるほどの大金を注ぎ続けたんです。……まぁ、よくある話ですよね」
「ああ」
「ある時、若者の一人が、太夫に本命がいることに気付いたんです。絹織物を扱う普通の商人です。自分達を袖にしたのに、ありふれた中堅商人を選んだことに、若者達が怒り狂ってしまって…。武器を手に妓楼に乗り込み、阻もうとする遊女や下男を斬り捨てて、太夫の私室に乗り込んだんです」
いきなり、話が血なまぐさくなった。
「運の悪いことに、商品を持ってきた男が太夫と一緒にいて…。結果的に、男が殺されてしまうんです。その時、太夫の能力が暴走してしまって…」
「能力者なのに、花街にいたのか?」
能力者は希少な国家財産だ。貧しい身の上でも、国が庇護をするのが普通だ。
「覚醒が遅く、太夫になった後に能力者であることが発覚したようで…。能力の種類は知りませんが、五人の若者は死んでしまい、太夫は警備隊に捕縛されてしまいます。ですが、太夫は花街の遊女達の代表で、多くの貴族と親交があったので、助命されました。まぁ、五人の方に完全な非があったので、当然といえば当然ですが。その数ヶ月後、太夫は女の子を出産後、肥立ちが悪くて死亡してしまうんです。五人の内、四人の家の財政が傾いてつぶれてしまいます。この事件が、妖華の乱、です」
「つまり、その女の子がエンディ訓練兵か。その太夫を妖しの華と称したことによってついた名前、か。で、『魔婦』とは何につながっている」
「五人の男を狂わせ、六人の男を死に至らしめたことに由来するとか…」
「商人は被害者、五人は自業自得。太夫には何も非はないだろうに…。ちなみに、つぶれなかった一つは?」
問いに、全員が意味ありげな視線をドレイクに向ける。
「正確には、ヴェノダ訓練兵の父上の弟君、叔父ですね」
呆れた、と言わんばかりの大きなため息をついて、藤和は眉間を押さえる。
「分かった。ヴェノダ訓練兵、今日から十日の謹慎に処す。宿舎に戻れ」
冷たい物言いに、ドレイクの瞳が瞬間的に怒気を宿して燃え上がる。
「何でオレだけッ!」
「お前に非がある。当然だ」
なおもがなりたてようとしていたのを冷徹に遮り、冷静に、諭すようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「親がどうだったか、そんなものは子に関係ない。エンディ訓練兵が、自分を律し、義務を果たし、責任の重さを自覚するのなら、どこにも問題はない」
藤和の言葉に、ソレイの瞳が大きく見開かれる。
「親の罪を、子が背負う道理はない。まして、エンディ訓練兵の母に何の落ち度がある?気があるようにふるまうのは遊女の仕事。手練手管にたけた美女に勝手に入れ込み、財産を食いつぶし、割り切る事が出来なかったのは男達だ。悪いのは男達の方だろう?」
問う声に、怒りに震えているドレイクの瞳が凍りつく。
「男達が死んだことだが、太夫の正当防衛が認められればこその助命であり釈放だろう。異性を惑わすことは、太夫にとっては生きる術であり糧だ。それを理解しなかった者に非がある」
ドレイクの怒気が、ゆっくりと解けて殺意に変わっていくのを見て、藤和の心に浮かぶのは憐れみだけだった。
自らの非を認めることのできない者には、何を言っても無駄だと分かっているが、続けた。
「お前にとって、エンディ訓練兵は叔父を殺した女の娘だろう。だが、その恨みをここに持ってくるのはお門違いだ。さらに、公私混同も甚だしい。軍においては個人が尊重される。親は関係ない。お前も例外ではないと心得ろ。ヴェノダ訓練兵」
一拍をおいて、子供を諭すような声から、怒りを含んだ低い声へと変わる。
「ここ一ヶ月、お前の業務姿勢は不真面目でしかない。それを含んでの処分でもある。繰り返す。軍においては個人が尊重される。親は関係ない。意味がわかるな?父親の、ヴェノダ伯爵の名と力が及ぶことはないと知れ。セルーダ訓練兵」
「は、はいっ!」
「パートナーは連帯責任だ。十日の謹慎を命じる。行け」
こくこくと頷くガーティに、恐る恐るドレイクの腕に触れて促す。殺意のこもった視線を向けながら、通り過ぎて行くドレイクを藤和は黙殺する。
立ち尽くすソレイを見つめ、息をつく。
「エンディ訓練兵…」
「はい…」
