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しにん

 大和の言葉を思い出しながら、彩は病室の天井を眺めていた。


「あれは、どう言う意味なんだろう。」


 そんな呟きをしてみる。あの日、少女と男性が来てから1日が経った。退院の予定は三日後だった。しかし、彩はその朝、何かに“起こされた”。


 カーテンの隙間から射す陽光が、妙に青白く見えた。まるで、病室そのものが違う世界と繋がり始めているような、そんな感覚。目をこすりながらベッドから起き上がると、部屋の隅の点滴スタンドの陰に“何か”がいた。


 濃い影の中に、女の形をした“闇”がこちらを見つめていた。輪郭は曖昧で、表情も定かではない。だが、ただ一つ、目だけが異様に輝いていた。


「……誰?」


 その言葉に反応するかのように、“それ”は目を細めてから音もなく滲んで消えた。看護師に尋ねても、「ここには誰も入っていませんよ?」と首を傾げるばかり。


 心療内科の主治医は、「一時的な幻覚でしょう」と穏やかに笑ったが、笑いの奥にある“焦燥”を、彩は見逃さなかった。


 きっと夢だ。さっさと寝よう。そして、退院をすれば今度こそ”終わらせる”。そう考えていた彩は、考えが甘かったことを思い知る。


 その夜には、病室の天井に誰かの顔が浮かんでいた。上下逆さまで、黒髪を天井に這わせながら、真っ赤な血のような瞳で彩を睨みつけていた。

 

 彩の体は、動かない。

 その顔は、ゆっくりと自由落下してくる。そして、その顔と彩の顔が拳ひとつ分のサイズになった瞬間に体は自由を取り戻した。


「――いやっ……!」


 悲鳴を飲み込んで、彩はベッドから飛び起きた。心臓の鼓動がうるさく、肺は空気を求めて痙攣していた。

 そして、震える彩の中に疑問が浮かんでくる。




(死にたいと思っていたのに……こんなに怖いなんて……)




(なぜ、こんなに“生きたい”って思ってしまうんだろう?)




 ただ、彩は恐ろしかった。ここにいたら、これ以上何か“取り返しのつかないもの”を失ってしまう。そう感じていたから。


 翌朝、誰にも告げずに荷物をまとめた。点滴も勝手に抜き、病衣を脱ぎ、私服に着替えると、逃げるように病院を出た。


 病院の自動ドアを抜けた瞬間、空の色が、変わって見えた。


 空は薄く、雲も風も、まるでスクリーンの向こう側にある映像のようだった。現実感が剥がれ落ちていく。生きているのに、死者のような浮遊感が、彩の足を地から離れさせた。


 それは、幻覚ではなかった。背中に、鋭い視線が突き刺さる。


 何かが、彩のことを見つめている。

 ただ、振り返っても誰もいない。

 だが確かにいた。

 空気の裂け目に潜む“何か”が、彩の存在を把握していた。



 自宅に戻るための駅のホーム。

 電車の窓に映った自分の隣に、“もう一つ”の顔が浮かんでいた。それは人の顔のようでありながら、額に第三の目を宿し、そこだけが不気味に動いていた。ぎょろぎょろしたと思えば、視線が、交わる。

 その瞬間、鼓膜の内側で“何か”が囁いた。言葉ではなかった。だが、確かに“意味”だけが伝わってくる。


「カワレカワレ…カワレ……」


 意味を持たない音の羅列のようだった。だがその声は、言葉ではなく“意味”だけを、脳に焼き付けてきた。



 ――私は、何かに“変えられよう”としている。



 彼女はその声を聴き続けることはできず、彩は電車に飛び乗った瞬間に激しい眩暈と吐き気に襲われた。

 カバンの中だけをみて、時間が経つことだけを祈り、最寄りの駅の名前をかろうじて耳で拾う。


 ――もうすぐ家に着く。そうすれば、”終わらせる”ことができる。


 その悲しい希望は、彩を前に動かしていた。


 駅のエレベーターへ大きな荷物とともに乗り込む。しかし、エレベーターの密閉された空間で、誰もいない角から「くすくす」という笑い声が聞こえた。

 その声は、次第に大きくなってくる。

 くすくすという啜り笑いが少しずつ、耳に近づいてくる。

 彩の全身の毛穴から冷たい汗が溢れてくる。

 聞こえないふりをしながら、キーホルダーのお守りを握りしめる。

 まだエレベーターは1Fに着かない。

 その声が、耳に届きそうなとき、雰囲気が変わった。

「あはははは」

 明確に聞こえたそれは、もう「声」になっていた。


「あははああはっはははははははあっはっはっははっはははあああははははqああはっはははあっはああああははははhああははあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」


