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聞こえない君へ、最後の音を



   7






二月のある日。紬から連絡があった。




その連絡は、突然だった。いつもと違う時間に。いつもと違う内容で。その連絡を受け取った時に、何か大切なことが起こるのだ、ということを、僕は直感的に感じた。




「会いたい。話がある」




その短いメッセージ。その短さの中に、彼女の真剣さが詰まっていた。




僕は放課後、約束の場所に行った。




その場所は、学校近くの公園。いつもは、何気ない普通の公園。でも、その日は、何か特別な場所に見えた。その特別さは、この公園で、何か大切なことが起こるのだ、という僕の予感から来ているのかもしれない。




公園に到着した時、辺りはもう薄暗くなっていた。二月の夕暮れ時。その時間帯は、本当に短い。昼間が終わり、夜が始まる。その微妙な時間帯の中で、公園の風景も、その色を変えていた。木々は、暗紫色に包まれていた。ベンチは、その暗さの中に、薄ぼんやりと浮かんでいた。




紬がベンチに座っていた。




彼女は、僕の姿を認めると、立ち上がった。その立ち上がり方は、本当に丁寧なものだ。何か大切な人との再会に際して、するような、そのような立ち上がり方だ。




「来てくれてありがとう」




彼女の口が動いた。手話で。




彼女の手が、複雑な動きをした。その動きは、確かに言葉だ。聞こえない言葉。でも、間違いなく意思の伝達だ。その手の動きから、「来てくれてありがとう」という感謝が伝わってきた。




僕も手を動かそうとした。でも、まだ、手話を完全には習得していない。だから、僕は口で話した。




「どうしたの?」




紬は深呼吸をした。




その呼吸の深さから、これからの言葉が、どれほど大切なものであるのか、ということが伝わってきた。何か、重要な決定を、彼女は下したのだ。その決定を、僕に伝えるために、彼女はここに来たのだ。




「私」




彼女が手話で言った。




その手の動きは、「私」を示していた。そのシンプルな手話から、その先の言葉が、何か大きなものであることを、僕は予感した。




「転校することになった」




その言葉が、公園の空気を一変させた。




転校。その言葉は、彼女との別れを意味していた。毎日、同じ学校で顔を合わせることができる、その日々が、終わるということを意味していた。




転校?




その質問が、自動的に僕の口から出た。




「聴覚障害者のための学校に」




紬は続けた。




その言葉は、彼女の選択が、何か理にかなったものであることを示していた。聴覚障害者のための学校。その学校では、彼女は、一人ぼっちではない。聞こえない人たちが、多くいるのだ。その学校では、彼女は、聞こえることが当たり前ではなく、聞こえないことが当たり前なのだ。その違いは、彼女にとって、どれほど大きなものなのか。




「両親と話し合って、決めた」




その言葉から、彼女が、慎重に、そして真剣に、この決定を下したのだ、ということが伝わってきた。これは、何か一時的な決定ではなく、彼女の人生を左右する、重要な決定なのだ。




「ここにいても、授業についていくのが大変で」




その理由。その理由は、本当に切実だ。聞こえない中で、聞こえることを前提とした授業についていくことの難しさ。その難しさに、彼女は直面していたのだ。




「それに」




彼女は目を伏せた。




その目を伏せる動作は、彼女が、何か苦しいことを言おうとしていることを示していた。その苦しさから、目を逸らしているのだ。




「音楽のことを思い出してしまう」




その言葉。その言葉が、彼女の真の苦しみを示していた。この学校では、あの文化祭の舞台が在る。あの音楽室が在る。あの、彼女が、音を失った場所が在る。その場所にいることで、彼女は、常に、その喪失を思い出させられるのだ。その思い出させられることの苦痛。その苦痛から、彼女は逃げたいのだ。あるいは、逃げるしかないのだ。




僕は――何も言えなかった。




その瞬間に、僕が言うべき言葉が、何であるのか、僕は分からなかった。彼女を引き止めるべきなのか。彼女の選択を応援するべきなのか。その二つの想いが、僕の胸の中で、対立していた。




