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最後の旋律



5




文化祭当日。朝から、校内は賑やかだった。


まだ午前七時だというのに、校舎のあちこちから、生徒たちの声が響いている。その声は、興奮と緊張が混ざった、特有の周波数を持っていた。廊下を歩くと、その音量がどんどん大きくなっていく。教室の前に来ると、その声はもはや轟音に近かった。


各クラスが最終準備に追われている。装飾を直す人、看板を立てる人、衣装に着替える人。教室の一角では、机を動かす音がしている。別の場所では、段ボール箱をガムテープで留める音。それらの音が、校舎全体に響き渡っている。


窓から差し込む朝日は、もう十月の日差しではなく、何か特別な光のように見える。その光が、準備の最中にある教室を照らしていた。机の上には、色とりどりの装飾品が散らばっている。折り紙、ペンキ、画用紙。それらのものが、光に照らされて、まるで宝石のように輝いて見える。


廊下の壁には、各クラスの出し物の看板が貼られていた。「カフェ」「演劇」「ダンス」「バンド」。その看板の数は、この学校がどれだけ多くの生徒で満ちているのか、ということを物語っていた。


みんな、楽しそうだ。


その笑顔は、本当に楽しそうだ。疲れている者も多いはずだ。準備は大変だったはずだ。でも、その笑顔には、そのような疲労の色は微塵も感じられない。代わりにあるのは、純粋な喜び。文化祭という、学校の大切なイベントに参加できることへの喜び。そして、それを一緒に作り上げていく、クラスメイトたちとの連帯感。その両者が相まって、この校舎全体を、何か特別な場所に変えていた。


「篠原、おはよう」クラスメイトたちが声をかけてくる。


複数の声が、ほぼ同時に僕に向けられた。その声には、親友のような親しみが感じられた。いや、実際に僕たちは、毎日一緒に過ごしているのだ。朝から晩まで、同じ教室にいるのだ。だから、その親しみは、本当のものなのだ。


いつもは、教室のどこかに座っているはずの人たちが、今日は、朝から準備のため、教室のあちこちに散らばっていた。壁に装飾を貼っている人。机を動かしている人。什器の位置を調整している人。その全員が、僕の姿を認めると、声をかけてくれた。


「おはよう」


僕は会釈で返す。


その会釈は、何人もの人に向けられた。僕の目線は、左から右へ、上から下へと動く。その動きに合わせて、僕の首も動く。その一連の動作が、会釈という形になっていた。


ギターケースを持った僕を見て、何人かが「頑張れよ」と言ってくれた。


その言葉に、僕の心臓が、ふわりと浮かぶような感覚を覚えた。応援されている。そのことが、この上なく嬉しかった。同時に、期待されている、というプレッシャーも感じた。その二つの感情が、僕の胸の中で、複雑に絡み合っていた。


「ありがとう。頑張るよ」


僕は、そう返事をした。その返事は、実際の言葉というより、むしろ、心から発せられた呟きのようなものだった。


ギターケースを握る手に、少しだけ力が入る。その握力は、不安を表しているのか、それとも、決意を表しているのか、それは自分でもよく分からなかった。


教室に入ると、紬がいた。


彼女はいつもの席、窓際の席に座っているはずだった。朝日が窓から差し込んで、その光の中を、彼女が座っているはずだった。その画像は、僕の中に、何度も何度も描かれていた。毎日、朝、教室に入ると、僕が真っ先に見る光景。朝陽に照らされた、紬の後ろ姿。そのシルエット。それが、朝の風景の一部になっていた。


でも――。


彼女の様子が、明らかにおかしかった。


机に凭れかかっている。その姿勢は、不自然だった。何か、大きな力が彼女を押し潰しているのではないか。そんな印象を受けるような、そんな姿勢だ。机に頭をつけるのではなく、体全体を机に預けているような感じだ。


顔色が悪い。


本当に悪かった。朝の光に照らされた彼女の顔は、その光さえもが、彼女の悪い顔色を隠すことができないほど、悪かった。青白くて、まるで血が一滴も流れていないのではないかと思わせるほどだ。


唇に血の気がない。


その唇は、ほんのりと薄紫色に染まっていた。健康的な薔薇色ではなく、何か病的な色合いだ。その色を見ると、何か悪いことが起こるのではないか、という不安が、胸の奥に芽生えた。


机に手をついて、立っているのがやっとのようだ。


その手に注がれる力が、どれほど大きなものなのか、ということが、その手の白さから伝わってくる。指の関節が、白く浮き出ていた。その白さは、血が流れていないことの証だ。机に支えてもらっていなければ、彼女の体は、すぐにでも倒れてしまうのではないか。そのような印象を受けた。


僕は駆け寄った。


早足ではなく、本当に駆け寄った。一秒も無駄にするわけにはいかない。そんな思いが、僕の体を動かしていた。


「紬」


彼女の名前を呼んだ。


紬は僕に気づいて、無理に笑顔を作った。


その笑顔は、彼女の本来の笑顔とは全く別物だった。口角は上がっているけれど、その動きは、ぎこちなかった。まるで、引っ張られているかのように、上げられていた。そして、その瞳には、光がない。目は開いているけれど、その中に、生気がない。それは、笑顔という「形」だけが、そこにあった。心からの笑顔ではなく、作られた、形式的な笑顔だ。


「おはよう、篠原くん」


その声は、とても小さかった。


本当に小さかった。もしかしたら、僕が聞き間違えたのではないか。そんな不安さえ覚えるほど、その声は微かだった。風が吹けば、その声は完全に消えてしまうのではないか。そのような気がした。


その声は、彼女の全ての力を振り絞って、発せられたものではないか。そのような印象を受けた。健康な人間が発する声ではなく、何か大きな負荷に耐えながら、必死に発せられた、そのような声だ。


僕は彼女の腕を支えた。


その腕の冷たさに、驚いた。秋の朝でも、ここまで冷たいことはない。まるで、冷凍庫から取り出したかのような、そのような冷たさだ。その冷たさが、僕の手のひらを通じて、全身に伝わってきた。


「大丈夫?」


できるだけ平静な声で、問いかけた。でも、内心は動揺していた。心臓は激しく動いていた。何かが、大きく狂っている。そのような感覚が、全身を満たしていた。


「大丈夫」紬は言った。


でも、全然大丈夫じゃない。その声の調子が、僕にそれを伝えていた。あるいは、その体全体が、大丈夫ではないことを、語っていた。


「ちょっと、めまいがするだけ」


その言葉は、明らかに、嘘だった。あるいは、本人の言い張りなのかもしれない。「大丈夫だ。大丈夫だ」と、自分に言い聞かせ、その言葉を何度も何度も繰り返すことで、その言葉を本当にしようとしているのかもしれない。そのような、切実な願いが、その言葉の中に込められていた。


ちょっと、じゃない。


明らかに、かなり具合が悪い。


あり得ないくらい具合が悪い。本番前の緊張で、具合が悪くなることはある。手が震えたり、心臓がドキドキしたり、吐き気がしたり。そのようなことは、多くの演奏者が経験することだ。でも、ここまでじゃない。それは、単なる緊張の症状ではなく、本当に何か、体に異変が生じているのではないか。そのような印象を受けた。


その青白い顔色。その瞳の奥底に映る、抑えられない不安感。その冷たい腕。その微かな声。これらの全てが、何かが、大きく狂っていることを示していた。


これは、単なる緊張ではなく、本当に体調が悪いのだ。そのことが、強い確信を持って、僕に伝わってきた。


「病院に行こう。保健室に行こう」


僕は、本能的にノートに書いた。


何かあったら、取り返しがつかない。そう思ったからだ。今、この瞬間に、適切な対応をしなければ、何か大きなことが起こるのではないか。そのような危機感が、僕の中に満ちていた。


しかし、紬は首を振った。


その首の動きさえ、とてもゆっくりしていた。何か大きな重みがあるかのように、ゆっくり、ゆっくりと、横に首を振る。その動作の中に、どれほどの体力を要するのか、ということが、その緩慢な動きから伝わってきた。


「いや。大丈夫だから」


紬は、眼鏡越しに僕の目を見つめた。


その目には、何か強い意志が宿っていた。それは、病気や体調不良に負けてはいない、という強い意志だ。あるいは、何がなんでも、この演奏を成功させるのだ、という強い意志かもしれない。その両者が、彼女の瞳に映っていた。


「でも、演奏はできる」


紬は強い目で僕を見た。


「絶対、できる」


その目には、決意が宿っていた。


それは、一時的な決意ではなく、深い根から湧き出るような、本当の決意だった。そしてその中には、僕への信頼も込められていた。君なら、大丈夫だ。僕たちなら、大丈夫だ。そのようなメッセージが、その瞳から伝わってきた。


午前中は、各クラスの出し物を回る時間だった。


校内は、まさに祭りの様相を呈していた。教室から教室へと、次々と生徒たちが移動していく。その移動の流れは、まるで、大きな河の流れのようだ。その河に身を任せて、生徒たちは流れていく。


廊下の壁には、各クラスの出し物の宣伝ポスターが貼られていた。「我々のカフェへ、ぜひお越しください」「演劇部の渾身の一作」「ダンス部による、最高のパフォーマンス」。それらのポスターは、それぞれのクラスの個性を表していた。


体育館では、ダンス部のパフォーマンスが行われていた。そこからは、力強いビートと、観客たちの歓声が聞こえてくる。その音は、校舎全体に響き渡っていた。時折、音楽が大きくなり、時折、観客たちの歓声が大きくなる。その繰り返しが、学校全体を、何か特別な場所に変えていた。


廊下には、様々な模擬店の匂いが漂っていた。焼きそば、たこ焼き、フランクフルト。それらの匂いが重なり合って、独特の、祭りの匂いを作り出していた。その匂いを嗅ぐと、まるで、自分が何か別の世界に連れていかれたような、そのような感覚を覚える。