「母親の名は?」
「…え、あ…ルシィーネ=エクルート、ですが……」
答えに、藤和は一瞬驚いたように目を丸くして、納得したように頷く。
「最初に名を聞けばよかったな」
「え…?」
「名の方に聞き覚えがあった。それだけだ」
問う声を早口で切り捨てて、扉を開ける。
「仕事を続けろ。今日の分を明日に持ち越すなよ」
藤和が出て行くと、全員が息を吐く。わずかに気まずい空気があったものの、ただ黙々と仕事に専念した。
自分の執務室とは反対方向、出入り口の方に向かった藤和は、そこにたたずむ長身の影を見つけて笑みを浮かべる。
「ちょうど良かったです。今、そちらに伺おうと思っていたところです」
「ほぅ…。特殊機動部のエース殿が、何の用だ?」
愉快そうに紅をさした唇を吊り上げる影に、藤和は笑みを深める。
「二週間後に新人の実戦研修を行いたいのです。適した内容のものがあれば、知らせていただきたく…」
「分かった。調べておこう」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げる藤和に、影はさっさと背を向ける。
「令嬢に会いに来られたのではないのですか?情報探索部部長ルシィーネ=エクルート中将」
笑みを含んだ藤和の問いに、ルシィーネは肩越しに振り返る。だが、切れ長の瞳は冷ややかな光をたたえていた。
「世俗に疎いお前が、気付くとは思わなかったな」
「ついさっき知りました。ヴェノダが令嬢に喧嘩を売ったらしく」
ルシィーネの眉が揺れる。不快を表すわずかな動きに、藤和は気付いた。
「喧嘩、か……」
「はい。ヴェノダに非がありましたので、謹慎処分にいたしました」
処分は下したのだから手を出すな、と牽制するように告げれば、ルシィーネは肩をすくめる。
下手をすれば、ルシィーネはヴェノダ伯爵家をつぶしかねない。過去のことを含め、娘にまで手を出されれば、最悪の行動に出てもおかしくはない気性の持ち主だ。それを、藤和はよく知っていた。
「まぁいい、訓練兵の監督はお前の仕事だ。他部署のことでもあるし、口出しはしない」
「はい」
「あれは使えそうか?」
「もう少し柔軟さを覚えれば」
「そうか。厳しく鍛えてやってくれ」
「無論、そのつもりです」
真面目に答えた藤和を見下ろして、その口元が意地悪げな笑みを浮かべる。
「で、いつになったらエメディアになるんだ?陛下から許しは出ているんだろう?」
ここ二年ほど、藤和はこの手の質問を耳にたこができるほど聞いていた。
辟易した様子でため息をつく。
「いい加減、飽きませんか?」
「飽きる。だが、お前の往生際が悪いからつつきたくなるんだ」
いつも通りの応酬だ。ふつふつと苛立ちが湧きあがってくる藤和の頭をなでる。
「まぁいいさ。お前達のことはお前達にしか決められない。気長に待ってやろう」
偉そうな物言いに眉を寄せるも、これがルシィーネの正常な状態だ。いささか乱暴な手つきでなでられても、別に嫌ではない。
「娘をよろしく、名も無き騎士殿」
今度こそ去っていく背中に頭を下げる。
一息ついて、藤和も踵を返す。
結局、何の用で来たのかも定かではないルシィーネのことは、深く考えない。彼女の思考が読める者など、この国で三人いるかどうかだ。
そんなことよりも、二週間後に向けて、いろいろと準備が必要だった。
実質、実戦研修が最後の訓練になるだろう。その時、何人が生き残れるのか。
全滅した事例など、けして珍しくはない。
二週間後、一人でも多く生き残り、全滅しないことだけを、藤和は切に祈った…。
※※※
卓越した力と実績を持つ軍人や傭兵は、二つ名を持つことが多い。だが、それらは決して讃えるものばかりではない。
名も無き騎士、または、名無しの騎士。
それは藤和の二つ名。孤児であることを蔑んで言われた名だった。
藤和は姓を持たない。それは、孤児であることを周囲に知らしめることになったが、藤和にとっては自分を示す名前さえあれば、姓は必要なかったのだ。
実績を重ね、一人また一人と周囲が認めるたびに、呼び名から蔑みの色は消えていった。だが、全てではない。
最初は侮蔑をこめて呼ばれた名は、いつしか、ただ一つの名をもつ少女への畏敬の念が込められるようになったいた。