紬にとって、それが最善の選択なのかもしれない。




そのことに気づいた時に、僕の中の対立は、消えた。彼女の選択は、彼女にとって、最善のものなのだ。その最善さは、僕の想いよりも、優先されるべきなのだ。




「いつ?」




僕は聞いた。




その質問は、単なる質問ではなく、彼女との時間が、あとどのくらい在るのかを確認するための、その質問だ。




「来週」




その答え。その答えが、僕の胸を締め付けた。




来週。もう、すぐだ。




本当にすぐだ。今日から、あと数日。その数日の中に、彼女との全ての思い出が、収まっているのだ。いや、思い出は、これからも作られていくのかもしれない。でも、その思い出は、日常的なものではなく、何か特別で、限定的なものになってしまうのだ。




「ごめんね」




紬が謝った。




その手話の動きは、本当に申し訳なさに満ちていた。




「急で」




その理由が、あるのだろう。その理由から、彼女は急速に、この決定を下さなければならなかったのだ。何か、緊急性が在ったのだろう。あるいは、その緊急性は、医学的なものではなく、心理的なものかもしれない。彼女は、これ以上、この状況に耐えることができないのだ。その耐えられなさから、急速な決定が生まれたのだ。




僕は首を振った。




謝らなくていい。その想いを、その動作に込めた。




「最後に」




紬が言った。




その言葉の中に、何か悲壮感が漂っていた。「最後に」。その言葉は、何かが終わろうとしていることを示していた。




「お願いがある」




何?




その質問が、自動的に僕の口から出た。




「もう一度」




彼女の目に、涙が浮かんだ。




その涙。その涙は、何を示しているのか。悲しみ。喜び。感謝。複雑な感情が、その涙に込められていた。




「約束の音を、弾いて」




その願い。その願いから、彼女がそのピアノの曲にどれほどの想いを込めているのか、ということが伝わってきた。




「私には聞こえないけど」




そのことへの言及。聞こえないことへの言及。その言及の中に、彼女の悔しさが在る。聞こえないことへの悔しさ。




「見ていたい。あなたが弾く姿を」




その願い。その願いは、音ではなく、視覚を通じた共有を求めているのだ。彼女は、音を通じて、僕と繋がることができない。だから、視覚を通じて、繋がりたいのだ。その繋がりたいという想いが、その言葉に詰まっていた。




僕は頷いた。




わかった。その想いを、その頷きに込めた。必ず、弾く。その約束を込めて。




翌週の日曜日。




予め桜木先生に許可をもらい、僕は紬を音楽室に連れて行った。




その日曜日の朝は、本当に静かだった。学校の周辺は、普段の平日と違い、誰もいない。その静けさが、学校という場所を、まるで別の世界に変えていた。




日曜日の学校は静かだった。誰もいない。




校舎に入った時、その静寂はより一層深くなった。廊下に、生徒の足音がない。教室に、生徒の声がない。その静寂の中を、僕たちは歩いた。




音楽室に入る。




その部屋は、いつもと同じように、ピアノとギターが置かれていた。古いピアノ。何度も何度も弾かれてきた、そのピアノ。そのピアノの脇に、ギター。僕たちが何度も一緒に演奏した、その楽器たちだ。




僕はギターを手に取った。




その感覚は、本当に懐かしいものだ。この楽器の重さ。この楽器の温度。その全てが、僕の記憶の中に在る。




紬は、少し離れた場所に座った。




その座る場所は、彼女が、僕の演奏を見守ることができる場所だった。僕の手の動き。ギターの弦を弾く、その指の動き。演奏中の僕の表情。そのすべてを見ることができる場所に、彼女は座った。




「弾いて」




彼女が手話で言った。




その手の動きは、シンプルながら、確実な指示だ。弾いて。その一言。その一言が、全てを示していた。




僕はギターを構えた。




その構え方は、本当に真剣なものだ。この演奏は、単なる演奏ではなく、紬への贈り物なのだ。その贈り物に、僕の全てを込めよう。そのような思いが、その構え方に表れていた。




