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六月の約束

3




五月が過ぎ、六月に入った。梅雨の季節。


「約束の音」の作曲は順調に進んでいた。紬が作るメロディーは、優しくて、少し切なくて、でも希望に満ちていた。僕がつけたコードは、そのメロディーを包み込むように、温かく響く。


毎日の練習が、僕たちの時間を特別なものにしていた。


でも、僕は気づいていた。


紬の様子が、少しずつ変わってきていることに。


以前より、耳元に手を当てることが増えた。ピアノを弾きながら、首を傾げることが増えた。僕が何か言おうとノートに書くと、少し読むのに時間がかかるようになった。


そして――時々、僕に反応しないことがあった。


ある日の放課後。


「篠原くん、今日はいい天気だね」紬が窓の外を見ながら言った。


僕は頷いた。


「でも」紬は続けた。「雨の音も、好きなんだ。屋根を叩く雨の音。傘に当たる雨の音」


彼女は少し寂しそうに笑った。


「そういう音、ちゃんと覚えておきたいな」


その言葉の意味を、僕は理解した。


紬は、音を記憶しようとしている。いつか聞こえなくなる前に。


「ねえ、篠原くん」紬がこちらを向いた。「私ね、最近、高い音が聞こえにくくなってきた」


僕は息を呑んだ。


「鳥の鳴き声とか、風鈴の音とか。前はちゃんと聞こえてたのに」紬は自分の耳を触った。「今は、ぼんやりとしか聞こえない」


進行している。彼女の難聴は、確実に進行している。


「でも」紬は笑顔を作った。「まだ、音楽は聞こえる。篠原くんのギターも、聞こえる。だから、大丈夫」


大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。


僕はノートに書いた。「病院は?治療は?」


「通ってるよ」紬は頷いた。「薬も飲んでる。でも、先生は言った。進行を完全に止めることはできないって」


彼女は窓の外を見た。


「いつかは、完全に聞こえなくなるかもしれないって」


その言葉が、あまりにも重かった。


「だから」紬は僕を見た。「文化祭まで、たくさん練習しよう。たくさん音楽しよう。私が音を聞けるうちに」


僕は強く頷いた。


そうだ。今、できることをしよう。紬と、音楽を作ろう。


「約束ね」紬が小指を差し出した。「二人で、最高の演奏をする」


僕も小指を差し出して、紬の指と絡める。


指切りげんまん。


約束した。絶対に、最高の演奏をする。




六月中旬。梅雨の晴れ間が覗いた、ある土曜日の午後。


音楽室の窓から差し込む光は、いつもより明るく感じられた。空気は湿気を含んでいて、少し重たい。でも、それが不快ではなかった。むしろ、夏が近づいていることを実感させる、季節の匂いだった。


紬は、いつものようにピアノの前に座っていた。でも、今日は弾いていない。両手を膝の上に置いて、何かを考え込んでいるようだった。


僕が椅子に座ると、紬は顔を上げた。少し緊張した表情。それから、鞄からノートを取り出して、丁寧な字で何かを書き始めた。


ペンが紙の上を滑る音。カリカリという小さな音。その音すら、紬にはどう聞こえているのだろう。以前と同じように聞こえているのだろうか。それとも、もう曖昧になっているのだろうか。


紬はノートを僕の前に差し出した。少し躊躇するような仕草。その指先が、わずかに震えているのが見えた。


ノートには、こう書かれていた。


「今度の日曜日、空いてる?一緒に出かけない?」


出かける?紬と二人で?


僕は少し驚いて、彼女を見た。紬は不安そうに、僕の反応を窺っている。頬が、ほんのり赤く染まっていた。


彼女が次のページをめくる。そこには、理由が書かれていた。


「楽器屋さんに行きたいの。ギターのピック、篠原くんに選んでほしくて」


ピック。


そういえば、と思う。今使っているピックは、中学の時から使い続けているものだ。もう何年になるだろう。角は丸くなり、表面も摩耗して、本来の厚みよりずっと薄くなっている。


「いいよ、行こう。」


紬の顔が、ぱっと明るくなった。まるで、窓から差し込む光が一段と強くなったみたいに。


「ほんと?やった!じゃあ、明日の昼、駅前集合でいい?」


紬の声は弾んでいた。その明るさに、僕の心も軽くなる。


また頷く。僕なりの、精一杯の返事。


「楽しみだな。初めて、篠原くんと出かける」紬は嬉しそうに笑った。


その笑顔を見て、僕も嬉しくなった。初めて、二人だけで出かける。それは確かに、特別なことだった。


窓の外では、雲の切れ間から夏の日差しが降り注いでいた。




翌日。日曜日。


朝から空は晴れ渡っていた。梅雨の晴れ間は貴重だ。青い空に、白い雲がゆっくりと流れている。


僕は、いつもより時間をかけて身支度をした。


鏡を見ながら、髪を整える。シャツは、一番綺麗なものを選んだ。ジーンズも、昨夜アイロンをかけておいたものだ。


「結城、今日はどこか行くの?」


朝食の時、母が嬉しそうに聞いた。


僕は小さく頷いた。


「友達と?」


また頷く。


「そう。楽しんできなさい」


母は優しく微笑んだ。息子が友達と出かけることを、心から喜んでいるのがわかった。二年間、僕には友達と呼べる人がいなかった。母も、ずっと心配していたのだろう。


家を出る。六月の風は、少し湿っているけれど、心地よかった。木々の葉が風に揺れて、さらさらと音を立てている。


駅までの道を歩きながら、僕は胸の高鳴りを感じていた。緊張しているのか、期待しているのか。たぶん、両方だ。


駅前に着いたのは、約束の時間の十分前だった。


日曜日の駅前は、賑わっていた。家族連れが買い物袋を抱えて歩いている。若いカップルが手を繋いで、笑いながら話している。友達同士のグループが、何かを計画しているのか、スマートフォンを囲んで相談している。


みんな、楽しそうだ。


僕は駅前のロータリーの端、噴水の近くに立って、紬を待った。噴水の水音が心地よい。太陽の光が水しぶきに反射して、小さな虹を作っている。


時計を見る。約束の時間まで、あと五分。


心臓が、少し早く打っている。手のひらに、うっすらと汗をかいていた。


あと三分。


人混みの中を、目で探す。紬は、どこから来るだろう。


あと一分。


そして――。


「篠原くん!」


少し遠くから、声が聞こえた。


振り向くと、紬がいた。


僕の息が、一瞬止まった。


制服じゃない紬を見るのは、初めてだった。


白いブラウス。ふわりとした素材で、風に少し揺れている。デニムのスカート。膝丈で、動きやすそうだ。足元は、白いスニーカー。


髪は、いつもより丁寧にセットされていた。少し巻いていて、歩くたびに軽く揺れる。耳元には、小さなイヤリングが光っている。


「待った?ごめんね」紬が小さく息を切らしながら近づいてくる。


頬が、ほんのり紅潮している。少し走ってきたのかもしれない。その表情が、とても可愛らしかった。


僕は首を振った。今来たばかり、という意味。実際には十分前から待っていたけれど、それは言わない。


「よかった」紬はほっとしたように笑った。「じゃあ、行こうか」


彼女は楽しそうに歩き出した。その後ろ姿を一瞬見つめてから、僕も歩き出す。


二人並んで歩く。


不思議な感覚だった。


紬の歩幅は、僕より少し小さい。だから、僕は自然とペースを落とす。それが、心地よかった。


街路樹の木陰を歩く。葉の隙間から、斑点のように日差しが降り注いでいる。


紬の髪が風に揺れる。石鹸のような、優しい香りがした。


「ねえ、楽器屋さんの前に、ちょっと寄りたいところがあるんだけど、いい?」紬が、歩きながら僕を見上げて聞いた。


その目は、少し遠慮がちだった。もしかしたら、予定を変えることを申し訳なく思っているのかもしれない。


僕は頷いた。構わない。むしろ、紬の行きたい場所に一緒に行けることが嬉しかった。


「ありがとう」紬は安心したように笑った。「実はね、本屋さんに行きたくて」


本屋?


