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うすっぺらのパンドラボックス

作者: 月水

 言葉さえ通じればどうにかなると思っていたのに、同じ人間でさえ思っていることは半分も伝わらない。文字なら尚更のこと。それなのに、なぜこんな確実とはいえない方法をとるの?

 職場のロッカールームにて。仕事が終わってやれやれと鍵のかかっていないマイロッカーを開けると、ひらりと一枚の手紙が降った。給料明細はこの間もらった、辞表なんて書いた覚えない。となると、これはいったい何?

 痛む腰を折り曲げてよっこいせと拾い上げると、手紙の裏には細いペン字で私の名前が書いてあった。おいおい、書くことが違うだろう。私の名前じゃなくて自分の名前を書きなさい、送り主様。かばんを床に放りだして、無造作に糊付けしてある封筒を破いた。端が少し欠けたがまあいいや。

 小心者が書いたような小さな弱弱しい文字に見覚えはない。一年も仕事をしているとそれなりに同僚の書く文字の癖は覚えてくるものだが、これに該当する汚い字の同僚などいない。さすがに他の部署の人間までは把握できていないが、そもそも他の部署とは顔見知りになるほど交流がない。

 手紙に書かれていたのは、たった一言。


「恋をしてみませんか?」


 もう一度封筒を見返し、便箋を封筒に戻してカバンに入れた。本当は更衣室のゴミ箱に捨てたかったが、掃除のおばさま達のうわさの的にはなるのはゴメンだ。自室にはシュレッダーもある、廃棄するなら徹底的に隠滅しよう、そうしよう。

 明日使うための着替えを入れてロッカーを閉め、鍵をかける。会社といえど人数もそれほどいない、金目の物もいれないし盗みなど働く人間もいないド田舎だしとロッカーに鍵をかけたことはなかったが、こどうやらその考えは甘かったらしい。後ろで一まとめにした髪を解いて、カバンを担ぎなおした。

 ため息ひとつ、もう希望なんてパンドラボックスの片隅にさえ残っていない。色恋沙汰など起こるはずもない、私はそういう女だ。


 夢の中で目が覚めた。そんな風に思ったのは、五感があまりにも不明瞭だったからだろうか。ぼんやりとした視界で、毒々しい赤と黒のタイル張りの床がひどく目障りに映る。座っているのは細い針金のような細い椅子、テーブルはガラスで透明な水をたたえた淡い水色の装飾が美しい水差しとグラスが鎮座している。

 なにこの場違いな……。目を擦ると、目の前で何かが動いた。目の前にいたのは白いウサギの顔をした執事姿の異形の生物。悲鳴をあげるまでもない、これは夢だから。許可をとることもなく、目の前においてあるグラスに水を注いで、一気に飲み干す。ほら、やっぱり。味などしない、水がのどを潤すこともない、ただ水を飲んだという動作だけが手に残る。


「私の手紙は読んでいただけましたか?」


 ウサギ男がにやりと笑った。文字通り、にやりと。小学校でウサギの飼育係をしていたが、ウサギが笑ったのを初めて見た。


「名前も名乗らないようなモノの手紙なんて知らない」


 ガラスを叩き割る勢いでおいたグラスは、ヒビひとつ入らない。


「恋をしませんか、と」


「ウサギはどうか知らないけれど、人間は相手がいないと恋愛なんてできないの。その辺の人間と交尾なんてできない高尚な生き物だから」


「もし相手が現れたとしたら」


「あなたがあつらえて下さるの?まるでブリーダーのようね、ステキな話」


 皮肉交じりに笑いかけると、ウサギもくふくふと肩を震わせて笑った。腹立たしい、少しでも不快な顔を見せてくれればそれなりに面白いのに。

 足を組んで、少し顔をあげて見下すようにウサギを観察する。人間サイズのウサギなど気持ちの悪い。こんな夢を見るなんて、ストレスでもたまっているのかしら。


「あなたはとても皮肉屋のようだ」


「夢のなかでなら何でも言える、ウサギなら尚のこと。この夢は私の物だからね。」


「そう、この夢はまだ貴方のもの。」


「ずっと私の物よ。」


 くふ、とウサギが笑う。


「そうでありますよう、願っております。」


 深く頭を下げるウサギに、机を蹴って目を閉じる。なんという無駄な夢、無駄なやりとり、無駄な時間、無駄な生き物! 愛玩動物は哀願動物らしく、檻の中で人間様に媚でも売っていればいいのに。

