三
それは、わずか五年前のこと。
鉱山がある国境近くの街。街の名はシュノトゥ、希少金属錬鋼玉が産出されること以外に特色はない。
元から仲の良くなかった西の隣国オビラノの工場街と接していたことが、その平穏を突き崩す原因となった。
オビラノ側の排水による公害で、発病した者が出たのは十年近く前のこと。その頃から、早期解決のために政府は交渉を繰り返し行っていたが、曖昧なまま決着のめどは立っていなかった。
緊張状態の中、オビラノ軍が唐突に国境を越え、紛争が勃発した。
それが五年前。
強襲されたシュノトゥは、国境警備の軍が配置されていたものの、宣戦布告のない不意打ちの攻撃に耐えられなかった。結果、軍は壊滅、街は一時占領されることになった。
数日後には、特殊機動部の中隊が投入され、すぐさま奪回された。だが、双方ともに甚大な被害受けて、一時休戦状態に入り、シュノトゥは軍の前線地帯となった。
戦いの余波で坑道も埋まり、街の収入源が機能しなくなったために住民達は移住せざるを得なくなった。
錬鋼玉の採掘責任者だったノギエ=オーガもその一人だった。
彼は、妻の妹が首都の商人に嫁いでいることを頼りに、一家で首都に移住した。今は、首都周辺の鉱山で働いている。
オーガ一家の長女、アリサが能力があることを理由の一つに、軍に入ることを決めたのは、移住してすぐのこと。彼女にとっては、能力の有無以上に大きな理由があったが、それは個人的な感情だった。
※※※
下級軍人の宿舎は、居住区と軍事区の挟間、緩衝区の端にある。無骨な建物が並ぶそこは歓楽街に隣接している。深夜の環境は、決してよくない。
宿舎は、基本的に四人部屋。下級官吏の宿舎と違い、ただ寝るためだけにあるようで、二段ベッドが二組とクローゼットがあるだけで、窮屈だ。
右の壁際、上段ベッドの布団が盛り上がり、わずかにのぞく頭が上下にのっそりと動く。枕元の時計を見つめる瞳は、寝起きのせいかぼんやりとしている。
寝ぼけた頭で、長針と短針の位置を確認する。
「…四時、五十、三、分……ッッ?!」
秒針が半分ほど回ってから、ようやく覚醒した。
ありえない時間帯に、自分の現在地が頭からすっ飛び、立ち上がろうとして天井にしたたか頭を打ち付ける。その音で、他の三人がはね起きた。
今年度の新人の少女達は、四人だったため、この一部屋に集まっている。
彼女達は時計を確認して、声にならない悲鳴を上げた。
昨日の藤和の様子から、遅刻すればタダでは済まない。それを考えて、大慌てで準備を始める。だが、この宿舎から軍事区に行くまでで十分はかかる。道場までとなれば、その数倍はかかるだろう。
遅刻を免れるのは、奇跡と言える。
道場で、簡素な修練服に身を包んだ藤和は、遅れてきた十一人を見て、無言で入室を促す。
現在、五時三八分。
道場には時計がないので、自分の懐中時計で確認した藤和は、硬直した新人を前に大きなため息をつく。さらに緊張を高める新人は無視して、おもむろに口を開く。
「私は、五時から鍛錬、と言ったはずだ。なのに、最初の一人が来たのは五時十四分。全力疾走で疲労困憊だったからな、罰は軍事区五周で勘弁してやる」
二周で一都市分はある軍事区を五周。ざわめきが広がるが無視。
「二十二分、八周。二十三分、十周。今来た奴らは、二十周。今日は基礎鍛錬を重視するつもりだったからちょうどいい。さっさと外に出る」
軍では上官の命令は絶対。それを違えてしまった以上、内容がかなりきつい物であっても、文句は言えない。というか、こんなことで文句を言っていたら、軍ではやっていけない。
「準備運動は入念にしておけ。筋を痛めても容赦はしないからな」
言いつつ、藤和は屈伸をしたり腕の筋を伸ばしたりしている。言われたとおり、準備運動をしている新人たちは戸惑いを顔に浮かべている。
「あの…中尉まで、どうして…」
「私も走るからだが?」
思わず、全員の動きが止まる。
普通、教育係は監視役として、鍛錬の指示はしても同じ動きをしたりしない。訓練校で培った常識では、そうだった。だが、彼らの戸惑いを一切無視した藤和は、上着を脱ぐ。
修練服は、腰までの長袖の上着があり、それを脱げば袖なしの薄い生地の上衣だけだ。体の線に沿うようにぴったりとしたデザインで、黒一色のハイネック。だが、藤和の修練服は、背中が大きく空いている。腕の動きをできる限り自由にしたかった結果だが、見ているだけで寒々しい。
