6. ギネヴィア
一体何事だ。
矢は、男の顔を吹き飛ばした。
「ば、馬鹿な……何メートルあると思ってるんだ……」
五十メートルではしゃいでいた男は、実力差という言葉を脳みそに叩き込み、右手の矢を取り落とした。
「い、嫌だ、来るな!!」
男は地面に剣も弓も投げ捨て、街道を引き返していく。手入れの行き届いていないガタガタの石畳に時々足を取られながら、無様に背を晒している。
その背はすぐに、矢の的となった。重力で加速した矢は、凄まじい速度で背に食い込み、服も肌も、肉も内蔵も貫き、カラカラと不似合いな音を立てて石畳に落ちた。
「……なに、が……」
疲れ果てた脳がなけなしの思考力で理解したのは、ひとまず私は助かったのだということだけだった。
馬車は私の前に停まった。
「君、無事か!!?」
大きな弓を手にした青年が、私の元に駆け寄った。
安心感からか体中の力が抜け、街道の上で仰向けになった。
青年が上から私を覗き見る。彼はヨハンよりも背がかなり高く、大きい弓を使うからか、筋肉──特に腕──を十全に鍛えているようだ。私は目だけを動かして、青年の動きを追う。
「大きな外傷はないが、擦り傷が複数ある。医療品は積んでるな。すぐに用意しろ!」
青年は馬車に乗っていた屈強な、まるで兵士のような男たちに指示を出す。どこかの将校だろうか。そんな人が、なぜこんなところに……。
彼はこちらを向くと、威勢のいい声を切り替え、余所行きの控えめな声で私に質問する。
「君、話せるか? 名前は? どうしてこんなことになっている?」
青年の頭が太陽を隠し、輪郭が眩しい。質問に答えてやりたいが、声は掠れてしまって出ない。
しかし、私には彼に伝えなければならないことがあった。
痛む体に鞭を打ち、無理やり体を起こす。そして力一杯、彼の胸板を叩いて言った。
「友…………達……が……」
掠れ声を聞いた青年は困った顔をしている。肺が焼け落ちそうだが、なんとしてでも、伝えないと。
「私の、友達が…………奴ら、に──!」
「君の友人が、あの者らの手に……えっと、殺されたのか?」
「……────!!」
喉が空気を通さなくなった。私の声は口から出る前に詰まってしまい、文明的な意味をなさなくなった。
「ペーター! 水を持ってこい!」
「はい! エレミアス様!」
十代前半くらいの男の子が、陶器のコップを持ってきてくれた。
陶器に描かれた模様には見覚えがあったが、それが何なのかは思い出せなかった。
私は少年からコップをひったくり、中身の確認もせず、一思いに飲み干した。特に冷たくもない水は、砂漠を流れる川のように私の体を降ってゆく。平民になってただの水の美味しさを知った私は、無作法にも、もっと寄越せと少年を睨んだ。
命の恩人に対してあるまじき行動だが、少年は笑顔を見せた。
「おいしいですか? いっばい飲んでくださいね」
天の使いと見紛うほどの笑顔と優しさにあやかり、私はその身を水で満たした。
生き返る思いだった。私はこの時何もかもを忘れ、ひたすら自らの命を引き延ばすことばかり考えていた。
伝えなければならないこと、つまりカーヤとコンスタンツェのことが、頭から抜け落ちていたのだ。私は酷い罪悪感に見舞われた。
最後の水を喉へ流し込み、それでようやく私は口を聞いた。
「──! 友達が!!」
「ああ、それだ。詳しく教えてくれ」
城を出てから街道で今に至るまでに起こった事、私が見たもの全てを話す。話を進めるたび、私の大切な人が傷付けられていくのを思い出すたび、甦った体が吐き気を催した。
「待て、なら貴女は…………いや、推理の時間ではないな。A.B分隊、街道をそのまま進め! どんな物でもいい、痕跡を捜索せよ!」
「はっ!」「は!」
いつの間にやらやってきていた後続の馬車に兵士らが乗り込み、私の走ってきた道を行った。
「いいの? わざわざ」
「なにがだ」
「私のために、わざわざ手勢を捜索に……」
「ああ、いや、構わない。こちらの用事も兼ねているからね」
「用事?」
青年は私の顔を伺い、一瞬言い淀んだが、すぐにその用事について話した。
「エンフェルト領周縁部にて、皇帝軍の動向の兆しがあると聞いてな。偵察に来たんだ。必要があれば、親父を連れ戻すつもりだ」
皇帝軍が……エンフェルト領に? 私の父を傀儡にしてからエンフェルトに侵攻する必要がどこにある?
「ど、どうして?」
「それはこっちの台詞だ。なぜこ……殿下の婚約者がいる領地に攻め込む必要がある? その婚約者とやらは故郷を捨てたのか?」
「!! 違っ!」
私は前のめりになって否定した。青年は目を丸めて驚いた様子だったが、すぐに得心がいったようで、目を細めた。
「私は……私は…………私、は────」
あと一言、今の私を表す一言が出てこない。言えない、言いたくない。あまりに惨めで、残酷で、受け入れ難い事実。
風でドレスがなびく。土や砂の汚れや、剣で破くように短くした裾は、高位貴族の見た目を言い表すのに適さない。私はもう、貴族ではないのだ。
俯いた反動で、髪留めが外れて地面に落ちる。まとめていた髪が、汗の重みと共に垂れ下がった。これはいつかの誕生日、ヨハンがプレゼントにとくれたものだ。あの頃は可愛げがあった。今もいささか幼さが抜けていないように見えるが。
俯いていた私は、髪留めと目があった。汚れた髪留めに、親近感が湧かないでもないが、それでもこいつは、あの男の贈り物だった。拾おうとする青年の手を止める。彼はそれだけでだいたいの事を理解したらしい。
「私は────」
私は立ち上がり、髪留めを蹴り飛ばした。
音を立てて転がり、動かなくなった髪留めを見ながら、私は言った。青年も、同時に口を開いた。
「捨てられた……」
「捨てられたか」
「知ってるの? 私のこと」
「ああ。殿下の婚約者、ギネヴィア・フォン・エンフェルト。知らない奴は現代社会の試験に受からんだろうな」
「ふーん、でも残念。不合格だよ」
「はぁ?」
私は髪をかきあげる。
あいつの髪留め、あいつの好みの髪型、あいつが褒めたドレス。全て捨てた。もはや皇子の婚約者でもない、貴族でもない、フォンでも、エンフェルトでも、ジェニーでもない。
「私は、"ギネヴィア"」