約束の音。




その曲。その曲は、僕たちの物語そのものだ。




イントロを弾き始める。




その最初の音が、音楽室に響く。その音は、本当に大切に弾かれた音だ。丁寧に。一つ一つの音が、きっちりと鳴らされた。




紬は、じっと僕を見ていた。




その視線は、僕の手に注がれていた。僕がどのようにして、弦を弾いているのか。その全てを、彼女は目で追っていた。その視線の深さから、彼女がどれほど真剣に、その演奏に向き合っているのか、ということが伝わってきた。




Aメロ。Bメロ。サビ。




僕は一人で、二人分を弾いた。




その難しさ。その難しさは、本当に大きなものだ。紬のピアノのパートも、僕のギターのパートも、同時に表現しなければならない。通常は、別々の楽器、別々の人間によって表現されるその二つを、一つの楽器、一つの人間によって表現する。その無理さ。その困難さ。でも、その困難さに、僕は立ち向かった。




ギターで、紬のピアノのパートも表現しようとした。




その試みは、本当に不完全だったかもしれない。完璧さとは言えない。でも、その不完全さの中に、何か大切なものが在る。その大切なものが、この演奏を支えていたのだ。




不完全だった。




でも、精一杯だった。




その精一杯さが、紬に伝わったのだろう。




間奏。ソロパート。




ここが、僕の一番の見せ場だ。ギターの技巧を全て使って、この曲の核心を表現する。その瞬間。その瞬間に、僕の全ての感情が、ギターの音に込められた。




指が、弦の上を走る。




速く。正確に。力強く。その全てが、その瞬間に集約されている。




紬が――泣いていた。




音は聞こえないはずなのに。




彼女は、涙を流していた。その涙は、何を示しているのか。悲しみ。喜び。感謝。複雑な感情の絡み合い。その全てが、その涙に込められていた。




彼女は、音を聞くことができないのに、その音の意味を理解しているのだ。その理解は、何に基づいているのか。それは、視覚だ。僕の指の動き。僕の表情。僕の体の動き。その視覚を通じた情報から、彼女は、その音の意味を理解しているのだ。




その理解の深さ。その理解の正確さ。それらが、彼女の涙を生み出したのだ。




最後のサビ。




曲の終わりに向かって、音は静かになっていく。その減衰の中で、演奏は、その最終形へ向かっていく。




演奏が終わった。




最後の和音が、音楽室に響き渡った。その響きが、徐々に、消えていった。その消えていく過程の中で、演奏は、完全に終わったのだ。




余韻。




音のない世界。でも、その世界は、音に満ちていた。演奏の余韻。その余韻が、音楽室の空気を満たしていた。




紬は、拍手をした。




音のない拍手。




その拍手は、普通の拍手とは違う。音はしない。でも、確かに拍手だった。彼女の両手が合わさることで、その拍手が表現されていた。その視覚的な拍手。その拍手が、僕への最大級の賛辞だったのだ。




僕は紬に近づいた。




その近づき方は、ゆっくりだった。この瞬間を、出来るだけ長くしたいという、その思いから。




彼女は立ち上がって、僕を抱きしめた。




その抱きしめ方は、本当に力強いものだ。彼女の全ての想いが、その抱きしめに込められていた。別れへの悲しみ。感謝。愛情。その全てが、その抱きしめの力に表れていた。




「ありがとう」




彼女は、手話ではなく、口を動かして言った。




その口の動きから、「ありがとう」という言葉が、伝わってきた。僕にも、その口の動きが読めた。あるいは、読もうとした。その努力の中で、彼女の言葉が、僕に伝わった。




僕も彼女を抱きしめ返した。




その抱きしめの中で、二人は、何も言わなかった。言葉は必要なかった。その抱きしめが、全てを語っていた。二人の関係。二人の想い。その全てが、その抱きしめに込められていた。




