4. 国境のグラウスタイン門を抜けると
人気の無い路地裏に入り、月明かりだけが私を照らす中、ドレスを脱ぐ。これまで伯爵令嬢として生きてきた私が、まさか路地裏で下着姿になろうとは、夢にも思わなかった。
発端は、カーヤの進言だった。
「お嬢様、ドレスを交換いたしましょう。お嬢様のドレスは身を隠すには派手に過ぎます」
カーヤは私の着ていた赤いドレスを見に纏った。代わりに私が地味な色のドレスを着る。両方とも私用に作られたドレスなので、採寸や裾上げの必要は無い。走る時に邪魔にならないよう、自然に見える程度まで裾を切ってしまったくらいだ。
「カーヤ、ありが──」
「うふふ、これ、一度着てみたかったんです」
カーヤは私の言葉を遮り、嬉しそうな声で笑いながら、その場でくるりと一回転して見せた。
気を遣われているのだろう。
目立つからと派手なドレスを脱がせ、そのくせカーヤはそのドレスを何も言わずに身につけた。何も知らない者が見れば、カーヤが私とコンスタンツェを従えているように見えるだろう。それがカーヤの狙いだ。野盗に襲われても、自分が捕まっている間に逃げろ、と。
(どうして、ここまでしてくれるの?)
言いかけた言葉を、路地裏のゴミ溜まりに捨てる。
彼女らの返答はわかりきっている。おそらく、その忠誠心をふんだんにこしらえた、私の自尊心を大いに満たす宣誓をしてくれる。
わかっているから、そして、わかっていると自覚しているからこそ、自己満足のためだけの質問をする自分が恥ずかしかった。
「それで、どうやって門を出よう?」
追っ手は悲しそうな顔で引き返してしまったが、前方には未だ問題が立ち塞がっている。帝都からエンフェルト領を通りグラウスタイン領まで繋がる街道、その街道を通行する者の検査をするグラウスタイン門である。
ここを通るのに必要なのは、身元を証明できるもの、もしくはスレイ教の信者であることを示すもの。及び、それらしく見えるものである。ただしこれは平時の話であり、帝都に相当数の諸侯が集められたその夜を平時と呼ぶ者はいない。
「ごめん、私、何も持ってない……」
エンフェルトからの持ち物は全て、父の使用人に預けてしまっている。身元を証明できるものとして最も優秀である、ヨハンの婚約者であった私自身の存在も、今や提示にリスクを伴うものになってしまった。
「あの、私──」
カーヤがドレスの胸元を開いた。女を魅せるドレスというものの特性上仕方のないことだが、目が釘付けになりそうだ。門の前にいるあの男たちが見ればコロッといってしまうに違いない。これを作った職人をいつか褒めてやらねば。
いや待て、まさかカーヤ、体を売るつもりなのか……?
しかし、スレイ教では双方の望まない不純異性交遊があれば、その体は穢れたものとなり、神前に出るには清めを行わなければならないはずだ。いつもロザリオを肌身離さず持ち歩き、毎日の祈りを欠かさない彼女にとって、その行為は教義に反し、大切な日課を諦めさせるものとなる。それ以前に、誰か他の者のために自らをそこまで犠牲にするなんて。
どうか、考えなおしてほしい。カーヤの主人がそれほどまでに魅力的な人物なら、そもそもこんな状況に陥ってなどいないのだ。
そもそも今の私は平民であり、司祭の娘であるカーヤの方が立場が上でなければならないのだ。
「待って、カーヤ!」
「……はい?」
カーヤは胸元から、ロザリオを取り出した。
「え、あ……」
「これで、どうにかならないでしょうか?」
ああ、なんだ、ロザリオか。焦って損をした。
確かにロザリオは、スレイ教の信者であることを示すものだ。だが、門を通るためには適切ではない。
ロザリオというのは、聖母に祈りを捧げる際に用いるものである。スレイ教徒として信心を表し信仰を深めるのに「ロザリオを掲げながら黙祷を捧げる」という素朴でとっつきやすい方法が普及していった。同時に、安価で自作もできるロザリオも共に普及したのだが、つまりロザリオは誰にでも持ち得る物で、信心深ければ盗賊でも持ち歩くようなものなのだ。
カーヤは私の目と沈黙に、わかりやすく肩を落とした。
「申し訳ありません、私にもうこれしか……」
スレイ教徒として育って十八年、ロザリオがゴミのように見えることがあろうとは思わなかった。カーヤの手前、口にするわけにもいかないが、今は道端の石ころの方が攻撃力の観点で優れている。
「なら、コンスタンツェは?」
望みはコンスタンツェに託された。
「私、ですか。持ち物はこの剣くらいですが──」
剣があれば、あの門を突破できるかもしれない。ただしそれには、相応の危険が孕む。
なにか安全に通過できる妙案はないか……。
「借ります、カーヤさん」
コンスタンツェがカーヤの手からロザリオを取り上げた。
「案があります。博打になりますが、よろしいですか?」
「……ええ、もちろん」
門を通れるか通れないかの賭け、ということは、出られる可能性があるということである。前に進まなければならないというルールはないが、道は前にしかない。賭けなければ、朝には各門に厳戒態勢が敷かれ、帝都から出ることは叶わなくなる。
「では、私の全力を尽くしましょう」
私たちはコンスタンツェの指示により、大通りのど真ん中に立った。真正面からあの門を通り抜けるらしい。
堂々としていろ、と言われたので、一丁前に胸を張る。
コンスタンツェは剣を抜いた。
……強行突破か?