でも、紬は教室で休んでいた。


午前中のあいだ、僕は何度も、他のクラスの出し物を見に行った。でも、心はずっと教室に残っていた。紬のことが、心配でならなかった。何度も何度も、教室へ戻った。


そのたびに、紬は机に凭れたままで、目を閉じていた。一歩、教室に入ると、僕の目は、真っ直ぐに彼女の元へ向かった。彼女は、相変わらず、机に凭れていた。その姿勢が、変わっていないことに、少し安心した。少なくとも、彼女は、ここにいる。倒れていない。生きている。そのことが、分かるだけで、僕の心は、少し落ち着いた。


保健室に行くよう勧めたけれど、彼女は首を振った。


「ここにいる。本番まで、力を温存したいから」


その決意は揺るがなかった。


紬のその言葉を聞いて、僕は、彼女が本当にこの演奏を大切に思っているのだということを、改めて感じた。自分の体調を後回しにしてまで、この演奏をやり遂げたいのだ。その想いに、僕の心は揺さぶられた。


同時に、絶対に失敗させてはいけない、という強い決意も生まれた。紬の願いに応えるために。紬の決意に応えるために。絶対に、この演奏を成功させるのだ。そのような思いが、僕の中で、燃え上がった。


僕は紬のそばにいた。


何かあったら、すぐに対応できるように。彼女の呼吸を聞き、彼女の顔色の変化を見守り、彼女が何かを必要としたら、すぐにそれを用意できるように。授業の机の横に、椅子を置いて、ずっとそこに座っていた。


その間、教室には、他にも何人かの生徒がいた。昼食を食べる人、宿題をする人、ただ寝ている人。でも、僕の意識は、その全員から、完全に紬に集中していた。紬以外の存在は、背景のようなものだ。ぼんやりと、そこにあるけれど、はっきりとした輪郭を持たない。


昼休み。


チャイムが鳴ると、教室は急速に空になっていった。


昼食を食べるために、食堂へ向かう生徒たち。その移動の速さは、本当に素早かった。まるで、誰もが、素早く昼食を食べ、その後の時間を有効活用したいのかのように。友人たちと一緒に、校庭で弁当を食べる生徒たち。校庭の片隅に集まって、楽しく談笑している彼らの姿が、窓から見える。


教室に残るのは、僕と紬だけになった。


その空間は、学校という、多くの人間が集まる場所でありながら、その中にいる二人だけが、孤立した世界にいるかのような、そのような感覚を覚えた。二人だけの時間。二人だけの空間。それが、この瞬間に、生まれていた。


体育館では、軽音部のライブが行われていた。


その音は、校舎全体に響いていた。ドラムの激しなビート。ギターのリード。ベースの低い音。それらが組み合わさって、一つの巨大な音のうねりとなっていた。


激しいロックの音。


それは、美しいメロディーとは言いがたい。むしろ、激烈で、野性的で、何かを叫んでいるような、そのような音だ。でも、その中に、何か強い力が感じられた。その力が、聞く人の心を揺さぶる。観客の歓声が、体育館から漏れ聞こえてくる。その歓声の大きさから、軽音部のパフォーマンスが、どれほど受けているのか、ということが、伝わってきた。


その音を聞きながら、僕は思った。


かつて、僕もあのステージに立ちたかった。


あの大舞台。あの体育館という、学校の中で、最も大きなステージ。あの観客の熱視線の中で、自分の演奏をぶつけたかった。そう思っていた時期が、確かに、ここにいた。


本当に、そう思っていた。一年生の時、軽音部を見学した時。あの激しいロックサウンド。あの観客たちの歓声。あの一体感。それらに心奪われて、自分も、いつか、あのステージに立つのだ。そのように心に決めたことを、覚えている。


でも、今は違う。


今の僕は、大舞台を望んでいない。むしろ、そういった大きな舞台から、少し身を引いているような気がする。代わりに、僕には紬がいる。


小さな音楽室でのコンサート。


二人きりで、あるいは、少人数の観客の前で、行うコンサート。それが、今の僕にはちょうどいい。いや、それが、一番いい。そう思うようになっていた。


なぜなら、そこには、紬がいるから。紬と一緒に作り上げた、「約束の音」という曲。その曲が、どのようなステージで演奏されるのか、ということよりも、紬と一緒に、それを演奏できるのか、ということが、僕にとっては、何より大切だからだ。


その想いに気づいたのは、いつのことなのか。


もしかしたら、紬と初めて、一緒に曲を作った時からかもしれない。あるいは、長い間、彼女と一緒に、何度も何度も、その曲を練習していく過程で、徐々に、その想いが生まれていたのかもしれない。今となっては、それは分からない。ただ、確かなのは、今、この瞬間に、僕の中に、その想いが在る、ということだ。


「行こうか」紬が言った。


その声は、さっきよりは、少しだけ大きくなっていた。昼休みの時間に、少し休むことで、彼女の体に、わずかなエネルギーが戻ったのかもしれない。


「そろそろ、準備しないと」


僕は紬を手で支えながら、立ち上がるのを手伝った。彼女の体重は、いつもより軽く感じた。それはただ、彼女が、僕に体重を預けていないからなのかもしれない。あるいは、本当に、彼女の体が、軽くなっているのかもしれない。いずれにせよ、その軽さが、彼女の体調の悪さを物語っていた。


僕たちの演奏は、午後二時から。


あと一時間ほどだ。


その一時間という時間は、とても短く感じられた。もっと時間があれば、紬を保健室に連れていくことも、彼女の体調がもう少し回復するのを待つこともできるかもしれない。でも、時間は、容赦なく、前に進んでいく。あと一時間。その時間の中に、全てを詰め込まなければならない。


二人で、音楽室へ向かった。


廊下は、昼休み中だからか、誰もいないような静けさになっていた。足音が、廊下に響く。それは、一人の足音ではなく、二人の足音だ。僕の足音と、紬の足音。その二つの足音が、廊下に響き渡っていた。


紬の足取りは、いつもより遅い。


僕は彼女のペースに合わせた。彼女が歩みを進めるのに合わせて、僕の歩みも遅くなる。その結果、二人の足音は、まるで、一つのリズムを奏でているかのように、廊下に響いていた。


廊下の窓から、校庭が見える。


昼日中の陽光が、校庭全体を照らしている。その中で、何人かの生徒たちが、昼食を摂っていた。遠くから聞こえる、その生徒たちの笑い声。その声が、僕たちには、ずっと遠い世界のもののように思えた。


音楽室への道の途中に、案内の張り紙が出ていた。


「音のない音楽隊 ミニコンサート 14:00〜 旧音楽室にて」


紬が作った張り紙だ。


シンプルだけど、温かみのあるデザイン。手書きのフォント。色鉛筆で、丹寧に色が塗られている。その張り紙を見ると、紬が、どれだけこのコンサートを大切に思っていたのか、ということが伝わってきた。


色選び一つ一つが、丁寧に考えられていた。背景は淡いクリーム色。文字は、深い紫色と、明るいオレンジ色で彩られていた。その組み合わせは、何か、温かくて、でも、気品がある。そのような印象を与えていた。


そして同時に、今、彼女がどれほどの体調不良にある中で、それでもこのコンサートをやり遂げようとしているのか、ということも伝わってきた。この張り紙を作った時、彼女は、すでに体調が悪かったのかもしれない。それでも、全力を尽くして、この張り紙を作った。その想いが、この張り紙から伝わってくる。


旧音楽室は、校舎の一角にある、古くなった部屋だ。


壁は少し傷んでいるし、床も、時代を感じさせる木の色をしている。でも、その部屋には、何か独特の雰囲気があった。古い、でも、温かい。そんな雰囲気だ。


その部屋に足を踏み入れた時、僕の鼻に入ってくるのは、古い木の香りだ。その香りは、時間の重みを感じさせる。何十年もの間、この部屋を覆ってきた、その香りだ。


音楽室に入ると、すでに何人かの生徒が待っていた。


「あ、来た」


その声は、後ろの方から聞こえた。


「篠原だ」


別の声が、別の方向から聞こえた。


「白石さんも」


三番目の声が聞こえた。


ざわめきが起きる。


それまでの静かな待機の時間が、一変した。多くの生徒たちが、僕たちの到着に気づいて、何かを言い始めた。その全てが、一つのざわめきになって、部屋の中に満ちた。


予想以上に、人が集まっている。


窓際にも、廊下にも、人の姿がある。教室に入りきらなかった人たちが、外から中の様子を見ようとしていた。その光景を見て、僕は、改めて、このコンサートに対する期待の大きさを感じた。


「すごい人」紬が驚いたように言った。


彼女の青白い顔に、わずかに、血色が戻ったように見えた。それは、驚きと、喜びが入り混じった表情だった。


「こんなに来てくれるなんて」


その言葉の中に、彼女の素直な驚きと、喜びが詰まっていた。


僕も同じだった。心の中で、何度も数えてみた。二十人。いや、三十人?いや、もっとかもしれない。


二十人くらいは、いるだろうか。


この小さな音楽室が、ほぼ満員だった。いや、満員を超えている。その状態に、僕の心は高鳴った。同時に、緊張も、一層増した。


田中さんもいる。いつも紬と一緒にいる田中さん。その横には、クラスの何人かの女の子たちが立っていた。彼女たちは、紬が来たことに気づいて、小さく手を上げて、挨拶をしていた。


山田もいる。


いや、それだけじゃなく、クラスメイトの多くが、来てくれている。那智も、美咲も、隆也も。僕たちが普段、学校で顔を合わせている人たちが、みんな、ここにいた。


そして、見知らぬ顔も多い。


他のクラスの生徒たちも、来てくれているようだ。「音のない音楽隊」という名前が、何か興味を引いたのだろうか。それとも、口コミで、誰かが「いい曲を演奏するらしい」と言ったのだろうか。理由は分からないが、とにかく、多くの生徒たちが、僕たちの演奏を聞きに来てくれていた。


