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死にたがり


 ――この世界に、私の居場所なんて最初からなかった。

 今となっては、そんなもの初めからなかったとさえ考えている。


 睦月彩。東京の片隅で、一人暮らしのアパートにひっそりと暮らしている。

 二階建て、木造のボロアパート。女性の一人暮らしには不向きだと思ったが、家賃の安さでそこに決めた。


 彩は、数ヶ月前まで渋谷の広告会社に勤めていた。しかし毎日のパワハラと理不尽な人間関係で精神を病んで休職してしまった。


 そして翌月には恋人だった男に裏切られて、心の糸がぷつんと切れた。そのときになって目が真っ暗になって、気がつけば、病院のベッドの上にいたのだ。


「双極性障害の可能性があります」


 白髪の目立つ医師からの淡々とした声。自分だってそれは知っていた。だってそれで通院していたこともあったから。

 薬を処方され、通院を続けるうちに、会社からは解雇勧告され、辞めた。恋人には音信不通にされ、その後、恋人だった人が彩の同僚と付き合い始めたことをSNSで知った。


 ――あぁ私、いらなかったんだ。


 彩は、その瞬間に暮らしていた世界を失った。

 過去の負債を一心にすべてを背負いきれず、ある夜、自ら命を絶つ準備を始めている。


 ”変な家”に生まれてしまったことも、

 姉が母と幼い自分をおいて、家を出ていってしまったことも、

 恋人とのデートでキスをしたことも、

 一度だけ仕事でうまくいったことがあったこと。


 ――この全てが、無駄だったこと。


 缶ビールを飲み込み、窓を開けると初夏の涼しい風が吹き込んでくる。長い黒髪を通り抜けて、優しい風が頬を撫でる。疲れた心と体に心地良かった。


 窓から雪崩れ込んできた淡い灯りのもと、彩は刃物を手にした。帰る場所も、守る人もいなかった。もう終わりにしよう。疲れた。


 しかし、首に当てた刃物に力を入れたとき、視線を感じた。


 真っ暗な部屋の片隅から確かに見られている気配を感じる。彩は、ゆっくりと視線を後ろに回す。確かに、何かがいる。目を凝らしてみると、そこには見知らぬ、小さな女の子がそこに立っていた。



 髪は整い、大きな瞳がきらめいている。あまりの唐突なことに彩は固まってしまう。しかし、―方で少女はにこりと微笑んだ。窓からの風が和服の裾を撫で、そっと揺れた。



 彩は直感的に、きっとこれは幻だと思った。全部失って、深いストレスと絶望が産んだ錯覚に違いない。しかし、目の前の幼い少女を見て、自分の幼少期の記憶と重なる。


 食事も満足にできず、大きな屋敷の中でたいそうな着物だけを与えられ、いつもお腹を空かせていた。


 彼女は、ナイフをしまい、そっと自身の非常食になるはずだった食事を差し出した。食器は、あの家から持ってきた子ども用のプラスチック食器。すると少女は微かに微笑んだ。そして小さな声で


「ありがとう」


 そう呟いた。そして笑顔になり、少女は確かに喜んだ。

 その笑顔のせいで、彩の唇がほんの少しだけ緩んだ。照れ臭くて、純粋な感謝の言葉が嬉しくて、少し顔を下げてしまう。


 ふと目を上げると、彼女が消えていた。外からは微かなコケの香りが漂ってくる。周りを見渡しても誰もいない。彼女が、さっぱり消えている。


 やはり、自分が見てしまった幻影だったのだろう。そう考えて、彩は布団に入って眠りにつく。疲れた彼女は、目を閉じて、祈りながら眠りにつく。



 ――どうか、明日は目覚めませんように。



 朝になると、強烈な朝日の影響で目が覚めた。あぁ、また目覚めてしまった。そんな思いで、のっそりと顔を起こす。1Kの狭い部屋の中で、汚い空気を吸い込みながら周りを見ると、やはり、ある。昨晩用意した自身の非常食を出しただけの簡易的な食事がそのままだ。


 今日、彩は精神科へ行かなければならない。胸の奥で心臓が騒がしく跳ねる。通院、それだけのことで頭がいっぱいになる。自分を責めた。


「こんなこともできないなんて……」


 けれど、外に出れば少しは変わるかもしれない。自分を信じたかった。

 ワンピースに袖を通し、化粧はせず、髪だけをまとめる。スマートフォンに手を伸ばし、SNSを開くと、そこに見慣れた名前があった。


「涼……」


 それは彩の元恋人。涼やかな顔で、何もかもを手に入れていく人だった。

 別れてから一度も連絡は来なかったのに、今になってLINEが届いていた。


「久しぶり。元気にしてる? 今日、良かったらお茶でもしない?」


 戸惑いながらも、鼓動が高鳴った。まだ彼を嫌いになりきれない自分がいたのが悔しかった。ただ、彼女は「ごめん」とか「謝りたい」とか、そういう言葉を聞きたいわけじゃなかった。