しばらく、そうしていた。




本当にしばらく。時間がどのくらい経ったのか、それは分からない。でも、その時間は、二人にとって、永遠のように感じられたのだろう。




やがて、紬が離れた。




その離れ方は、本当にゆっくりだ。別れたくない。別れるべきではない。その想いが、その緩慢な動きに表れていた。




「これで」




彼女が手話で言った。




「これで、本当に、お別れ」




その言葉。その言葉は、終わりを意味していた。二人の時間の終わり。共有した時間の終わり。




僕は首を振った。




その首の振り方は、本当に強いものだ。絶対に違うと、その動作で示したかったのだ。




お別れじゃない。




そのことを、僕は伝えたかった。




「また会える」




その言葉。その言葉は、僕からの約束だ。




「会いに来て」




その後に続く言葉。その言葉は、彼女への呼びかけだ。新しい学校へ。新しい環境へ。どこへでも。僕は、会いに来るということだ。




紬は微笑んだ。




その微笑みは、本当に優しいものだ。その優しさの中に、感謝がある。その感謝を、その微笑みで表現していた。




「うん。また会おう」




手話で。




「いつか」




その言葉。その「いつか」という曖昧な時間指定。その中に、全てが詰まっていた。今は別れる。でも、いつかは、また会う。その約束。その約束が、二人を支えるのだ。




僕たちは、音楽室を出た。




その出ていく過程の中で、僕たちは、何か大切なものを、その部屋に置いてきてしまったような、そのような感覚を覚えた。




校門まで、一緒に歩いた。




その道のりは、本当に短く感じられた。それは、二人が、その別れの時間が来るのを、潜在的に望んでいたからなのかもしれない。別れ。その別れは、つらいものだ。でも、その別れの時間が来なければ、終わりが訪れない。その終わりを受け入れるためには、別れの時間は必要なのだ。




校門に到着した。




「じゃあね、篠原くん」




紬が手を振った。




その手の振り方は、本当に優しいものだ。その優しさの中に、別れへの悔しさが隠れていた。




僕も手を振り返した。




その手の振り方は、本当に強いものだ。これが終わりではないのだ。これは、一つの区切りに過ぎないのだ。その強さを、その手の振り方に込めた。




彼女は、ゆっくりと歩いていった。




その歩き方は、本当に遅かった。別れたくない。別れるべきではない。その想いが、その緩慢な歩きに表れていた。




振り返らずに。




その「振り返らずに」という選択。その選択の中に、彼女の強さが見えた。彼女は、僕を見つめたまま、去ることはできないのだ。なぜなら、そうすることで、別れが更に辛くなるから。だから、彼女は、振り返らずに、歩いていくのだ。




その後ろ姿を、僕はずっと見送っていた。




その後ろ姿は、徐々に、小さくなっていった。遠ざかっていった。彼女は、どんどん、僕から遠ざかっていく。その距離は、物理的な距離だけではなく、生活している場所の距離でもあり、人生の進む方向の距離でもあった。




やがて、彼女の姿が見えなくなった。




その角を曲がった瞬間に、彼女の姿は、完全に視界から消えた。




僕は――一人になった。




その瞬間。その瞬間に、僕は本当に深く感じた。別れの重さ。喪失の深さ。それらが、僕の心に沈殿した。




でも同時に、僕は感じた。つながりの強さ。距離は生まれた。でも、その距離を超えた、何かの繋がりが、確かに存在していることを。




音のない世界で、二人は、何かを共有していくのだ。その何かは、音ではなく、心かもしれない。その心の共有。その心の繋がり。それが、本当の「約束の音」なのかもしれない。




僕は、校門に立ったまま、しばらくそこにいた。




その場所で、紬の後ろ姿を、もう一度見たいような気がしていた。でも、彼女は現れることはなかった。彼女は、確実に、僕の前から消えたのだ。




でも、その消えた後にも、何かが残されていた。その何かが、僕を支えるのだ。これからも。ずっと。






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