「前に篠原くんが好きって言ってた、ミステリー。新刊が出たらしいの。一緒に見ない?」


その言葉に、僕は少し驚いた。


覚えていてくれたのだ。僕がミステリーが好きだということを。


筆談で交わした、何気ない会話。そんな小さなことまで、紬は覚えていてくれた。


その事実が、胸を温かくした。


僕は、嬉しさを隠せずに、少し大きく頷いた。


「よかった」紬は嬉しそうに微笑んだ。「あのね、私も実は気になってたんだ。その本」


二人で、本屋へ向かう。


駅前の大通りを歩く。日曜日の街は、色々な音で溢れていた。車のエンジン音。人々の話し声。どこかの店から流れてくる音楽。


紬は、それらの音がどう聞こえているんだろう。


補聴器をつけているから、以前よりは聞こえているはずだ。でも、きっと完璧ではない。音が混ざり合って、判別しづらいのかもしれない。


それでも、紬は楽しそうに歩いている。時々、ショーウィンドウを覗き込んで、「あ、これかわいい」と言ったり、「あそこの店、前から行きたかったんだ」と教えてくれたり。


その姿を見ているだけで、僕は幸せだった。


大きな書店に着いた。


自動ドアが開くと、本の匂いがした。紙とインクの匂い。少しひんやりとした空気。


「新刊は、あっちだね」紬が案内してくれる。


彼女は、この本屋をよく知っているようだった。迷わずに、新刊コーナーへ向かう。


平積みされた本の中に、確かにあった。東野圭吾の新作。表紙は、深い青色。タイトルが、白い文字で書かれている。


「これだ」紬が、その本を手に取った。「読みたかったんだ」


彼女は本を開いて、少し中を見る。その横顔は、真剣だった。


「篠原くんは?」紬が僕に本を見せる。


僕も同じ本を手に取った。少しだけ中を読む。冒頭の一文が、すでに引き込まれるような始まり方だった。


紬が僕の様子を見て、微笑む。


「読みたいんだね」


僕は頷いた。


「じゃあ、読み終わったら感想言い合おうね」紬は楽しそうに笑った。「私、篠原くんがどんな風に感じるか、聞きたいな」


その提案が、嬉しかった。読書は一人でするものだけれど、誰かと感想を共有できるのは、また別の喜びがある。


二人でレジに向かう。会計を済ませて、本を紙袋に入れてもらう。


「次は、楽器屋さんだね」紬が言った。


店を出る。また、日差しの中へ。


駅前の商店街を歩く。アーケードになっていて、日差しは遮られている。でも、蒸し暑さは変わらない。


商店街は、活気に溢れていた。八百屋のおばさんが、元気な声で野菜を売っている。魚屋からは、潮の香りがする。パン屋の前を通ると、甘い香りが鼻をくすぐった。


「お腹空いてきちゃった」紬が笑いながら言った。「後で、どこかでお昼食べようね」


僕は頷いた。それも、楽しみだった。


商店街を抜けると、少し奥まった場所に、楽器店があった。


二階建ての小さな店。でも、ウィンドウには様々な楽器が飾られている。


「ここ、品揃えがいいんだって」紬が説明してくれた。「ネットで調べたの」


彼女は、今日のために色々と準備してくれていたのだ。その気遣いが、嬉しかった。


ドアを開けると、チャイムが鳴った。


店内は、思ったより広かった。壁一面に、ギターが吊るされている。アコースティックギター、エレキギター、クラシックギター。様々な種類。


反対側の壁には、ベースやドラムのスティック。奥には、キーボードやアンプが並んでいる。


さらに奥には、防音室があった。ガラス張りで、中が見える。誰か試奏をしているようだった。


店内には、楽器の匂いが漂っていた。木の匂い。金属の匂い。そして、新しいものの匂い。


「いらっしゃいませ」


店員さんが、カウンターから声をかけてくれた。


「ピックは、あっちかな」紬が、店の奥を指差した。


彼女の言う通り、奥の壁には、ピックがたくさん並んでいた。


小さなプラスチックのケースに、様々な種類のピックが入っている。厚さ、形、素材、色。選択肢は無数にあった。


「どれがいいの?」紬が、興味深そうに聞いた。


僕は、一つ一つ手に取って、確かめ始めた。


まず、厚さ。薄いピック、ミディアム、厚いピック。それぞれ、弾いた時の音が違う。


次に、形。ティアドロップ型、三角形、ジャズ型。持ちやすさが変わってくる。


そして、素材。プラスチック、ナイロン、セルロイド。感触が全然違う。


紬は、僕がピックを選ぶ様子を、じっと見ていた。その目は、真剣だった。まるで、僕がどんなピックを選ぶかで、何か大切なことがわかるとでも言うように。


僕は、色々試した末に、一つのピックに辿り着いた。


ミディアムの厚さ。ティアドロップ型。素材はセルロイド。色は、深い青。


手に取ってみると、しっくりくる。重さも、バランスも、ちょうどいい。


「それにする?」紬が確認してくれた。


僕は頷いた。これがいい。


「じゃあ」紬は、そのピックを僕の手から取って、自分の手のひらに乗せた。「私が買うね」


え?


紬が買う?