まだ寒い春の早朝ならなおのことだ。
華奢で肉付きの薄い背中は、肌寒い空気で怯むことなく真っ直ぐに立って揺るがない。その立ち姿は、外見からは読み取れない力強さを感じさせた。
「終わったか?」
問われ、新人達は勢い良く頷く。
「私は三十周する。その間に走り終わる事が最低限の目安だ。終われなくても罰則は与えない。ごまかしてもわかるから、するなよ。しっかり走れ」
威圧的に言われ、ごくり、と喉が鳴る。それを聞いて、誰にもわからないように薄く笑う。
「行くぞ」
言葉とともに、彼らは走り始めた。だが、すにその動きを止めてしまう。
一緒に走りだした藤和は、すでに風を置き去りにして豆粒ほどの大きさになっている。
呆気にとられた後、慌てて追うように疾走を再開する。だが、彼らと藤和の距離は縮まるどころかどんどん広がっていく。ついには、先頭が半周に達した頃、彼らの横を藤和が走りすぎる。
追うのは無理、と早々に諦め、自分のペースで足を運ぶ。だが、三周を過ぎたあたりで、彼らの足は重くなり始めた。すでに数十キロを走り、限界に達しているのだ。
最も少ない五周を走った四人は、スタート地点の野外演習場に転がっていた。胸を大きく上下させて荒い呼吸を繰り返す彼らの近くには、藤和が立っている。彼らが走り終えてから、およそ二周分の時間の後に藤和は立ち止まった。
恐ろしいことに、藤和は新人が七周走る間に三十周を走り終えてしまった。
今、走っているのは二十周を命じられた者達だ。その足は走る、というより歩いていると言った方がいいだろう。
休憩している九人は、視界の端で藤和を見る。
訓練校なら、ここで一喝されている。歩くな走れ、と。だが、藤和にその様子はない。ただ、無感情に視線を向けている。
現在、先頭を走っているのは藤和に殴りかかろうとした青年だ。
呼吸の規則性は損なわれ、過呼吸になるのではないかと危ぶむほどだ。汗だくになりつつ、彼は疲れを見せる様子もなく悠然とした姿の藤和を視界に入れて、舌打ちをこぼす。
彼は、訓練校で最も強かった。名門の武家貴族に生まれ、一人息子として大切に扱われてきた。だからこそ、自分を威圧する藤和が気に入らなかった。はっきり言えば、正規軍人にも劣らないと天狗になっていたのだ。それを初っ端から叩きつぶされて、苛立ちが腹の奥に凝ったまま足に力を入れた。
憎悪に似た悪意を抱きながらも従っているのは、昨日、本気の殺気を正面から受けた恐怖が、心に残っているからだ。それを認めたくない一心で、走る事に集中する。
すでに五時間以上、ゆうに走り続けている。
二十周目に入ったのを見て、藤和は寝転がる彼らを見る。
「さて、今のうちに自己紹介をしてもらおう」
平然と言って来た藤和に、彼らは姿勢を正す。
「ジノス=シュビレットです。よろしくお願いいたします」
「メルディス=ログラディアです。姉は重装機動部に所属しております。よろしくお願いいたします」
二メートル近い巨漢を見上げ、藤和は何かに気付いたように頷く。
「ああ、エレイン=ログラディア曹長の弟か」
メルディスの姉と顔を合わせている藤和は、親しくしている女性の顔を思い出す。
「ルドー=エノマスです。モガントの出身です。よろしくお願いいたします」
「セリノス=ユグノール。よろしくお願いいたします」
「ノエル=べディアス。兄は航空機兵部に所属しております。よろしくお願いいたします」
航空機兵部のべディアスに心当たりはあるが、それと目の前のノエルとが一致せず、藤和は首を傾げる。
「トゥリ=シーゲル。よろしくお願いいたします」
「フォーゲル=ベドラ。よろしくお願いいたします」
「スウェン=オルド。兄は情報探索部に所属しております。よろしくお願いいたします」
童顔のスウェンと記憶の中にある友人の顔を比べ、確かに似ていると頷く。
「ルイン=ロウェラ。よろしくお願いいたします」
一人一人、もう一度顔を見ながら名前を口の中で呟き、頷く。
「ちょうど良く、戻ってきたな」
座り込むのを寸前でこらえて、荒い呼吸を繰り返している。
そんな様子は無視して、彼らにも同じ指示をする。