 ただ、誰かに「存在を思い出して」もらいたかった。

 熱を出したとき、倒れたときに一晩中そばにいてくれたことを思い出してしまう。



 結局、約束の時間は午後二時。近くのカフェで待ち合わせた。


「久しぶり。元気そうじゃん」


 その言葉に、胸が詰まる。カフェのテーブル越しに見る涼は、以前と変わらず整った顔立ちで、余裕のある笑みを浮かべていた。彩は笑顔を作ろうとしたが、唇がうまく動かなかった。


「なんで……今になって連絡してきたの?」

「うん、なんかさ。彩のこと、最近ふと夢に出てきて……ちょっと心配になったっていうか。悪いことしたなって思ってたんだよね」


 その言葉に、彩の胸の奥にあった何かが溶けた気がした。まだ、彼の中に自分が少しでも残っているなら、それで救われる気がした。


「そっか……ありがとう」


 疲れて、少し失笑気味に彩は笑った。


「もう一軒、ちょっといい感じのバーがあるんだけど、どうかな?」

 ふとした誘いに、戸惑いはあった。けれど、涼ともう少しだけ話したいと思ってしまった。


(少しぐらいなら、大丈夫かもしれない。薬も飲んだし)


 頷くと、涼は笑って立ち上がった。

 そのバーは、繁華街の少し外れにあった。まだ夜にもなっていないのに暗く、煙草と酒の匂いが染みついている。店員も見当たらない。嫌な予感が、胸の奥を走った。


「……なんか、ここ……」

「…彩。ごめんね」


 その言葉の直後、背後から何かが振ってきた。音を聞くと同時に、視界が暗くなる。その瞬間に意識が遠のいていった。


 揺れと、誰かの話し声で彩は目を覚ました。車の中に自分が運ばれているのだと気がつくのに、数秒かかってしまった。


 腕は後ろに拘束され、口には布が詰められていた。暗闇の中、聞こえるのは複数の男たちの声。

「やっぱ、若いと違ぇな……」

「ほんとに売ったんだな、お前」

「まぁ俺、こう見えて約束は守るからさ。1人3万円ね。」


 彩が目を凝らすと、笑っていたのは知らない男たちだった。涼の姿もある。息が苦しい。喉の奥が焼けるような不調が全身を包む。

 何が起きているのか、頭がついていかない。けれど、体ははっきりと、逃げなければと告げていた。男たちの手が近づいた瞬間、体が拒絶反応を起こした。


「やめて……やめて……!」


 声にならない叫び。涙が溢れる。必死で身体をのけぞらせるが、男の力で押さえつけられた腕は動かない。そのときだった。


「やばい!どけ!!」という大声が運転席から聞こえた。その瞬間大きな衝撃が車体全体を走る。轟音に車が激しく揺れる中、 あたり一面がスローモーションで再生される。一瞬の間をおいて、全身が巨大な何かで殴られたような衝撃に襲われた。


 数瞬おいて、目が覚める。車外に、地面に自分が横たわっていることがわかるのに、時間はかからなかった。しかし、腹部には見慣れないパイプが突き刺さっていた。そこで、どうやら車が事故を起こしたのだと知る。周囲は阿鼻叫喚の地獄絵図に変わっていた。


 しかし、何かがおかしいと気がつく。

 周囲には、黒い炎で体を焼かれ火だるまになる者、自らの手を泣きながら喰らう者、全員が苦悶・恐怖の表情を浮かべている。

 明らかにただの事故の影響だけではない。その先に見えたのは、端正な男とあの子供だ。


 ――部屋にいた少女。


 二人は彩の存在を確認し、ただ見つめていた。二人から目を離せない。両足が潰れて逃げられず、体が少しずつ燃えて絶叫をしている元恋人を目の端で捉えながら、男の声だけは綺麗に聞こえた。