僕は慌てて首を横に振った。ポケットから財布を取り出そうとする。


「待って」紬は、僕の手を優しく止めた。「これ、私からのプレゼント。いつもありがとう、の気持ち」


プレゼント。


その言葉が、胸に響いた。


いつも、ありがとう。


紬は、僕に感謝してくれているのだ。でも、感謝すべきなのは僕の方だ。彼女が、僕に音楽を取り戻してくれたのだから。


「だめ?」紬が、少し不安そうに聞いた。


その表情を見て、僕は首を横に振った。そして、小さく頷いた。


ありがたく、受け取ろう。紬の気持ちを。


「やった」紬は、嬉しそうに笑った。「じゃあ、会計行こうね」


彼女は軽やかな足取りで、レジへ向かった。


店員さんと何か話している。紬は、時々聞き返している。店員さんの声が、聞き取りにくいのかもしれない。


でも、紬は笑顔で対応している。慣れているのだろう。聞こえにくいことを、もう日常として受け入れているのだ。


会計が終わって、紬が戻ってきた。小さな袋を、僕に差し出す。


「はい。篠原くんの、新しい相棒」


僕は袋を受け取った。軽い。でも、とても大切なものを受け取った気がした。


ノートを取り出して、書いた。


「ありがとう」


紬はそれを見て、満面の笑みを浮かべた。


「どういたしまして」


店を出る。また、蒸し暑い外へ。


でも、心は軽かった。


「お腹空かない?」紬が聞いてきた。


確かに、もう昼を過ぎている。朝、緊張のあまりあまり食べられなかった。今は、お腹が空いていた。


僕は頷いた。


「じゃあ、カフェ行こう」紬は嬉しそうに言った。「知ってる?駅の近くにいいとこがあるの」


彼女は、僕の腕を軽く引っ張った。その手の温もりが、嬉しかった。


駅前へ向かって、また歩き出す。


今度は、少し急ぎ足。お腹が空いているのは、紬も同じらしい。


「あった、あれ」紬が、少し先のビルを指差した。


三階建てのビル。一階は雑貨屋、二階がカフェのようだ。


階段を上る。紬が先に、僕が後ろから。


二階のドアを開けると、心地よい空間が広がっていた。


落ち着いた雰囲気のカフェ。


木のテーブルと椅子。温かみのある照明。壁には、抽象画が何枚か飾られている。


窓際の席が空いていた。


「あそこ、座ろう」紬が言って、先に席に着いた。


僕も向かい側に座る。


窓からは、駅前の景色が見えた。人々が行き交っている。日曜日の午後。みんな、それぞれの時間を楽しんでいる。


「メニュー、これだって」紬が、テーブルの端に立てかけてあったメニューを取った。


彼女は、真剣な顔でメニューを見ている。時々、小さく「へえ」とか「美味しそう」とか呟いている。


その様子を見ているだけで、微笑ましかった。


「私、オムライス食べる」紬が決めたようだ。「篠原くんは?」


僕もメニューを見た。


ハンバーグプレート、パスタ、カレー、サンドイッチ。色々ある。


迷ったけれど、ハンバーグプレートにしよう。デミグラスソースが美味しそうだ。


メニューを指差して、紬に見せる。


「ハンバーグね。了解」紬は頷いて、店員さんを呼んだ。


若い女性の店員さんが、テーブルまで来た。


「ご注文は?」


「・・・はい?」紬が言った。


「すみません、もう一度言ってもらえますか?」紬が、申し訳なさそうに聞き返した。


紬の顔が、一瞬曇った。


聞こえていなかったのだ。店員さんの声が。


「あ、ごめんなさい」紬は少し慌てた様子で、もう一度言った。「オムライスと、ハンバーグプレートを、お願いします」


今度は、ゆっくりと、はっきりと。


「かしこまりました」店員さんが頷いて、厨房へ向かった。


紬は、少し困ったような顔をしていた。


「ごめんね」彼女が、小さな声で言った。「最近、たまに聞き取れないことがあって」


その声には、申し訳なさが滲んでいた。


僕は首を振った。気にしないで、と。


ノートに書いた。


「大丈夫」


紬はそれを見て、少し安心したように笑った。


でも、僕の心は、重かった。


紬の聴力は、確実に落ちている。以前より、明らかに。


補聴器をつけていても、すべての音が聞こえるわけではない。特に、雑音の多い場所では、必要な音だけを拾うのが難しいのだろう。


それでも、紬は頑張っている。必死に、普通に振る舞おうとしている。


その姿が、いじらしくて。同時に、切なかった。


「ねえ、篠原くん」紬が、少し明るい声で話しかけてきた。「文化祭まで、あと四ヶ月だね」


そうだ。もう六月。文化祭は十月。


時間は、思ったより早く過ぎていく。


「緊張する?」紬が聞いた。


僕は頷いた。とても緊張する。


人前で演奏する。それも、自分たちで作った曲を。


二年ぶりのステージ。いや、正確には、二年前は本番前に事故が起きて、演奏できなかった。だから、本当の意味で、これが初めてのステージになる。


「私も緊張してる」紬は窓の外を見ながら言った。「でも、楽しみでもあるんだ」


その横顔は、少し寂しそうに見えた。


「篠原くんと一緒に作った曲。たくさんの人に聞いてもらいたいな」


紬の声には、何か特別な想いが込められているように感じた。


「たくさんの人」と言ったけれど、本当は「聞こえるうちに」と言いたかったのではないだろうか。


文化祭。それは、紬にとって、最後のステージになるかもしれない。


音を聞けるうちに。音楽を楽しめるうちに。


彼女は、そう思っているのではないだろうか。


でも、僕には聞けなかった。


その不安を、言葉にして確かめることが、怖かった。


しばらくして、料理が運ばれてきた。


「お待たせしました」店員さんが、テーブルに皿を置いていく。


紬のオムライス。ふわふわの卵が、ケチャップライスを包んでいる。上には、ハート型にケチャップが描かれている。


僕のハンバーグプレート。ジューシーなハンバーグに、濃厚なデミグラスソース。付け合わせの野菜も、色鮮やかだ。


「わあ、美味しそう」紬が目を輝かせた。


「いただきます」彼女は両手を合わせた。


僕も真似して、手を合わせる。


食べ始める。


ハンバーグは、本当にジューシーだった。肉の旨味が口の中に広がる。デミグラスソースが濃厚で、ご飯によく合う。付け合わせの人参も、甘くて美味しい。


紬は、オムライスをフォークで切っている。卵がとろりと崩れて、中のケチャップライスが見える。


彼女は、小さく一口分を切り取って、口に運んだ。


「美味しい」小さな声で言って、微笑んだ。


でも――。


紬の食べるペースが、とても遅いことに気づいた。


一口食べては、長い間を置く。フォークを持つ手が、途中で止まる。


そして、食べる量も少ない。


五分経っても、まだ三分の一も食べていない。


十分経っても、半分に届いていない。


僕は、自分のハンバーグを食べながら、心配になっていた。


紬は、以前より確実に痩せている。頬がこけて、首が細くなった。腕も、華奢に見える。ブラウスの袖が、少しゆるく感じられる。


「ごちそうさま」


え?


紬は、まだ半分も食べていないのに、フォークを置いた。


「お腹いっぱい」彼女は、申し訳なさそうに笑った。


そんなに食べてないのに?


僕は、心配になって、ノートに書いた。


「もっと食べたほうがいい」


丁寧な字で。でも、心配の気持ちを込めて。


紬はそれを読んで、少し困ったように笑った。


「大丈夫。これで十分」


彼女は、僕を安心させようとしているのだろう。でも、その笑顔は、どこか無理をしているように見えた。


「ありがとう、心配してくれて」紬は続けた。「でも、ほんとに大丈夫だから」


その言葉が、逆に不安を煽る。


大丈夫じゃない。どう見ても、大丈夫じゃない。


食欲がないのか。それとも、食べられないのか。


何か、他にも問題を抱えているんじゃないだろうか。


聴力だけじゃなく。体のどこかに、異変が起きているんじゃないだろうか。


「篠原くん」紬が、優しく言った。「心配してくれてるの、わかるよ。嬉しい」


彼女は、僕の目を見た。


「でも、心配しすぎないで。私、ちゃんと病院にも通ってるし、先生にも相談してるから」


それは、少し安心材料だった。医者に診てもらっているなら。


でも、完全には安心できない。


紬が話したくないことを、無理やり聞き出すわけにはいかない。


僕は、ただ頷くことしかできなかった。


そして、自分のハンバーグを食べ続けた。


でも、味が、よくわからなくなっていた。


心配で、心配で。


カフェの中には、他の客たちの笑い声が響いている。楽しそうな会話。幸せそうな雰囲気。


でも、僕たちのテーブルには、少し重い沈黙が流れていた。


紬は、窓の外を見ている。


僕は、紬を見ている。


言葉はない。


でも、伝わるものがあった。


心配と、優しさと、そして、言えない不安。


それらが、空気の中に溶けていた。




カフェを出ると、外の空気が一段と蒸し暑く感じられた。


六月の湿気が、肌にまとわりつく。でも、不快ではなかった。むしろ、夏が近づいていることを実感させる、生命力に満ちた空気だった。


「どこ行く?」紬が、明るい声で聞いた。


僕は首を傾げた。特に予定はない。


「じゃあ、ぶらぶら歩こうか」紬は楽しそうに言った。「こういうの、好きなんだ。目的なく歩くの」


彼女は、軽やかな足取りで歩き出した。


僕も、その後ろを歩く。いや、後ろじゃない。すぐに横に並んだ。


二人で街をぶらぶらと歩く。特に目的はない。ただ、一緒にいる時間が心地よかった。


駅前の通りから、少し外れた路地に入る。ここは、古い商店街だった。昭和の雰囲気を残した、小さな店が並んでいる。


八百屋、魚屋、お茶屋、和菓子屋。


シャッターが閉まっている店もあるけれど、まだ営業している店も多い。


「なんか、タイムスリップしたみたい」紬が、楽しそうに言った。


彼女は、一軒一軒の店を覗き込みながら歩いている。和菓子屋のショーウィンドウを見て、「美味しそう」と呟いたり、古本屋の店先に並んだ本を眺めたり。


その姿を見ているだけで、僕は幸せだった。


紬は、日常の小さなことに喜びを見出せる人なんだ。何気ない風景も、彼女の目を通すと、特別なものに見える。


「ねえ、あそこの雑貨屋、入ってみない?」


紬が、路地の奥にある小さな店を指差した。


看板には「手作り雑貨 ことり」と書かれている。古い木の看板。手書きの文字。味わいがある。


「うん、行こう」


僕は頷いた。声は出ないけれど、その気持ちは伝わったようだ。


店のドアを開けると、小さな鈴が鳴った。リンリンという、優しい音。


「いらっしゃいませ」


店の奥から、年配の女性が顔を出した。穏やかな笑顔。


「ごゆっくりどうぞ」


紬は会釈をして、店内を見始めた。


小さな店だった。でも、所狭しと商品が並んでいる。


棚には、革製品。財布、キーケース、ブックカバー。どれも手作りらしい、温かみのある仕上がりだ。


壁には、アクセサリーが吊るされている。ピアス、イヤリング、ネックレス。ビーズや天然石を使った、繊細な作品。


テーブルの上には、文房具。手作りのノート、しおり、ペンケース。紙の質感が、一つ一つ違う。


そして、窓際には布製品。ポーチ、バッグ、コースター。カラフルな布地が、店内を明るくしている。


「わあ」紬が、小さな声で感嘆した。


彼女は、まるで宝物を探すように、一つ一つの商品を手に取っていた。


革の財布を開いてみたり。ビーズのイヤリングを耳に当ててみたり。手作りノートのページをめくってみたり。


その仕草が、子供のように無邪気で。見ているだけで、微笑ましかった。


「これ、かわいい」


紬が、何かを見つけたようだ。


近づいてみると、小さなブローチだった。


音符の形をしている。シルバーの金属でできていて、表面が少し磨かれて光っている。八分音符。シンプルだけど、洗練されたデザイン。


「篠原くんにぴったりじゃない?」


紬が、僕を見上げて言った。その目は、きらきらと輝いている。


僕に? 音符のブローチ?


