君が消えても、音は残った。
8
それから、三年が過ぎた。
その三年は、本当に長かった。でも同時に、本当に短かった。時間というのは、そのようなものなのだろう。過ぎ去ってしまえば短く感じられるが、その時を生きている間は、本当に長く感じられるのだ。
僕は高校を卒業した。
高校三年間は、何か空白の時間のようだった。紬がいなくなってからの三年間は、何か大切なものが欠けた状態での人生だった。その欠けた部分を、音楽で埋めようとした。でも、その欠けた部分は、完全に埋まることはなかった。その欠けた部分は、いつもそこに在り続けた。
そして、音楽大学に進学した。
その進学の決定は、何か自然なものだった。あるいは、必然的なものだったのかもしれない。紬との約束。その約束が、僕の進路を決定したのだ。
ギターを専攻している。
その専攻の選択に、迷いはなかった。ギター。その楽器は、紬との思い出と、切り離すことができない。その楽器を通じて、僕は、彼女と繋がっていたいのだ。
紬との約束を、守るために。
その約束。その約束は、形として存在しないものだ。でも、その約束は、僕の心の中に、確かに存在している。その約束が、僕を支えているのだ。
彼女の分まで、音楽を続けるために。
その想いは、時に重くのしかかった。彼女の分。その言葉の重さ。その重さに押しつぶされそうになることもあった。でも、その重さが、僕を前に進めさせるのだ。
大学では、色々な人と出会った。
音楽を愛する人たち。その人たちは、皆、何か違う。皆、独自の音楽観を持ち、独自のスタイルを持っていた。それらの人たちと出会うことで、僕の音楽観も変わっていった。
一緒に演奏する仲間もできた。
ギター科の同級生。木管楽器の学生。ピアノの学生。様々な楽器の学生たちと、一緒に演奏する機会に恵まれた。その機会の中で、僕は、新しい表現方法を学んだ。新しい音響を創造した。
でも、誰も紬の代わりにはならなかった。
その事実は、僕の心の中に、常に在り続けた。新しい仲間との演奏も悪くない。でも、紬との演奏とは、何か違う。その違いは、何なのか。それは、紬が聞こえないということではなく、紬が紬であるということなのだ。その紬という存在が、代替不可能だったのだ。
紬とは、時々連絡を取っていた。
その連絡は、手紙だったり、メールだったり、ビデオ通話だったりした。音声通話は、彼女には不可能だ。代わりに、別の方法で、僕たちは、繋がろうとしていた。その繋がり方は、不完全かもしれない。でも、その不完全さの中に、何か特別なものがあるのだ。
彼女は聴覚障害者の学校を卒業して、今は専門学校に通っている。
その情報が、僕の心を少し軽くした。彼女は、前に進んでいるのだ。静止していないのだ。その事実が、僕に希望を与えた。
手話通訳士を目指しているという。
その職業の選択。その選択から、彼女が、どのような人生を歩もうとしているのか、ということが伝わってきた。彼女は、音楽から別の道へ進もうとしているのだ。それは、音楽を諦めることではなく、音楽と別の形で関わることなのかもしれない。
「自分と同じように、聞こえない人たちの役に立ちたい」
彼女はそう言っていた。
その言葉から、彼女の心の強さが伝わってきた。自分の苦しみを、他の人のためにいかす。その姿勢が、彼女の本当の強さなのだ。
紬は、新しい道を見つけたのだ。
その道は、音楽ではない。別の道だ。でも、その道も、彼女にとって、何か大切なものなのだ。その大切さが、彼女の目に映っていた。
音楽ではない、別の道を。
その別の道。その道を歩むことで、彼女は何かを失ったのかもしれない。でも同時に、その道を歩むことで、彼女は何かを得たのだろう。その得たものが、彼女を支えているのだ。
ある日、僕は紬に会いに行った。
その日が来るまで、僕たちは直接会うことがなかった。メールやビデオ通話を通じた連絡は、何度もあった。でも、直接会うことは、ずっとできていなかったのだ。その長い時間。その長い時間が、今、終わろうとしていた。
彼女が住む街。電車で二時間ほどの場所。
その距離。その距離は、物理的な距離だけではなく、心理的な距離でもあった。その距離を超えるために、僕は電車に乗った。
列車の窓から、風景が流れていく。田畑。住宅地。商業施設。様々な景色が、次々と過ぎ去っていく。その流れて行く景色を見ながら、僕の心は、高鳴っていた。紬に会える。その喜びと、三年間の時間が生み出した距離への不安が、僕の心の中で、絡み合っていた。
約束の場所は、小さなカフェ。
そのカフェは、紬が指定した場所だ。僕たちが以前、一緒に来たことがあるわけではない。だから、そのカフェは、二人にとって、新しい場所だ。新しい思い出を作る場所。その場所として、紬は、そのカフェを選んだのだ。
