伊勢詣り猫と僕
2024年のブックショート月間ノミネート作品を少しだけ書き改めました。昨年8月に18歳少しで老衰でなくなった我が家の猫の思い出も重なっています。
うちの猫がお伊勢詣りに出たのは、八月も終わりのことだった。
縁側、網戸の外に白っぽい影が左へと動いて、薄暗がりの中に消えた。
ラーメンを茹でようとしていた小鍋の火を止めて、スマホだけすくい上げてサンダルをつっかける。
「ハチ、どこ行く」
仏間の網戸、破れていたのをそのままにしておいたせいだ。
僕は名を呼びながら、墨色に染まる草地を透かしてみる。
モノクロの姿はちょうど、敷地境のブロックを乗り越えて、家の前を通る狭い車道へ出たところだった。
以前ならば十五センチくらいの高さならばひと息に飛び越えただろうが、今やそんな元気はない。
猫は前足をブロックに載せてはずみをつけて上がり、少しためらってから飛び降りた。
むぎゅ、とうなる声がして尻尾の先が無様に揺れた。どうやら着地がうまくいかなかったらしい。
あわてて道路に出ると、何事もなかったかのように、猫は歩き始めていた。
左側がわずかに上がり、黒ぶちの白い体毛はやや逆立ち気味に膨らんでいる。歩みは遅いが、よどみない。
若くて元気だった頃のように、外に出たくなったのだろう、このまましばらくついて行ってみようか、と僕は少し離れてゆっくりと猫の後について歩いていった。
家の前の道路は舗装されてはいるものの、車通りはほとんどない。
夜の八時過ぎということもあって人影すらない。虫の声だけが足元から立ち上がる、そんな中で僕のひきずるような足音だけが響く。いや、猫の足音もかすかにしているようだ。猫だから音もたてずに歩くのかと思ったが、近頃後ろ足の爪が外に飛び出し気味だったせいか、爪がアスファルトを掻くカシカシという音がかすかに聴こえてくる。
猫はためらうことなく、細い道路の辻をいくつも横切って、まっすぐ、国道へ向かっていた。
さすがに国道には車通りがある、止まるかとおもったが、猫は国道を渡ることなく右に曲がり、一段高くなった狭い歩道をそのまま、西に向かって歩いていった。
しまった、とその時僕はいっしゅん、立ち止まった。
すぐに帰る気はないらしい。とことんつき合うつもりならば、サンダルではなくてウォーキングシューズを履いてくればよかった。それに財布も置いて来た。なんなら家は電気もつけっ放しだし、施錠もしていない。
猫はゆっくりではあるが、歩みを止めようとしない。長い尻尾は少し持ち上げ気味に揺らめいている。
抱き上げていったん帰宅した方がいいに決まっている。しかし、どうしても彼を止める気になれなかった。
急に、昔おばあちゃんが言っていたことを思い出したからだ。
しばらく後をつけていくうちに、大川を渡る橋まで来た。猫はためらうことなく橋を渡り始める。
「ハチ、渡るのか?」
呆れ声になったのか、猫がいったん振り返った。しかし、また頭を前に向けて、先を歩いていく。
家を出たのは多分八時半くらい、夕飯を作り出したところだった。
今何時になったんだ、僕はスマートフォンを取り出して時間を見てから、びっくりして二度見する。すでに九時半を回っている。
前を見て更に動揺する。猫がいなくなっていた。ぽつぽつと照らされる街灯の下にも、時折通る車のライトの中にも、その姿は浮かび上がらない。
と、ちょうど橋の中腹、腰くらいの高さの橋げたに黒っぽい何かがうずくまっているのが目に入った。ざわつく胸を押さえ、僕はそこにゆっくりと近づいていく。
橋げたの柱が少し平らになった所に、黒い小さな人影がしゃがんでいた。こちらに背をむけて手元の青い灯りを見つめている。スマホだと気づいた時、その影がゆらりとこちらを見て、細い声で問いかけてきた。
「何してんの?」
聞きたいのはこっちだ、と僕は後退る。橋げたに乗っていたのは、中学生か高校生か分からない、小柄な少女だった。人影は黒いフードを頭から取って、身軽な感じでそこから降りた。
「ちょっと」
彼女を軽く押しのけて前を覗く。よかった。猫は橋を渡り切ったあたりで、歩みを止めていた。
「痛いよ、なにすんの」