確かに、音楽に関わるものだけど。ブローチなんて、つけたことがない。


「ほら」


紬は、そのブローチを手に取って、僕の胸元に近づけた。


そっと、シャツの胸ポケットのあたりに当ててみる。


彼女の顔が、とても近い。吐息が感じられるほど。


石鹸の香り。優しい香り。


「似合う」


紬は、満足そうに笑った。


その笑顔を見て、僕の顔が熱くなった。


照れくさい。とても照れくさい。


僕は、視線を逸らした。店の隅に置いてある、別の商品を見るふりをする。


「あ、照れてる」紬が、楽しそうに言った。「かわいい」


かわいい、って。僕は子供じゃない。


でも、嬉しくないわけじゃなかった。紬にそう言われると、悪い気はしない。


「買おうよ」紬が提案した。「篠原くんへの、プレゼント第二弾」


でも――。


さっき、ピックを買ってもらったばかりだ。本も買った。カフェでも、紬が多めに払ってくれた。これ以上、彼女に負担をかけるわけにはいかない。


僕は首を振った。


ノートに書こうとしたけれど、紬は僕の意図を理解したようだった。


「遠慮しないで」彼女は言った。「私、買いたいんだもん」


でも、やはり申し訳ない。


僕は、もう一度首を振った。今度は、少し強く。


「じゃあ」紬は少し考えてから言った。「私が買って、また後で渡すね。誕生日とか、何かの記念日とか」


そう言って、紬は有無を言わさずブローチをレジに持っていった。


「これ、ください」


店主の女性が、優しく微笑んで包んでくれる。小さな紙袋に入れて、リボンまでつけてくれた。


「お似合いですよ」店主が、僕たちを見て言った。「仲のいいカップルさんですね」


カップル――?


僕と紬が?


紬の顔が、ぱっと赤くなった。


「あ、いえ、その」彼女は慌てて否定しようとした。でも、言葉が続かない。


店主は、にこにこしながら袋を紬に渡した。


「素敵な一日を」


雑貨店を出ると、紬はまだ顔が赤かった。


「ご、ごめんね」彼女が小さな声で言った。「変なこと言われちゃって」


僕は首を振った。気にしていない。むしろ――。


少しだけ、嬉しかった。


そう思われても、悪くない。


紬と僕が、カップルに見える。それは、そんなに悪いことじゃない気がする。


「次、どこ行く?」紬が、話題を変えようとした。


僕は、特に行きたい場所はなかった。ただ、紬と一緒にいられれば、それでよかった。


「じゃあ、あそこの公園、行ってみない?」


紬が指差したのは、少し先にある小さな公園だった。


木々に囲まれた、静かな場所。


「うん」


僕は頷いた。


二人で、公園へ向かう。


住宅街を抜けると、公園が見えてきた。


フェンスに囲まれた、こじんまりとした公園。でも、手入れはよくされているようだった。


入り口には、「〇△児童公園」という看板。


中には、ブランコ、滑り台、砂場。そして、小さな池。


「ちょっと休憩しない?」紬が提案した。


僕は頷いた。確かに、少し疲れていた。


公園のベンチに座る。木製のベンチ。少し古びているけれど、座り心地は悪くない。


目の前には、小さな池があった。


錦鯉が、ゆったりと泳いでいる。赤、白、黒。色とりどりの鯉。水面が、午後の日差しを反射して、きらきらと輝いている。


池のほとりには、数人の子供たちがいた。


小さな女の子が、母親と一緒に鯉に餌をやっている。


「ほら、こうやって投げるのよ」


母親が、手本を見せる。餌が水面に落ちると、鯉たちが集まってくる。


「わあ!」女の子が歓声を上げた。


その光景が、とても平和だった。


日曜日の午後。何気ない、でも幸せな時間。


紬も、その光景を見ていた。優しい目で。


風が吹いて、木々の葉が揺れる。さらさらという音。鳥のさえずり。遠くから聞こえる、子供たちの笑い声。


すべてが、穏やかだった。


「篠原くん」


しばらくして、紬が口を開いた。


その声は、いつもより少し低かった。真剣な声。


「ずっと聞きたかったことがあるんだけど」


紬は、僕の方を向いた。


「いい?」


その目は、真剣だった。でも、優しさも含んでいた。


僕は、少し緊張しながら、頷いた。


心臓が、少し早く打ち始める。


何を聞かれるんだろう。


「どうして、声を出さなくなったの?」


――来た。


いつか来ると思っていた、この質問。


でも、実際に聞かれると、心臓が痛む。


胸が、ぎゅっと締め付けられる。


答えられない。答えたくない。


あの日のことを思い出したくない。佐藤のことを。事故のことを。


でも――。


紬は、僕の友達だ。


彼女は、僕の沈黙を受け入れてくれた。僕の過去を聞かずに、ただ一緒にいてくれた。


でも、いつまでも隠し続けるのは、フェアじゃない気もする。


紬は、自分の病気のことを話してくれた。進行性の難聴。音が、どんどん聞こえなくなっていくこと。


それなのに、僕だけが隠し続けるのは、対等じゃない。


僕は、少し考えた。


そして、ノートを取り出した。


手が震える。ペンを握る指に、力が入らない。


でも、書かなければ。


「事故があった」


まず、それを書いた。


紬は、じっとノートを見ている。何も言わない。ただ、待っていてくれる。


「友達を傷つけた」


次に、それを書いた。


手が、さらに震える。あの日の光景が、頭に浮かんでくる。


倒れる機材。佐藤の悲鳴。血。


「僕のせいで」


最後に、それを書いた。


書き終えると、涙が出そうになった。でも、我慢した。


ノートを、紬に見せる。


紬はそれを読んで、何も言わなかった。


ただ、じっと僕を見ている。


その目には、同情も、驚きもなかった。ただ、静かに受け止めている目。


「それで」紬がゆっくりと言った。「声を出すのが、怖くなったの?」


僕は頷いた。


ノートに、また書く。


「声を出すと、また誰かを傷つける気がして」


書きながら、手が震えた。ペンを持つ手が、ぶるぶると震える。


「ギターも同じ。音を出すことが、人を傷つける」


その言葉を書き終えると、もう限界だった。


涙が、頬を伝った。


拭おうとしたけれど、止まらない。


次から次へと、涙が溢れてくる。


紬は、そっと僕の手を握った。


温かい手。小さくて、柔らかい手。


その温もりが、心に染みた。


「篠原くんは」紬が、静かに言った。「優しすぎるよ」


その声は、とても優しかった。責めるでもなく、同情するでもなく。ただ、受け止めてくれる声。


「自分を責めすぎ」


でも、事実なんだ。


僕のせいで、佐藤は怪我をした。僕のせいで、彼の人生は変わってしまった。


そのことは、誰にも否定できない。


「事故は」紬は続けた。「誰のせいでもないよ。たまたま、そうなっただけ」


でも――。


僕は、ノートに書いた。手が震えて、字が乱れる。


「僕が音を大きくしなければ」


「僕がハウリングを起こさなければ」


「僕がコードに引っかからなければ」


「全部、僕のせいだ」


書きながら、涙が止まらない。視界が、ぼやける。


紬は、僕の手を強く握った。


両手で、包み込むように。


「違うよ」


彼女の声は、強かった。でも、優しかった。


「それは、不運が重なっただけ。篠原くんが悪いわけじゃない」


「誰だって、ミスはする。それが、たまたま不幸な結果に繋がっただけ」


「篠原くんは、悪くない」


その言葉が、胸に響いた。


二年間、誰にも話さなかった。


誰にも、この気持ちを理解してもらえないと思っていた。


いや、理解してもらいたくなかった。


この罪悪感は、僕だけが背負うべきものだと思っていた。


でも、紬は違う。


彼女は、僕の話を聞いてくれる。


否定するわけでもなく、同情するわけでもなく。


ただ、受け止めてくれる。


そして、優しく、でも力強く、言ってくれる。


「篠原くんは、悪くない」と。


涙が、止まらなかった。


堰を切ったように、溢れてくる。


二年間、我慢していた涙。


誰にも見せなかった涙。


それが、今、ようやく流れている。


「泣いていいよ」紬が言った。


その声は、とても優しかった。


「ずっと我慢してたんでしょ。一人で抱え込んでたんでしょ」


紬の言葉が、心の奥まで届く。


そうだ。ずっと我慢していた。


誰にも言えなかった。誰にも頼れなかった。


ただ、一人で抱え込んでいた。


「もう、我慢しなくていいよ」


紬は、優しく言った。


僕は――もう我慢できなかった。


紬の肩に、頭を預けた。


そして、声を出さずに、ただ泣いた。


紬は、何も言わなかった。


ただ、僕の背中をさすってくれた。


優しく、優しく。


まるで、母親が子供をあやすように。


その手の温もりが、心を溶かしていく。


二年間、凍りついていた心が、ゆっくりと溶けていく。


どれくらい泣いたかわからない。


時間の感覚が、なくなっていた。


ただ、紬の優しさに包まれて。


涙を流し続けた。


やがて、涙は止まった。


もう、涙が出なくなった。


顔を上げると、紬が微笑んでいた。


その目も、少し潤んでいた。もしかしたら、紬も一緒に泣いてくれていたのかもしれない。


「すっきりした?」


紬が、優しく聞いた。


僕は頷いた。


少し、軽くなった気がする。


胸の奥に詰まっていた何かが、少しだけ溶けた気がする。


完全には消えていない。罪悪感は、まだ残っている。


でも、少しだけ、楽になった。


「ねえ、篠原くん」


紬が、少し躊躇するように言った。


「私もね、話したいことがあるんだ」


僕は彼女を見た。


紬の表情が、少し変わった。


笑顔が、消えていた。


代わりに、どこか寂しそうな、それでいて決意したような表情。


「でも」彼女は続けた。「今日はやめとく」


なぜ?