カフェに入ると、その内部は、本当に小さな空間だった。十数人しか入れないような、そのような小さなカフェだ。壁には、様々なアート作品が飾られていた。その作品たちは、このカフェのマスターが、自身で作成したものなのだろうか。その作品から、何か独自の世界観が感じられた。
紬は、すでにそこにいた。
その姿を認めた瞬間に、僕の心は、ぎゅっと掴まれたような感覚を覚えた。それは、懐かしさなのか。それとも、別れからの再会の喜びなのか。その複雑な感情が、その瞬間に、僕の心を占めた。
三年ぶりに見る紬。
彼女は、大人っぽくなっていた。
本当に大人っぽくなっていた。高校生の頃の、どこか幼さが残っていた彼女の面影は、そこにはなかった。代わりにあるのは、大人の女性の落ち着きだ。その落ち着きが、彼女の表情に、姿勢に、全身に、表れていた。
髪も少し長くなって、雰囲気も変わっていた。
高校の頃は、ショートヘアだった彼女の髪が、今は、肩を少し超える長さになっていた。その髪が、彼女の顔立ちを、より大人っぽく見せていた。それと同時に、その髪が、彼女の表情に、柔らかさをもたらしていた。
「篠原くん」
紬が手話で言った。
その手の動きは、本当に自然なものだ。三年の時間の中で、手話は、彼女にとって、当たり前の言語になったのだ。その当たり前さから、彼女が、どれほど多くの時間を、手話と共に過ごしてきたのか、ということが伝わってきた。
「久しぶり」
その手の動きが、そう伝えていた。その動きの中に、三年という時間の重さと、再会の喜びが、込められていた。
「久しぶり」
僕も手話で返した。
その手の動きは、どれほど正確だったのか、僕は分からない。でも、その手の動きが、何を伝えようとしているのか、ということは、紬に伝わったのだろう。彼女の顔に、微笑みが浮かんだからだ。
僕の手話も、以前よりずっと上達していた。
その三年の間、僕は、手話を学び続けていた。紬との繋がりを保つために。彼女との関係をより深いものにするために。その学習の積み重ねが、僕の手話の上達を生み出したのだ。
二人は、テーブル席に座った。
その席から、カフェの外の景色が見える。街の風景。人々が行き交う風景。その日常的な風景の中で、二人は、再会を喜んでいた。
「元気だった?」
僕が手話で聞いた。
その質問は、単なる挨拶ではなく、三年間の全てを聞きたいという、その想いが込められた質問だ。
「うん。篠原くんは?」
紬の問いかけ。その問いかけも、同じような想いが込められていたのだろう。
「まあまあ」
その返答。その返答は、本当のところ、複雑な感情の表れだった。音楽の研究は充実していた。でも、紬がいない寂しさは、ずっと付きまとっていた。
「まあまあ、か」
紬は、微笑んだ。その微笑みの中に、何か理解があった。彼女は、僕の心の状態を、その短い返答から、理解したのだろう。
僕たちは、色々な話をした。
大学のこと。どのような授業を受けているのか。どのような仲間と、一緒に勉強しているのか。その全てを、僕は手話で、彼女に伝えた。
専門学校のこと。手話通訳士の資格を取得するための勉強。将来の夢。その全てを、紬は、手話で、僕に伝えた。
将来のこと。二人の今後。その話題になった時、二人の表情は、何か複雑なものになった。未来。その未来は、不確定なものだ。その不確定さへの、何か不安が、二人の表情に映っていた。
紬は、前よりずっと明るかった。
その事実に、僕は安心した。彼女は、苦しんでいるのではなく、前に進んでいるのだ。その前に進んでいるという事実が、僕の心を支えた。
笑顔も増えていた。
高校の頃、彼女の笑顔は、何か悲しみを含んだものだった。でも、今の彼女の笑顔は、本当の喜びを表していた。その違いが、三年という時間の中で、彼女に何がもたらされたのか、ということを示していた。
「音楽、続けてる?」
紬が聞いた。
その質問の中に、彼女の想いが詰まっていた。彼女が、僕に対して、何を期待しているのか。その期待が、その質問に込められていた。
「うん。毎日」
僕の答え。その答えは、本当のことだ。毎日、ギターを弾いている。その毎日は、彼女との約束を守るための、その毎日だ。
「約束、守ってるね」
紬は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、本当に嬉しそうなものだ。彼女は、僕が約束を守り続けていることに、喜びを感じているのだ。その喜びが、その笑顔に表れていた。
「ねえ」
彼女が言った。
その言葉の前置きから、彼女が、何か大切なことを言おうとしていることが、分かった。
「今度、私の学校で演奏してくれない?」
え?