部屋の中は、人で満ちていた。


その温度が、刻一刻と上がっていく。皆の体温が、空間を満たしていく。そのため、部屋の中は、いつもより随分と温かく感じた。その温かさの中で、人々は、静かに、僕たちを待っている。その沈黙の中に、期待が詰まっているように感じた。


壁には、古い楽器のポスターが貼られていた。ヴァイオリン、フルート、クラリネット。それらの楽器は、この音楽室の歴史を物語っていた。何十年も前から、この部屋では、多くの生徒たちが、音楽と向き合ってきたのだ。その歴史の中に、今、僕たちも加わろうとしている。その想いに、心が引き締まるような感覚を覚えた。


「篠原くん」紬が僕の手を握った。


その握力は、弱かった。指の関節が、僕の手のひらに、まるで針のように当たる。でも、その弱い握力の中に、紬の全ての想いが込められているような気がした。


「緊張する」


その声は、か細かった。紬の体は、かすかに震えていた。それは、緊張からくる震えなのか、それとも、体調の悪さからくる震えなのか、それは判断がつかなかった。おそらく、その両方なのだろう。


僕も同じだった。


心臓が、激しく鳴っている。自分の心臓の鼓動が、自分の耳にまで聞こえるくらいだ。耳の中で、ドクンドクンという音が響いている。その音が、うるさいくらいだ。


手のひらに、汗をかいている。


その汗が、気持ち悪いくらいだ。ギターの弦に触れる指が、滑ってしまうのではないか。そのような不安さえ覚えた。


口の中は、乾いている。喉に、何かが詰まっているような感覚がある。その感覚は、不安から来るものなのか、それとも、本当に何かが詰まっているのか、それは判断がつかない。


でも、やるしかない。


ここまで来たんだ。逃げるわけにはいかない。


紬は、自分の体調が悪いにもかかわらず、この演奏を成功させようとしている。その想いに応えるために、僕も、全力を尽くさなければならない。


僕は紬の手を握り返した。


その握力は、できるだけ、力強いものにしようとした。大丈夫だ。君は一人じゃない。僕がここにいるよ。そのようなメッセージを、その握力に込めようとした。


「大丈夫。一緒だから」紬が微笑む。


その微笑みは、さっきのような無理な笑顔ではなく、本当の笑顔だった。その笑顔を見ると、僕の中のもやもやが、少しだけ晴れた。


紬が、微笑んでくれた。その笑顔は、この瞬間に、僕にとって、何よりも心強い。


そうだ。一人じゃない。紬がいる。


あの、小さな手を握っている。その手は、冷たい。本当に冷たい。でも、その冷たさの中に、温かさを感じる。それは、紬の体温というわけではなく、紬の、僕に対する想いなのかもしれない。その想いの温かさが、彼女の冷たい手を通じて、僕に伝わってくる。


僕たちは、それぞれの楽器の前に座った。


紬はピアノ。


半世紀以上前のものだと思われる、古いピアノ。鍵盤は、黄ばんでいる。でも、その音色は、とても温かい。懐かしいような、でも新しいような、そんな音色だ。何度も何度も、多くの生徒たちに弾かれてきた、その歴史を感じさせるようなピアノだ。


紬は、その鍵盤に向かって、ゆっくりと腰を下ろした。その腰の下ろし方は、慎重だった。何か、力が抜けているような感じだ。でも、それでも、彼女は、座った。そして、鍵盤に向かって、自分の体を整えた。


僕はギター。


何度も何度も、僕の手が触れてきたギター。その表面には、小さなキズがいくつもある。それらのキズは、僕たちの練習の歴史を物語っていた。練習の時に、アンプに擦ったキズ。落としてしまった時についたキズ。そのような、何気ない日常の中で、ついたキズが、全て、このギターの表面に刻まれていた。


そのギターを、僕の腕の中に抱えた。その感覚は、いつもと変わらない。でも、今日は、何か特別な感じがする。まるで、このギターが、僕に何かを伝えようとしているかのような、そのような感覚だ。


準備を整える。


チューニングを確認する。


ギターの音が、教室に響く。その音を聞いて、観客たちが、静まり返った。まるで、その一つの音が、合図であるかのように。


ペグを回して、弦の張力を調整する。その調整の度に、ギターの音が変わっていく。少しずつ、少しずつ、正確なピッチに近づいていく。その調整の過程そのものが、僕にとって、瞑想のようなものだった。


楽譜を見る。


何度も何度も、練習してきた曲。楽譜なんて見なくても、演奏できるくらいだ。でも、それでもなお、楽譜を見ながら、心を整える。その楽譜は、紬が書いたものだ。彼女の丁寧な字で、一音一音が記されている。その楽譜を見ると、彼女の想いが、一層、強く伝わってくる。


紬も、ピアノの楽譜を前に、何か、呟いているようだ。その呟きは、聞き取ることはできない。でも、彼女が、自分の演奏に向き合っているのだということが、その姿勢から伝わってくる。


深呼吸。


一呼吸。二呼吸。三呼吸。


肺に入ってくる空気の冷たさを感じる。その空気が、全身を駆け巡る。体の隅々まで、その空気が行き渡るのを感じることで、自分の体が、今、ここにあるのだということを、改めて確認する。


そして、もう一度、深呼吸。


観客たちが、静かになった。


みんな、こちらを見ている。期待に満ちた目。その目が、僕に注がれている。三十人近くの目が、僕たちに向けられている。その視線の重さに、僕は思わず目を閉じる。でも、すぐに目を開ける。逃げてはいけない。


視線を上げて、観客たちを見渡す。


田中さんは、紬の方を見ている。その目には、何か、祈るような表情が浮かんでいた。山田は、前かがみになって、これから始まる演奏に、集中しようとしている。クラスメイトたちは、静かに、僕たちを待っている。見知らぬ顔の生徒たちも、同じように、静かに、僕たちを待っている。


その全員の期待が、この瞬間に、僕たちの上に集中している。


紬が、小さな声で話し始めた。


「えっと」声が震えている。


それは、緊張と、体調不良の両方からくる震えだった。その震えは、抑えようとしても、抑えられない、そのような震えだ。でも、彼女は、そのような状態でも、話を始めた。


「今日は、来てくれてありがとうございます」


その声を聞いて、観客たちが、一層静まり返った。それは、紬への期待と、敬意を表す、沈黙だった。


「私たちは、音のない音楽隊です」


会場から、小さな笑いが起きた。


それは、優しい笑いだった。その笑いに、観客たちの、僕たちへの親しみが感じられた。その笑いに、僕の心は、少しだけ柔らかくなった。


「これから演奏する曲は、私たちのオリジナル曲です」


紬の声は、まだ小さい。でも、その声は、確かに、観客たちに届いている。


「タイトルは、"約束の音"」


その曲名を聞いて、観客たちの間に、何か、期待が満ちた。その期待の大きさが、教室の空気そのものに反映されているような、そのような感覚を覚えた。


紬は僕の方を見た。


準備はいい?という目。


その目を見ると、紬の覚悟が、改めて、伝わってきた。彼女は、自分の体調がどれほど悪いのかを、自分自身、よく分かっているはずだ。でも、それでも、彼女は、この演奏に向かっている。その覚悟に、僕の心は、一層、引き締まった。


僕は頷いた。


いつでも。その一言を、その頷きに込めた。


「じゃあ、始めます」


紬が鍵盤に手を置く。


その手は、まだ震えていた。でも、その手の置き方は、確かだった。長い間、練習してきた証だ。その手の位置は、ミリ単位で、正確な位置に置かれている。その精密さが、彼女の練習量を物語っていた。


僕もギターを構える。


弦に、指を置く。その弦の張力を、指に感じる。その感覚は、いつもと同じだ。でも、今日は、その感覚が、いつもより、鮮明に感じられた。まるで、全ての感覚が、この瞬間に、研ぎ澄まされたかのように。


最後の深呼吸。


一呼吸。


その瞬間、教室全体が、一つの緊張に包まれた。誰もが、息を呑んでいるような状態だ。時間が、一瞬、止まったかのような、そのような感覚さえ覚えた。


そして――。






イントロが始まった。




この瞬間だ。全てが、ここから始まる。




紬の指が、鍵盤を叩く。




その指は、本当は、もっと力強く、その鍵盤を叩く筈だった。何度も何度も練習してきた、その指の動き。そのパターン。それらが、すべて、この瞬間のために、存在していたはずだ。




でも――。




音が、小さい。




いつもより、ずっと小さい。




その音は、まるで、遠くから聞こえてくるような、そのような音だ。本来ならば、教室全体を満たすべき、ピアノの最初の音が、その音量の小ささから、観客たちの耳にまで、どれだけ届いているのか、分からない。




僕は、その瞬間に、紬の体調がどれほど悪いのか、ということを、改めて認識した。演奏中に、彼女の手が、本来の力を失っているのだ。その事実が、僕の胸に、重くのしかかった。




紬は補聴器のボリュームを上げようとした。




補聴器。彼女が、普段、身につけているデバイス。それは、彼女にとって、音の世界との、唯一の架け橋だ。彼女は、その架け橋を通じて、世界の音を聞く。世界と繋がる。




その補聴器のボリュームを、彼女は上げようとしたのだ。少しでも、自分のピアノの音を、聞こえるようにするために。少しでも、自分の演奏を、正確にするために。




でも――。




手が震えている。




その手は、補聴器のボタンに、上手く触れることができない。何度か、その小さなボタンを探そうとするけれど、その指の細かい動きが、うまくいっていないのだ。それは、彼女の体調の悪さと、緊張が、一つになって、彼女の体を支配しているからなのだろう。