 絶叫に成り代わったそれが耳に響くと同時に、エレベーターは1Fに到着する。彩は到着の前から開のボタンを何度もタッチした。

 数秒が数十秒に感じる時間を過ごし、エレベーターは開いた。


 彩はエレベーターを転げるように降りた。


 もう視界にも、耳にも”それ”の存在を自覚させないために、彩は急いでスマホとイヤホンをカバンから取り出す。

 しかし、スマホの反射ごしに黒く塗りつぶされたような顔が、自分の隣に映っている。その顔が、ゆっくりと彩の方を見つめてからニタニタ笑っている。

 気が付けば、スマホを捨てて走っていた。


 声にならない声を必死に押し殺しながら、彩は下だけを向いて走って帰路に着く。


 汗だくで、

 靴は片方脱げ、

 汗と涙と鼻水で顔を汚して、

 階段を上がって

 部屋の鍵を閉めて、玄関で耳を押さえて目をぎゅっと力強く瞑った。


 ここで、やっと彩は静かな空間でうずくまった。


(――――怖い、嫌だ嫌だ、死にたくない…!)


 つい先程まで、死にたがっていた、全て終わらせたかった彼女は震えている。今は恐怖で立つことままならない。しかし、なんとかしまっておいたナイフを取り出した。


 しかし、ナイフに反射したものにも、彩ではない“誰か”が映っていた。

 髪は濡れ、目は見開き、口元からは血が垂れていた。彩を反射越しに見つめると、”にぃっ”と笑っている。彩はそれを見てから限界を迎え、意識を失った。




 目を覚ませば、何もない部屋だ。

 静かに、先程までの喧騒が嘘のように静寂が彩の部屋を包み込んでいた。

 いつの間にか、夜になっていた。


「んっ、いった…」


 立ちあがろうとしたとき、気絶した時に落としたナイフで指を切ってしまった。深く切ってしまい、真っ赤な血が指から溢れる。また苔の香りが風になって彩の頬を撫でた。”あの夜”のようになぜか窓が開いていた。


 彩は、窓を閉めるために窓に近づく。窓を閉め、カーテンを閉めようとすると、ベランダの外に、"それ"は立っていた。


 身長二メートルを超える異形。髪だけでなく、全身が濡れた布のような皮膚に覆われている。そして、顔というべき部位には、ただ大きく裂けた“赤い口”だけがあった。呼吸をしている気配がない。音もなく、ただ窓越しに彩を見つめている。


 叫ぼうとしても声が出ない。逃げようとしても身体が硬直する。



(……これが”見える”ってこと……?)



 脳の奥に直接触れられるような“悪意”が、彩の精神を蝕んでいく。

 本能が叫ぶ。

 逃げなければいけない。

 殺される、それ以上のことが起きる。

 わかっていても、体は動かない。


 どん。


 窓に、額がぶつかった音。

“それ”が、ガラスに顔を押しつけ、薄く笑っていた。


 ――嫌だ。


 そんな端的で簡単な感情だけが、彩を支配する。


「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!」


 声を出したことにも気が付かず、錯乱状態になりながら、顔を上げると”それ”はいない。その瞬間に玄関のチャイムが鳴った。


 ――ピーンポーン。


 彩は、本能的に耳を塞いだ。それでもチャイムは鳴り止まない。



 ピーンポーン。ピーンポーン。ピンピンピンピンピンピンピンピンピーンポーン



 思い出す。大和が言っていた言葉を。



 ―――君の魂は、いくつもの境界に立たされるかもしれない。



 あれは比喩などではなかった。これは、“代償”だったのだ。人魚の血を分けられた者に与えられた、現実を侵食する“世界”。ドアの向こうから、何かが爪で引っかく音が聞こえてくる。