少女は口をとがらせて、僕の手が触れた袖辺りをぱんぱんとはたいている。
「何見てんの、アンタ」
少女の声でまた、猫が歩き出した。僕は「ごめん急ぐんで」手刀を切って、彼女の前から大股で去ろうとした。
「待ってよ」
思いがけず強い力で、シャツの裾を掴まれた。
「急ぐってなに? 女の子ひとりでこんな場所に置いていくんだ、しかも橋げたに乗っかってた女の子を」
「理由があったんだろ」僕は前方を気にしながら答える。「それに僕が通るまではひとりでいたんだろ、こんな所に、橋げたの上に。だから僕が去っても何も変わりはないと思うけど」
それから先を指さす。
「それよか急ぐんだ、猫を追いかけている」
「えっ猫?」
急に嬉しそうな声になる。どこ? というので指し示すとすでに猫は暗がりの中、次の街灯の下まで行ってしまっていた。
「なんで?」
僕の歩みにあわせて、彼女はしゃべりながら追いかけてきた。
「なんで猫を追いかけてんの?」
「うちの猫なんだ。家を出てもう一時間以上歩き続けてる」
「家から出さない方がいいんじゃないの? 車にひかれるよ。連れて帰ればいいのに」
「あの猫は、もう年寄りなんだ」
「何歳くらい?」
「僕が幼稚園の頃拾ってきたから……二十年近く」
ウチまだぜんぜん生まれてない、と少女が感心したようにつぶやく。
「近頃ずっと調子が悪くて、家の中で寝ていたんだ、それが今夜になって急に外に出てさ」
「だったらなおさらさ」急に少女が前に回った。目が真剣だ。「すぐに追っかけて家に連れて帰った方がいいじゃん?」
「それができないからついて来てるんだって」
僕は少し早足になる。すぐに猫との距離は縮まった。
「今、ハチは……うちの猫だけど、ハチはお伊勢詣りに行こうとしてるんじゃないか、って」
「は? オイセマイリ?」馬鹿にされるかと思ったが、少女の声は純粋に不思議と向き合う子どものようだった。
「うん」猫の身体がいっしゅんぐらつき、白黒の尻尾が揺れる。
「昔、うちのばあちゃんが言ったんだ『猫は一生に一度、長い旅に出る、お伊勢詣りに行くんだ』って。それから『帰って来る奴もいるし、来ないのもいる。もし猫が出て行くのを見たら、決して止めてはいけんよ』って」
「へええ」少女はかなり感心したように大きく息を吐いた。それから
「じゃあウチもつきあおうっと」
軽くそう言って、僕の後に続いた。
しばらくは無言の時が続いた。
サンダル履きの足が痛い、それに「のど乾いた」、少女のひとことに僕も急に、ひりつくような喉の痛みを感じた。
すでに十一時を回っていた。
「この先にコンビニあるから、なんか飲み物おごって」
後ろから裾をひっぱる彼女にこたえる。
「財布持ってない」
彼女は鼻を吹いて、「スマホは? なんかあるっしょ? おサイフケータイ的な」
使ったことがない、やり方も分らない、と素直に認めると、「マジで」暗がりの中でも彼女の目が大きく見開かれたのが分かった。
急に、車も途絶えた国道を渡ってあちらに走り出したので、ようやく愛想が尽きたのかと思ってそのまま歩いていくと、しばらくしてから
「ねえ」
道の向こうで彼女が呼んでいた。猫も立ち止まっている。仕方なく僕は、なに? と聞くと、彼女はペットボトルを二本、大きく振ってみせた。
「自販機あった、今回はウチのおごりね」
一番安かった、という600mlの麦茶は、生ぬるい夜風の中でカラカラになった喉を瞬く間に潤してくれた。潤った喉でついでに尋ねる。
「帰らなくていいの?」
猫は相変わらずいっしんに西に向かっている。
「いや別に」
言ってから、少しだけためらって、小さな声で続けた。「散歩してた、だけだし」
「そうなんだ」色々聞いてみようか、と思ったとたん、先に彼女が聞いてきた。
「名前なんて?」
「良平」
違うって、と彼女は笑う。「猫の名前だよ」
「ああ……」頬が赤くなっただろうが、暗がりでよかった。
「ハチ」
「ふうん。犬みたい」
話が続かないかと思ったが、少女は何かと、猫との生活について尋ねてきた。いつ、どこで拾ったの? ちっちゃい時どんなだった? なんかびっくりしたことなかったの?