その光景を見ながら、僕は、何もできない自分に、歯がゆさを感じた。彼女が、苦しんでいるのに。彼女が、何かを必死に調整しようとしているのに。僕は、何もできないのだ。




しかし、僕にできることは、一つだけある。




アルペジオで、一音ずつ丁寧に。その技法は、複数の弦を、時間差を付けながら、一つずつ弾いていく技法だ。その技法により、ギターの音は、柔らかく、でも、確実に、ピアノの音を支える。




その音が、教室に響く。




そして、紬は、その音を聞く。その音を聞くことで、彼女は、自分の音が、どのような位置にあるのか、ということを、確認することができる。




二つの音が、空間に溶け込んでいく。




ピアノの小さな音と、ギターの、ピアノを支える音。その二つが、一緒になって、初めて、一つの音楽になる。




その瞬間、観客たちの空気が、変わった。




観客たちが、息を呑んでいるのがわかる。




その息を呑む音。それは、ほぼ、同時に、多くの観客たちから発せられたものだった。皆が、同じ瞬間に、何かを感じたのだ。その何かは、もしかしたら、この音楽の中に、何か特別なものが在る、ということなのかもしれない。




静寂の中、音楽だけが響いている。




本来ならば、観客たちの呼吸音、雑音、何かしらの音が、混在しているはずだ。でも、この瞬間に、そのような雑音は、完全に消えている。代わりにあるのは、完全な静寂。その静寂の中で、二つの楽器の音だけが、清潔に、明確に、響き渡っている。




それは、観客たちが、意識的に、その音を聞こうとしているからなのだろう。彼らの全ての注意力が、この音楽に集中しているのだ。




「きみと出会えた あの日から———」


物語の最初の部分。この曲において、紬と僕が、初めて、観客たちに語りかける部分だ。




紬のピアノが、メロディーを奏で始める。




その指の動きは、丁寧だ。一つ一つの鍵盤が、正確に、押されていく。その音が、積み重なって、初めて、一つのメロディーになる。




でも――彼女の指が、時々止まる。




一瞬の空白。その空白は、わずかなものだ。誰もが気づくわけではないような、そのようなわずかな空白だ。でも、その空白の意味を知っている僕には、その空白が何を意味するのか、よく分かった。




迷っている。




彼女は、迷っているのだ。次の音が、何であるのか。次の鍵盤が、どこにあるのか。そのことに、迷っているのだ。




自分の音が、聞こえていないのかもしれない。




いや、おそらく、聞こえていない。補聴器があっても、完全に聞こえているわけではないのだ。ましてや、ピアノの微妙な音程の違いを、完全に聞き分けることは、非常に難しい。彼女は、その難しさと戦っているのだ。




その瞬間、僕はギターの音を少し大きくした。




紬が、僕の音を聞いて、自分の位置を確認できるように。




ピアノとギター。その二つの楽器の関係が、この瞬間に、より明確になった。ギターは、単なるピアノの伴奏ではなく、ピアノの羅針盤になったのだ。迷った時の、指標になったのだ。




紬は僕を見て、小さく頷いた。




その頷きの中に、ありがとう、という想いが込められていた。その感謝は、言葉ではなく、瞳に映っていた。彼女の瞳が、感謝を語っていた。




僕も、その視線に、頷きで返した。




任せろ。俺がいる。そのようなメッセージを、その頷きに込めた。




その瞬間――。




教室の空気が、変わった。




それは、良い変わり方ではなく、悪い変わり方だった。何か、緊張が走ったような。何か、不穏な空気が流れたような。そのような感覚を受けた。




紬の顔が、さらに青白くなった。




本当に、さらに青白くなったのだ。先ほどよりも、その色は、一層、血から遠ざかっているような色だ。それは、彼女の体が、さらに悪くなっているのではないか、ということを示していた。




額に、汗が浮かんでいる。




その汗は、大粒のものだ。まるで、滝のように、彼女の額から、流れ落ちそうなほどだ。その汗の量から、彼女の体が、どれほどの負荷に耐えているのか、ということが伝わってくる。




大丈夫?




心の中で叫んだ。




本当に、心の中で、その言葉は、叫んでいた。声にならない声で。でも、その言葉は、彼女には届かない。このBメロの複雑なリズムの中で、彼女は、自分の演奏に集中している。彼女には、僕の叫びを聞く余裕がないのだ。




でも、演奏は止められない。




僕は、そのことを、よく分かっていた。ここで演奏を止めることは、紬の願いを裏切ることになるのだ。彼女が、必死に、この演奏を成功させようとしているのに、僕が、ここで止めるわけにはいかない。




だから、僕は、弾き続けた。




その指は、ギターの弦の上を、走り続けた。




紬のピアノが――止まった。




一瞬の沈黙。




その沈黙は、わずか一秒にも満たないものだったかもしれない。でも、その一秒は、永遠のように感じられた。その一秒の中で、多くのことが起こった。




観客たちが、ざわめく。




その音は、驚きと、不安が入り混じった、そのようなざわめきだった。何かが起こったのか。何かが狂ったのか。そのような不安が、観客たちの間に広がっていく。




紬は、鍵盤を見つめている。




その視線は、茫然としたものだ。何かを失ったかのような。何かを探しているかのような。そのような視線だ。




指が、震えている。




その震えは、緊張からくるものではなく、絶望からくるものだったのかもしれない。自分の手が、自分の思うように動かないことへの、絶望。自分の音が、聞こえていないことへの、絶望。




そして――彼女は、また弾き始めた。




その決断は、英雄的だった。ここで止まることもできたはずだ。でも、彼女は、止まらなかった。彼女は、前に進むことを選んだ。




でも、明らかに違う。




リズムがずれている。音も外れている。




それは、完璧な演奏とはいえない。むしろ、欠陥のある演奏に見えるかもしれない。でも、その欠陥の中に、何か、本当に大切なものが、在るのだ。それは、完璧さよりも、遥かに大切なものだ。




紬は、自分の音が聞こえていない。




補聴器があっても、もう十分に聞こえていないのだ。それなのに、彼女は、弾き続けている。その弾き続けるという行為は、もはや、演奏ではなく、何か別のものになっていた。それは、祈りだ。信仰だ。彼女は、祈るように、信仰するように、その鍵盤を叩き続けているのだ。




でも、彼女は弾き続けた。必死に。記憶を頼りに。




その指の動きは、訓練された指の動きだ。何度も何度も、この曲を練習したからこそ、彼女の指は、たとえ音が聞こえなくなっても、その鍵盤を正確に、叩くことができるのだ。




記憶。それは、彼女の最後の武器だ。その武器を手に、彼女は、前に進むのだ。




僕は、紬に合わせてギターを弾いた。




彼女のリズムに、僕が合わせる。




本来ならば、僕が引っ張り、彼女がそれに付いてくる、というような関係があるかもしれない。でも、この瞬間に、その関係は逆転していた。彼女の記憶に、僕が合わせている。彼女の意思に、僕が従っている。




その瞬間、僕たちは、完全に一つになった。




音楽的な融合ではなく、心の融合。二人の心が、一つになったのだ。




間奏。




僕のソロパート。




ギターだけの時間。




この瞬間に、観客たちは、僕のギターの音を、聞くことになる。ピアノの音がなく、僕のギターだけが、空間に響き渡る。




その音は、何を語るのか。その音は、何を伝えるのか。






その指の動きは、迷いがない。その動きは、確信に満ちている。この音を弾くために、何度も何度も、練習してきた。そのための、この指の動きだ。




この音を、紬は聞いているだろうか。




僕の音が、彼女に届いているだろうか。




わからない。




完全には、わからない。でも、弾き続けた。紬のために。




僕の全ての想いを、このギターの音に込めて、弾き続けた。彼女が、僕のギターの音を聞いて、最後のサビへと、向かっていくことができるように。その想いを込めて。








最後のサビ。




曲の最終盤。ここで、もう一度、二人で盛り上げる。この曲のクライマックスだ。




紬は――。




両手で、力強く鍵盤を叩いた。




その動作は、それまでの彼女の動作とは、全く異なるものだ。それは、絶望的な力強さだ。自分の音が聞こえない。自分の手が、上手く動かない。そのような状況の中で、彼女は、力強く、その鍵盤を叩くことを選んだ。




音程は外れている。




その音は、本来ならば、その音であってはならないような音だ。でも、その音は、そこにある。




リズムもずれている。




その音は、本来ならば、その時間に鳴るべき音ではないような音だ。でも、その音は、そこにある。




でも、その音には、魂が込められていた。




その音の中に、彼女の全てが込められていた。彼女の想い。彼女の祈り。彼女の信仰。それらの全てが、その音に集約されているのだ。




僕も、全力で弾いた。




紬と一緒に。最後まで。




その指は、全ての力を尽くして、ギターの弦を弾く。その音が、ピアノの音と重なる。その二つの音が、一つになる。




その瞬間、教室全体が、光に満たされたかのような、そのような感覚を受けた。






紬のピアノが、優しく鍵盤を撫でる。




その指の動きは、もはや、強力なものではなく、優しいものになっていた。その優しさの中に、何か、安らぎが感じられた。




僕のギターも、ささやくように弦を弾く。




その音は、風のようだ。そよ風のようだ。優しく、そよ風のように、弦の上を、指は動く。




そして、最後の和音。




二人同時に――。




その和音は、純粋だ。清潔だ。その和音が、この曲の全てを、表現している。




その瞬間。




紬の手が、鍵盤から滑り落ちた。




それは、優雅な動きではなく、絶望的な動きだ。彼女の手は、意思を失ったかのように、その鍵盤から滑り落ちた。




彼女の体が、ピアノの椅子から崩れ落ちる。




その崩れ落ち方は、倒れるというものではなく、消えるというような感覚だ。彼女の体は、その力の全てを失い、ピアノの椅子から、崩れ落ちたのだ。




「紬!」




声にならない叫びが、喉から溢れた。




その叫びは、もはや、音楽ではなく、純粋な絶望だ。純粋な不安だ。その叫びは、どれほどの音量を持っているのか、分からない。でも、その叫びは、観客たちの全員に、聞こえたに違いない。