「君が……”そう”か」


 ――男は静かに呟く。その直後、彩は裂けるような痛みを覚えながら意識を失った。


 目覚めたとき、彩は病院のベッドの上にいた。

 腹部の深い傷は、まるで最初からなかったかのように肌の奥に沈んでいた。


 夢だったのかもしれないと思ったが、医師も看護師も口を閉ざし、彩以外の全員が事故で命を落としたと告げられる。


 彩は、それを聞いて、やはりあの出来事が現実であると気づいた。ただ、まだ夢か幻覚かもしれないと淡い期待も抱いていた。彩には黒い影の輪郭がはっきりと見え始めていたからだ。

 これまで、見えなかったけどそこにいた存在が、「見える」ことを証明してしまった瞬間だった。

 違和感は、それだけではなかった。


 傷の治り方が、おかしい。


 痛みも熱も、炎症もない。むしろ体は軽く、視界も澄んでいる。

 退院前の診察で医師が、レントゲン写真を見ながら首を傾げたのを覚えている。


「あなた、自己治癒力が非常に高いですね。免疫系が常人の……いや、それ以上の反応です」


 その言葉は不安ではなく、異質さを告げていた。

 人ではない、何かに変わり始めている――そんな直感だけが、彩の心に錘となって残った。

 その夜、眠りにつこうとした瞬間だった。病室の扉がノックされた。


「し、失礼します。」


 か細い声と小さな足音、そして革靴のカツカツという足音が病室にこだまする。例の男性と少女が病室に入ってきた。男性の手には菓子折りが握られている。


 二人は彩を見て驚いたように目を見開いていた。数秒おいて、少女が口を開いた。


「鬼姫さ……彩さん、お身体、大丈夫ですか……?」


 何か言いかけ、心配そうに見つめる少女に、呆然としていた意識を強引に向ける。

 そして、そのときに気がついた。眼前の少女と目の前の男性は、明らかに「異質な存在」であることに。


「初めまして――ではないですが、私リリィです。こっちが大和。」


 大和という男性が、ぺこりと頭を下げてくる。でも、目は合わせようとしない。


「あなたは……?」


 少女が上目遣いで聞いてくる。


「あ、私、睦月 彩……です……」


 声を出したのが久しぶりだったからか、震えているのが彩自身でもわかる。そして、その名前を聞いた大和とリリィは少し目を見開いている。


「もう本当に、痛みはないんですか?」


 リリィがふと尋ねる。


「腹部の、傷……だったところ、触っても?」


 彩は少し躊躇した後、そっと服をまくる。そこには、驚くほど綺麗な肌が広がっていた。まるで最初から、傷などなかったかのように。


「……おかしいですよね、こんな、すぐ治るなんて」


 彩は苦笑するが、その言葉に大和が少しだけ顔をそらした。

 リリィは、彩の腹部を小さな手で触った。彩から見えたその横顔は、どこか痛みや悲しみのようなものが浮かんでいた。そして、リリィの後ろにいた男性、大和が口を開く。


「普通の治療じゃ君が助からなかった。だから――君の身体は、俺たちと同じ、少し“別の生き物”になった。副作用、あると思うけど……」

「別の……?」


 大和は言葉を飲み込んだ。言ってはいけないことを、ぎりぎりのところで止めるように。

 代わりに、リリィは大和をチラリと見て、彩の目を見ながら言う。


「うちの大和、ちょっとだけ、いい意味でバケモノなんです」


 その笑みは悪戯めいているが、どこか悲しげでもあった。


「私たちは、人魚の血を使って貴女を治しました。」


 リリィの言葉に、彩は言葉を失う。

 人魚。それは物語の中の存在。けれど、この場ではその“伝説”が現実の言葉として発せられた。


「え…?なん、え?」


 彩の頭の中は混乱でいっぱいになる。


「君に流れてる血の一部は、もう“人のもの”じゃない」


 大和がゆっくりと口を開く。


「その代償として、君の魂は……今後、いくつもの境界に立たされることになる、かもしれない」

「境界……?」

「人と”人ならざるもの”の。生と死の。光と闇の。おそらく、それは避けられない」


 ここで、俯いていた大和は、初めて彩の目を見つめ、真っ直ぐな視線を向けた。そして、悲しそうで、どこか懐かしさを感じる表情で呟く。


「……でも、君は、君には生きていてほしかった。それだけは、本心だから。」


 彩は、膝の上に置いた手をぎゅっと握る。確かに、助けられた。命を、そして存在を。



 でもその代わりに

 ――自分は、何に変わったのだろう。



 彼女の中で、何かが始まり、何かが終わろうとしていた。

 人魚の血がもたらすものが、祝福か呪いか、それはまだ誰にもわからない。ただ、当の本人にとっては”生きてしまった”ことは、絶望以外の何ものでもなかった。


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