二
居住区と政治区の間は、高位の官吏や軍人の屋敷が密集している。そのためか、屋敷街と称されている。
その一角、趣向を凝らした造りをしているが、周りの屋敷と比べるとふたまわりも小さい。
ここは、シルファの屋敷。庶子とはいえ、王族男子の屋敷としてはあまりにも地味すぎる。
本人は住みやすさ重視なので、このこじんまりとした屋敷を気に入っていた。
「お帰りなさいませ。お方様」
「ただいま。いい加減、その呼び方やめてくれないか」
「良いではありませんか。いずれ、誰しもがそう呼ぶようになります」
屋敷で藤和を出迎えたのは、五十過ぎの女性だった。彼女は、シルファの母の友人であり乳母のリリーサだ。
リリーサは、藤和のことを主の妻の呼称で呼ぶ。それに毎度困りつつ、同じやり取りをする。使用人達がその様子を、微笑ましそうに見るのもいつものことだ。
「あのバカは?」
「お部屋にいらっしゃいます。陛下からの手紙が届いておりました。……何か、ございました?」
「面倒事を押し付けられた。今度、きつく言っておいてくれ。リリーサの言葉一番効くだろうから」
「そのような……。あの方の心に届く言葉は、真実、お方様の言葉だけですよ?」
リリーサはゆったりと微笑む。いぶかしげな藤和に、笑みを深くする。
「そうだったら、こんな苦労はしない。…食事はあいつの部屋で取る。一緒に持ってきてくれ」
「かしこまりました」
階段をのぼりながら告げれば、丁寧な一礼が返される。
屋敷内で最も広い、主人の居室に断りをもなく入ると、その背中にのしかかった。
「陛下から、なんだって?」
「……藤和、気配を消すのはやめてくれ。そもそも、警戒する必要はないだろう」
「くせなんだよ」
細い腕をシルファの首に回す。
後ろから見れば、華奢な少女が年上の恋人に甘えているように見えるだろう。だが、実際は、回された腕はぎりぎりと首を締めあげている。
最初は余裕だったが、徐々に苦しくなり、腕を叩いて限界を訴える。藤和は不満げな表情で離れる。それは、別に甘え足りないからではなく、もっと締めあげたかったからだ。
手紙の横に白紙の便箋を並べているその手元を一瞥する。
「内容は聞いてもいいのか?」
「いつもは平気で覗き見るのに、どうした?」
「いつもなら、私が見ようとしても隠さないだろう」
「ああ、なるほど…」
無意識での行動だったのか、わずかに苦笑を浮かべて納得したように頷く。
「少々、やっかいごとが、な…」
「戦争か」
「に、なるかもしれない。すぐにではないが。その為に、外務大臣が向かった」
恐ろしいほどの緊張をふくんだ声に、藤和は鋭く察知する。
「……戦争は、嫌いだ」
「好きな者は、ごく少数だろう」
「人が死ぬ。街が、壊れる……」
戦争が起きれば、全てが無にのまれて消える。何も残らない。それを、藤和は身をもって知っている。
かつて、自分の故郷が滅んだ時を思い出し、痛みをこらえるように瞼を伏せる。
知らずにうなだれる藤和の頭をなでて、便箋を追って封筒に入れる。封蝋を押す。
紋章は王族だが、封蝋の色は王族の物ではない。少々奇妙なそれを従僕に渡して、背伸びをする。
「人は死ぬ。どうあがいても、人は死んでしまう。どうしようもないことだ」
必然の事実を、感情のこもらない声が告げる。どうでもいい、とすら思っているように感じられる。
藤和は膝を抱えて顔を伏せる。
その様子に、シルファは苦い物を含めながらも柔らかい笑みを浮かべる。藤和以外に向けることのない、慈愛に満ちた温かいもの。
「一つでも多くの命を救い、滅びから遠ざけるために、軍人であることを選んだんだろう?なら、そうすればいい。俺は、お前のありのままを受け入れるよ」
普段の、からかいを含んだ軽いものではない。優しさと慈愛を含んだ深い声音に、ゆるりと顔を上げた藤和は小さく笑う。
藤和は知っていた。
シルファは、王族の末端に生まれ、幼くして軍に入り功を上げ、若くして特殊機動部の長となった。生まれながらの重責、選んだ道の困難さ、それらを背負う肉体は屈強ではない。その為に軽視される。貴族には蔑視され、軍政の官吏には疎まれる。
それらの厳しい環境の中、他を信じることなく、寄せつけようとしなかったシルファが、唯一心を許し執着しているのが、自分だけだと…。
母代りであるリリーサは別格として、大切にされていることを理解していた。
そして、生涯、不変であろう事実を知っている。
藤和にとってはシルファが、シルファにとっては藤和が、唯一無二の存在である、と……。