〜涙〜
・・・・・ッ・・・!・・・・・ノ・・・ゥ・・・!・・・・・
声が聞こえる。猛るような怒鳴り声が。何だ?何を言ってる。聞こえない。
ォ・・・き・・・・・?!・・・・・な・・・ゃ!・・・・・
わからない。聞こえない。すぐ頭上から聞こえて来てるはずなのに、その声はノイズ混じりの電波のように遠く霞んでいた。
声に反応して体が動く。いや、動こうとするがまるで自分の身体ではないかのように、指先一つ動かない。まるで重い鎖に絡め取られたかのように。
必死にその見えない鎖から抜け出そうとあがくが全く体は動かない。ただ雑音にも似た叫びだけが響き渡る。
と、突然体がフワリと浮いたかと思うと次の瞬間、何か硬いものが背中にブチ当たり、衝撃が体中を駆け巡る。だが不思議と痛みはなく、衝撃が治まればまた体は動かなくなった。
(何なんだよこれ。何言ってんだ?聞こえねぇよ。何で俺の体は動かない?どうなっちまってるんだ?俺はどうなったんだよ・・・・・!)
暗く、カビ臭い裏通り。日は当たらず、地面はひんやりと冷気を帯び、ジメジメした壁の隅をネズミが走る。ガツンと鈍い音がしたかとおもうと深紅の鮮血が辺り一面に飛び散り、耳をつんざくような罵声が狭い路地に木霊する。
「オラァ!何か言えやコルァ!勝手にくたばってんじゃねぇぞ!詫びはどうした詫びはぁ!」
眉間にシワを寄せ、こめかみに血管を浮き上がらせ男が怒鳴る。長く伸びた右腕が掴んでいるのは、生気を失い、血にまみれた少年の胸倉だった。
掴んだ胸元を引き寄せると、血に濡れた少年の額に男の額が押し付けられた。怒りに任せた滑稽な阿保面がぼんやりと、そして次第にはっきりしていく。男の顔がはっきりと眼に映ると、少年は自分の身に起きた事態をようやく理解した。
そうだ・・・・・確か古い骨董屋に盗みに入って・・・・それで・・・・・
それでこの有様だ。情けない。思えば“契約者”を相手にしたのが運の尽きだった。
現状を理解すると少年の腕がピクリと動く。震えながらもゆっくりと持ち上げられた右腕が男の手首を掴む。震える拳にもはや握力はない。残された気力は言葉となって男に食らいつく。
「・・・どうした・・・・・もう終わりかよ・・・掛かって来いよ・・・・・ブタ野郎・・・」
男の拳が横っ面にめり込む。折れんばかりに首が曲がり、衣服がさらに赤く染まる。吹き飛ばされた少年は力なく壁にもたれかかると、ズルズルと腰を落とす。
持ち前の強がりも一言足りとも出ては来ない。もう意識を保つので精一杯だ。その意識もたった今、男の手によって掻き消されようとしていた。
「もういいや。面倒臭ぇ。“いらねぇ”よお前。燃えて失くなっちまえ」
男が少年の頭をわしづかみにすると、右腕の入れ墨が暗く光り始めた。紫に輝くその刻印が突然男の腕を離れたかとおもうと、一塊の羅列となって腕の周りを回り始める。
「あばよ糞ガキ。ママによろしくな」
男の腕がゆっくりと熱を持つ。鉄板のように赤熱する右腕が少年の額に灼けつく。腕はさらに温度を上げ、ついに発火しようとしたその時、男の体が横に吹き飛んだ。
間一髪けし炭を免れた少年は驚いて虚なその眼を頭上の人影へと向けた。
跳ねた茶色い癖毛、キラリと輝く丸眼鏡にねじり鉢巻き、“大漁”と描かれた青い着物と前掛け、握られた鮮魚・・・・・
(魚屋さん・・・?)
呆気に取られる少年にオッサン口調の魚屋さん(?)が優しく語りかける。
「大丈夫か少年。今すぐ病院に連れて行ってやるからな」
白く輝く歯を煌めかせて青年がニッコリ笑う。と、突如襲い掛かってきた火の玉が青年を血で汚れた壁に叩きつけた。石壁がガラガラと焼け崩れる。
まずい、今のはでかい!下手すれば死に兼ねないサイズだ。青臭い正義が余程気に食わなかったのか、男が歓喜に打ち震える。
ガラリ・・・
男の表情が一変する。爆炎と砂煙の影からゆっくりと青年が姿を現す。馬鹿な!いくら最下級と言えど仮にも“契約者”の全力だぞ?!無傷なんて有り得ない!
クイと眼鏡をかけ直すと落とした魚を拾い上げる。火傷どころか擦り傷一つない青年の顔を見て男が恐怖する。
ベチン!
男が吹っ飛び仰向けに倒れ込む。すかさずマウントポジションを取ると青年は鮮魚を振りかざした。
「お!ま!え!は!子供!相手!に!なに!を!してん!だっ!」
ベチン!バチン!と重厚な鈍い音が響く。男の顔がみるみる腫れ上がり、魚のぬめりで顔面がテカる。次第にぴくぴくしていた男の手足が動かなくなった。魚屋さんはまだ不満そうな顔で立ち上がるとボロボロになった少年に駆け寄った。
酷い有様だ。火傷に打撲、打ち身による出血に骨折。左目に到ってはパンパンに腫れ上がり目も開けられない。
「おい!大丈夫か!?」
コクリと頷くがいまいち意識がはっきりしない。まだ目の前の光景が理解できないのだ。男の手が少年を優しく包む。
「ったく!馬鹿かお前!契約者相手に丸裸で喧嘩売るなんざ聞いたことねぇぞ!危うく死ぬとこだったんだぞお前!」
ブツクサ文句を垂れながらも一心に手当てに臨む。
何やってんだこの人。助ける相手が違うだろ。俺は盗みをしてトチっただけだ。被害者はそこでのびてるオッサンだろ?
理解し難い現実に戸惑う。今まで自らの意思で自分に触れようとした人間なんていなかったから・・・・・。さ迷う視線が男を捉らえる。熱心に自分を介護する男の目に嘘偽りなんてものは微塵も感じられない。
何故?どうして助けるの?ワカラナイ・・・。なぜ・・・?何故・・・?ナゼ・・・?
突然の出来事に心が着いていかない。考えれば考える程男の腹の内を読もうとしてしまう。
どうせ/また/どうして/裏切られる/こいつも/助ける/偽善者め/使われる/やめろ/信じるな/嘘だ・・・!
握る拳が熱を帯びる。心が悲鳴を上げ、脳内で罵声が轟く。信じるな!男の腕を振り解こうと力を篭めると男が呟いた。
「・・・辛かったよな」
男の頬を雫が伝う。それと同時に全身の力が抜ける。わけわかんねぇ。なんでアンタが泣いてんだ?
この男が何を考えて俺を助けたのかはわからない。何を想って涙を流しているのかもわからない。そして何故俺の目から涙が零れてくるのか。
男の泣き顔を引き金に十数年の感情が涙となって弾けた。柄にもなく声に出して泣きじゃくる。恥ずかしい事この上ない。必死に涙を隠そうとしたけれど、溢れる涙を止める術を俺は知らなかった。