3.悪魔の噂
シカやら馬やらを笛で次々と呼び、彼らに順にまたがっては、街道をのんびり進んでいく。誰にも出くわさない旅は、とにかく気楽だった。
時折道端の草を摘み、水場を見つけたら水を補充して、さらにどんどん進む。日が傾いてきたら獣と別れて、摘んだ草とリュックの中の食料で腹ごしらえをする。
ひたすらに、順調な旅だった。数日が過ぎ、あまりにも何も起こらなさすぎて少し退屈しかかったころ、ひなびた村が行く手に見えてきた。
そろそろ食料が残り少なくなってきたし、あそこで調達しよう。畑仕事を手伝えば、たぶん何かしら分けてくれるだろうし。
乗っていたシカを森に返し、自分の足で村に近づいていく。しかし村の姿がはっきりと見えてきた辺りで、自然と足が止まってしまった。
「……えっと、これは……」
その村には、異様に重く張り詰めた空気が満ちていたのだ。めったに旅人などやってこないだろうに、村人たちは私の姿を見ても驚きもしない。ただうつろな目を、こちらに向けているだけだった。
怖い。何がどうなってるのか知らないけれど、この村、怖い。危ない。
ここには関わらないほうがいいだろうなと背を向けかけたそのとき、静かな声に呼び止められた。
「もし、旅のお方」
そろそろと振り返ると、村の人たちがこちらに注目していた。じっとりとまとわりつくような視線に、寒気がする。
これは、近づくべきではなかったかな。呼び止められたことに気づかないふりをして、さっさと立ち去ってしまうべきだったかも。
とはいえ、立ち止まってしまったものは仕方がない。仕方なく、手招きされるがままそちらに歩み寄っていく。
私に声をかけてきたのは、杖をついた老人だった。他の村人たちより、ちょっとだけきちんとした格好をしている。
彼はこの村の長老と名乗ると、私の姿を上から下までじっくりと眺めていた。ううん、あの領主の色ボケした視線とは違うけれど……これはこれで、嫌な感じだ。
「旅のお方……うら若き乙女の身でありながら、ただひとりで旅をしておられるとは、なんとも珍しい……きっと、多少のことには動じない、強い心を持っておられるのでしょうな……」
長老が言うとおり、女の一人旅はとても珍しい。もちろん、あれやこれやと危険なことが多いからだ。
とはいえ私にはあの笛があるから、森の近くであればいつでも獣たちの助けが得られる。なのでいたってのんびりと旅をしていたのだけれど、やっぱり事情を知らない人たちの目には奇妙に映るらしい。
「あなたほどの方であれば、きっと悪魔ですら追い払えるのでしょうなあ……」
「悪魔、ですか?」
突然、長老が妙なことを言い出した。悪魔って……なにそれ。
にわかには信じがたい内容に、ついつい眉間にぎゅっとしわを寄せてしまう。けれど長老は、気を悪くした様子もない。
「はい。村の者が、見たのです。森の奥にいた人が、獣へと姿を変えるところを」
彼は大げさに身震いしながら、さらに語っている。その声が、どんどん熱を帯びていた。
「遠くて、はっきりとは見えなかったようなのですが……それは見上げるほど大きく、毛皮は闇よりも暗く、目はらんらんと輝いている、この上なく恐ろしげな姿をした、オオカミのような獣だったとのことです」
人が獣に変わった。それ、気のせいじゃないかな。たまたま、人が立ち去った直後にオオカミがやってきたとか、そんな感じで。
とはいえ、それをそのまま説明したところで納得してくれそうな雰囲気でもない。この村の人、信心深いんだろうな。私とは違って。
「私たちは恐ろしくて、夜も眠れず……いっそいけにえを捧げ、悪魔が暴れぬよう頼む
ほかないかと……」
「いけにえぇ!?」
またしても聞こえてきたとんでもない言葉に、裏返った声が出た。悪魔が怖いというのは、まだ分からなくもない。しかし何をどうやったら、そこまでぶっ飛んだ発想が出てくるのか。
「ああ、どなたか悪魔を、追い払ってはくれないものでしょうか……村の恩人として、誠心誠意お礼をいたしますのに……」
全力であきれている私をよそに、長老は心底困り果てた顔で頭を抱えている。しかしその合間にちらちらと、横目でこちらを見ていた。しかも周囲の村人たちも、すがるような目を私に向けている。
面倒ごとの気配。それも、とびきりの。というか悪魔退治なら、こんな乙女じゃなくて兵士とか傭兵とか、もっと分かりやすく強い人に頼んだほうがいいと思う。
「ここは見てのとおり田舎の村、村の男たちは戦いかたなど知らず、旅人などめったに通りがからず……」
まるで私の考えを読んだかのように、長老が付け加えた。
私は、悪魔なんてこれっぽっちも信じていない。そもそも長老の話からすると、その黒いオオカミはただ見た目が怖いだけで、特に悪さをしている様子もない。