「アリサ=オーガ、ですっ…。よろしく、お願いいたします…」
「フィ、フィニア=レノン、ですっ。お願いします!」
「ゲイル=ミヌバ。よろしくお願いします」
「ソレイ=エンディ。よろしくお願いいたします」
「…ドレイク=ヴェノダ」
「ガ、ガートルード=セルーダ、です。呼びにくいと思いますので、ガーティとお呼びください」
ペアのことは聞こうとはせず、また、興味を向けることもなく、藤和は懐中時計を取り出す。
「昼、か。ちょうど良い、昼にしよう。道場に戻るぞ」
言いながら歩きだす藤和を、ソレイが反射的に呼び止める。肩越しに振り返り、眉を寄せたソレイを見る。
「何だ」
「食堂は、道場とは逆方向にあったと思うのですが…」
硬い声音で紡がれる敬語に、苦笑が漏れそうになるのをため息でごまかす。
「昼休憩に入って二十分になる。今から行ってもすべて埋まっている。それに、この格好で行く気か」
言われて、自分の状態に初めて目を向ける。
土ぼこりと汗に汚れて全体的に黒っぽくなっている。人が密集する場所に行くには、不適切極まりない。
「昨日、帰宅前に食堂に頼んでおいた。道場に食事が運ばれているはずだ」
思わぬ気遣いに、礼を言うべきか戸惑う彼らに気付かないふりをする。
「個人の仕事を抱えている佐官以上は基本的に食事を配達してもらっている。時には、尉官も頼むことがある。下士官の内は、そんな贅沢はできないがな」
あっさりと、どうでも良さそうに言い捨て、置き去りにして歩きだす。
誰よりも走ったはずなのに小揺るぎもしない小さな背中を、慌てて追う。
藤和を、人外の存在を見るような目で見ながら、道場の扉を開けた瞬間、良い匂いが漂ってきた。
食事の用意をしていた女性が、藤和に気付いて微笑む。
「ありがとう、悪いな。ローラ」
「仕事だもの。気にしないで」
準備を終えて、ローラは新人達に丁寧に一礼してから出て行った。
「食べ終わったら、食器類はまとめて入口に出しておけ」
いつの間にか食事を終えていた藤和は、さっさと姿を消してしまう。道場の裏手に出る扉に消えたから、外に出たのは確かだがどこに行ったのか分からない。聞く間などなかった。
「人外の運動能力なのはわかったけど、実際、どうなんだろうな?」
食事の合間、ゲイルがおとした呟きに全員の動きが止まった。
それは、誰もが思っていること。
「中尉って、年数を務めただけでなれるものじゃないでしょう?最低でも七年は軍にいて、任務をこなして中尉になったんだから、強いんじゃない?」
疑問符だらけではあるが、フィニアの言葉には一理あった。
兵卒と違って、士官は勤続年数で昇進することはない。一般の陸軍(専門部署ではない軍部、影は薄い)ならばまだしも、この特殊機動部ではありえない。訓練校出身でも、藤和のような出世スピードはあり得ない。
訓練校出身ではない藤和は、兵卒から軍に入り、七年で中尉になった。ならば、その実力は訓練校出身者をはるかに凌駕しているということだ。
「強いに決まってるじゃない。そうでなきゃ、教育係なんて任されないわ」
友人達に反論するアリサに、周囲が向ける視線はどこか冷たい。藤和とペアを組むことになっている、という事実がアリサの言葉にうなずくことを拒む理由になっていた。
「実力は、あるだろう……」
鋭さとともに軽蔑を含んだ声は、ソレイから発せられた。
「だが、実力だけとは思えない。エメディア中将は、中尉の恋人だと聞いた」
「だから?」
アリサ以外の全員が眉を吊り上げる中、それらをたしなめるようなアリサの鋭い声が響いた。
「エメディア中将は王族だ。人事操作などたやすい」
それは明らかな中傷であり侮蔑。吐き捨てるような言い方に、アリサは声を荒げようとしたが、突然開いた扉に気勢をそがれた。
扉にもたれた藤和が、全員を冷ややかに見下ろす。
「食事が終わっているのなら片づけろ。その後、話がある。全員整列」
今まで通り無感情で威圧的な声に、気まずさが浮かび、それを振り払うようにいそいそと動きだす。
十分とせずに整列して座った彼らを見回して、口元に薄く笑みを浮かべる。冷笑、というべきそれに、背筋が泡立つような戦慄を感じた。
「お前達の疑問は、わからんでもない」
その言葉で、会話の全てが筒抜けだったことを知り、青ざめる。