 ……ああ、そうだ。明日の晩はシチューにしよう。昔のヨーロッパ人になぞらえて、肉はチキンを代用して。

 くふくふと笑うウサギの笑い声に、あははと笑ってみせた。


 



 今日はお休みだからいつまでも寝てていいんだけれど。昨日の夢など忘れてしまって、どこか一人で遊びにいこうか。新しい本を読みにいくのもいい。服を買ってもいい、靴を買うもいい、そうだ、晩御飯の食材を揃えなくては。

 朝ごはんを手早く済ませ、ジーンズとTシャツ、上着を羽織って外に出る。いつも行きなれたショッピングセンターはいつもと同じように混んでいて、それでいてとても無関心な光景だった。誰がどこを歩いていても、私には関係ない。私には意味ない。

 カフェに入ってコーヒーとクロワッサンをひとつ。新しく買った小説を開いて読んでいたときだった。


「あれっ、もしかして鈴木さん?」


 耳慣れない低い声が頭の上から降ってきて、顔をあげると驚いたような表情の男が立っていた。誰よ、と思う間もなく空いている目の前の椅子に座る。


「覚えてるかな、俺だよ俺。中学校のときクラスが一緒だった平田だよ。」


 ヒマワリのようなと形容するのがふさわしいような天真爛漫な笑顔。少しまぶしいような笑顔は、昔の楽しかった日々を思い出すのに十分だった。世間に押し流されることもなく大事に大事に籠の中で育てられていた学生時代。私は誰からも浮いていて、女同士のおしゃべりも男同士の戯れにも入れずにいた。愛想が悪いわけじゃなかったから、誰ともそれなりに付き合っていたし話もしていた。その中の一人。大多数のクラスメイトの中の一人。特別な感情を持つこともなかった、男子クラスメイトのうちの一人。それ故に思い出すのに数刻を要した。


「あー、中学の時の。久しぶりだね、誰かと思った。」


「いやー見覚えのあるやつが座ってるからさ、懐かしくなっちゃって。元気だった?今なにしてんの?」


「しがない会社員よ、不況で嫌になるね」


 話を聞くことはたやすい。相手の望むように会話をして、ところどころにジョークと皮肉を盛り込む。相手が笑えば、それで掴みはオッケー。あとは流れるように会話を続けていけばいい。とめどない話は昔話から政治経済、はては一人暮らしの愚痴から苦労、仕事場の不祥事まで広がった。よほど話相手に飢えていたのか、話の熱の篭りように笑いがこぼれる。気付けば二時間が経過していた。


「ところでもう結構な時間話込んでいるけれど、時間は大丈夫?」


「ああ、本当だ。ゴメンな、時間とらせて。」


「気にしないで。私でよければなんでも聞くから。」


 人の役に立とうとする人間は他人にとって都合のいい人間だと、知っている。どこでどんな繋がりがあるかわからないから、良い人間だと思わせておくのは得策。微笑だけは人の良い笑顔を浮かべて、心で唾を吐く。いい加減にどっかいけ、喋る時間つぶし機が。

 そんな祈りが通じてか天真爛漫な笑顔と携帯アドレスを残して、はた迷惑な人間は去っていった。やれやれ、もう小説を読む時間は無いみたい。荷物を纏めて、夕食のご飯を買い込んで家路についた。

 夕食のシチューをピーターラビット柄の器に盛りながら、ふと思う。あのウサギはあの男を私の相手にあてがおうとしているのか。生まれてこの方恋のコの字も知らないようなこの私に、そんな愚行を。ウサギのくふくふと笑う声が聞こえたような気がして、口の中の鶏肉をギリリと噛み締めた。