「いつか、ちゃんと話すから」


紬は、僕の目を見た。


「約束ね。文化祭が終わったら、ちゃんと話す」


彼女は、僕の手を握りながら、約束した。


その手は、少し冷たかった。


「だから、篠原くんも待っててね」


文化祭が終わったら。


その言葉が、妙に引っかかった。


なぜ、文化祭が終わってから?


今、話せないことなのか?


それとも――。


何か、特別な理由があるのか?


でも、僕は聞けなかった。


紬が話したいと思うまで、待とう。


僕は頷いた。待つよ。いつまでも。紬が話したいと思うまで、僕は待つ。


「ありがとう」


紬は、ほっとしたように笑った。


空が、少しずつ茜色に染まり始めていた。


もう、夕方だ。


時間が経つのは、早い。


紬との時間は、あっという間に過ぎていく。


「そろそろ、帰らなきゃ」紬が、名残惜しそうに言った。


僕も、帰りたくなかった。


でも、いつまでもここにいるわけにはいかない。


二人で、ベンチから立ち上がった。


公園を出て、駅へ向かう。


夕暮れの街は、オレンジ色に染まっていた。


西の空が、燃えるような色をしている。


街灯が、ぽつぽつと灯り始めた。


「今日は」紬が歩きながら言った。「楽しかったな」


僕も同じ気持ちだった。


本当に、楽しかった。


楽器屋で、カフェで、雑貨店で、公園で。


すべての時間が、かけがえのないものだった。


駅に着いた。


改札の前で、僕たちは立ち止まった。


「今日は楽しかった」紬が、もう一度言った。「ありがとう、篠原くん」


彼女は、笑顔で手を振った。


僕も、手を振り返した。


「また明日ね」


紬は、改札を通って行った。


その後ろ姿を、僕はずっと見送っていた。


彼女の姿が、人混みに消えるまで。


それから、僕も改札を通った。


ホームへ向かう。電車を待つ。


やがて、電車が来た。


乗り込んで、窓際の席に座る。


電車が動き出す。


窓の外を見ながら、今日のことを思い返した。


紬の笑顔。


楽器屋で、ピックを選んでくれた時の笑顔。


カフェで、オムライスを食べていた時の笑顔。


雑貨店で、ブローチを見つけた時の笑顔。


そして――。


公園で、僕の話を聞いてくれた時の、優しい表情。


「篠原くんは、悪くない」


その言葉が、まだ耳に残っている。


いや、紬の声は聞こえないけれど。


心に、残っている。


紬の優しさ。


紬の温もり。


それが、心を温かくしてくれる。


でも、同時に。


紬の寂しそうな表情も、忘れられない。


「私もね、話したいことがあるんだ」


彼女は、何を抱えているんだろう。


何を、隠しているんだろう。


難聴のこと?


それとも、他に何か?


「文化祭が終わったら、ちゃんと話す」


その言葉が、引っかかる。


なぜ、文化祭が終わってから?


今じゃ、ダメなのか?