だったら、普通のオオカミと同じように追い払えるのではないか。こっそりとあの笛を使えば、それも十分に可能だろう。
少しだけ悩んで、そっと口を開く。
「……一応、悪魔がどの辺りに出たのかだけ、聞いてもいい? その、遠くから様子を見てくるくらいなら……」
次の瞬間、その場の全員がほっとしたように息を吐いていた。ああ、やっぱり面倒なことになったなあと思いながら、あいまいな笑みを返した。
悪魔が出たという場所を聞いて、そそくさと村を離れ、森に分け入っていく。問題の場所は、森のかなり奥にあるようだった。
木々が生い茂っていて前がろくに見えないし、そもそも道がない。ナタを振るってやぶを切り開きながら、適当に進んでいく。
「……あら……?」
しばらく突き進んだところで、何か大きなものの気配を感じて立ち止まる。獣の気配……とは違うような気もする。まさか、本当に悪魔が? いやいや、そんなはずはない。
音をさせないように気をつけながら、気配のするほうに慎重に近づいていく。すると茂みの向こう、小さな泉のほとりに若い男性がいるのが見えた。
たぶん、二十代半ばほどだろう。まとっているのは、丈夫さと動きやすさだけを追求した地味なチュニックとズボン、それに革のブーツ。いたってごく普通の旅人といったいでたちだ。
背が高く、ややがっしりしていた青年だ。顔立ちは整っていて、妙な気品がある。雰囲気からすると、ちょっといいところのお坊ちゃん……だろうか。それにしては、身なりが釣り合わないけれど。
彼は切り株のそばにひざまずき、そこに生えているキノコを、とても真剣な目で食い入るように見つめていた。
あのキノコ、汁物に入れるとおいしいやつだ。特に珍しいものでもないのに、なんであんなにまじまじと見つめているのだろう。謎だわ。
しかしながら、腰に届くほど長いまっすぐな黒髪を背中でゆるく結び、長いまつ毛に縁どられた瑠璃色の目でまっすぐにキノコを見つめているさまは、どうにも間が抜けているのに、やけに目を惹きつけるものでもあった。
思わず見とれながら、半歩進み出る。踏みつけた小石がぐらりと揺れて、その拍子にかたわらの茂みに手をついてしまう。
「あ」
がさりという大きな音をさせてしまったせいで、青年がこちらを見た。その顔が、みるみる青ざめた。
「うわっ!」
彼の視線は、私……ではなく、私の背後に釘付けになっていた。
「あ、こちらは気にしないで。事情は説明できないけれど、危険ではないから」
私の後ろには、若いクマが一頭付き従っていたのだ。二本の足で立って、のんびりと辺りを見渡している。
悪魔なんて信じてはいないけれど、それでもやっぱり、未知の森の奥に単身踏み込むのはちょっと怖かった。
なので笛を吹いて、護衛になりそうな獣に来てもらったのだ。とはいえ、クマがのっそりと姿を現したときは、さすがの私も驚いたけれど。
私の言葉を聞いて、青年は身構えつつも小首をかしげている。
「つまり、それは……クマを調教している、ということか?」
「ちょっと違うわ。まあ、いろいろあるの」
これ以上せんさくされたくはなかったので、さらりと流して本題に入る。
「ところであなたこそ、こんなところで何をしているの? この辺りには悪魔が出るって、そう噂されているのに」
そう説明したら、彼の顔があからさまにひきつった。
「悪魔?」
「ええ、悪魔。近くの村の人たちがすっかりおびえてしまっていて、このままだといけにえを捧げてしまいそうなの。さすがにそれはどうかと思ったから、ひとまず様子を見にきたのよ。悪魔なんていなかったわって、そう報告するために」
話しながら、自然と眉をひそめてしまう。
「というかあの人たち、私がいけにえになってくれればいいって、そう思ってた気もするのよね……森に向かうって言ったら、露骨にほっとしてたし」
言葉にこそしていなかったけれど、長老の顔にはそう書いてあった。他の村人は、ひたすらに悪魔を怖がっているだけだったけれど。
思い出しながらため息をついていたら、青年がやけに切羽詰まった顔で尋ねてきた。
「その……ところで、悪魔がどのようなものなのか、もしかして聞いてはいないか?」
彼も悪魔が怖いのだろうか。まさかと思いながら、長老に聞いた話をそのまま繰り返す。
「この世のものとは思えないくらいに恐ろしげな、漆黒のオオカミの姿をしていたって話よ。なんでも、人の姿から獣の姿に変わったとか……そんなこと、ありえないのに」
そう答えたとたん、青年はその場にくずおれた。両手を地面について、がっくりとうなだれている。え、何、その反応は。
「ああ、なんてことだ……」