僕はギターを置いて、駆け寄った。




その走り方は、奔流だ。川が、堤防を決壊させて、奔流となるような、そのような勢いで、僕は、駆け寄った。




紬は床に倒れていた。




目を閉じて、動かない。




その姿は、まるで、あの彼女ではないような、そのような姿だ。あの、いつも、僕の横で、微笑んでいた彼女ではなく、別の何か。




でも、それは、彼女だ。紬だ。




「誰か!先生を!」




田中さんの声。




観客たちが、騒然とする。




その騒ぎの中で、何かが、校舎全体に波及していくような、そのような感覚を受けた。その波紋は、この音楽室を飛び出して、校舎全体に広がっていく。




その波紋の速度は、光の速度だ。瞬時に、全員が、何かが起こったのだ、ということを知ったに違いない。




桜木先生が駆け込んできた。




その走る速度は、本当に速かった。何か、大事件が起こったのだ、ということを知った彼は、全力で、この教室に駆け込んできたのだ。




保健の先生も。




別の入口から。彼女も、何かが起こったのだ、ということを知って、この教室に駆け込んできた。




そして――待機していた看護師も。




あ。僕は、この瞬間に気づいた。看護師が、この文化祭の会場に、待機していたのだ。何かの事態に備えて。




「白石さん!」先生たちが、紬に呼びかける。




その呼びかけは、何度も何度も、繰り返された。彼らは、彼女を、呼び戻そうとしているのだ。この世界に。この現実に。




紬は――。




ゆっくりと、目を開けた。




その目は、焦点が定まっていないようだった。まるで、この世界に、戻ってくるのに、時間がかかっているかのような、そのような瞳だ。




「演奏」彼女が小さな声で言った。




その声は、本当に小さかった。まるで、風に吹かれて、消えてしまいそうなほどの声だ。




「終わった?」




その質問。それは、彼女の全てを表していた。自分がどのような状況にあるのか、ということよりも、演奏が成功したのか、ということが、彼女にとっては、最も大切だったのだ。




「終わったよ」




僕は声にならない声で答えた。




その返答は、嘘ではない。でも、完全な真実でもない。演奏は終わった。でも、それは、彼女が望んだような終わり方ではなかったかもしれない。




でも、彼女に必要なのは、真実ではなく、安心だったのかもしれない。




紬は、小さく笑った。




その笑顔は、彼女の本当の笑顔だ。その笑顔を見ると、すべてが、報われたような、そのような感覚を覚えた。




「よかった」




その言葉。その二文字の中に、彼女の全ての想いが込められていた。




そして、また目を閉じた。




「救急車!」保健の先生が叫んだ。




その叫びは、緊急を示していた。何か、大事が起こったのだ。何か、見えない何かが、彼女の体から、奪われようとしているのだ。




看護師が、紬のそばに身をかがめた。




彼の手は、彼女のカルテ、バイタルサイン。何かを確認している。その手の動きは、素早く、正確だ。




音楽室が、混乱に包まれた。




それは、良い混乱ではなく、悪い混乱だ。パニック。不安。絶望。それらの感情が、この音楽室の中で、渦巻いている。




でも、その混乱の中でも、一つのことが、確かだ。




演奏は成功した。




紬と僕の演奏は、成功したのだ。




その事実は、誰も、変えることができない。その事実は、永遠に、この音楽室の中に、刻まれるのだ。



  6






救急車のサイレンが、遠ざかっていった。


紬を乗せた救急車。母親も一緒に乗り込んだ。


僕は、音楽室の床に座り込んでいた。何も考えられなかった。何も感じられなかった。


観客たちは、すでにいなくなっていた。文化祭は続いている。他の出し物を見に、みんな散っていった。


「篠原くん」桜木先生が、僕の肩に手を置いた。「大丈夫?」


僕は頷けなかった。大丈夫なわけがない。


「白石さんは、きっと大丈夫だよ」先生は優しく言った。「すぐに病院に着く」


でも、その言葉に確信はなかった。


「今日は、もう帰りなさい」先生が言った。「ご両親に連絡しておくから」


僕は立ち上がった。ギターケースを手に取る。


音楽室を出る。廊下は、賑やかだった。文化祭は、まだ続いている。


笑い声、音楽、歓声。


でも、それらすべてが、遠くに感じた。


紬。


君は、大丈夫なのか。








家に帰ると、母が待っていた。




玄関を開いた瞬間に、その姿が目に入った。母は、リビングのソファに座っていた。ただ座っているのではなく、何かを待つような姿勢で、座っていた。その姿勢から感じられるのは、不安だ。心配だ。何かが起こったのではないか、というその心配が、母の全身から伝わってくる。




「結城」




母は心配そうな顔をしていた。




その顔色は、本当に悪かった。まるで、ずっと、ここで何かを待ち続けていたかのような、そのような表情だ。その目は赤く腫れているようにも見える。泣いていたのかもしれない。あるいは、ずっと、心配しながら、ここで待っていたのかもしれない。




「学校から連絡があったわ」




母の声は、静かだった。でも、その静かさの中に、何か大きな不安が隠れていた。学校からの連絡。それは、普通の連絡ではなく、何か大事が起こったという、その知らせなのだろう。




「白石さん、大丈夫なの?」




その質問。その質問の中に、母が、紬のことをどれほど心配しているのか、ということが伝わってきた。学校のほかの生徒ではなく、紬。母も、その名前で呼ぶ。それは、母が、僕にとって紬がどれほど大切な存在であるのか、ということを、理解しているからなのだろう。




僕は首を振った。




わかりません。わからないのです。本当に、わかりません。




「病院には行かないの?」




その質問は、母からの提案ではなく、促しのようなものだった。あるいは、命令に近いものだったのかもしれない。母は、僕が病院へ行くべきだ、ということを知っていたのだ。でも、母は、それを、強制することはしなかった。代わりに、質問という形で、僕に提案したのだ。




僕は――迷った。




本当に迷った。行きたい。紬のもとへ。彼女のそばへ。それが、何よりも強い願いだ。でも、行っていいのだろうか。行ってもいいのだろうか。そのような疑問が、頭の中を駆け巡った。




病院。それは、医者と患者、そしてその家族だけの場所だ。そのような場所に、自分は行ってもいいのだろうか。自分は、紬にとって、どのような存在なのか。友人?それ以上?それ以下?その定義が、曖昧なまま、自分は、病院へ行ってもいいのだろうか。




そのような不安が、僕の胸を占めていた。




母は僕の顔を見て、何かを理解したようだった。




その視線は、僕の全てを見通しているようだ。母は、自分の息子が、今、どのような感情の中にあるのか、ということを、完全に理解しているのだ。何を迷っているのか。何に不安を感じているのか。その全てを。




「行きなさい」




母が言った。




その声は、優しかった。でも、強かった。それは、母からの命令だ。でも同時に、母からの励ましでもあった。




「きっと、あなたが必要なはずよ」




その言葉。その言葉の中に、母が、僕にくれた、全ての信頼が詰まっていた。紬は、あなたが必要だ。そのように、母は、僕に言ってくれているのだ。




その言葉を聞いた瞬間に、僕の迷いは、消えた。




母の言葉は、僕の背中を押してくれた。それは、優しい手だ。でも、確実に、僕を前へ進めさせる、その手だ。




僕は頷いた。




わかった。わかりました。行きます。行きます。その想いを、その頷きに込めた。




携帯電話で、紬の母親に連絡を取った。メールで。




ここで直接電話をするのは、失礼だと思ったからだ。メールであれば、紬の母親は、自分の都合のいい時間に、返信することができる。紬の母親も、この瞬間、様々なことで、忙しいのだろう。その忙しさの中で、何度も電話が鳴るのは、迷惑だと思ったからだ。




「お見舞いに行ってもいいですか」




メッセージを送信する。その送信ボタンを押す瞬間に、心臓が高鳴った。これからのことが、どうなるのか。紬の母親が、どのような返信をくるのか。その全てが、曖昧なまま、メッセージは、紬の母親のもとへ届けられた。




しばらくして、返信が来た。




「ありがとうございます。でも、今日はまだ検査中です。明日、また連絡します」




検査中。




紬は、今、何をしているのか。どのような検査を受けているのか。そのことが、わかるようでわかりようがない。医学的な知識がない僕には、その言葉の意味が、本当には理解できていないのだ。




紬は、今、どんな状態なんだろう。




その問いかけに対して、答えは、返ってこない。ただ、その不安だけが、胸の中で、大きく膨らんでいく。




その夜、僕は一睡もできなかった。




布団の中に入った。でも、眠ることはできなかった。何度も何度も、眼を閉じようとした。でも、眼は開いたままだ。その眼を通じて、天井を見つめていた。その天井は、何も言わない。何も教えてくれない。ただ、そこにあるだけだ。




紬のことばかり考えていた。




最後の演奏。彼女のピアノが止まった、その瞬間。崩れ落ちる彼女の体。その体が、床に倒れるまでの、わずかな時間の中に、僕の全ての心が集中していた。




あの瞬間は、本当に起こったのか。それとも、夢なのか。そのような質問が、何度も何度も、頭の中で繰り返された。




小さな笑顔。




病院の床に倒れながらも、彼女は笑っていた。その笑顔は何を意味するのか。その笑顔の中に、何があるのか。




「演奏、終わった?」




あの言葉が、頭から離れなかった。




本当に、離れなかった。その言葉は、僕の頭の中で、何度も何度も、繰り返される。あの声。あのか細い声。その中に込められた、全ての想い。




僕は、その言葉を、聞き続けた。一夜中。




翌日。朝早くから、紬の母親に連絡を取った。




「今日、お見舞いに行けますか」




メッセージを送信する。その送信ボタンを押す時の、その心の高鳴り。それは、前回よりも、さらに大きいものだった。今日は、紬に会える。そのような希望が、僕の心を満たしていた。




