表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

つながり

 雨のような光の粒が、薄く差し込んでいた。

 天井は白く、どこか遠い場所にいるような感覚。真っ暗な世界にいることに気がつき、彩は、ぼんやりと瞼を持ち上げた。


 視界が霞む。けれど、そこに確かに“誰か”がいる。

 窓際、月明かりに照らされるあの小さな影。



 あの子だった。



 あの夜、終わりを願ったとき、彼女に食事を差し出した女の子。リリィだ。なのにその少女は、今こちらを見ていた。浴衣の裾を揺らしながら。


「……起きた?」  


 声がした。小さく、鈴の音のような声。


「……リリィだよ。覚えてる?」


 その名を聞いて、彩の胸が少しだけ波打った。


「…あなたたちが助けてくれたの?」


 彩は喉を震わせながら訊ねる。リリィは、にこりと微笑んだだけで、何も答えなかった。


 そして、病室のドアが音を立てて開く。現れたのは大和だった。けれど、彩は彼と目を合わせなかった。彼もまた、何かを探るような視線だけを残し、部屋の隅で黙って立っていた。


 空気が重たい。あの夜、あれほど恐ろしいものから自分を守ってくれたというのに、モヤモヤした空気の密度が濃縮されたような最悪の空気だ。


 彩の中に、もどかしい感情がじくじくと残っていた。 礼を言うべきなのに、口がきけない。

「ありがとう」が喉の奥で溶けてしまう。代わりに浮かぶのは、「どうして私なんかを助けたの…?」という、湿った毒。それを呑みこんだ自分が、少しだけ嫌だった。


 沈黙を破ったのは、リリィだった。


「……ねぇ、彩さん。あなたの中に流れてる“血”は、元々ちょっと普通じゃないんだよ」

「血……?」

「うん。あなたは、“あやかし”の先祖返り。人間の姿をしてるけど、私たちと同じ“世界”に属してる」


 リリィの口から滑り出た言葉は、重さも実感もなかった。だが、妙に胸の奥に引っかかった。


「……だから、あんなのが見えたの?」

「うん。人魚の血で、その本来の力が覚醒した。これからも見ることになると思う」


 リリィは遠慮なく続けた。


「もう“あいつら”にも認識されてる。あいつらは、あなたが存在する限り……”成り代わるため”に、また来る。」


 リリィの声はどこか寂しげだった。そこで、自分に纏わりついてきた存在たちは、リリィたちにとっても脅威だったと彩は知った。


「だから、大和があなたを護ってる。でも……本当は、自分で自分を守れるようにならなきゃいけないの」


 彩がふと目を落とすと、リリィの手には一冊の古い本があった。装丁は小ぶりで、表紙には鶴と波の文様が描かれている。彼女はそれを大事そうに抱えていたが、ふっと顔を上げて、本の腹で彩の膝をトンと叩いた。


「これ……私の宝物。きっと、あなたの助けにもなる。だから、読んでほしい」

「え……」

「代わりに、彩さんも何か一冊ちょうだい。好きな本でいいから。」

「……そっか、交換、なんだね」


 彩は、微笑んだ。それは笑おうとしたのではなく、頬が自然に緩んだのだ。


「昔……鬼姫様とも、こういうことしたの」  


 リリィがぽつりとつぶやく。


「…鬼姫様?」

「うん。私にとって、まるで本当の……」


 少し照れたような声。そのあと、リリィは顔をうつむかせ、手で口元を押さえた。そして、ほとんど囁きのように、小さく言った。


「……家族”だった”。」


 静かな病室に、そのひと言が、花びらのように落ちた。リリィは、はっとして、取り繕った。


「ち、違う、今の、えっと……!」


 彩は、リリィの頭にそっと手を置いた。少女の髪は柔らかくて、まるで羽毛のようだった。こんな小さな子も、確かに失ったことを乗り越えようとしている姿が健気だった。


「……これ、一緒に読んでくれる?」


 リリィから渡された本を手に取る。そのまま二人は、並んでベッドに腰を下ろす。本を交換して、読みながら、言葉を交わす。

 少し変なところで笑い合って、子猫と子犬の話をして、最後はホットミルクの話になった。意図せず、彩にも笑顔になっている瞬間があった。



 ――こんなふうに笑うのなんて、いつぶりだろう。



 そんなことを思いながら、人魚の末裔としての彩は初めてベッドで熟睡することができた。



 翌日、彩はリリィとともに病院の中庭にいた。春の名残が風に混じり、ベンチに座る二人の頬を撫でていく。リリィはじっと彩を見つめ、真剣な目で小さく頷いた。


「……じゃあ、始めるね」


 そう言うと、彼女は小さな袋から筆と墨を取り出した。墨は青く、少しだけ鉄の匂いがした。


「これ、痛くない?」


 彩が聞くと、リリィは微笑んだ。


「少しだけチクっとするけど……お守りみたいなものだよ。この世界と、こっちの世界の“境界”を閉じる印。私たち、見えるからこそ巻き込まれやすいんだ。」


 ほら。といって、自身の太ももを見せてきた。そうして、彩も自身の服をはだけさせた。


 白い肌に筆が触れるたび、墨の冷たさが細い線となって浮かんでいく。円の中に組まれた小さな符号と、いくつかの文字列。それは何度も夢で見たことがあるような、不思議な既視感だった。