その質問に、僕は驚いた。彼女の学校で演奏する。それは、聴覚障害者の学校で演奏する、ということを意味していた。
「聴覚障害者の子たちに、音楽を見せてあげたいの」
その理由。その理由から、彼女が、どのような想いで、この提案をしているのか、ということが伝わってきた。
「聞こえなくても、振動で感じられるから」
その説明。その説明は、音楽は、耳だけで楽しむものではなく、体全体で感じることができるものだ、ということを示していた。
「それに」
紬は続けた。
「手話で歌詞を表現する子もいる」
その言葉。その言葉から、子どもたちが、どのような方法で、音楽と関わっているのか、ということが伝わってきた。
「音楽は、聴くだけじゃない。見ることも、感じることもできる」
その言葉。その言葉は、音楽についての、彼女の新しい理解を示していた。彼女は、音を失ったことで、新しい音楽の楽しみ方を、発見したのだ。
その言葉に、僕は驚いた。
紬は、音楽を諦めていなかったのだ。
その事実に、僕の心は、激しく揺さぶられた。彼女は、聴力を失ったことで、音楽の人生を諦めたのだと思っていた。でも、それは違ったのだ。彼女は、別の形で、音楽と関わり続けていたのだ。
別の形で、音楽と関わり続けていたのだ。
その事実が、何か美しいものに思えた。彼女は、聴力を失ったことで、何かを失ったのではなく、新しい音楽の世界を、発見したのだ。
「やる」
僕は即答した。
その即答は、躊躇の時間を与えなかった。こうしたい。そうしたい。その強い想いが、その即答に表れていた。
紬は、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔は、本当に満面だった。彼女の全ての喜びが、その笑顔に表れていた。
「ありがとう」
その手話。その手話の動きは、本当に丁寧なものだ。その丁寧さから、彼女の感謝が、深く伝わってきた。
一ヶ月後。
その一ヶ月間、僕は、演奏の準備を進めた。聴覚障害者の子どもたちの前での演奏。その演奏には、普通のコンサートとは違う、何かが必要だったのだ。
僕は紬の学校で、演奏をした。
聴覚障害者の子どもたちの前で。
その学校の講堂は、それほど大きなものではなかった。でも、その中には、多くの子どもたちが集まっていた。様々な年齢の子どもたち。皆、何か期待に満ちた表情で、僕を見ていた。
約束の音を弾いた。
その曲。その曲は、紬と僕の物語そのものだ。その物語を、子どもたちに伝える。そのような想いで、僕は、その曲を弾いた。
子どもたちは、床に手を当てて、振動を感じていた。
その様子は、本当に真剣だ。彼らは、耳で音を聞くことはできない。でも、手を通じて、その音を感じることができるのだ。その感じることの喜び。その喜びが、彼らの顔に表れていた。
目を閉じて、体全体で音楽を感じていた。
その姿勢は、本当に美しいものだ。彼らは、全身で、音楽に向き合っているのだ。その向き合い方が、何か神聖なものに思えた。
そして、紬が。
ピアノの前に座った。
え?
その瞬間に、僕の心臓が、ぎゅっと掴まれたような感覚を覚えた。紬は、ピアノを弾くのか。あの日以来、初めて。
紬は、僕を見て微笑んだ。
その微笑みは、何か覚悟に満ちたものだ。彼女は、これからすることの重要性を、自覚しているのだ。
そして、鍵盤を叩き始めた。
あの日以来、初めて。
彼女はピアノを弾いた。
その音は――正確ではなかった。
その音は、完璧ではなく、何か不規則だった。まるで、何か別の世界から降ってくるような、そのような音だ。
リズムも、時々ずれた。
そのズレは、何か不気味に聞こえるかもしれない。でも、その不規則さの中に、何か真実があるのだ。
でも。
そこには、確かに音楽があった。
その音は、完璧ではなかったが、確かに音楽だった。それは、何か別の形の音楽だ。従来の音楽ではなく、新しい音楽だ。
紬の音楽が、そこにあった。
彼女の全ての想いが、その音に込められていた。
子どもたちが、拍手をした。
その拍手は、音がしなかった。音のない拍手だ。でも、その拍手は、本当に力強いものだった。
でも、それは確かに、心からの賞賛だった。
彼らは、紬の勇気を、理解しているのだ。音を失った彼女が、それでもなお、ピアノを弾こうとしているその勇気を。その勇気に対する、心からの賞賛が、その拍手に込められていた。
演奏が終わって、紬が僕のところに来た。
その歩き方は、本当に誇らしげなものだ。彼女は、何か大きなものを成し遂げたのだ。その成し遂げたことへの、誇りが、その歩き方に表れていた。
「どうだった?」
彼女が手話で聞いた。
その質問は、単なる質問ではなく、自分の演奏がどのように受け止められたのか、ということを知りたいという、その渇望が込められた質問だ。
僕は――。
声を出した。
「最高だった」
小さな声。
その声は、本当に小さかった。何か、喉の奥から、しぼり出すような、そのような声だ。
紬は――驚いた顔をした。