「私自身のことは好きに思い、好きに言うがいい。自分を指導するものを見定めようとするのは悪いことではない。そう、私自身に関しては、文句はない」
念を押すように言われ、おもむろに彼らの視線が藤和からソレイへ向かう。
「エンディ訓練兵。言いたいことがあるなら直接言え」
教育期間を終えるまで、新人の階級は訓練兵。兵卒の最下級、二等兵よりも下だ。
それを突きつけるように呼ばれ、一瞬怯み、躊躇いながらも疑問をぶつける。
「藤和中尉とエメディア中将が恋人である、というのは、本当でしょうか…?」
「それがどうした?他人の恋愛事情に口を挟む余裕が今のお前にあるのか」
「っ…中将は王族です。どのような道理も引っ込むのでは……」
「ない。不正は中将が最も嫌うことであり、それを示唆した者は容赦なく切り捨てる」
叩きつけるようにソレイの言葉をさえぎる。
「中将は、王族でも庶子で末子、王位継承権も与えられていなければ、王族としての特権の全てを陛下に返上した上で軍に入っている。権を振りかざすことなどできるはずがない。確かに、陛下は中将を我が子と慈しんでおられるが、溺愛されているわけではない。それに、親として子が可愛いのは当然のこと。なんらおかしいところはないと思うが?」
よどみなくもたらされる返答に、ソレイは唇をかむ。
官吏でも軍人でも、女というだけで出世に不利なのは変わらない。軍では、生まれながらに男に劣る体格と腕力のせいで、活躍が期待できないと思われる。それは誰もが抱いている常識だ。少なくとも、ソレイは今までの経験でそれを実感し、必然だと思っている。
だからこそ、藤和のように頑強に見えない小柄な少女が、わずか数年で兵卒から士官になっているのが疑わしい。
女の中では、ソレイは体格的に恵まれている方だろう。平均を上回る長身は男性の平均に届いているし、長い手足は鍛えられたしなやかな筋肉に覆われている。
自尊心があるだろうに、女だと言うだけで見下される現状が疎ましいと思っているとわかる瞳を見据え、藤和の瞳が冷えて行く。
自分は強い、自分は誰よりも上だ、と思っている人間ほど、格下とみなした人間に足元をすくわれる。そんな新人を、上官を、同格の者を、藤和は腐るほど見てきた。そして、その多くが訓練校出身者であることは事実だった。今、ソレイと彼らが重なって見えた。
「私の地位と実力に疑問があるのなら、私に言えばいい。不満を、関係のないところまで広め、第三者をけなすな。いくら王族の権限を失ったといえど、中将が王族であることは変わらない。下手をすれば、不敬罪で首が飛ぶ」
藤和の言葉に、ソレイは自分の発言が自らの命に直結していたことを悟り、蒼白になる。不敬罪に問われれば、親類縁者にも類が及ぶ。死罪を免れることができても、国内にいることはできない。
「後悔はバカでもできる。だが、ここで生きていくのなら、バカでいられるのは困る。扱うの面倒だから」
教育係は、訓練兵の教育係が終われば、必然的に直属の上司になる。人数によっては人手不足の隊に振り分けられることもあるが、基本的にはひとまとめで部下になる。
単独任務専門になりつつあった藤和は、今まで部下を持ったことがない。初めての部下が、あまりにもバカばかりでは困る。賢くなる必要はないが、分別ができるようになってもらわないと非常に面倒なのだ。
「私の力を疑う者は立て。相手になろう」
若干、呆れていた風情だった藤和の空気が一変する。
実際の戦場で培われた、凄絶な殺気と闘志。それらが今、解放され、道場という限られた空間に充満し、全員の四肢が縛りつけられたように強張る。経験不足な新人には、立ち上がる事さえ難しい。
だが、ドレイク、ソレイ、トゥリ、ルインが立ち上がる。立つだけで精いっぱいのようだったが、それでも立ち上がったのは驚嘆に値する。
かつて、訓練校出身ではない新人が、自分より年下で地位の高い藤和に突っかかったことがあった。その時、何かが原因でキレた藤和は、今のように殺気を全開させて精神的に圧迫した。
実戦経験のない若造など、取るに足りない相手だと思い知らせた。以来、彼は藤和を見ると脱兎のごとく逃げ出すようになった。
今回、立ち上がる事も出来ないと思っていた藤和は、驚きと喜びが心にわくのを感じた。
(久々に、骨のある奴がいる……!!)