「……できた」


 そう言ってリリィが手を離したとき、ほんの一瞬だけ、皮膚の上に描かれた印が青く光った。まるで呼吸のように、すぅ……っと光が吸い込まれていく。


「これで、……しばらくは安全になるよ。」

「ありがとう、リリィ……ほんとに」


 言葉の端に、まだ慣れない“感謝”の重みがあった。でもその瞬間、リリィが手を繋いできた。小さく、けれど驚くほどあたたかい掌。


 そのぬくもりに、彩は気づかされた。


―――生きたいとか、守られたいとか、そんな言葉をすぐに認めることはできない。


 けれど、この世界で誰かと“繋がること”は、ほんとうに、怖くて、

 でも確かに”嬉しい”と感じる。



 そして、また1日が経った。彩は朝からリリィと一緒にいた。リリィから、「お守り」について教えてもらっていたのだ。


 彩は、自分で引く線が歪で、リリィも彩も笑っていた。






 午前中の検診を待っているタイミングで病院の談話室に設置されたテレビから、不意に重苦しい声が流れた。


『昨夜、東京・練馬区で、老朽化が進んでいたアパートが倒壊したとの情報が入りました。現在、火災との関連性についても調査が──』


 画面に映し出された映像を見た瞬間、彩は息を呑んだ。そこには



 ――あの、自分の住んでいたアパートがあったからだ。



 柱が崩れ、屋根が割れ、焦げたような煙がまだ揺らめいていた。建物の一角が炭化しているように黒く、周囲にはなぜか焦げた鳥の羽根のようなものがちらついていた。


「……そんな……」


 全身から、熱が引いていくような感覚。そこには、かつての彼女の日常がすべてあった。

 姉が自分に描いてくれた、たった一枚の絵も

 数少ない幸せだったときの写真も

 あの小さな本棚も、みんな――。


 大和が、部屋に入ってきたのはその直後だった。


「……彩」


 その声に、彼女は振り返る。


「今、見た……? 私の、アパート……!」


 これまで、気まずい空気が二人の間にはあったはずが、彩は感情でそれを乗り越えていく。


「……俺が、行ってきた」

「え?」

「危険な兆候が出ていた。あの夜、あの建物の下に……“何か”がすでに潜ってた。」


 大和の目は真剣だった。だが、その誠実さが、今は彩にとって苦しみだった。


「何かって……私のせい?」

「……そうじゃない。けど……いや、違うとも言い切れない」

「じゃあ、やっぱりそうなんだ…! 私が助かったから。私なんか、生きてたから……!」


「……俺は、間に合わなかったことがある」


 大和が、彩に対して声を上げた。


「でも……君は、まだ間に合う。間に合わせる。」


 彩は震えていた。全身から汗が吹き出し、顔は青ざめていく。

 そのとき、リリィが彩の手を掴んだ。


「彩さんは、願っただけ。生きていたいって。誰も、責めてない」

「でも……」


 そこにいたのは、ただの精神が弱りきった人間だった。

 何もかも壊され、それでも生きている。ただそれだけだった。

 そして、大和は静かに続ける。


「…牛鬼の気配を感じた。まだ深く、地の底に向かって流れてる……だから、あのアパートは、ただの残響だと思う。でも…今度は確実に顕現する」


 あの夜に圧倒的な存在感を見せた大和という男にも恐怖を感じているのがわかった。


「……それって……いつ」


 大和は、目をあげて苦虫を噛み潰した顔をして言った。


「新月の夜。……3日後。」


 テレビ画面が消され、部屋に静寂が戻ったあと。大和は、護符を作ると言って病室の隅にある机に陣取っていた。リリィは彩の隣に腰を下ろし、そっと…小さな声で呟いた。


「……ねぇ、話してもいい?」


 彩は、両手で顔を隠しながら無機質に頷いた。


「私ね、彩さんに話さなきゃって、思ってたんだけど…私は、”座敷童”の先祖返りなの。」


 リリィの言葉に、彩は両指の隙間を作ってリリィを見つめる。


「私のいるところでは、周囲の人の”幸”を奪って私のいる”居場所”に集約しちゃうの。だから、私が大切に思ってる人は…一緒にいたい人も皆不幸になっていっちゃうの。」


 その幼なげで、どこか寂しそうなリリィの言葉からは、彼女の抱えてきた重みがあった。


「でもね…?私を初めて受け入れてくれた人がいたの。……それが、”鬼姫”様…睦月玲さんだった」


 その言葉に、彩は驚いて顔を上げた。



 ――――その”人”を、自分も知っていたから。