その驚きの表情から、彼女が、何か大切なことが起こったのだ、ということを理解した。
そして、涙を流した。
「声」
彼女は口を動かして言った。
その口の動きから、「声」という言葉が、伝わってきた。
「声、普通に出せるようになったの?」
その質問。その質問の中に、彼女の想いが詰まっていた。僕の声が戻ったのか。その事実の信じられなさ。その信じられなさが、その質問に込められていた。
「少しだけ」
僕は声で答えた。
その声は、まだかすれていた。でも、その声は、確実に僕の声だ。
「君のおかげで」
その言葉。その言葉は、音楽大学に進んだその日から、彼女のことを思い続けてきたことの、その表現だ。彼女への想いが、僕に、声をもたらしたのだ。
紬は、僕を抱きしめた。
その抱きしめ方は、本当に力強いものだ。彼女の全ての感情が、その抱きしめに込められていた。
二人で、泣いた。
その泣き方は、本当に激しいものだ。三年という時間。その時間の中で、二人が経験してきた全ての事柄。その全てが、その涙に込められていた。
音は、戻ってきた。
その言葉。その言葉は、何を意味するのか。それは、物理的な音が戻ってきたということではなく、何か本質的な何かが戻ってきたのだ、ということなのだろう。
僕の声も、紬の音楽も。
その二つが、戻ってきた。
形は変わったけれど。
それらの音は、完璧ではない。完璧からは遠い。でも、その不完全さの中に、何か本当に大切なものがあるのだ。
でも、確かに戻ってきた。
その事実。その事実が、全てを示していた。二人は、音を失ったのではなく、新しい音を得たのだ。その新しい音は、以前の音とは違う。でも、その新しい音は、以前の音よりも、ずっと深い意味を持っているのだ。
その深い意味。その意味が、二人を支えるのだ。これからも。ずっと。
講堂の外では、夕陽が、空を橙色に染めていた。その夕陽の光の中で、二人は、抱き合っていた。
その光の中で、二人の影は、一つに重なっていた。
それは、象徴的な光景だった。二人は、別々の人間だ。別々の人生を歩んでいる。でも、その別々の人生は、どこかで繋がっているのだ。その繋がりが、その影の重なりに表れていた。
時間は、流れ続けるのだろう。
でも、その流れの中でも、二人は、繋がり続けるのだ。音によって。心によって。そして、何よりも、約束によって。
「約束の音」
その曲は、もはや、単なる曲ではなく、二人の人生そのものになっていたのだ。
9
それから、さらに数年が過ぎた。
僕は音楽の教師になった。
普通の高校ではなく、聴覚支援学校の教師に。
紬と同じ学校で。
紬は手話通訳士として働いていた。
僕たちは、時々一緒に音楽の授業をした。
僕がギターを弾き、紬が手話で歌詞を表現する。
子どもたちは、音楽を見て、感じて、楽しんでいた。
音楽は、聴くだけのものじゃない。
見ることも、感じることも、表現することもできる。
それを、僕たちは子どもたちに伝えた。
ある日の放課後。
僕と紬は、久しぶりに二人で演奏した。
職員室の隅にある、小さな音楽室で。
「約束の音、弾こう」紬が手話で言った。
「うん」
僕はギターを、紬はピアノを。
イントロが始まる。
紬のピアノは、以前より上手になっていた。
補聴器の技術も進歩して、少しだけ音が聞こえるようになったのだという。
完璧ではない。
でも、音楽はできる。
僕たちは、一緒に弾いた。
あの日作った曲を。
約束の音を。
窓の外では、桜が咲き始めていた。
春。新しい季節。
演奏が終わると、紬が言った。
「ねえ、篠原くん」
「私たち、この曲をCDにしない?」
え?
「聴覚障害者のための音楽CD」
「振動も記録できる特殊な技術があるの」
「それで作れば、聞こえない人も楽しめる」
その提案に、僕は驚いた。
でも、素晴らしいアイデアだと思った。
「やろう」
紬は嬉しそうに笑った。
「じゃあ決まり」
「私たちの音楽隊、まだ続いてるんだね」
「音のない音楽隊」
僕は笑った。声を出して、笑った。
「うん。まだ続いてる」
「これからも、ずっと」
紬も笑った。
あの日と同じ、屈託のない笑顔。
窓の外では、桜の花びらが舞っていた。
風に乗って、優しく。
静かな旋律は、今日も響く。
君との約束を、胸に抱いて。
10
春の午後。
あの音楽室は、今も残っていた。
新しい校舎が建てられても、旧音楽棟だけは保存された。
「歴史的価値がある」という理由で。
でも本当は、この音楽室で生まれた物語が、多くの人の心に残っていたからだ。
僕――篠原結城は、三十歳になっていた。
音楽教師として、十年のキャリアを積んでいた。
そして、今日。
特別な日だった。
音楽室の前に、記念プレートが設置される日。
「音のない音楽隊 誕生の地」
そう刻まれたプレート。
除幕式には、たくさんの人が集まっていた。
卒業生たち。先生たち。地域の人々。
そして――。
紬がいた。
車椅子に座った紬。
五年前、彼女は病気になった。
難聴の原因だった遺伝性疾患が、他の部分にも影響を及ぼし始めたのだ。