 再度連絡が来るのにそう時間はかからなかった。何度も連絡が来て、何度もどこかに誘われて。そのたびに用事があると断った。なぜそう執拗に連絡が来るのか、飲み会に、合コンに誘おうとするのか。ため息をついては電話をきり、頭を巡らせてメールで断りを入れ、思案する振りをしては謝罪の電話を入れた。大丈夫だよ、気にしてないよ、また今度ね。そういわれるたびに思う。どうして次があると思う。いっそ冷たく突き放してしまおうかと思ったが、実家に話がいくと親からお叱りの電話が来る。それはそれで面倒だった。とにかく一度、会ってしまおう。

 

 ……それがいけなかった。


 あれよあれよと言う間に月日は立ち、距離は縮まり、声は届き、私の本性も知れて。無関心な私を現代病だと称した彼は、ますます私に構うようになった。誰のせいでもないのに、誰に構ってほしいわけでもないのに、包み込むような感情を注ぎ込む彼がいつしか本気で疎ましくなった。メールを、電話を無視すると休日は部屋に尋ねてくる。追い出すこともできないから部屋に招き入れると、手土産のお菓子や洋菓子を広げて話したり映画をみたりするのだ。どうして放っておいてくれないのか。ひどい言葉を浴びせることは無かったが、冷ややかな視線で抗議することは忘れなかった。

 その日々の触れ合いの中で、ごく自然に触れてくる彼の手を振り払うこともできずにただ態度と視線だけで拒絶をしつづけられるわけもなく好きだとも嫌いだともいえずに、ただ悶々とした日々をすごし続けた結果。

 触れられた唇を、嫌悪感もなく受け入れることができた。まるで何のことも無い、いつもの事だと言わんばかりに為されたその行為は、なんの感慨も無く生活の一部として受け入れられた。お互いその事に関して意見を交わすことも無く、映画の続きに視線を戻す。心臓踊ることもなく、ああ、やりたかったんだとただそう思うだけだった。胸躍ることもなく、少女のようにトキメクこともなく。

 一呼吸の間に、押し倒されて天井を仰ぎ。肺を押されて吐いた息は、空気にとろけた。





 過去の夢を。

 現世の夢を。

 来世の夢を。

 約束の夢を。


「これが貴方の夢、ですか。」


 赤黒タイルに転がった私を、ウサギが見下ろしていた。ウサギの手には黒い影を孕んだ球体。おぼろげながらに理解したのは、あの球体が私の夢だったということ。くふくふと笑ったウサギがその球体を眺めて目を細めた。


「誘惑しても躍らせても面白くない。なんとうすっぺらい人間。なんとつまらない人間。」


 ウサギとかち合った視線は揺らがない。ただ流されるように冷たいタイルに体を預けて、裸体を晒すことに羞恥も沸かない。どこから堕ちたのか、自分でもわからない。ずっとずっと一人で生きていくつもりだったのに、どうして気付かせた。どうして、自分がつまらない人間だということを気付かせた。一人で生きていけば見ない振りをしていられたのに。唇から紡ぐ皮肉と欺瞞だけで生きていけたのに。


「夢を植えつけて狂わせたのはアナタじゃないの」


「選んだのは貴方だ。これはもう貴方の手を離れた。この夢は私のモノ、私のモノ。貴方の箱の中に入っていたのはこんなに黒くて浅いモノだけだった。それは全て貴方が選択してきたもの。貴方の生きてきた全ての時間の中で、貴方が培ってきたもの。そんな酷いものでも、私は必要としている。」

 

 くふくふ、くふくふとウサギの声だけが聞こえる。

 くふくふ。くふくふ。

 口の中に、甘い鶏肉の香りが広がった。

 

 もう目を覚ます必要なんかない。もう隣には誰もいないのだから。

 胡蝶の夢、夢の中の夢の夢、全て私が選んだこと。

 誰とも表面でしか関わってこなかったこと、全て私が選んだこと。

 

 

 希望すら入っていなかった。

 









 

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