「他にはいないのか?」
見回せば、立ちたくても立てないらしい者が半数、負けを認めている者が半数。しかし、一人だけ、ただ真摯にまっすぐな瞳を向けている存在がいる。
それに、藤和は殺気を納める。同時、重かった四肢が解放されて、皆がほっと息をつく。
「オーガ訓練兵。お前だけ、違う考えを持っているようだな」
いつも、不満と不信を向けられる中で、アリサからの視線だけがそれらとは違うと、藤和は気付いていた。
突然声をかけられたアリサは動揺する。藤和に肯定的であるのは、アリサにとっては必然のことだったから。
「わたしは、知ってますから…」
「何を」
間髪入れずに返されて息をのむが、姿勢を正して真っすぐに藤和を見上げる。
「五年前、オビラノ公害紛争の時、わたしは中尉に助けていただきました」
藤和はわずかに眉を動かすが、無言。それを、アリサは続きを促されていると受け取って、緊張に震える唇を何とか動かす。
「覚えていらっしゃらないかもしれませんが、妹と弟を連れて逃げ遅れていたところを、中尉はかばってくださいました。行軍していた士官の中で、十代の少女は中尉だけでしたので、すぐにわかりました」
藤和の脳裏に、五年前の記憶が蘇る。確かに、幼い子供を抱え、小さな少女の手を取って走る少女を、敵の重装騎兵からかばった。あの時か、と内心で納得する。
「あの時、中尉は頑強な重装騎兵を複数相手取り、打ち勝たれました。それを見ていれば、実践を知らない、経験足らずな若輩者の身で何を言うこともできないと理解しています。ですから、わたしは中尉の力に疑問を感じません。それはつまり、わたし達姉弟の命がある事を否定することに他ならないのですから」
それが真実、と疑わないまっすぐな瞳は強い。そして、それがアリサが軍を目指した最大理由だった。
藤和は、自分のパートナーとなる少女を見つめる。
「なるほど、あの時の…。弟妹は元気か?」
「はい。妹はまだ完治しておりませんが、快方に向かっています。弟は元気です」
「そうか」
納得して頷き、視線を戻せば、四人は強張った表情のまま立ち尽くしている。
戦いを間近で見たからこそ、アリサは疑わない。
それは、混ざりけのない、まっすぐな信頼。それが向けられるのは、とても心地いい。若く幼いことが理由で軽んじられて来た藤和にとって、アリサの信頼と言葉は、何にも代えがたいものだった。
(やはり、力を見せつけるのが最も効果的、ということか……)
「巻き添えを食いたくなければ、四人以外は下がれ」
命令の意図を察して、即座に動く。壁際に張り付くように下がった彼らに苦笑しつつ、胸下で腕を組む。
「ハンデをやろう。私は足だけを使う。お前達は好きに攻めて来い」
子供をあしらうような口調に、相対する四人はいら立ちを募らせる。
構えて腰を落とす四人に、藤和は悠然と立ったまま。
藤和は同年代の中で、際立って小柄だ。だが、それが不利に働くことはめったにない。小柄であれば、小回りが利き素早い移動を可能とし、身軽さと柔軟性が多種多様な技につながる。自分が体格的に誰よりも劣っていると知っているからこそ、藤和は自らにできることは何でもしてきた。少しでも、自分が戦いに有利であるために。
真っ先に突進してきたのは、ドレイクだ。昨日からの鬱憤がたまっていたのだろう。目を血走らせて繰り出された拳は、早い。自尊心は伊達ではなく、実力はある。ただ、あくまでも訓練兵としては、だ。
助走もなく、藤和は跳躍した。天井近くで回転を加え、ルインの隣に着地する。
ほぼ反射的に、ルインは回し蹴りを繰り出すが、着地時に膝を曲げてクッションにしていたのを利用し、そのまま床に這うようにしてよける。