すぐに返信が来た。




本当にすぐだった。まるで、紬の母親が、ずっと、その携帯を持ちながら、待っていたかのような、そのようなすぐだった。




「午後なら大丈夫です。ただ、面会時間は短めにお願いします」




午後。その時間は、本当に遠かった。朝から、何度も何度も、時計を見た。その時間が、進むのが、本当に遅かった。




僕は急いで支度をして、病院へ向かった。




朝食を食べることも忘れて。学校に行くことも忘れて。その心は、ただ、病院へ向かう、その一つのことだけに集中していた。




大きな総合病院。七階建ての建物。




その建物は、本当に大きかった。この市では、最も大きな病院だ。多くの患者が、この病院に集まる。その患者たちの中に、紬がいる。その想いが、僕の心を早めさせた。




受付で紬の名前を告げると、案内された。




「五階の耳鼻咽喉科ですね」




受付の職員は、淡々とそう言った。その職員にとって、それは日常的なことなのだろう。でも、僕にとって、それは、本当に重要な情報だ。五階。耳鼻咽喉科。その情報が、僕の心に刻まれた。




五階。耳鼻咽喉科の病棟。




廊下は、本当に長かった。その廊下の両側には、多くの病室が並んでいた。その病室の一つ一つに、何人かの患者が、入院しているのだろう。その患者たちの中に、紬がいる。その想いが、僕の心を駆り立てた。




エレベーターで上がる。




その上昇の際、僕の心も上昇していった。本当に、紬に会える。そのような思いが、僕の胸を満たした。




廊下を歩く。




その廊下は、静かだった。病院の廊下だからなのだろう。多くの人が、静かに歩いている。その中で、僕も歩く。




部屋番号を確認する。




508号室。その番号が、張り紙に書かれていた。その部屋。その部屋の中に、紬がいるのだ。




ノックする。




その音は、本当に小さかった。僕の手が、ドアに軽く叩きつけるその音。その音の小ささから、自分がどれほど緊張しているのか、ということが伝わってくる。




「どうぞ」




中から、紬の母親の声。




扉を開いて、中に入った。




病室には、紬が横たわっていた。




ベッドに、点滴が繋がれている。その点滴の管は、何か必要な液体を、彼女の体の中に注入しているのだろう。それは、栄養なのか。それとも、薬なのか。その全てが、彼女の回復のためのものなのだろう。




モニターが、心拍数を表示している。




その数字は、常に変動している。その数字の変動を見ていると、彼女が、確かに、生きているのだということが、伝わってくる。その心拍が、彼女の命を示している。その心拍が、止まることなく、続いている。その事実に、僕は安心した。




紬は――目を閉じていた。




その顔は、本当に疲れていた。まるで、全ての力を使い果たしたかのような、そのような表情だ。その顔を見ると、昨日の文化祭での演奏が、彼女の体に、どれほどの負荷をかけたのか、ということが伝わってくる。




「篠原くん」




母親が立ち上がった。




その立ち上がり方は、素早かった。それは、訪問者が来たのに対する、一つの礼儀なのだろう。でも、その立ち上がり方から感じられるのは、相手に対する敬意だけではなく、安心だ。誰かが、紬のもとに来てくれた。その安心が、その立ち上がり方に表れていた。




「来てくれたんですね」




その言葉の中に、感謝がある。その感謝は、言葉だけではなく、その目にも表れていた。紬の母親の目は、赤く腫れていた。泣いていたのだろう。多くのことを心配しながら、多くのことを悩みながら、何度も何度も泣いたのだろう。




僕は小さく会釈した。




「紬は」母親が言った。




その言葉の前置きから、これからの言葉が、何を伝えるのか、ということが、ある程度、予想できた。でも、その予想を、確認するために、僕は耳を傾けた。




「疲労と、めまいの悪化で倒れました」




その診断。その医学的な診断が、医者から、母親に伝えられたのだろう。その診断は、専門家による、正式な診断だ。そのため、その言葉には、説得力がある。紬は、疲労とめまいで倒れたのだ。




母親の目は、赤く腫れていた。




本当に赤く腫れていた。泣いていたのだろう。何度も何度も。その涙は、紬への心配から流れた涙だ。その涙は、母親の、紬に対する愛情を表していた。




泣いていたのだろう。




その推測が、母親の表情から、強く伝わってくる。




「昨日の演奏、無理だったのかもしれません」




母親の声が震えた。




その震えは、母親が、今、どのような感情の中にあるのか、ということを示していた。後悔。自責。そのような複雑な感情が、母親の心の中で、渦巻いているのだ。




「でも、娘は最後まで諦めなかった」




その言葉。その言葉の中に、母親が、紬のことを、どれほど誇りに思っているのか、ということが伝わってくる。不健康な状態にも関わらず、紬は、最後まで演奏をやり遂げた。その事実に対する、母親の誇り。




僕はノートを取り出して、書いた。




「すみません。僕が、止めるべきでした」




その言葉。その言葉は、僕の全ての後悔が詰まった言葉だ。僕が、紬を止めていれば、彼女は、倒れることはなかったのではないか。そのような後悔が、僕の心を占めていた。




母親はそれを読んで、首を横に振った。




「あなたのせいじゃありません」




母親は言った。




その声は、本当に優しかった。その優しさの中に、僕への許しがある。僕は、そのような許しを求めるべきではないのかもしれない。でも、母親は、その許しを与えてくれた。




「紬が、自分で決めたことです」




その言葉。それは、紬が、自分の意思で、その演奏を選んだのだ、ということを示していた。僕は、彼女を無理強いしたわけではなく、彼女は、自分の意思で、その舞台に立ったのだ。




「それに」




母親は続けた。




「娘は、とても幸せそうでした。演奏している時」




本当に?




その質問が、僕の心の中で、生まれた。本当に、紬は幸せだったのか。痛みと不安の中で、本当に、幸せを感じることができるのか。そのような疑問が、僕の心を占めていた。




「ええ」




母親は頷いた。




その頷きは、確実なものだ。疑いの入る余地がない、そのような頷きだ。




「私、見ていました。客席の後ろから」




その母親は、客席の後ろから、その演奏を見ていたのだ。多くの観客の中に、紬の母親も、そこにいたのだ。その想いが、伝わってくる。




「娘の顔、あんなに輝いていたの、久しぶりでした」




その言葉が、少しだけ心を軽くした。




紬が、幸せだったなら。紬の顔が、輝いていたなら。それであれば、昨日の出来事は、本当の意味での失敗ではないのかもしれない。それは、成功だ。その成功の代償として、彼女の健康が奪われたかもしれない。でも、その成功の価値は、その代償を、上回るのかもしれない。




「少しだけ、話しかけてあげてください」




母親が言った。




「意識はあります。ただ、すごく疲れているので、あまり長くはお願いできませんが」




その言葉が、僕に、許可を与えてくれた。紬と、話をしてもいい。その許可を得ることで、僕の心は、少し落ち着いた。




僕は頷いて、紬のベッドに近づいた。




その近づき方は、本当に慎重だ。彼女の睡眠を邪魔しないように。彼女の疲労を、これ以上増やさないように。そのような配慮の中で、僕は、彼女のもとへ、近づいた。




「紬」




声にならない声で、呼びかける。




その声は、本当に小さかった。まるで、風に吹かれて、消えてしまいそうなほどの声だ。でも、その声は、彼女に届いたのだろう。




紬の瞼が、ゆっくりと開いた。




その開き方は、本当にゆっくりだ。まるで、瞼を上げることさえ、大きな労力を要しているかのような、そのようなゆっくりさだ。でも、その瞼は、開いた。そして、彼女の瞳が、僕を見た。




「篠原、くん」




かすれた声。




その声は、本当にかすれていた。その声は、もはや、彼女の本来の声ではなく、何か別のものになっていた。でも、確かに紬の声だ。その声の中に、紬の本質が、存在している。




僕はノートに書いた。




「大丈夫?」




その質問。その質問は、本当に無意味かもしれない。彼女が、大丈夫であるはずがないのだ。でも、その質問は、僕が、彼女を思っているのだ、ということを示すために、発せられた。




紬はそれを読んで、小さく笑った。




その笑顔は、本当に小さなものだ。でも、その小ささの中に、多くのものが詰まっていた。




「全然、大丈夫じゃない」




彼女は正直だった。




その正直さは、彼女の本質だ。彼女は、自分の状態を、ありのままに、伝えることができる。その正直さが、僕は好きだ。




「でも」




紬は続けた。




「後悔は、してない」




その言葉。その言葉は、昨日の演奏に対する、彼女の評価を示していた。たとえ、それが彼女の健康を奪ったとしても、その演奏に、後悔はない。そのような覚悟が、その言葉の中に詰まっていた。




僕は彼女の手を握った。




その手は、本当に冷たかった。あるいは、その冷たさは、医学的な理由によるものなのかもしれない。でも、その手は、確かに、彼女の手だ。その手を握ることで、彼女と、僕が、繋がっていることを、僕は感じることができた。




「昨日の演奏」




紬が言った。




「最後まで、できた?」




その質問。その質問は、彼女が、本当に大切に思っていることが何であるのか、ということを示していた。自分の健康ではなく、演奏。その演奏が、最後まで、成功したのか。その質問への答えが、彼女には、何より重要なのだ。




僕は頷いた。




「よかった」




紬は安心したように目を閉じた。




その閉じ方は、本当に安心したもののようだ。彼女が、心から安心したのだ。その安心感から、彼女は、目を閉じた。




「私、途中から全然聞こえなくなっちゃって」




その言葉。その言葉は、彼女が経験した現実を示していた。演奏の途中で、彼女の音は、聞こえなくなったのだ。その瞬間のことを、彼女は、話しているのだ。




やはり。




その予感が、現実になったのだ。僕が感じていた、彼女の困惑。その困惑は、現実だったのだ。




「でも」




紬は目を開けて、僕を見た。




「あなたのギターは、感じた」




その言葉。その言葉は、何を意味するのか。音が聞こえなかったのに、ギターを感じた?