進行性の筋力低下。
今では、歩くことが難しくなっていた。
でも。
彼女の目は、あの日と同じように輝いていた。
「篠原くん」紬が手話で言った。
「懐かしいね、この場所」
「うん」僕も手話で答えた。
除幕式が始まった。
校長先生のスピーチ。
「この音楽室は、十五年前、二人の生徒の出会いの場所でした」
「一人は声を失い、一人は音を失っていく。そんな二人が、ここで音楽を通じて繋がりました」
「彼らが作った『約束の音』は、今では多くの聴覚障害者の方々に愛される曲となっています」
「そして、彼らの活動は、障害を持つ人々の音楽教育の可能性を広げました」
校長先生は、僕たちの方を見た。
「篠原先生、白石さん。何か一言、お願いできますか」
僕は紬を見た。
紬は頷いた。
僕たちは、前に出た。
僕が話し、紬が手話で表現する。
「十五年前」僕は声を出した。
「僕はこの音楽室で、人生を変える出会いをしました」
紬が、それを手話で表現する。
「声を失っていた僕に、音楽を取り戻してくれた人」
「音を失っていく彼女に、僕は何もしてあげられませんでした」
「でも、彼女は教えてくれました」
「音楽は、耳だけで聴くものじゃない」
「心で感じるもの。体全体で感じるもの」
「そして」
僕は紬の手を握った。
「誰かと分かち合うもの」
紬が、涙を流していた。
「僕たちの音楽は、まだ続いています」
「形を変えながらも」
「これからも、ずっと」
拍手が起きた。
音のある拍手。音のない拍手。
両方が、混ざり合っていた。
式が終わった後、僕と紬は音楽室に入った。
あのピアノは、まだそこにあった。
少し古びているけれど、まだ現役だ。
「弾いてもいい?」紬が聞いた。
「もちろん」
紬は車椅子から、ピアノの椅子に移った。僕が支える。
彼女は鍵盤に手を置いた。
そして、弾き始めた。
約束の音を。
音は――不完全だった。
指の力が弱くなっていて、音も小さい。
時々、止まる。
でも。
そこには、確かに音楽があった。
紬の魂が、込められていた。
僕はギターを手に取った。
あのヤマハのFG-180。今も、大切に使っている。
紬に合わせて、弾いた。
彼女の音を支えるように。
イントロ。Aメロ。Bメロ。サビ。
紬は途中で何度も手を止めた。
体力が続かない。
でも、諦めなかった。
休みながら、少しずつ。
最後まで弾いた。
アウトロが終わった。
余韻。
紬は、鍵盤から手を離した。
「ありがとう」彼女が手話で言った。
「最後に、もう一度弾けて」
最後?
「篠原くん」紬が真剣な顔をした。
「実は、聞いてほしいことがある」
僕は頷いた。
「私」紬は手話を続けた。
「もう長くないって、医者に言われた」
その言葉に、心臓が止まりそうになった。
「進行が、予想より早いって」
「あと」彼女は続けた。
「半年か、一年」
僕は――何も言えなかった。
「怖くないよ」紬は微笑んだ。
「十分、生きた。十分、幸せだった」
「篠原くんと出会えて」
「音楽ができて」
「たくさんの人と繋がれて」
涙が、僕の頬を伝った。
「泣かないで」紬が言った。
「これは、悲しい話じゃない」
「私、幸せだったから」
「後悔は、一つもない」
彼女は僕の手を握った。
「お願いがある」
何でも言って。
「私が」紬は続けた。
「いなくなっても」
「音楽を続けて」
「約束の音を、弾き続けて」
「私の分まで」
僕は――頷くことしかできなかった。
「ありがとう」
紬は、僕に抱きつこうとした。
僕が、彼女を支えて、抱きしめた。
「ありがとう、篠原くん」
紬が、口を動かして言った。
聞こえないはずの声。
でも、確かに伝わってきた。
「君こそ、ありがとう」
僕は声を出して言った。
「紬がいなかったら、今の僕はいない」
「君が、僕を変えてくれた」
二人で、長い時間抱き合っていた。
夕日が、音楽室を照らしていた。
あの日と同じ、オレンジ色の光。
それから、半年が過ぎた。
秋が来て、冬が来た。
紬の病状は、急速に悪化した。
十二月。
僕は病院に呼ばれた。
「もう、時間がありません」医者が言った。
「今日か、明日か」
僕は紬の病室に駆け込んだ。
彼女は、ベッドに横たわっていた。
呼吸器をつけて、点滴に繋がれて。
でも、意識はあった。
「紬」
僕は彼女の名前を呼んだ。
紬の目が、ゆっくりと開いた。
彼女は、僕を認識した。
微笑んだ。
手話はできない。体が動かないから。
でも、口を動かした。
「篠原くん」
僕には、その口の動きが読めた。
「来てくれた」
「当たり前だよ」
僕は彼女の手を握った。
冷たい手。
「歌って」紬が口を動かした。
「約束の音を」
「聞こえなくても」
「あなたの声を、感じたい」
僕は――頷いた。
そして、歌い始めた。
「きみとであえた あのひから
ぼくのせかいが かわったよ
こえをうしなった ぼくのこころに
おとがもどって きたんだ」
紬は、目を閉じて聴いていた。
いや、聴いているのではない。
感じているのだ。
