〜温もり〜
窓から吹き抜ける潮風が鼻をくすぐり、髪を優しくなでる。ふわふわと膨らんでは、パタパタとはためくカーテンの擦れる音に目を開けると、洗いたてのシーツの匂い臭いがした。
(ここは・・・・・)
知らぬ間に見覚えのない場所に寝かされているのだ、戸惑うのも無理はない。状況を整理しようと記憶を遡るが頭痛のせいか、なかなか場面が繋がらない。
(たしか俺・・・・・)
蘇る記憶に溜め息を漏らす。あの不様な失態が夢ではないと動かない四肢が物語る。情けねぇ。見たくもない現実に再び深い溜め息をつく。と、ガラリとドアの開く音がしたかと思うと竹編みの籠を持った男が姿を現した。
「やぁ、今お目覚めかい?」
見覚えのある癖毛の男がニッコリと微笑んだ。
「あんたは・・・・・」
名も知らぬ恩人は思い出したかのように自己紹介をした。
「ああ。僕かい?僕ぁテオ。テオ=ジャックハウンド。君は?」
「・・・・・ロジャー」
愛想なくロジャーがボソリと答えた。明るく陽気な男の振る舞いは沈んだ心をより深みに引きずりこむ。男は竹籠の中からリンゴを一つ取り出すと早速ナイフを片手に皮を剥き始めた。
「いやぁ〜危ないところだったなぁ。怪我の容態を考えたら無事とは言えないけどさ、命に別状はなくてなによりだ。
あ、僕は先月この街に着いたんだけどね、なかなかいい所だよね。活気はあるし港は綺麗だし。それになにより子供が」
「帰れ」
男の手がピタリと止まる。悲しげな遠い眼差しでロジャーの顔を見つめる。まるで心の奥底の真意を確かめるように。
「帰れ。助けてくれたことには感謝する。だけど余計なお世話だ。帰れ」
男の顔に笑みが戻ったかと思うと再びリンゴの皮剥きに取り掛かった。邪険にされたことを気にも留めていないかのようなその態度が余計苛つく。
「連れないなぁ。せっかく出会ったんだからもっと仲良くしようよ。ここ来て日が浅いからさ、まだ友達いないんだよな」
「何が目的だ?身寄りのないガキ手なずけてどうしようってんだ?てめぇに助けを求めた覚えねぇぞ!」
ギラギラした目を真っ直ぐ向けてきっぱりと吐き捨てる。何者も寄せ付けないような凜とした眼差しに男は肩を落とした。
「別にそんなんじゃないさ・・・・・。ただ助けたかった。それだけさ。それとも何かい?人を助けるのに理由がいるのかい?」
さっきまでのふわふわした態度こそ失せたが男の目も真剣で、嘘偽りなど微塵も感じられない。だがロジャーは相変わらず冷たい言葉をテオに投げ掛けた。
「要るね。新参者だか知らねぇが利益なしには誰も動かない。ここはそういう所で、そんな奴らの溜まり場だ。あんたが知ってるのは上っ面の綺麗な部分さ。だからアンタは信用出来ない。これ以上借りを作るなんてまっぴらだ。だから帰れ。今すぐに」
これ以上は何を言っても無駄だと悟ったのか、剥き終えたリンゴを切り分けて皿に乗せると、男は何も言わずに立ち上がった。
男が部屋を立ち去るのを見届けると、一気に肩の力が抜ける。はぁ、と一息つくと再び天井を仰いだ。
「情けねぇ・・・・・」
この怪我もそうだが、何より助けられたという事がロジャーの心を暗い淀みの中に蹴り込んだ。 きっとあの男の善意は本物だったのだろう。だが、この街で生きる以上信頼や友情こそが最も恐れるべきものであり、不要なものだ。ましてこの鍍金で塗り固められたこの街で人を信じるなど命を明け渡すようなものだ。
大人たちの薄汚い素顔を少年はよく知っていた。そして一度甘い言葉に乗ってしまえばどうなるか。信じれば最期。非道にならなければ生きてはいけない。そう胸に誓っていたはずなのに・・・
堅牢な意志が揺らぐ。人に触れるなど何年ぶりだろう。男の温もりが、忘れていた温もりが甦る。
信じてみたい。あの眼差しを。触れていたい。あの温もりに。その眩しすぎる現実が、例え叶うことのない幻想だとしても・・・・・。
ふと窓の外を覗くと紅の帯を携えて、金色の陽が地平線の彼方に沈まんとしていた。対の空には月が淡い光を放ちながら闇夜に座す。冷たくも温もりに満ちたその光に思わず笑みを零した。
「久しぶりだな、ベッドで寝るなんて」
皮肉混じりの感謝を月に重ねた男の影へと向ける。
その夜、ロジャーは記憶から失せた両親の温もりを抱いて寝床へと着いた。