第5話:狂気
弓の弦を張り替えるのは、三日に一度と決めている。
使い古した弦を外し、新しい弦を端から通していく。指先の作業に集中する。弦を張り終えるまでの間、この手は弓のためだけに動く。
それ以外の時間、私の手は自由だ。
自由に、近くにあるものに伸びる。薬草。矢の予備。銀貨。他人の持ち物。意識とは関係なく、指が触れ、手の中に収まる。
盗み癖。横領癖。我が君が私に与えた性質。
私の手は、弓を引く手であり、盗む手でもある。どちらも私だ。弓を引く精度がこの手の誇りであるように、盗みの衝動もまた、この手の一部だ。
弦を張り終えた。弓を構え、的に向かって一射。中心から二ミリ右。風を読み違えた。調整して、もう一射。中心。
弓を引いている間、この手は完全に私の意思で動く。
---
冒険者の数が三十名を超えた頃、中層部への本格的な突入が始まった。
外縁部はほぼ制圧した。樹海熊程度なら問題ない。だが、中層部の魔物は格が違う。あの森蜘蛛兵が、中層部では雑兵に過ぎないと聞いた時、矢筒の中身を数え直した。
メルザスを殺した、あの化け物が。
あの日のことは覚えている。メルザスが森蜘蛛兵の前に立ち塞がった時、私は矢筒が空だった。何もできなかった。
メルザスの判断は正しかった。カイルとティアリスの合計レベルロスより、メルザス一人のレベルロスの方が損失が小さい。合理的な犠牲だった。
だが、あの後。
メルザスが復活し、我が君の前に立った時。我が君がメルザスの目を見て、レベルの復帰計画を淡々と組み直した時。あの二人の間にあるものを見て、胸の奥が軋んだ。
あれは信頼だった。言葉にしなくても通じる、揺るぎないもの。
メルザスは我が君と最も長い時間を過ごしている。我が君が目覚める前から、あの老人は領地の状況を把握し、準備を整えていた。最初の報告をしたのもメルザスだ。我が君が最初に名前を呼んだのも、メルザスだ。
私はその光景を、少し離れた場所から見ていた。壁に背を預けて。
――羨ましい、と思った。
---
夜、執務室から声が漏れていた。
廊下を歩いていた時に、偶然聞こえた。立ち聞きは趣味ではない。だが、手が扉の取手に触れてしまった。盗み癖の延長。音を盗む。
メルザスの声だった。
「……狂気の利用です」
狂気。ストレスが限界を超えた者が陥る状態。制御不能になる代わりに、爆発的な力を得る。
メルザスは続けた。
「私は既に一度死んでおります。精神の蓄積が最も大きい。少しの負荷で閾値を超えられる可能性がある」
「狂気状態のお前が味方を攻撃する可能性は」
我が君の声。平坦。感情がない。リスクとリターンを量っている声。
「否定はできません」
短い沈黙。
「採用する。リスクは管理可能だ」
それだけだった。メルザスが命を差し出し、我が君がそれを受け取った。当然のことのように。
扉から手を離した。
自分の部屋に戻り、弓を手に取った。
もしメルザスが狂ったら、止めるのは誰だ。カイルは前衛で魔物を相手にしている。ティアリスは回復に専念する。
残るのは、私だ。
我が君はそこまで計算しているだろう。私の矢が百メートル先の急所を外さないことを知っている。
だが、我が君はまだ、私に何も言っていない。メルザスには直接話し、私には何も。
あの信頼が、また軋みに変わった。
---
三日後の朝、我が君が全員を集めた。
「作戦を確認する」
我が君の声は平坦だった。
「通常通り接敵する。カイルが前衛で引きつけ、リーネとメルザスが攻撃。ティアリスは回復。ここまでは同じだ」
四人が頷いた。
「攻撃が通らないと判断した時点で、俺がメルザスに合図を出す。メルザスは防御魔法を解除し、意図的に被弾する。ストレスを限界まで引き上げ、狂気状態に移行する」
「狂気状態のメルザスは制御不能になる。味方を攻撃する可能性がある。カイル、お前はメルザスと魔物の両方を警戒しろ。リーネ」
名前を呼ばれた。
「メルザスが味方に向かった場合、足を射抜いて動きを止めろ。殺すな」
「了解」
短く答えた。我が君が私を見た。一瞬だけ。それだけで十分だった。
我が君は、私の矢を信頼している。この作戦の要に、私を置いた。メルザスの命を預ける相手として、私を選んだ。
――やっと、回ってきた。
「ティアリス、狂気状態が解除された瞬間にメルザスを回復しろ。解除のタイミングは俺が見る」
「承知いたしました、我が君」
「メルザス」
「はい」
「リスクは説明した。撤回するなら今だ」
「撤回する理由がありません」
メルザスが微笑んだ。穏やかで、合理的な笑み。死を恐れない者の顔だ。
我が君は頷いた。それだけ。謝罪も感謝もない。作戦を決定し、駒を配置した。それだけのことだ。
正しい。我が君はそういう方だ。
---
森蜘蛛兵は、前回と同じ場所にいた。
暗闇の中の異形。四本の脚と八本の腕。のっぺらぼうの白い顔。