「鬼姫様はね、私に“居場所”をくれた人なの」


 リリィは唇をきゅっと結んだ。その声には、微かに緊張がにじんでいた。


「人間も、妖も、“どちらでもない子”も……この世界に居場所がないって思ってた人たちのこと、鬼姫様は全部、知ってた。

 それで、みんなが消えてく世界じゃなくて、受け入れられる場所を作ったの」


 彩は黙って、リリィの声に耳を澄ませた。


「私も、鬼姫様に会ったとき、自分が“ここにいてもいいんだ”って初めて思えたの。

 あの人のいる場所って、あったかくて、強くて。

 ……だから、あの日、彩さんと初めて会ったとき、なんか懐かしくて、実はうれしくなっちゃったんだよ」


 そんな人を、彩は一人だけ知っていた。リリィは、彩を見つめながら笑顔で話す。

 彩は、自身の朧げな幼少期の記憶にだけ存在しているその人のことを思い出した。




 ”玲”、かつて自身の生まれ育った名家で異端として扱われていた”才女”。

 ――そんな、自身の実の”姉”のことを。




「ねえ……リリィ。鬼姫って…姉さんってどんな人だったの?」


 彩が問いかけた声は、決して強くはなかった。でも、真っ直ぐだった。

 リリィはしばらく黙って、色鉛筆の芯を整える音だけが響いていた。やがて彼女は、ぽつぽつと言葉を置いていく。


「鬼姫様はね……皆の居場所だった」


 そういう少女の目はどこか寂しそうだった。


「人間でもなくて、妖でもなくて。その中間に立って、どっちの痛みも、ちゃんと見ようとしてた。皆、彼女に会いに行こうとする。そんな人。」

「……でも、その…生まれた家は……」


 同じ家に生まれ、全てとは行かなくとも事情を知っていた彩は言葉を詰まらせる。


「うん。土御門家。政治にも、事業にも、スポーツにも、そして…”陰陽師”でも日本屈指の名家。……純血主義で、自分達以外の存在を混ざり物を“穢れ”って呼ぶ家」


 彩はその言葉に、息を詰めた。


「なのに、鬼姫様は“穢れごと抱きしめる”選択をした。自分が、”穢れ”だと罵られても、彼女は……それを選んだんだよ」


 リリィはそっと笑った。そして彩の手を握りしめて、肩を寄せた。


「姫から、妹がいるってお話をよくしてくれてね。

 ……姫から、自分の願いを込めて名付けしてきたって聞いたの。」



 リリィは、笑顔になりながら、彩にもたれかかってその顔を覗き込んだ。



「その娘の人生が、その娘の周りにいる人の”人生”も”妖生”も、そして…自分自身も生きることに許しを乞う必要のない場所になる。そんな、世界に”彩”りを与える子になりますようにって」



 最後に、リリィははっきりと、優しく伝えた。




「…鬼姫様は、彩さんのことを心から愛していたよ。」




 彩から暖かい涙が流れた。


 彼女は自分の名前の意味も、何も考えたことはなかった。ただ、この世界には確かに彼女に願いをかけた人が存在していた。

 自分の絵を不器用なのに何時間もかけて描いてプレゼントしてくれたこと、ホットミルクを作ってくれたこと、何気ないことも、胸の奥から思い出が湧いてくる。


 彼女はこの瞬間、初めて胸の奥で理解した。


 彩の奥に、小さな火が灯る。


 自分は、もしかすると何も知らずに人生を歩いていたのかもしれない。

 そんな疑問が新しく彼女を照らした。


 ”自分には見えないものが見えるこの世界で、誰かの苦しみまで抱えて…守ってきた人と同じ血が流れている。”


 そのことが嬉しかった。


 ”居場所を作る”それは、ただの生存ではない。

 もう一度、誰かに手を伸ばすような、生き方なのかもしれなかった。

 気がつけば、彩は立ち上がっていた。


 もう死ねなくなってしまった。これから、待っている悠久の時間の中で感じたことも、想像したこともない苦しみが待っているかもしれない。

 それでも、死にたかった彼女にとって、心から愛してくれた人がいたことは、確かに心に灯火を灯らせた。


(”いつか”、姉さんみたいに……なれるかな)



そんな小さくも、確かな目標が彼女に芽生えた。そして、大和の背中に声をかける。



「……あの護符…手伝えること……ある?」



 振り返った大和は、驚いたあとに柔らかな笑みを浮かべていた。それでも言葉は交わさない。

 けれど、その一瞬で、どこか距離が――たしかに、近づいた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