彼女が訊ねるたびに、思い出がよみがえってきた。僕も前を歩く猫を見ながら次々と思い出話をしていた。最初はボックスティッシュの箱に入れて家に連れ帰ったこと、郵便屋が好きで、走ってバイクについて行こうとしたこと、ツナ缶を開ける音がするとすぐに走ってきたこと、他所の猫との喧嘩で川に落ちた時のこと、山際の納屋に偶然閉じ込められてまる4日帰ってこなかったこと、パソコンのキーボードに乗るのが好きでしょっちゅう作業を中断させたこと、などなど。どんな話でも彼女は真剣に相槌を打っていた。
どこまでも、そのまま西に歩くかと思っていた頃、ふいに猫が脇に逸れた。
長い丈の草とまばらな木立残る空き地だった。あまりにも急な動きで、それまで思い出話をしていた僕は「ハチ!」あわてて後を追いかけた。
「ちょっと」
少女が名前を教えてくれなかったのにその時気づいたが、とりあえず
「待ってて」と声を掛けて奥に進んだ。
ちょっぴり、待っててはないな、そもそも勝手について来ただけで、と思って少し口元が緩む。だが、
「なんだよう、かわい子ちゃんだねい」
夜中とも思えないテンションの声がふいに耳に入り、僕はとっさに木の陰に隠れた。
透かし見ると、男が数人、自転車から降りたところだった。銀色の檻のように少女を取り巻いている。
「ひとり? ヒマしてんの?」
少女は答えない。こちらにはフードの背中しか見えない。それも男たちの姿に埋もれている。
「いくつぅ?」ひとりが顔を覗き込むように首を傾げた。「家出? 今夜泊めてやろっか?」
ひとりの腕が彼女の肩に回された、ちょうどその瞬間僕は立ち上がった。が、一瞬早く
「?」
「なに?」
男たちが硬直した。僕も。
僕のすぐ背後から、もの凄いうなり声が響いてきたからだ。高く低く、途切れることなく。
すぐに分かった。僕もその声に合わせて恐ろしい呻き声を上げる。
「ぅおをうおおおおおおおおおおぁぁぁあおお」
ふたつの咆哮は混じり合い、闇を切り裂く。
がしゃん、と自転車が倒れ、ひとりが飛び上がった。
「やばいぜ」別の奴がささやく。「ここ、二ノ沼じゃん、呪われるって」
「だいじょうぶ」
少女が静かに言った。
「呪われる前に、しぬから」
倒れた自転車を起こした奴が一番逃げ足が速かった。あとのふたりはこぎ出しから失敗していたが、それでも一目散に西に向かって国道をダッシュで去っていく。
うなりはいつの間にか止んでいた。少女がこちらを覗き込む。
「ハチ、みつかった?」
急に我に返って、茂みをかき分ける。少し草が途切れた地面に、猫は長くなって寝転んでいた。すでにうなってはおらず、さっきのお前の鳴き声は何だ、みたいな目でこちらをじろりとにらんだ。
「さあ、帰ろう」
僕は猫を抱き上げた。片手で脇に挟みこむように抱くと、少女は
「なんだか、バッグみたいな持ち方だね」と妙に感心した声を出した。
「僕ら、戻るけど」東を指すと、少女は小さく笑って、
「偶然。うち、このちょっと先、見えてるくらい」くい、と道の反対側、住宅の並びを指した。
道路を渡る前に、少女は振り返って言った。「猫を飼ったことがないけど、」
本当はもっと、違う事を言いたかったのかもしれない。「こんど拾ったら必ず飼ってみるよ」
今度、ということばを彼女から聞けて、僕は何だかとてもほっとして、いいね、とだけ答える。橋げたに乗っかっていた理由を結局聞きそびれたが、とりあえず、今夜の旅は無事に終わろうとしていた、それだけで良かった。
長い帰路で、猫はただおとなしく僕の脇に挟まれて尻尾をゆらめかせていた。
思ったより、身体が冷たい。昔抱いた時に「火の玉みたいだな」と言ったのをふと思い出して、今は夜よりもひんやりと冷たいんだね、と前を見ながら僕は言った。若い時には、抱き上げるたびに火の粉が散るかと思うくらい、彼は暴れたものだ。嬉しさから、苛立ちから、焦りから、その時の気もちは誰が知るのか。
きっと、脇に抱かれた猫は、その全てをいま思い出しているのだろう。
数日後の明け方、猫はあんがいひっそりと最後の息を止めた。
『お伊勢詣り』に出てしまったんだろう、ひとりで。
静かに、強張った脇腹を撫でつけながら、僕はようやく、溜めていた息を吐いた。
今度は引っかからずにブロックを越えたに違いない。
了