カイルが突進した。新しい二重構造の盾が、森蜘蛛兵の腕を受け止める。砕けなかった。
私は矢を三連射した。関節を狙う。三本中二本が脚の関節に命中し、動きが鈍る。前回の記憶が活きていた。
メルザスの火球が顔面に命中した。僅かに焦げ跡。だが、致命傷には遠い。
森蜘蛛兵が八本の腕を同時に振るった。カイルの盾が悲鳴を上げた。もう一撃で危ない。
メルザスの追撃。火球が胴体に三発。だが、傷がゆっくりと閉じていく。再生している。
我が君の声が飛んだ。
「メルザス」
老魔法使いと我が君の目が合った。メルザスが微笑んだ。
「合図を」
「行け」
メルザスが防御魔法を解除した。体を覆っていた淡い光が消える。無防備な老人が、森蜘蛛兵に向かって歩き出した。
私は弓を構えた。
矢筒には十二本の矢がある。メルザスを止めるのに必要な矢は一本。右太腿の外側。大きな血管を避けて、筋肉だけを貫通する軌道。
三日前から計算は済んでいた。
森蜘蛛兵の腕がメルザスの左肩を打った。骨が砕ける音。メルザスがよろめき、膝をつく。だが、立ち上がった。
二撃目が右脇腹を抉った。血が飛び散る。
三撃目。背中を打たれ、地面に倒れた。
メルザスが立ち上がった。
目の色が変わっていた。琥珀色が濁った赤に染まり、瞳孔が広がり切っている。
哄笑が響いた。
「ハハハハハハハ!!」
老人の声ではなかった。壊れた笑い声。杖を拾い上げた手が震えている。力の奔流が、老いた体を軋ませていた。
メルザスは森蜘蛛兵を見た。杖を掲げた。先端に凝縮された光は、通常の火球とは比較にならなかった。
白に近い温度の炎が、森蜘蛛兵を丸ごと飲み込んだ。
甲高い絶叫が大樹海に響き渡った。炎が収まった時、森蜘蛛兵は焦げた殻だけが残っていた。
そして、メルザスが振り返った。濁った赤い目が、カイルを捉えた。
杖が持ち上がった。先端に、再び光が凝縮する。
私は、もう弓を引いていた。
狙いは決まっていた。右太腿の外側。三日前から計算していた軌道。
迷いはなかった。
これは我が君の命令だ。我が君が私に与えた役割だ。メルザスの命を預かる重さではなく、我が君の信頼に応える軽さで、指を離した。
矢がメルザスの右太腿を貫いた。老体がバランスを崩し、杖の先端が明後日の方向を向いた。炎が木々の間を抜け、遠くの幹を焼いた。
ティアリスが駆け寄った。両手をメルザスの頭に当て、白い光を放つ。鎮静の魔法。赤い目が薄れ、琥珀色に戻る。
メルザスが崩れ落ちた。
「……お……我が……君……」
掠れた声。琥珀色の瞳が我が君を見上げていた。
「終わった。森蜘蛛兵は倒した」
「そう……ですか……」
メルザスが微かに笑って、意識を失った。
私は弓を下ろした。
手は震えていなかった。正確に狙い、正確に射った。それだけのことだ。
---
屋敷に戻ったメルザスは、丸一日眠り続けた。
翌日、メルザスが目を覚ましたと聞いた。見舞いに行く理由はない。任務は完了した。
だが、足が病室の前を通った。扉は開いていた。中に我が君がいた。椅子に座り、メルザスの復帰スケジュールを確認している。
「レベルロスはない。狂気の負荷で体は消耗しているが、三日で復帰できる」
「……御意」
「次に狂気を使う場合は、お前ではなくガルドを候補にする。ストレス耐性を比較した結果、流れ者の方が閾値に近い」
「合理的ですな」
メルザスが微笑んだ。我が君が頷いた。
その光景を、廊下から見ていた。
我が君は、メルザスを道具として扱っている。だが、道具の性能を熟知し、最適な使い方を常に考えている。それが、メルザスにとっては信頼なのだ。
私もそうだ。私の矢を信頼し、メルザスの命を預けた。
だが、メルザスと私では、距離が違う。あの老人は我が君の傍にいる時間が最も長い。酒場で我が君の隣に座り、探索の計画を練り、領地の運営を補佐する。
私は屋根の上にいる。一人で。弓を膝に抱えて。
羨ましい。
その感情を、恥じる必要はなかった。我が君が私に与えたものの中に、この感情もあるのだろう。盗み癖と同じように。弓の精度と同じように。
屋根に登った。いつもの場所。風が強い。夕陽が大樹海を赤く染めている。
弓を構え、夕陽に向かって一射。矢は弧を描いて、遠くの木に突き刺さった。
二百メートル。風速を計算に入れて、狙い通りの位置。
この手は、我が君のものだ。弓を引く時も、盗む時も、仲間を射る時も。
いつか、メルザスよりも近い場所に立つ。
そのために、もっと正確に。もっと遠くまで。
弦を指で弾いた。澄んだ音が、夕暮れの空に溶けた。
---
※本作は、最新のAIコーディングツール「Claude Code」を使用して執筆された実験小説です。
執筆に使用したプロンプトや詳細な設定資料は、本作への反響が大きければ後書きや外部サイトにて公開予定です