不安が、胸に広がる。


でも、待とう。


紬が話してくれるまで、待とう。


電車は、夕暮れの街を走り続ける。


窓の外の景色が、オレンジ色から、紫色へ。


そして、青黒い夜へと変わっていく。


僕は、ずっと窓の外を見ていた。


紬のことを考えながら。


彼女の笑顔を思い出しながら。


そして、彼女の寂しそうな表情を思い出しながら。


家に着いた時には、すっかり夜になっていた。


「おかえり、結城」


母が、玄関で迎えてくれた。


「楽しかった?」


僕は頷いた。


とても楽しかった。


でも、同時に。


少し、不安も残っている。


紬は、大丈夫だろうか。


彼女が抱えているもの。


それは、どれほど重いものなんだろう。


部屋に戻って、ベッドに横になった。


天井を見つめる。


今日買ったピックが、机の上に置いてある。


紬からのプレゼント。


それを見るだけで、嬉しくなる。


でも、同時に。


胸が、少し痛む。


紬。


君は、大丈夫なのか。


その問いに、答えはない。


ただ、祈ることしかできない。


紬が、幸せでありますように。


紬が、笑顔でいられますように。


そう、祈りながら。


僕は、ゆっくりと目を閉じた。



4




七月に入り、期末テストが近づいていた。


でも、僕たちは毎日音楽室で練習を続けた。「約束の音」は、少しずつ完成に近づいていた。


イントロ、Aメロ、Bメロ、サビ、間奏、そしてアウトロ。すべてのパーツが揃い、一つの曲として形になっていた。


「できたね」紬が嬉しそうに言った。「約束の音、ほぼ完成」


僕も嬉しかった。初めて、誰かと一緒に一つの曲を作り上げた。この達成感は、言葉にできない。


「後は、練習するだけ」紬は楽譜を見ながら言った。「文化祭まで、あと三ヶ月。完璧に仕上げよう」


でも、その頃から、紬の様子がさらに変わってきた。


ピアノを弾く時、以前より大きな音で弾くようになった。


「ねえ、今の音、ちゃんと聞こえた?」紬がよく聞くようになった。


僕は頷く。ちゃんと聞こえている。


「そっか。よかった」紬は安心したように笑う。


でも、その笑顔の裏に、不安が隠れているのがわかった。


紬は、自分の耳を信じられなくなっている。


ある日、音楽室で練習していると、紬が突然ピアノを弾くのを止めた。


「篠原くん、今、何か言った?」


僕は首を振った。何も言っていない。


「そっか」紬は少し混乱したような顔をした。「なんか、声が聞こえた気がして」


幻聴。それとも、耳鳴り。


難聴が進行すると、そういう症状が出ることがあると、僕は以前調べたことがあった。


「最近ね」紬が小さな声で言った。「耳鳴りがするんだ。キーンっていう音。ずっと」


彼女は自分の耳を塞ぐ仕草をした。


「うるさいの。でも、他の人には聞こえない音」


僕はノートに書いた。「病院に行った?」


「うん。この前も行った」紬は頷いた。「先生は言った。進行が、予想より早いって」


予想より早い。


その言葉が、胸に突き刺さった。


「補聴器を、勧められた」紬は続けた。「でも、まだつけたくない。補聴器をつけたら、本当に聞こえなくなってるって認めることになる気がして」


その気持ちは、わかる気がした。認めたくない。自分の耳が、機能を失っているということを。


「でも」紬は深呼吸をした。「そろそろ、つけないといけないのかも」


僕は彼女の手を握った。


大丈夫。僕がいる。ずっと、そばにいる。


言葉にはできないけれど、その想いを手に込めた。


紬は僕の手を握り返して、小さく笑った。


「ありがとう、篠原くん」




夏休みが始まった。


でも、僕たちは週に三回、音楽室で練習することにした。


紬の提案だった。


「夏休み中も、練習したい。音を聞けるうちに、たくさん弾きたいから」


僕は当然、賛成した。




八月のある日。音楽室で練習していると、紬が新しいものをつけていることに気づいた。


耳に、小さな機械。


補聴器だ。


紬は僕の視線に気づいて、少し照れくさそうに笑った。


「つけてみたの。補聴器」


彼女は自分の耳を触った。


「最初は抵抗あったけど、つけてみたら、少し楽になった。音が、はっきり聞こえる」


それは、良いことだ。でも同時に、紬の状態が深刻になっているということでもある。


「変じゃない?」紬が不安そうに聞く。


僕は首を振った。全然変じゃない。むしろ、勇気ある決断だと思う。


ノートに書いた。「似合ってる」


紬はそれを見て、嬉しそうに笑った。


「ありがとう。篠原くんにそう言ってもらえると、安心する」


その日の練習は、いつもより良かった。


紬のピアノが、以前の明るさを取り戻していた。補聴器のおかげで、自分の音がちゃんと聞こえるようになったのだろう。


「やっぱり、音が聞こえるっていいね」紬が嬉しそうに言った。「篠原くんのギターも、よく聞こえる」


その笑顔を見て、僕も嬉しくなった。


でも、不安もあった。


補聴器をつけても聞こえるということは、まだ完全に聴力を失っていないということ。


でも、いつかは、補聴器でも聞こえなくなる日が来るのかもしれない。


その日が、いつ来るのか。


誰にもわからない。




八月下旬。夏休みも終わりに近づいていた。


ある日、紬が学校に来なかった。いや、正確には音楽室に来なかった。


約束の時間になっても、彼女は現れない。


十分待っても、三十分待っても、来ない。


心配になって、僕は紬に電話をかけようとした。でも、僕は声が出せない。


メールを送ることにした。


「大丈夫?」


しばらくして、返信が来た。


「ごめん。今日は体調が悪くて、家で休んでる。明日は行けると思う。心配かけてごめんね」


体調が悪い。


最近、紬はよく体調を崩すようになっていた。めまい、頭痛、吐き気。様々な症状。




翌日、紬が音楽室に来た。でも、顔色が悪かった。


「ごめんね、昨日は」紬が謝る。


僕は首を振った。謝らなくていい。


「ちょっと、めまいがひどくて」紬は椅子に座った。「最近、よくあるんだ」


僕はノートに書いた。「無理しないで」


「大丈夫。今日は調子いいから」


でも、その言葉を信じられなかった。明らかに、具合が悪そうだ。


「篠原くん」紬が真剣な顔をした。「文化祭まで、あと一ヶ月半だね」


そうだ。文化祭は十月の第二週。


「私、間に合うかな」紬が不安そうに言った。「ちゃんと演奏できるかな」


僕は力強く頷いた。できる。絶対にできる。


「そう言ってもらえると、頑張れる」紬は微笑んだ。


その日の練習は、短かった。紬がすぐに疲れてしまったから。


三十分ほど弾いただけで、彼女は休憩を求めた。


「ごめん。ちょっと休ませて」


紬はベンチに座って、目を閉じた。


僕はその横に座って、静かに待った。


十分ほど経って、紬が目を開けた。


「再試行じ続けるありがとう。もう大丈夫」


でも、その顔は青白かった。


「ねえ、篠原くん」紬が小さな声で言った。「もし、私が文化祭で演奏できなくなったら、どうする?」


その質問に、僕は驚いて彼女を見た。


「できなくなるかもしれないの」紬は続けた。「この調子だと」


僕は首を激しく横に振った。そんなこと、考えたくない。


「でも、考えなきゃいけないと思うんだ」紬は真剣な顔をしていた。「もし、私が倒れたら。もし、聴力が完全になくなったら」


僕はノートに書いた。「そんなこと起きない」


「篠原くん」紬は僕の手を握った。「聞いて。これは、約束」


彼女は深呼吸をした。


「もし、私が演奏できなくなっても、篠原くんは演奏して。一人でもいいから」


僕は首を振った。一人で?紬なしで?


「お願い」紬の目に、涙が浮かんでいた。「約束の音は、二人の曲だけど、篠原くんの曲でもあるの。だから、私がいなくても、弾いて」


そんな約束、できない。紬がいない演奏なんて、意味がない。


「お願い」紬は懇願するように言った。「約束して」


僕は――迷った。でも、紬の真剣な目を見て、ゆっくりと頷いた。


「ありがとう」紬は安心したように笑った。「でも、できれば一緒に演奏したいけどね」


その後、僕たちは少しだけ練習を続けた。でも、紬はすぐに疲れてしまった。


「今日は、ここまでにしよう」紬が言った。「明日、また頑張ろう」


僕たちは音楽室を出た。夕日が、廊下をオレンジ色に染めていた。


「篠原くん」紬が立ち止まった。「ありがとう。いつも、そばにいてくれて」


僕は首を振った。当たり前のことをしているだけだ。


「でも、嬉しいの」紬は微笑んだ。「あなたがいるから、私は頑張れる」


その言葉が、胸に響いた。




九月に入った。


夏の暑さが少しずつ和らぎ、朝晩には秋の気配が感じられるようになっていた。


空は高く、雲は流れるように速く動いている。風は、もう夏のそれではなかった。どこか涼しげで、乾いていて、季節の変わり目を告げている。


二学期が始まった。


教室には、夏休みの思い出を語り合う声が響いていた。


「海、行った?」「行った行った。めっちゃ焼けた」「俺、部活の合宿で死ぬかと思った」「私、祖父母の家に帰省してさ」


みんな、それぞれの夏を過ごしてきた。


でも、僕の夏は――紬と過ごした時間で、満たされていた。


出掛けたこと。音楽室での練習。二人で作った曲、約束の音。


それが、僕の夏の全てだった。


そして、これからの一ヶ月。


文化祭まで、あと一ヶ月。


カレンダーを見るたびに、胸が高鳴った。期待と、不安と、緊張が入り混じった気持ち。


でも――。


紬の様子は、悪くなる一方だった。


それは、誰の目にも明らかだった。


教室での紬を見るたびに、僕の心は痛んだ。


彼女の顔色は、日に日に悪くなっていた。青白くて、生気がない。目の下には、濃いクマができている。


体重も、さらに落ちているようだった。制服が、明らかに大きく見える。腕も細く、首も華奢だ。


歩き方も、以前とは違っていた。ふらふらと、おぼつかない。廊下を歩く時、時々壁に手をついている。まるで、バランスを取るのが難しいかのように。


そして――。


学校を休む日が増えた。


週に一回、二回、三回。


来ても、早退することが多くなった。


午前中だけで帰ってしまう日。昼休み前に保健室へ行って、そのまま帰る日。


紬の席が空いている時間が、どんどん増えていった。


音楽室での練習も、減っていった。


夏休み中は、週に三回練習していた。


それが、二学期に入って、週に二回になった。


そして、九月中旬には、週に一回になった。


その一回も、長くは続かない。


三十分弾いたら、休憩が必要になる。そして、その休憩が長くなる。気づけば、実質的な練習時間は二十分ほどしかない。


「ごめんね」


紬は、いつもそう謝った。


「すぐ疲れちゃって」


僕は首を振る。謝らなくていい、と。


でも、紬の目には、申し訳なさと、焦りが浮かんでいた。


文化祭まで、あと一ヶ月しかない。


でも、練習ができない。


このままで、本当に大丈夫なのだろうか。




ある日の放課後。


僕は、担任の桜木先生に呼び止められた。


「篠原くん」


先生の声は、いつもより低かった。真剣な声。


「少しいいかな」


僕は頷いた。


先生は、人気のない廊下の隅へと僕を連れて行った。


周りに誰もいないことを確認してから、先生は口を開いた。


「白石さんのこと、知ってるよね」


先生は、僕の目を見て言った。


「彼女の状態」


僕は頷いた。知っている。紬が、どれだけ辛い状況にあるか。


「実は」先生は、少し言葉を選ぶように続けた。「白石さんの保護者から、相談があってね」


相談?