キー……コ、コ……。


 脳が焼けるような錯覚が彩を襲っていた。現実と幻覚の境界線は、すでに崩壊していた。


「や……やめて……」


 呟いた瞬間、“それ”が消えた。けれども、静かに、


 ガチチチャ………


 玄関のドアノブが回る音がした。それは、何を意味するかは想像に難くなかった。


(誰か……助けて――)


 その瞬間に、窓は閉めて風はないのに、カーテンがふわりと膨らんだ。空気が「逆巻く」ように部屋の中心に集まっていく。その中心に、淡く、揺らぐ“空間の歪み”が生じた。まるで空気の膜が破れるように、ふわりと“それ”は現れる。


 ―― 大和だった。


 けれど、その姿は病室で見たものとはまるで違っていた。光がそのまま模ったような剣を持っている。瞳は深い夜のように暗く、しかしその中にわずかに光る赭い瞳が宿っていた。


「……間に合ってよかった」


 彼の声は低く、そして静かだったが、少し微笑んだ。その一言で、彩の体は一気に解放される。

 小便を漏らし、涙で顔がぐちゃぐちゃになって、その場に膝をつき、崩れ落ちた。肩が震える。歯の根が合わない。全身から汗が吹き出し、視界が滲む。


「分かっただろう。君はもう…“こっち側”の人間なんだ」


 彼の言葉が、冷たい現実を告げる。そして、大和の目線の先にあった彼女の指にあった傷も完治していた。


(やっぱり……これは、全部……)


 彩は、その場で理解した。人魚の血を分け与えられた代償。それは、死ななかったことではない。




 どんな目に遭っても、どんなに望んでも―――


 ――――――“死ぬことすら許されない”という呪いだった。





 部屋の中に、無風なのにカーテンがふわりと揺れる。玄関のドアの前に”それ”は立っている。


「……下がってろ」


 大和が一歩、ニタニタ笑う「それ」に近づく。“それ”がこちらに口を広げた瞬間、彼の右手から閃光が瞬時に走った。


 次の瞬間、“それ”の姿は音もなく霧散した。悲鳴すら上げられず、ただ静かに“存在”が失われる。わずかに残った赤黒い靄が、風に溶けていく。


 大和が彩の方を振り返り、腰を屈めて声を出す。


「……大丈夫か?」


 手を差し出されるが、彩はその手を取らない。目の前の大和は、すでにあのときの、病院での「人間の姿」へ戻っている。


「なんで…なんであなたが来るの…?」


 彩は、大和を睨みつけ、泣きながら叫んだ。

 手を差し出したままの大和を尻目に、彩の口からは言葉が溢れてくる。


「 助けてくれるんじゃなかったの……? こんなに怖い思いをしてまで、生きたかったわけじゃないのに……」


 大和は、手を引いた。そして何かを言おうとする。

 でも、彩はそれを遮ってしまう。


「どうしてこんなに怖いの!?私をこんな目に遭わせて、いったい何が楽しいの!?ねぇ!私を……助けてくれるんじゃなかったの!?」


 悲しくも、今までの人生で初めて彩は心の底から、声を上げた。


「 お願い……お願いだから、離れてよ……!」


 絶叫に近い叫びは震える声となり、空気を切り裂いた。

 彩の顔は、涙でぐちゃぐちゃになり、涙袋が充血している。


「もう、疲れた……!もう、誰にも頼れない……!あんたなんか、もう……!」


 彩の声は震え、涙が頬を伝い落ちる。そして空気を飲み込むと大和を睨みながら言ってしまう。




 ――もう、いいって思ってしまった。




「…お願いだから私を殺してよ!!!!じゃなきゃあんたが死んでよ!!!」




 だが、その叫びの奥には、まだ必死に生きようともがく痛みがあった。大和は無言でただ、哀しげに見つめ返すだけだった。

 その発言を自覚した彩は、一瞬だけ後悔の表情を浮かべた。ただ、緊張の糸が切れた睦月彩は、そこでまた意識を失った。



 そして、この願いを成就させるために、動き出した”もの”がいることは知らない。


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