「行きます、走って!」
コンスタンツェの合図で、三人並んで走り出す。
本当に強行突破なのか!? 何か、特別な作戦とかは!?
と、とにかく走らないと!
疲れた体に鞭を打って、前に走る。私はその辺の令嬢よりも体力はあるはずだ。
今はあの門をくぐることだけ考えろ! 細かな目標を設定し、それぞれに全力を尽くすのだ。私は追い詰められるほど、能力が向上するタイプなのだから。
コンスタンツェは剣を取る手と反対の手にロザリオを持ち、それを天に掲げた。
あれは……運を天に……? 本当に賭けなのか! これは! もう私の人生の存続は、神の力に頼るしかないのか!?
「スレイは赫赫たりて偉大なり!!!」
コンスタンツェは叫んだ。
『赫赫たりて』? それを除いた文はいくらでも耳にするが、この一文を聞くのは初めてだ。スレイが赤い姿であるという教説などあっただろうか。まさかエンフェルト領内に、間違った教えが広まっている? だとしたら大問題だ。
「コンスタンツェ、今のは!?」
私はコンスタンツェに尋ねた。しかし、この声は門から聞こえてきた声にかき消されてしまった。
「スレイは赫赫たりて偉大なり!!!!!」
衛兵たちが、同じ文言を叫ぶ。するとどうしたことか、衛兵どもが私たちの道を開けるではないか。
そして私たち三人は無傷のまま、門を通り抜けてしまった。
「いったいなにが?」
あの知らない言葉は、そのおかげで私たちが門を通れた理由は、いったい何だというのだ。
コンスタンツェが答える。それを聞いた私は、思わず頭を抱えたくなった。
「スレイ教の異端。アカ派、とでも呼べば良いのでしょうか。今のは帝都の兵に広がりつつあるアカ派の合言葉です」
アカ派? 聞いたことがない。帝都ではそんなものが広まっているのか。皇帝は何をやっているんだ。そのお膝元で異端が蔓延っているなど、世間に知れればどうなるか。言語も民族も違う他国との交流に清廉な宗教は不可欠なのだというのに……!
「コンスタンツェ、貴女は──」
なぜ、コンスタンツェがそんな合言葉を知っているのか。異端と通じているなど、教会に知れれば死よりも辛い罰を与えられなければならない。無論、私はそんな罰を与えるつもりなど毛頭ないが、ここにはひとり、そうしかねない者がいる。
「ち、違います! えっと、これは、知り合いから聞いた噂に過ぎません。私は、エンフェルト領修道会のシュヴァルツ卿の教えに正しく従っております」
コンスタンツェは必死に否定する。先程から、カーヤのきびしい視線がコンスタンツェを突き刺しているのである。
名前の上がったシュヴァルツ卿の娘が、ほかでもないカーヤである。
「どうしてコンスタンツェさんがそんな事を知っているのかは、今度詳しく聞かせてもらいます!」
「違うんですってぇ!」
グラウスタイン門を抜けた私たちは、少しずつ口数を増やしながら、街道を前へ進んでいた。
ここはすでにエンフェルト伯爵領。故郷の地には、今はもう帰れない。私たちに与えられた唯一のこの街道の先には、生まれ育った宮廷はない。
逃げ切れるかもしれない。従者たちのおかげで、朧げな希望が形を成し始めた。願わくば、この頼もしいふたりと共に逃げ延びたい。
しかし希望というのは得てして、思い描く理想よりも残酷な性格をしているものであった。