「文化祭の演奏」先生は言った。「中止にしたほうがいいんじゃないかって」


中止――。


その言葉が、胸に突き刺さった。


まるで、冷たい刃物が、心臓を貫いたような感覚。


「白石さんの体調を考えると」先生は続けた。「無理をさせるのは良くないって。医者もそう言ってるらしい」


医者も。


それは、医学的な見地からの判断だ。


紬の体が、もう限界に近いということ。


「保護者の方も、すごく心配されていてね」先生の声に、同情が滲んでいた。「娘さんのことを思えば、演奏なんかより体調を優先すべきだと」


その通りだ。


理屈では、わかる。


紬の体調が悪化している今、無理をさせるべきではない。


でも――。


「君はどう思う?」先生が聞いた。


僕は、どう反応していいかわからなかった。


頭では、中止すべきだとわかっている。


でも、心は、それを拒否している。


紬と約束したんだ。二人で、約束の音を演奏すると。


それは、紬にとっても、僕にとっても、特別な意味を持つ演奏だ。


紬が、音を聞けるうちに。


彼女が、音楽を楽しめるうちに。


最後かもしれない、大切なステージ。


それを、奪ってしまっていいのか。


僕は、ノートを取り出した。


手が震える。何を書けばいいのか、わからない。


でも、一つだけ、確実に言えることがある。


「紬に聞いてください」


僕は、それを書いた。


「本人の意思が、一番大事だと思います」


先生はそれを読んで、少し考えてから頷いた。


「そうだね」先生は言った。「本人の意思が一番大事だね」


「白石さんを呼んで、話をしよう。君も一緒に来てくれるかな」


僕は頷いた。




その日の放課後。


僕は音楽室で紬を待った。


いつもの時間。でも、今日は練習のためじゃない。


先生との面談。


それが、どんな結果になるのか。


時計の針が、ゆっくりと進む。


約束の時間を過ぎても、紬は来なかった。


五分、十分、十五分。


心配になって、僕は音楽室を出た。


教室へ戻ると――。


紬がいた。


机に突っ伏して、動かない。


眠っているのか。それとも――。


僕は、急いで近づいた。


心臓が、早く打つ。


大丈夫だろうか。


そっと、肩に手を置く。


軽く揺する。


紬が、ゆっくりと顔を上げた。


その顔――。


目が、赤く腫れていた。


泣いていたのだ。


「あ」紬は僕に気づいて、慌てて涙を拭った。「篠原くん」


その声は、かすれていた。


「ごめん、待たせた?」


僕は首を振った。大丈夫。


でも、大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。


紬は、泣いていた。一人で、ここで。


「今日はね」紬が言った。「ちょっと練習できないかも」


その声は、諦めに満ちていた。


「先生に呼ばれて、話があるんだ」


紬は、もう知っているのだ。


これから何を話されるのか。


「一緒に来てくれる?」


紬が、不安そうに聞いた。


その目は、助けを求めていた。


一人じゃ、無理だ。


そう言っているように見えた。


僕は、力強く頷いた。


当然だ。一緒に行く。


紬は、少し安心したように微笑んだ。


でも、その笑顔は、すぐに消えた。




職員室へ向かう。


廊下を歩く紬の足取りは、重かった。


まるで、処刑場へ向かうような。


そんな、絶望的な雰囲気が漂っていた。


職員室の前で、桜木先生が待っていた。


「来たね」先生は優しく言った。「こっちへ」


先生は、職員室の奥にある小さな会議室へと、僕たちを案内した。


扉を開けると――。


そこには、紬の両親がいた。


母親は、疲れ切った顔をしていた。


目の下にクマができている。髪も、少し乱れている。


きっと、紬のことで、眠れない日々を過ごしているのだろう。


父親は、厳しい表情をしていた。


腕を組んで、椅子に座っている。


その姿勢が、何も譲らないという意志を表しているようだった。


「白石さん、篠原くん、座って」


桜木先生が、二つの椅子を指差した。


僕たちは、並んで座った。


テーブルを挟んで、向かい側に両親と先生。


まるで、尋問を受けるような配置。


重苦しい空気が、部屋を満たしていた。


誰も、最初の言葉を発しようとしない。


沈黙。


時計の秒針だけが、カチカチと音を立てている。


やがて――。


父親が、口を開いた。


「単刀直入に言います」


その声は、低く、重かった。


「文化祭の演奏は、中止にしてください」


紬の体が、小さく震えた。


僕は、彼女の手を握ろうとした。でも、テーブルの下で。誰にも見えないように。


紬が、小さく息を呑んだ。


「理由は」父親は続けた。「娘の体調です」


「医者からも言われています。これ以上無理をさせないでくれと」


「先週も、めまいで倒れました。幸い、家の中だったから大事には至りませんでしたが」


「もし、学校で倒れたら。文化祭の本番で倒れたら」


父親の声が、少し震えた。


「取り返しのつかないことになるかもしれない」


その言葉が、重く響いた。


取り返しのつかないこと。


それは――命に関わるということ。


「でも」


紬が、震える声で言った。


「私、大丈夫だから」


「大丈夫じゃない」


母親が、強い口調で言った。


それは、叱責ではなかった。


愛情から来る、強い言葉。


「あなた、この前も倒れたでしょう」


母親の目に、涙が浮かんでいた。


「めまいがひどくて、立てなくなった」


「お母さん、どれだけ心配したか」


「もう」母親の声が、涙声になった。「もう、見ていられないの」


「あなたが苦しんでいる姿を見るのが、辛いの」


紬は、黙り込んだ。


唇を噛んで、下を向いている。


「文化祭なんかより」母親は続けた。「あなたの体が大事なの」


「演奏なんて、また別の機会にできるでしょう」


別の機会。


その言葉が、胸に刺さった。


別の機会なんて、ないかもしれない。


紬の聴力は、どんどん悪化している。


今回を逃したら、もう音を聞きながら演奏できないかもしれない。


「お願いだから」母親は涙を流しながら言った。「無理しないで」


紬は――。


顔を上げた。


その目には、涙が溢れていた。


「でも」


紬の声は、震えていた。


「約束したの」


「篠原くんと」


紬は、僕を見た。


「二人で演奏するって」


その目は、必死だった。


「これが、最後かもしれないの」


紬は両親を見た。


「私の聴力、どんどん悪くなってる」


「文化祭が終わる頃には、もう音楽を楽しめないかもしれない」


「だから」


紬の声が、さらに震えた。


「だから、今しかないの」


「音を聞けるうちに」


「音楽を楽しめるうちに」


「篠原くんと、一緒に演奏したいの」


涙が、紬の頬を伝った。


でも、彼女は必死に言葉を続けた。


「これが、私の最後のお願い」


「最後のわがまま」


「お願い」


紬は、両手を合わせた。


「演奏させて」


その姿が、あまりにも痛々しくて。


僕は、何も言えなかった。


両親は、黙っていた。


二人とも、娘の言葉に、何も返せないでいた。


桜木先生も、黙っていた。


部屋には、紬の嗚咽だけが響いていた。


やがて――。


父親が、僕を見た。


「篠原くん」


その声は、少し柔らかくなっていた。


「君からも、娘を説得してくれないか」


「この演奏は、諦めるべきだと」


僕は――困惑した。


どうすればいいんだろう。


紬の体調を考えれば、確かに中止すべきだ。


彼女の命を危険に晒してまで、演奏すべきじゃない。


でも――。


紬の気持ちを考えると。


彼女にとって、この演奏がどれほど大切か。


それを奪ってしまっていいのか。


「篠原くん」


紬が、僕を見た。


その目は、涙で潤んでいた。


「あなたは、どう思う?」


その問いに、答えなければならない。


僕は――。


ノートを取り出した。


手が震える。


でも、書かなければ。


僕の答えを。


「紬の気持ちが大事」


僕は、それを書いた。


「紬が演奏したいなら、僕は一緒に演奏したい」


「紬が決めることだと思います」


紬はそれを読んで――。


新しい涙を流した。


でも、その涙は、さっきとは違っていた。


嬉しさの涙。


感謝の涙。


「ありがとう」


紬は、小さく言った。


そして、両親を見た。


「私は」


紬の声には、決意が込められていた。


「演奏したい」


「どうしても」


「これが、私の最後の願いなの」


「お願い」


「演奏させて」


両親は、顔を見合わせた。


長い、長い沈黙。


その沈黙が、永遠に続くように感じられた。


やがて――。


母親が、深くため息をついた。


肩が、がっくりと落ちた。


「わかったわ」


母親は、諦めたように言った。


「でも、条件があります」


「何?」


紬が、顔を上げた。


「当日、医療スタッフを待機させること」


母親は、きっぱりと言った。


「もし体調が悪くなったら、すぐに中止すること」


「それと」


父親が付け加えた。


「演奏時間は短くすること」


「長時間は無理だ。一曲だけにしなさい」


紬は、少し考えた。


そして――頷いた。


「わかった」


「約束する」


「本当に」


母親は、涙声になった。


「本当に、無理しないでね」


「うん」


紬は微笑んだ。