「やくそくのおと ふたりでかなでた
やくそくのおと いつまでもひびく
きみがいるから ぼくはうたえる
きみがいるから おとはうまれる」
涙が、紬の頬を伝った。
でも、彼女は笑っていた。
「さよならじゃない またあおうね
おとのなかで ずっとつながる
きみとぼくとの やくそくのおと
えいえんに ひびきつづける」
歌い終えると、紬が目を開けた。
「ありがとう」
彼女は口を動かした。
「最高だった」
そして、何か言おうとした。
僕は、じっと彼女の口元を見た。
「あなたを」
「愛してる」
その言葉が、読み取れた。
「僕も」僕は言った。
「君を、愛してる」
紬は、満足そうに微笑んだ。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
「眠いの」彼女が口を動かした。
「少し、寝るね」
「うん」
「起きたら」
「また」
彼女の言葉が、途切れた。
呼吸が、穏やかになった。
モニターの音が、静かに響いている。
僕は紬の手を握り続けた。
温かくなるように。
時間が過ぎた。
一時間。
二時間。
夜が更けた。
そして――。
午前三時十五分。
モニターの音が、長く一つに繋がった。
「紬」
僕は彼女の名前を呼んだ。
でも、彼女は答えない。
医者と看護師が駆け込んできた。
「ご家族の方、少し離れてください」
でも、僕は紬の手を離せなかった。
長く繋がった音は、変わらなかった。
医者が、ゆっくりと首を横に振った。
「ご臨終です」
紬の両親が、泣き崩れた。
僕は――。
紬の手を、まだ握っていた。
「ありがとう、紬」
声を出して、言った。
「君と出会えて、本当によかった」
「音楽を、教えてくれてありがとう」
「生きる勇気を、くれてありがとう」
「愛してるよ」
「ずっと、ずっと」
涙が、止まらなかった。
でも、不思議と心は穏やかだった。
紬は、苦しまなかった。
最後まで、笑顔だった。
彼女は、幸せだったと言っていた。
だから、これでいいんだ。
これが、紬の選んだ終わり方。
僕は、それを受け入れなければ。
葬儀は、三日後に行われた。
冬の曇り空の下、斎場には朝早くから人が集まり始めていた。玄関先には白と黒の幕が張られ、その前に「白石紬儀」と書かれた看板が静かに立っている。冷たい風が吹くたびに、供花の白菊が小さく揺れた。
たくさんの人が来た。
その数は、僕の予想を遥かに超えていた。式場の席は、あっという間に埋まっていった。受付には列ができ、記帳する人々の表情には、深い悲しみが刻まれていた。
聴覚支援学校の教え子たち。
制服姿の子どもたちが、泣きながら焼香をしていた。手話で「先生、ありがとう」と繰り返す子もいた。その小さな手の動きが、僕の胸を締め付けた。紬が、どれほど子どもたちに愛されていたのか。その事実が、痛いほど伝わってきた。
同僚たち。
聴覚支援学校の先生方も、みな来てくれていた。職員室でいつも紬と笑い合っていた若い女性教師は、ハンカチで目元を押さえたまま、声を上げて泣いていた。校長先生は、厳粛な表情で紬の遺影に深く頭を下げていた。
昔のクラスメイトたち。
高校時代の友人たちも、駆けつけてくれていた。みな大人になり、それぞれの人生を歩んでいる。でも、この日だけは、あの頃に戻ったように、紬のことを語り合っていた。「いつも明るかったよね」「本当に優しい子だった」そんな言葉が、あちこちから聞こえてきた。
田中さんも来てくれた。山田も。
二人は僕を見つけると、何も言わずに肩に手を置いてくれた。その温もりが、少しだけ心を落ち着かせてくれた。田中さんの目は赤く腫れていた。山田は、ずっと唇を噛みしめていた。言葉はなくても、二人の悲しみが伝わってきた。
みんな、紬を惜しんでいた。
式場には、静かな嗚咽が満ちていた。線香の煙が立ち上り、祭壇の上の紬の写真が、その煙の向こうで微笑んでいた。あの日、音楽室で撮った写真。ピアノの前で、本当に幸せそうに笑っている紬。その笑顔を見るたびに、胸が苦しくなった。
「篠原先生」
読経の合間、一人の少女が、僕に近づいてきた。
聴覚支援学校の生徒だ。
中学二年生の、おとなしい子だった。紬が特に気にかけていた生徒の一人。彼女の目も、泣きはらして真っ赤になっていた。
「白石先生が」彼女が手話で言った。
その手の動きは震えていた。何度も間違えそうになりながら、必死に伝えようとしている。彼女の真剣な表情を見て、僕は姿勢を正した。
「これを、先生に渡してって」
彼女は、白い封筒を差し出した。
その封筒には、僕の名前が書かれていた。紬の字。少し震えた字。きっと、体調が悪い中、最後の力を振り絞って書いたのだろう。封筒を受け取った瞬間、手が震えた。
「ありがとう」
僕は声を出して言った。
少女は小さく頷いて、また席に戻っていった。その小さな背中を見送りながら、僕は封筒を胸ポケットにそっとしまった。
後で開けることにした。
