湯けむりのあちら側
かぽーん。
そんな音が反響して。
湯之里温泉郷――文字が消えかかった看板がこの銭湯のクオリティーを物語る。でも、気張らなくて良いのがむしろ助かった。ちなみに温泉郷と言いながら、大浴場とサウナ、水風呂、露天風呂のみのシンプルな構成。温泉郷と言いながら、あくまで銭湯。でも、ココの売りは、併設する食堂と大衆演劇劇場だ。地域の高齢者が愛する集会所となっているのだ。
「兄ちゃん、ごめん。俺、もう上がるね」
顔を真っ赤にさせながら、空君が湯船から上がっていく。
「うん、もうちょっとしたら俺も上がるよ」
コクンと頷いてみせて――。やけに声が反響した。つい先刻までの賑やかさはドコにいったのか。ピークが引き、この男湯にも、数えるほどしかいない。
「……ふ、冬君?」
壁越し。向こうの女湯から、聞き慣れた声が耳に飛び込んでくる。換気のため、天井付近は欄間になっていて、常に開放されていた。
「雪姫?」
「うん」
雪姫の戸惑った声が一瞬で笑顔に変わる。壁越しでも、満面の笑顔が咲いているのがイヤでも分かった。
「こうしていると不思議な感じ。でも、嬉しい」
ちょっとでも、雪姫の声が聞きたくて、俺も壁を背もたれに浴槽内で姿勢を直した。
「うれしい?」
「うん。ちょっとでも冬君の声が聞こえないかなって思っていたから」
雪姫と同じことを考えていたので、気恥ずかしくなる。でも、女湯に意識をしていたなんて、まるで覗きをし計画しているようで、罪悪感を感じてしまう。口が滑ってもそんなことを言えるワケがなかった。
「混浴なら良かったのに。そうしたら冬君ともっと一緒にいられるのにね」
「そ、それは俺の理性が保たないから……。それに他の男に見られるのは、ちょっとイヤだ」
「んー。それは私もだよ。他の女の子に見られるのも、冬君がそういう目で他の子を見るのもイヤだからね」
「み、見ないから!」
声に出さなくても、覗き魔扱いされそうになった。
「でも、やっぱり離れるのは寂しいよ。それに冬君は、空達の背中を流してあげたんでしょ?」
ちょっと声音に、不満の色が滲む。これで髪まで洗ったと分かれば、お姫様はヘソを曲げてしまうかもしれない。別に彼らに対して嫉妬しているワケじゃない。ただ、とことん俺との時間を大切にしてくれている。それが、ひしひしと伝わるのだ。
「上がったら、雪姫の髪は俺が乾かすからね」
「本当に?」
「まぁ、俺で良ければだけどね」
「冬君が良いの。冬君じゃなきゃ、イヤだよ」
途端に上機嫌な口調になるのだから、こっちまで唇が自然と綻んでしまう。きっと向こう側で頬を緩ませてくれているのが、想像できる。
ちょっと、離れただけなのに。それだけで、寂しさが募って。本当はこうやって、雪姫と当たり前に出かけることができている。それが何より尊いのに。
(――俺って、本当にワガママだ)
手で浴槽のお湯を掬いながら、そんなことを思う。
指の間からお湯が溢れて。
それでも。
そうだとしても――。
貪欲に想ってしまう。
波紋を広げて。
湯船のなかで、揺れて。
やっぱり、たった一人のことが、瞼の裏で焼きついて離れない――そんな自分の感情にのぼせそうだった。
■■■
自分たちの感情にのぼせそうになりながら。
でも、今は重なったキモチが、妙に心地よいと思ってしまう。
「いい湯だね」
「いい湯だねー」
俺の声と雪姫の声が、息を吐くように重なる。
かぽーん。
そんな音が心地よく反響して――。
(冬希、のぼせそうになるから、外でやってー!)
(ゆっき、湯当たりしちゃう! 続きは外でお願いっ!)
ばしゃんと、男湯と女湯の双方で、無造作にお湯が跳ねた。
第88回Twitter300字SS用で書いてましたが
明らかに文字数超過なので(1400字!)参加は断念。
こうなったら好き放題書いてやれと、思ったワケで。
テーマ「洗う」でした。
洗髪してもらって、骨抜きになった空君は
天音さんと、二人仲良くコーヒー牛乳を飲んでいた、とか。どうとか。