「音は聞こえなかったけど」




紬は続けた。




「振動が伝わってきた。床を通して、空気を通して」




その説明。その説明により、僕は、彼女がどのようにして、演奏を続けることができたのか、ということを理解した。音ではなく、振動を通じて。空気の振動を通じて。それは、音というよりも、何か別のものだ。それは、感覚。感覚の共有。




「だから」




彼女は微笑んだ。




「最後まで弾けた」




その言葉。その言葉は、僕への感謝を示していた。僕のギターの振動が、彼女を導いた。僕のギターの音が、彼女の指標となった。その事実に対する、彼女の感謝だ。




その言葉に、涙が出そうになった。




その涙は、喜びからくるものなのか。それとも、悲しみからくるものなのか。その区別がつかないまま、涙は僕の目に溜まった。




紬は、僕の音を感じていてくれた。




その事実。その事実だけで、僕の心は満たされた。




「ありがとう、篠原くん」




紬が言った。




「最高の演奏だった」




その言葉。その言葉は、最高の褒言だ。その言葉は、昨日の全ての苦労が、報われたことを示していた。




僕はノートに書いた。




「紬も、最高だった」




紬は嬉しそうに笑った。




その笑顔は、本当に嬉しそうなものだ。その笑顔の中に、彼女の全ての喜びが詰まっていた。




でも、すぐに表情が曇った。




その曇り方は、本当に急速だった。一瞬、喜びで満たされていた彼女の顔が、一瞬にして、曇ったのだ。その曇りは、何かが、悪い知らせが、彼女の心の中で、蘇ったのかもしれない。




「ねえ、篠原くん」




彼女が真剣な顔をした。




その真剣さは、本当のものだ。これからの言葉が、何か重要なものであることを示していた。




「医者に言われたの」




何を?その質問が、僕の心の中で生まれた。




「もう」




紬の声が震えた。




「音は、戻らないって」




その言葉が、重く響いた。




その重さは、言葉の重さではなく、その意味の重さだ。音は、戻らない。その言葉は、彼女の人生が、永遠に変わったことを示していた。




「昨日の演奏が」




紬は涙を流しながら言った。




「私が音楽を聴ける、最後の時間だったって」




その言葉。その言葉の中に、彼女の全ての絶望が詰まっていた。昨日の演奏。その演奏が、彼女が、音を聞ける最後の時間だったのだ。その後は、彼女は、音を聞くことができない世界に、入るのだ。




僕は、紬の手を強く握った。




その握力は、本当に強かった。その強さは、僕が、今、彼女のそばにいることを示していた。その強さは、僕が、彼女を離さないことを示していた。




「怖い」




紬が泣いた。




「音のない世界が、怖い」




その言葉。その言葉から、彼女の恐怖が伝わってくる。音のない世界。その世界は、彼女にとって、何か別の星のようなものだ。何か、全く知らない世界。その世界に、彼女は、これから生きていかなければならないのだ。




僕は彼女を抱きしめた。




その抱きしめ方は、本当に強いものだ。その強さは、僕が、彼女を守るという、その決意を示していた。




声にならない声で、何度も言った。




大丈夫。大丈夫。大丈夫。僕がいる。ずっと、そばにいる。




その言葉は、音としては、本当に小さいものだ。でも、その言葉は、彼女に届いたのだろう。彼女の体の動きから、その言葉が、彼女に届いたことが、伝わってくる。




紬は、僕の胸で泣いていた。




その泣き方は、本当に激しいものだ。彼女の全ての絶望が、その泣きに込められていた。その泣きの中で、彼女は、自分の運命と向き合っているのだ。




しばらく、そうしていた。




本当にしばらく。時間がどのくらい経ったのか、それは分からない。でも、その時間は、二人にとって、何か特別な時間だったのだろう。二人が、互いに繋がっている、その時間。




やがて、紬が顔を上げた。




「ごめんね」




彼女は涙を拭いた。




「弱いところ、見せちゃった」




その言葉。その言葉は、彼女が、まだ、自分を責めているのだ、ということを示していた。




僕は首を振った。




ノートに書いた。




「弱くなんかない。紬は、誰よりも強い」




その言葉。その言葉は、真実だ。彼女は、弱くない。彼女は、自分の人生が大きく変わろうとしているその瞬間でも、前を向いて、生きようとしている。その姿勢が、彼女の強さだ。




紬はそれを読んで、静かに頷いた。




その頷きの中に、彼女が、僕の言葉を受け入れたのだ、ということが伝わってくる。




「篠原くん」




紬が言った。




「約束、覚えてる?」




約束?その言葉が、僕の頭の中で、何かを呼び覚ました。そうだ。彼女は、何か話したいことがあると言っていた。文化祭が終わった後に。




「文化祭が終わったら、話すって」




そうだった。あの時、彼女は、何か大切な秘密を持っていたのだ。その秘密を、文化祭の後に、話すと言っていたのだ。でも、文化祭の当日、彼女は倒れてしまった。その秘密は、話されないまま、今まで来てしまったのだ。




「今から、話してもいい?」




彼女が聞いた。




その質問に対して、僕は、迷わず頷いた。話してほしい。その想いは、言葉にならなくても、僕の頷きに込められていたはずだ。




紬は深呼吸をした。




その呼吸の深さから、彼女が、これからの言葉が、どれほど大切なものであるのか、ということを認識しているのだ、ということが伝わってくる。




「実はね」




彼女が言った。




「私の難聴、遺伝性なの」




遺伝性?その言葉が、僕の頭に入った瞬間に、何かが変わった。難聴が遺伝性だということは、つまり、彼女は、生まれつき、その運命を背負っていたのだ。生まれた時から、いつか、音を失うという、その運命を。




「母方の家系に、難聴の人が多いらしい」




紬は続けた。




「祖母も、伯母も。みんな、若いうちに聴力を失った」




その事実。その事実は、彼女の難聴が、何か一時的なものではなく、彼女の家系を通じて、何代も前から続いている、その運命だということを示していた。




「だから」




紬は僕を見た。




その目は、何か複雑な感情で満たされていた。悲しみ。でも同時に、何かの覚悟。




「私も、いつかこうなるってわかってたの。小さい頃から」




その言葉。その言葉は、彼女が、子どもの頃から、この運命を知っていたということを示していた。他の子どもたちが、何も心配することなく、過ごしていたその時間に、彼女は、自分の未来を知っていたのだ。その知識の重さ。その知識が、彼女の人生にどのような影響を与えてきたのか、ということを、僕は想像することはできない。




それなのに――。




「だから、ピアノを始めたんだ」




紬は言った。




「音が聞こえるうちに、たくさん音楽をしたくて」




その理由。その理由は、何か悲しいものだった。でも同時に、何か美しいものでもあった。彼女は、自分に残された時間が限られているのだ、ということを知りながら、その限られた時間の中で、最大限に、音楽と向き合おうとしたのだ。その姿勢が、彼女の人生哲学を示していた。




「でも」




彼女は続けた。




「進行が予想より早かった。もっと時間があると思ってた」




その言葉。その言葉の中に、彼女の悔しさが詰まっていた。彼女は、自分に、もっと時間があるのだ、と思っていたのだ。でも、現実は、その予想を上回るスピードで、彼女の聴力を奪っていったのだ。




僕は、何も言えなかった。




言葉を紡ぐことができなかった。その状況が、あまりに大きすぎて、何か言うことで、その大きさを小さくしてしまうのではないか、という恐れから、僕は、何も言わなかった。




「篠原くんと出会えて」




紬が微笑んだ。




「本当によかった」




その笑顔。その笑顔の中に、何か光が見えた。絶望的な状況の中でも、彼女は、前を向いて、感謝することができるのだ。その姿勢が、彼女の本当の強さなのだ。




「あなたと一緒に音楽ができて、幸せだった」




その言葉。その言葉は、僕の心を揺さぶった。彼女は、本当にそう思っているのだ。そして、その想いは、僕にも伝わっていた。あの時間。あの二人で過ごした時間。それは、本当に幸せなものだった。




僕もだ。紬と出会えて、本当によかった。




そのことを、ノートに書こうとした。でも、その前に、紬が話を続けた。




「これから」




紬が言った。




「私、どうなるんだろう」




その不安が、彼女の目に浮かんでいた。未来への不安。人生への不安。その不安は、本当に大きなものだ。




「音のない世界で、どうやって生きていけばいいのか、わからない」




その言葉。その言葉は、彼女が、今、どのような状況にあるのか、ということを示していた。彼女の前には、全く知らない世界が広がっている。その世界の中で、彼女は、どうやって生きていくのか。その答えが、彼女には見えないのだ。




僕はノートに書いた。




「一緒に探そう」




その言葉。その言葉は、僕からの約束だ。彼女が、音のない世界で、どのようにして生きていくのか。その答えを、一緒に探そう。その約束だ。




紬はそれを読んで、涙を流した。




「ありがとう」




その言葉。その言葉は、二文字だけだ。でも、その二文字の中に、彼女の全ての感謝が詰まっていた。




その時、看護師が入ってきた。




「そろそろ、お時間です」




その言葉が、僕たちの時間の終わりを告げた。その時間は、本当に短かかった。でも、その短い時間の中で、僕たちは、多くのことを話し合った。多くのことを感じ合った。




僕は立ち上がった。




その立ち上がり方は、本当に遅かった。時間を止めたいかのような、そのような緩慢さだ。




「また来るね」




ノートに書いて、紬に見せる。




その文字は、大きく書いた。彼女に、確実に見えるように。




「うん」




紬は頷いた。




「待ってる」




その言葉。その言葉は、僕への約束だ。彼女は、ここで、僕を待つ。その約束。その約束が、僕の心を支えた。




病室を出る。




その廊下は、行きの時と同じように、静かだった。でも、その廊下の空気は、行きの時と違うものになっていた。その違いは何なのか。それは、僕の心に変化があったからなのかもしれない。