今は、まだ無理だった。この封筒の中には、紬の最後の言葉が入っているのだろう。それを読む勇気が、今の僕にはなかった。式が終わるまで。せめて、式が終わるまでは。
葬儀が終わり、火葬が終わり。
すべてが終わった。
午後の陽が傾き始めた頃、最後の別れの時が来た。火葬場の炉の前で、紬の棺が運ばれていく。ご両親が、棺に縋りつくようにして泣いていた。その姿を見て、僕も涙が止まらなくなった。炉の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
紬は、小さな骨壺の中にいた。
骨上げの時、紬の骨は驚くほど小さく、白かった。最後まで病気と戦った証。その骨を箸で拾い上げる時、手が震えて、何度も落としそうになった。「しっかり」と、隣にいた紬の父親が、僕の肩を支えてくれた。
家に帰って、封筒を開けた。
一人きりの部屋。電気も点けず、薄暗い中で、僕は紬からの封筒を手に取った。封を切る手が震える。深呼吸を何度も繰り返してから、ゆっくりと便箋を取り出した。
中には、手紙が入っていた。
便箋三枚。丁寧に折りたたまれていた。
紬の字。
いつもの、丸くて優しい字。でも、ところどころ、震えている。
最後の手紙。
僕は、ゆっくりと読み始めた。
「篠原くんへ。
もしこの手紙を読んでいるということは、私はもういないのでしょう。
最後まで読んでくれて、ありがとう。
私の人生は、短かったかもしれません。
でも、とても濃密でした。
音を失い、体の自由を失い。
たくさんのものを失いました。
でも、たくさんのものを得ました。
あなたとの出会い。
音楽の喜び。
人との繋がり。
生きる意味。
すべて、得ることができました。
だから、後悔はありません。
篠原くん。
あなたは、私の人生を変えてくれました。
声を失っていたあなたが、私に音楽の本当の意味を教えてくれました。
音楽は、耳で聴くものじゃない。
心で感じるもの。
誰かと分かち合うもの。
それを、あなたが教えてくれました。
お願いがあります。
これからも、音楽を続けてください。
私の分まで。
そして、たくさんの人に音楽を届けてください。
聞こえる人にも、聞こえない人にも。
音楽は、すべての人のものだから。
最後に。
愛してます。
あなたを、ずっと愛してました。
声には出せなかったけれど。
でも、本当に愛してました。
これからも、どこかで見守っています。
音のない世界から。
あなたの音楽を、感じ続けます。
ありがとう、篠原くん。
出会えて、本当によかった。
永遠に、あなたと共に。
白石紬」
手紙を読み終えて、僕は泣いた。
声を出して、泣いた。
紬。
僕も、君を愛していた。
ずっと、ずっと。
それから、一年が過ぎた。
僕は、紬の遺志を継いで、活動を続けていた。
聴覚支援学校での教師。
そして、「音のない音楽隊」の活動。
全国の聴覚障害者施設を回って、演奏をする。
ギターを弾き、歌を歌う。
参加者たちは、床に手を当てて、振動を感じる。
そして、手話で歌詞を表現する。
音楽は、すべての人のもの。
それを、伝え続けている。
ある日、新しいメンバーが加わった。
中村さん。
僕の教え子でひたすらショパンを弾いていた子。そして、紬によく似ていた子。
彼女は今、音楽教師になっていた。
「篠原先生」中村さんが言った。
「私も、一緒に活動させてください」
「白石先生の想いを、継ぎたいんです」
僕は頷いた。
「一緒に、やろう」
中村さんは、ピアノを弾く。
紬が弾いていたパートを。
完璧ではない。
でも、心がこもっている。
僕たちは、二人で「約束の音」を演奏する。
全国各地で。
たくさんの人に届けるために。
春が来た。
あの音楽室の前に、また立っていた。
桜が、満開だった。
「紬」
僕は、空に向かって呼びかけた。
「見てる?」
「僕、君との約束、守ってるよ」
「音楽を、続けてる」
「たくさんの人に、届けてる」
「君の想いも、一緒に」
風が、優しく吹いた。
桜の花びらが、舞い落ちる。
一枚の花びらが、僕の手に落ちた。
まるで、紬が答えているみたいだった。
「これからも、ずっと」
「君と作った音楽を、奏で続けるよ」
「約束の音を」
「永遠に」
音楽室から、ピアノの音が聞こえてきた。
中村さんが、練習しているのだろう。
その音に誘われて、僕も中に入った。
ギターを手に取る。
中村さんと、一緒に演奏する。
約束の音を。
窓の外では、桜の花びらが舞い続けていた。
静かな旋律が、今日も響く。
これからも、ずっと。
永遠に。
【完】
あとがき
まだ名前も知られていない私の物語を、ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
あなたの時間の中に、この物語のひと欠片でも残ってくれたなら、こんなに嬉しいことはありません。
私自身、音楽に支えられて生きてきた人間です。
だからこそ、「音が人をつなぐ」というこの物語をどうしても書きたかった。