その笑顔には、安堵と、決意と、そして感謝が混ざっていた。


「ありがとう、お母さん、お父さん」


母親は、もう何も言えなかった。


ただ、涙を流すだけだった。


父親も、厳しい表情を崩して、小さくため息をついた。


「体調が悪くなったら、すぐに言うんだぞ」


「うん」


紬は頷いた。


会議は、終わった。




会議室を出て、紬と二人になった。


廊下には、もう誰もいなかった。


放課後の静けさ。


「やった」


紬が、小さくガッツポーズをした。


「演奏、できる」


その声は、嬉しそうだった。


でも――。


その笑顔は、少し無理をしているように見えた。


体は、正直だ。


疲労が、顔に出ている。


「篠原くん」


紬が、僕を見た。


「ありがとう」


「あなたが味方してくれて」


僕は頷いた。


当然だ。


紬の味方は、いつも僕だ。


「でも」


紬は、少し不安そうに言った。


「本当に大丈夫かな」


「私、ちゃんと演奏できるかな」


その問いに、僕は答えられなかった。


正直、わからない。


紬の体調が、これからどうなるか。


文化祭まで、持つのか。


誰にも、わからない。


でも――。


僕はノートに書いた。


「一緒に頑張ろう」


「最後まで、一緒に」


紬はそれを読んで、微笑んだ。


「うん」


「一緒に、頑張ろう」


彼女は、僕の手を握った。


その手は、冷たかった。


でも、確かな決意が込められていた。


「じゃあ」


紬は、決意を込めた目をした。


「文化祭まで、あと一ヶ月」


「できる限り、練習しよう」


「約束の音を、完璧にしよう」


僕は頷いた。


そうだ。


残された時間は少ない。


でも、その時間を、大切に使おう。


紬と一緒に。


最高の演奏を目指して。


夕日が、廊下の窓から差し込んでいた。


オレンジ色の光が、僕たちを照らしている。


その光の中で、紬は微笑んでいた。


少し疲れた、でも希望に満ちた笑顔。


その笑顔を守りたい。


僕は、心からそう思った。


たとえ、どんなに困難でも。


紬の笑顔を、守りたい。


そして、一緒に。


約束の音を、奏でたい。


それが、僕たちの約束。


最後まで、貫き通す約束。




その日の夜。


僕は、部屋で一人、ギターを抱えていた。


約束の音を弾く。


でも、紬のピアノがない。


不完全な音楽。


それでも、弾き続けた。


文化祭まで、あと一ヶ月。


紬は、大丈夫だろうか。


最後まで、一緒に演奏できるだろうか。


不安が、胸を満たす。


でも、同時に。


決意も、胸に宿っていた。


紬のために。


僕は、全力を尽くす。


どんなに辛くても。


どんなに不安でも。


紬と約束した。


一緒に演奏すると。


その約束を、絶対に守る。


ギターの音が、部屋に響く。


静かな旋律。


君との約束を、胸に抱いて。


僕は、弾き続けた。


深夜まで。


指が痛くなるまで。


紬のために。


僕たちの音楽のために。


窓の外では、月が輝いていた。


秋の月。


冷たく、でも美しい光。


その光に照らされながら。


僕は、一人。


約束の音を、奏で続けた。








それから、僕たちは限られた時間の中で、精一杯練習した。


紬の体調が良い日だけ、音楽室で練習する。悪い日は、僕が一人でギターを弾く。


九月も後半に入った頃。


紬が、また新しい話をしてくれた。


「篠原くん、聞いて」紬が真剣な顔をした。「医者に言われたの」


何を?


「このままだと」紬は続けた。「年内に、完全に聴力を失うかもしれないって」


年内。あと三ヶ月。


「だから」紬は強い目で僕を見た。「文化祭は、私にとって最後のコンサートになるかもしれない」


最後のコンサート。


その言葉の重みが、胸に圧し掛かってきた。


「でも、後悔はしないよ」紬は微笑んだ。「だって、篠原くんと一緒に音楽ができたから。それだけで、幸せだった」


僕は紬の手を握った。


まだ終わりじゃない。まだ、時間はある。一緒に、最高の演奏をしよう。


「うん」紬は頷いた。「一緒に、頑張ろう」


十月に入った。文化祭まで、あと二週間。


学校は、文化祭の準備で賑わっていた。各クラスが出し物の準備に追われている。装飾品を作る音、リハーサルの音、笑い声。


でも、僕と紬は、静かに音楽室で練習を続けた。


「約束の音」は、ほぼ完璧になっていた。二人の息もぴったり合っている。


でも、紬の体力は明らかに落ちていた。


三十分弾くだけで、休憩が必要になった。顔色も悪く、時々咳き込む。


「大丈夫」紬は言った。「本番まで、持つから」


でも、その言葉に確信はなかった。


文化祭の一週間前。


紬が、一日中学校を休んだ。


心配になって、メールを送る。


「体調は?」


返信が来るまで、時間がかかった。


「ごめん。ちょっと具合が悪くて。でも、大丈夫。明日は行けると思う」


翌日、紬は学校に来た。でも、歩き方がおぼつかなかった。


「紬」


声にならない声で、呼びかけたかった。でも、できない。


放課後、音楽室で。


「ごめんね」紬が謝った。「心配かけて」


僕は首を振った。謝らなくていい。


「文化祭まで、あと一週間だね」紬が言った。「絶対、成功させようね」


僕は力強く頷いた。


「じゃあ、最後の追い込み。頑張ろう」


その日の練習は、紬の気迫が感じられた。体調が悪いはずなのに、必死にピアノを弾いている。


何度も間違えても、諦めない。何度も弾き直す。


その姿を見て、僕も必死になった。


紬のために。最高の演奏をするために。


日が暮れても、僕たちは練習を続けた。


「もう一回」紬が言った。「もう一回だけ」


でも、その「もう一回」は、何度も繰り返された。


結局、僕たちが音楽室を出たのは、夜の七時を過ぎていた。


「疲れたね」紬が笑った。でも、その顔は満足そうだった。「でも、いい練習だった」


僕も頷いた。


「篠原くん」紬が立ち止まった。「もし、本番で私が弾けなくなっても、怒らないでね」


そんなこと、あるわけない。僕は首を振った。


「でも」紬は続けた。「可能性は、ゼロじゃないから」


彼女は真剣な目をしていた。


「その時は、一人で弾いて。約束したでしょ」


僕は――何も答えられなかった。


ただ、紬の手を握ることしかできなかった。




文化祭前日。


校内は、お祭りムード一色だった。各クラスの出し物が、ほぼ完成している。装飾を直す人、看板を立てる人、衣装に着替える人。


みんな、楽しそうだ。


「篠原くん、明日は音楽室でしょ?」田中さんが声をかけてきた。「頑張ってね。応援してるから」


僕は会釈で返した。


放課後、音楽室で最後の練習をした。


「明日だね」紬が緊張した顔で言った。「ついに、本番」


僕も緊張していた。手が震えている。大丈夫だろうか。ちゃんと弾けるだろうか。


「大丈夫」紬が僕の手を握った。「私たち、ここまで頑張ってきたんだから」


「ねえ、篠原くん」紬が言った。「約束、覚えてる?」


約束?


「文化祭が終わったら、ちゃんと話すって言ったでしょ」


そうだった。紬は、何か話したいことがあると言っていた。


「明日、演奏が終わったら、話すね。ちゃんと、全部」


その表情が、どこか決意に満ちていた。何を話すつもりなんだろう。


「じゃあ、今日はもう帰ろう」紬が立ち上がった。「明日に備えて、ゆっくり休もう」


僕も頷いた。そうだ。明日が本番。今日は、体力を温存しよう。


音楽室を出る前に、紬が振り返った。


「ねえ、篠原くん。私ね、すごく幸せだよ」


突然の言葉に、驚く。


「あなたと出会えて、一緒に音楽ができて。この数ヶ月、本当に楽しかった」


その目に、涙が浮かんでいた。


「ありがとう。本当に、ありがとう」


僕も、同じ気持ちだった。紬と出会えて、本当によかった。彼女がいなければ、僕はまだ、沈黙の世界にいたかもしれない。


「明日、最高の演奏にしようね」紬が笑顔を作った。「私たちの、約束の音」


僕は、力強く頷いた。


そうだ。明日、全力で演奏しよう。紬のために。僕自身のために。そして、音楽のために。


二人で校門を出た。秋の夕暮れ。空は、薄紫色に染まっている。


「じゃあね、篠原くん。また明日」紬が手を振る。


僕も手を振り返した。


彼女の後ろ姿を見送りながら、僕は思った。


明日、絶対に成功させる。紬の笑顔を、守りたい。


その夜、僕は眠れなかった。緊張と期待で、胸がいっぱいだった。ベッドに横になっても、目が冴えている。


明日の演奏のことばかり考えてしまう。うまくいくだろうか。紬は、大丈夫だろうか。


窓の外を見ると、月が出ていた。満月に近い、明るい月。


部屋の隅に立てかけてあるギターケース。明日、このギターを持って学校へ行く。そして、人前で演奏する。


怖い。とても怖い。


でも、それ以上に――楽しみだった。


紬と一緒に作った曲。二人で何時間も練習した曲。それを、みんなに聞いてもらえる。


「大丈夫」


口を動かして、声にならない言葉を呟いた。


「きっと、大丈夫」


自分に言い聞かせる。紬がいる。彼女と一緒なら、乗り越えられる。


時計を見ると、午前二時を回っていた。もう寝なければ。明日、寝不足で演奏を失敗したら、紬に申し訳ない。


僕はベッドに戻って、目を閉じた。深呼吸を繰り返す。少しずつ、体がリラックスしていく。


そして、いつの間にか、眠りに落ちていた。

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