曲げた膝をばねにして跳躍し、ルインの側頭部にきれいな弧を描いて藤和の蹴りがヒットする。とっさに防御のために腕を構えていたが、そのまま吹っ飛んだ。
壁に激突し、立ち上がろうとするが、脳に与えられた衝撃で三半規管が狂い、立ち上がれない。
わずか十数秒の攻防。誰もが唖然とする中、アリサは息をのんで、違う、と小さく呟く。
自分が見たのとは全く違う。過去の記憶と比べれば、目の前の戦いは遊戯にしか映らなかった。
ドレイクは自らのこぶしを見て怒りに震える。
助走もなく驚異的な跳躍力で天井近くまで飛んだと思われた藤和だが、その実、ドレイクの拳を足場に跳んでいた。
そのことが、ドレイクの怒りと憎悪を増長させる。
両腕を組んだまま、立つ姿にはさっきの攻防の余韻はない。背を向けていた三人の前から、ふいに姿がかき消えた。
瞬きの時間。
まさにその一瞬の隙に、藤和はソレイに肉薄して足払いをかけた。その時になってようやく、ソレイは自分の至近に藤和が迫っていることを理解した。
体制を崩して倒れるわずかな間に、トゥリが背後から仕掛けるが、それが届くよりも早く、藤和の膝がソレイの脇腹にめり込んだ。
ミシリ、と骨がきしむ嫌な音が響いたが、藤和の表情は変わらない。わずかに滞空したソレイを押しのけるように、脛で蹴る。ほぼ同時、足払いによって今度は藤和が宙に浮く。そこに、ドレイクが殴りかかってくる。
それに、藤和の口元に意地の悪い笑みが浮かぶ。
一見、連携しているように見える行動。実際は、それぞれが勝手に動いた結果、偶然にも連携しているような動きなっただけにすぎない。
だから、倒されたルインやソレイを助け、受け止めようともしなかった。
唯一、トゥリはパートナーであるソレイを思っての行動をおこしたが、結局は間に合っていない。
そんなもの、藤和にとっては烏合の衆、相手にすらならない。
自分に向かってくるドレイクの瞳に、自分に対する深い殺意を見ても、藤和の笑みは変わらない。子供じみた怒りと殺意など、いっそ滑稽でしかない。
身動きの取れない中空にいる藤和が、一撃をくらうとアリサ以外の誰もが思った。
アリサは、脳裏に五年前の戦いを思い出していた。あの時、藤和は一体の重装騎兵を倒した直後という不安定な体勢で、相手を地に伏せさせた。あまりにも早すぎる動きを追えず、何が起きたのか全く分からなかった。だからこそ、不安定さはたいした意味を持たず、藤和は余裕で勝つと理解していた。
いっそゆったりとした動きで藤和は足を動かした。次の瞬間、誰もが目を見開いた。
足の指先は、ドレイクの突き出される腕、その肘に触れ、再び足場にして跳んだ。ありえない動作だ。
華奢でか弱そうな外見の下、強靭でしなやかな鍛えられた筋肉を持っているからこそできた、常人には不可能な技。自らの身軽さと柔軟性を最大限に生かした、藤和にしかできない芸当である。
ドレイクの頭上で体をひねって姿勢を正し、後方に着地する。同時、二度も屈辱を味わったドレイクが鬼のような形相で振り返る。が、それを予測していた藤和によって、脇腹に強烈な蹴りをくらって吹っ飛んだ。
人間離れした動きに唖然としていたトゥリに、わずか一歩の踏み込みで迫り、鳩尾に膝をたたきこむ。
全員、痛みに悶絶し、立ち上がれない。全員戦闘不能状態だ。
動けない様子を見まわして、藤和は物足りなげに眉を寄せて腕を解く。
両腕を封じても、四人は一撃で沈んでしまった。
「ハンデの意味がないだろう…」
隠しきれない落胆が込められた呟きが落ちる。
「で、不満のある者は?」
ため息混じりの問いかけに、全員が一斉に首を振る。その中で一人、アリサは嬉しそうに、満足そうに笑っていた。
これ以後、彼らが藤和に不平を洩らすことは一切なくなった。