『約束の音』は、「音」という当たり前のように存在するものを失うこと、そしてそれでもなお 繋がり続けることをテーマに書きました。
声を失った少年と、聴力を失いつつある少女。二人の出会いは、一見すると残酷な運命のいたずらのように思えるかもしれません。でも、だからこそ彼らは、音楽の本質——それが単なる「音」ではなく、「心の繋がり」であることを、誰よりも深く理解できたのではないでしょうか。
この物語を書くにあたり、聴覚障害を持つ方々の音楽との関わりについて、多くの資料を読みました。音が聞こえなくても、振動を通じて音楽を感じる人々。手話で歌詞を表現する人々。完全な静寂の中でも、音楽を愛し続ける人々。その姿に、深く心を打たれました。
音楽は、耳だけで聴くものではありません。 心で感じるもの。体全体で感じるもの。 そして何より、誰かと分かち合うものです。
最後に。 もし、あなたの周りに声を出せない人、音が聞こえない人がいたら。 少しだけ、その人の世界を理解しようとしてみてください。 言葉や音がなくても、心は通じ合えるのだということを、忘れないでください。
静かな旋律は、今日も響いています。 あなたの心の中で。
白音 透
追記
この物語に登場する聴覚障害や心因性緘黙症の描写については、できる限り誠実に描こうと努めましたが、実際に当事者の方々が経験される困難や感情の全てを正確に表現できているとは限りません。もし不適切な表現や誤解を招く描写がありましたら、ご容赦ください。
この物語が、音楽の素晴らしさ、そして人と人との繋がりの尊さを、少しでも伝えられていたら幸いです。
また、この作品に込めたのは「音を失うこと」や「声を失うこと」ではなく、それでもなお“想いを伝えようとする力”への敬意です。
音がなくても、声がなくても、誰かを想う気持ちは確かに存在し、その温度は静かに相手へ届いていく――。
結城と紬の物語を通して、誰かの痛みや希望を少しでも感じていただけたなら、それが何よりの願いです。
この作品が、今まさに苦しみや孤独の中にいる人にとって、ほんの少しでも寄り添える音のような存在になりますように。
そして、最後のページを閉じたあとも、あなたの心の中で“約束の音”が優しく響き続けますように。
「君が消えても、音は残った。」
まだ名前も知られていない私の物語を、ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
あなたの時間の中に、この物語のひと欠片でも残ってくれたなら、こんなに嬉しいことはありません。
私自身、音楽に支えられて生きてきた人間です。
だからこそ、「音が人をつなぐ」というこの物語をどうしても書きたかった。
『約束の音』は、「音」という当たり前のように存在するものを失うこと、そしてそれでもなお 繋がり続けることをテーマに書きました。
声を失った少年と、聴力を失いつつある少女。二人の出会いは、一見すると残酷な運命のいたずらのように思えるかもしれません。でも、だからこそ彼らは、音楽の本質——それが単なる「音」ではなく、「心の繋がり」であることを、誰よりも深く理解できたのではないでしょうか。
この物語を書くにあたり、聴覚障害を持つ方々の音楽との関わりについて、多くの資料を読みました。音が聞こえなくても、振動を通じて音楽を感じる人々。手話で歌詞を表現する人々。完全な静寂の中でも、音楽を愛し続ける人々。その姿に、深く心を打たれました。
音楽は、耳だけで聴くものではありません。 心で感じるもの。体全体で感じるもの。 そして何より、誰かと分かち合うものです。
最後に。 もし、あなたの周りに声を出せない人、音が聞こえない人がいたら。 少しだけ、その人の世界を理解しようとしてみてください。 言葉や音がなくても、心は通じ合えるのだということを、忘れないでください。
静かな旋律は、今日も響いています。 あなたの心の中で。
白音 透
追記
この物語に登場する聴覚障害や心因性緘黙症の描写については、できる限り誠実に描こうと努めましたが、実際に当事者の方々が経験される困難や感情の全てを正確に表現できているとは限りません。もし不適切な表現や誤解を招く描写がありましたら、ご容赦ください。
この物語が、音楽の素晴らしさ、そして人と人との繋がりの尊さを、少しでも伝えられていたら幸いです。
また、この作品に込めたのは「音を失うこと」や「声を失うこと」ではなく、それでもなお“想いを伝えようとする力”への敬意です。
音がなくても、声がなくても、誰かを想う気持ちは確かに存在し、その温度は静かに相手へ届いていく――。
結城と紬の物語を通して、誰かの痛みや希望を少しでも感じていただけたなら、それが何よりの願いです。
この作品が、今まさに苦しみや孤独の中にいる人にとって、ほんの少しでも寄り添える音のような存在になりますように。
そして、最後のページを閉じたあとも、あなたの心の中で“約束の音”が優しく響き続けますように。
「君が消えても、音は残った。」