廊下で、紬の母親に会った。




「ありがとうございました」




母親が頭を下げた。




その頭を下げる動作は、本当に丁寧なものだ。その丁寧さから、母親が、僕に感謝しているのだ、ということが伝わってくる。




「あなたが来てくれて、娘も元気が出たみたいです」




その言葉。その言葉は、僕の訪問が、紬にとって、何か良い影響を与えたのだ、ということを示していた。




僕も頭を下げた。




「これから」




母親が言った。




「娘は、長い入院になります」




その言葉が、現実を示していた。この入院は、短いものではなく、長いものになるのだ。




「聴力を完全に失った後のリハビリ、手話の習得、生活の再構築。たくさんのことを学ばなければなりません」




その説明。その説明から、紬が、これからの人生で、どれほど多くのことを学び、乗り越えなければならないのか、ということが伝わってくる。




母親は疲れた顔をしていた。




本当に疲れていた。その疲労は、紬の入院による心配と、これからの人生への不安が、積もり積もって、母親の顔に刻まれたのだろう。




「でも」




母親は僕を見た。




その目の中に、何か光が見えた。希望。それは、小さな光だけれど、確かに存在している。




「もしよければ、時々お見舞いに来てあげてください」




その頼み。その頼みの中に、母親が、僕をどのように見ているのか、ということが伝わってくる。母親は、僕を、紬にとって大切な存在だと認識しているのだ。その大切な存在が、時々、紬のもとを訪れることで、紬の心が支えられるのだ。その母親の願いが、その言葉の中に詰まっていた。




「娘、あなたのことを本当に大切に思っていますから」




その言葉。その言葉は、母親からの信頼の言葉だ。そして同時に、母親からの願いの言葉だ。




僕は強く頷いた。




必ず、来る。何度でも。そのことを、その頷きに込めた。その頷きは、単なる返事ではなく、一つの誓いだ。僕は、紬のそばにいると、その誓いだ。




帰り道。




病院から出た時、外の空気が、本当に新しく感じられた。その新しさは、中にいた時間が、長かったからなのかもしれない。あるいは、その新しさは、僕の心が、何か変わったからなのかもしれない。




紬は、音のない世界へ向かっている。




その世界は、黒い世界なのか。それとも、別の色で満ちた世界なのか。その答えは、僕にはわからない。でも、一つ確かなのは、僕も、その世界へ向かう必要があるのだ、ということだ。紬と一緒に。




「約束の音」




あの曲。あの曲は、もう二度と、同じ形では演奏されることがないのだろう。でも、その曲が持つ意味は、消えることはない。その曲が持つ想いは、永遠だ。




僕は、歩き続けた。




病院から、遠ざかっていく。でも、紬のことは、どんどん、近づいてくるような、そのような感覚を覚えた。距離の遠近ではなく、心の繋がりが、その瞬間に、さらに強くなったのだ。




明日、また来よう。




そう心に決めた。




その日からの毎日が、僕と紬の新しい物語の始まりなのだ。音のない世界の中で、二人で作り出す、新しい音楽。その音楽は、耳では聞こえないかもしれない。でも、心では聞こえるのだ。心の中で、その音楽は、鳴り続けるのだ。




それが、本当の「約束の音」なのかもしれない。








それから、僕は毎週末、紬の見舞いに行った。


紬は、少しずつ回復していった。体調は安定し、歩けるようにもなった。


でも、聴力は戻らなかった。


完全に、音が聞こえなくなった。


紬は、手話を学び始めた。リハビリの先生が、毎日教えてくれる。


最初はぎこちなかったけれど、日に日に上達していった。


僕も、手話を学んだ。本を買って、動画を見て、必死に覚えた。


紬と、会話をするために。


十一月のある日。


「篠原くん、見て」紬が手話で言った。


僕は彼女の手の動きを見た。


「ありがとう」


その手話を、何度も練習していたのだろう。とても滑らかだった。


僕も手話で答えた。


「どういたしまして」


紬は嬉しそうに笑った。


僕たちは、新しいコミュニケーションの形を見つけた。


声がなくても。音がなくても。


伝え合うことは、できる。


でも――。


紬の表情から、笑顔が少しずつ消えていった。


「音楽が恋しい」ある日、紬が手話で言った。


「ピアノを弾きたい。でも、自分の音が聞こえない」


彼女の目に、涙が浮かんでいた。


「音楽のない人生なんて」紬は続けた。「考えられない」


僕はノートに書いた。


「音がなくても、音楽はできる」


紬は首を振った。


「できない。私には、できない」


その絶望が、痛いほど伝わってきた。






十二月。紬が退院した。


三ヶ月の入院を経て、彼女は学校に戻ってきた。


でも、以前の紬とは違っていた。


笑顔が少ない。話す(手話をする)ことも少ない。


ただ、静かに教室の隅に座っている。


クラスメイトたちは、どう接していいかわからない様子だった。


手話ができる人は、ほとんどいない。


だから、みんな遠巻きに見ているだけ。


紬は、また孤立していた。


でも、僕がいた。


休み時間、僕は紬の隣に座って、手話で会話をした。


「今日の授業、わかった?」


「うん。だいたい」


「先生の口の動き、読めるようになってきた」


紬は、読唇術も学んでいた。


「すごいね」


「でも、疲れる」紬は正直に言った。


「一日中、集中してないといけないから」


そうだろう。想像以上に、大変なはずだ。


「無理しないで」


「ありがとう、篠原くん」


紬は小さく笑った。でも、その笑顔は以前のような輝きがなかった。


放課後。僕は紬を音楽室に誘った。


「音楽室?」紬が驚いた顔をした。


「うん。久しぶりに」


紬は少し迷ってから、頷いた。


音楽室に入る。懐かしい空間。


ピアノが、そこにあった。


紬は、ピアノを見つめていた。


「弾いてみる?」僕が手話で聞いた。


紬は首を振った。


「弾けない。音が聞こえないから」


「でも」僕は続けた。「触れることはできる」


紬は――少し考えてから、ピアノに近づいた。


鍵盤に手を置く。


そして、一つの鍵盤を押した。


音が出る。でも、紬には聞こえない。


彼女は、何度も鍵盤を叩いた。


音階を弾いている。ドレミファソラシド。


でも、その音は紬には届かない。


やがて、紬は手を止めた。


「やっぱり、ダメ」彼女が手話で言った。


「自分の音が聞こえないと、弾けない」


涙が、頬を伝った。


「音楽が、奪われた」


僕は紬を抱きしめた。


彼女は、僕の胸で泣いた。声を出さずに、ただ涙を流した。


しばらく、そうしていた。


やがて、紬が顔を上げた。


「篠原くん」彼女が手話で言った。


「私、もう音楽室には来れない」


「辛すぎる。音楽を思い出すのが」


僕は、何も言えなかった。


紬の気持ちは、理解できた。


音楽を愛していた人が、音楽を失う。


それは、どれほど辛いことか。


「でも」紬は続けた。「篠原くんは、音楽を続けて」


「私の分まで」


僕は頷いた。


約束する。紬の分まで、音楽を続ける。


その日を境に、紬は音楽室に来なくなった。


僕は一人で、時々ギターを弾いた。


約束の音を弾く。でも、紬のピアノがない。


不完全な音楽。


でも、弾き続けた。


紬との約束を、守るために。








一月。新学期が始まった。




学校の廊下は、新学期の独特な空気に満ちていた。教室の中には、新しい席配置。新しい教科書。新しい学年への進級という、その期待感と不安感が混ざり合った、独特の空気だ。その空気は、学校全体を包み込んでいた。




廊下を歩く生徒たちの表情にも、その新学期の空気が映り込んでいた。久しぶりに友人に会った喜び。新しい担任への不安。新しい教科への期待。それらの感情が、複雑に絡み合いながら、生徒たちの表情に表れていた。




紬は、学校を休みがちになった。




その欠席の数は、新学期が始まってから、どんどん増えていった。月曜日。水曜日。金曜日。そのように、不規則に、彼女は学校を休むようになったのだ。




「体調が悪い」という理由で。




その理由は、正式な欠席理由として、学校に報告されていた。体調不良。それは、医学的に正当な理由だ。実際に、彼女の聴力喪失に伴い、何か身体的な不調が生じているのかもしれない。あるいは、その身体的な不調は、心理的なものかもしれない。いずれにせよ、彼女は、学校を休み続けたのだ。




でも、本当は違うのだと思う。




僕は、そのことに気づいていた。あるいは、わかっていたのかもしれない。紬が、本当に何を苦しんでいるのか。その苦しみが、何なのか。




学校が、辛いのだ。




それが、真実なのだろう。彼女は、体調が悪いから休んでいるのではなく、学校という場所に行くことが、彼女にとって、本当に辛いから、休んでいるのだ。




音が聞こえない世界で、健聴者たちの中にいることが。




その状況。その状況が、彼女にとって、どれほど辛いものなのか、ということを、僕は想像することができた。聞こえない。聞こえない中で、聞こえることを前提とした授業に参加する。聞こえない中で、聞こえることが当たり前の世界に生きる。その状況は、本当に孤立的だ。本当に絶望的だ。




教室の中で、先生が何かを話している。でも、彼女には、その言葉が聞こえない。黒板を見て、その内容を理解しようとする。でも、それでは、追いつくことができない。その焦燥感。その孤立感。それらが、彼女を苦しめているのだろう。



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