3. 逃避
「…………」
夜の闇に紛れ、当てもなく、帝都の路地を進む。
そんな私たちを追う影が、確かに近付いていた。
「カーヤ、コンスタンツェ、貴女たちの家は大丈夫なの?」
仮に帝国が戦争を始めても、貴族であるエンフェルト家がすぐに潰えることはないだろう。それよりも問題なのは、平民の家系である従者ふたりのことである。
こんな状況で、自分の事を差し置いて周りのことが気になったのは、諦観の現れのせいかもしれない。
「私の家は教会に勤めているので、大きな問題は起こらないと思いますが、コンスタンツェさんは……」
カーヤの両親は教会にて司祭を務めており、彼女はエンフェルト家に侍従する前は司祭の娘として、教鞭をとることもあったらしい。
シュトュール帝国民にとって、父なる存在の教えを蔑ろにすることは、最も忌むべき行為とされる。その行為による影響力は、婚約を一方的に破棄するのとは比べものにならない。
戦時下においても、教会やその他宗教施設だけは破壊は略奪の対象とならず、これは信仰を同じくする国家、諸侯間の、実質的な国際法となっている。
「…………」
カーヤの心配に、コンスタンツェは無言で返した。
コンスタンツェは、エンフェルト領には右に並ぶものがいないほどの実力を持った兵士である。平民の出の彼女とその弟は、「騎士になりたい」と言ってエンフェルト兵の宿舎に道場破りを敢行し、その実力を父が認めた事でエンフェルトに仕えるようになった。
彼女の弟は、私とヨハンの婚約の際、信頼の証として皇家の騎士となった。信頼など露と消えた今でも、部下を多数従える地位にいる彼が殺されることはないはずだ。きっと、信頼の証から従属の証へとその名を変える程度だろう。
しかしそれだけの実力と地位があっても、家が村ごと潰されることがなくなるわけではない。この時代の略奪というのは、兵士の補給や報酬と言い換えられ、戦争をする上で避けられないのである。
「伯爵は、皇子の言いなりになっていたように見えます。あれなら戦争になっても、皇帝軍が故郷を踏み潰すことはないでしょう。……なので、心配はいりません」
そう言うコンスタンツェの顔は、暗がりに溶けてしまって、よく見えなかった。
「──お嬢様」
「コンスタンツェ?」
コンスタンツェの手が、剣の柄にかかる。すでに張り詰められていた緊張の糸は、千切れてしまいそうなほどに、トクントクンとけたたましい音を立てた。
逃げきれるとは思っていなかったが、今になって、心の片隅に存在した希望に気付く。
「追っ手です、走って」
指差された方へ駆け出した。コンスタンツェは殿をつとめ、カーヤよりも足の速い私が自然と先頭になった。
……カーヤが遅れてる。ペースを合わせたいけど、それだと──。
後ろを振り返ると、カーヤと目が合った。
「お嬢様、私のことなど気にせず、どうか!」
「でも……」
仕方ない。そもそも女の私たちが、皇家の抱える兵士たちからまともに走って逃げられるはずがない。ならば、ここは路地を使い、追っ手を撒いてしまうべきだ。
大きな通りから、複雑な路地へ入る。
帝都は古い都市なだけあって、郊外部の貧民街でなくとも路地が入り組んでいた。もし都市計画の創案者が無能で放射状の大通りが無ければ、商人らが出入りを忌避し、帝国はここまで繁栄しなったかもしれない。
「まだ追ってきます……振り切れません……」
コンスタンツェが小声で報告してくれる。
追っ手は相当優秀らしい。どれだけ縦横無尽に駆け回っても、こちらの動きを読んだかのように尻につかれる。
しかも、どうやら私たちは誘導されている。そんなつもりは一切なかったのに、私たちは帝都の東端へほとんど真っ直ぐに進んでいたのだ。
門の外へは、身元の証明できるもの、もしくはスレイ教の信者である事を示すものがないと出られない。平素なら簡素で不合法なものでも構わない形だけの決まりとなってしまっているが、ドレスで着飾ったまま、汗だくになって逃げ惑う女が簡単に通れるほど死んだ決まりでもない。
「追いつかれます! 門は開いています! 強行突破しましょう!」
「待って!」
追っての声が聞こえる。もうそこまで来ているということだ。
目の前には門の守衛、後方には追っ手。それぞれコンスタンツェなら対応できるだろうが、片方ずつ相手している時間はない。
「コンスタンツェさん! お嬢様を連れて門へ!」
「カーヤ! だめ!」
「お嬢様が生き残れば、エンフェルト伯の請求権を主張できます! さあ早く!」
カーヤが立ち止まった。そして、後ろを向いて走る私たちに目を向けず、追っ手の来る曲がり角に対し身構える。
カーヤを失う──。私はあまりに無力だ。それどころか、逃走の癖を見抜かれ、関門の前まで誘導される失態を犯した。今まで親に守られていた私は、従者のひとりも守れない。
「待って──ジェニー!」
「え?」
「わっ!?」
カーヤの体に、追っ手がぶつかる。しかし、細身のカーヤが、転ぶことなく追っ手を受け止めた。追っ手はドレス姿だった。
ジェニーとは、私の名ギネヴィアの愛称であり、私をそう呼ぶのはひとりだけであった。
「……セリカ」
追っ手の正体はセリカだった。
「ジェニー、やっと追いついた……。ふふ、逃げ方は変わらないんだね」
逃げ方、とは小さい頃やった追いかけっこのことだろうか。
カーヤにくっついて、私に追いついたことを喜ぶセリカは、私の知る天真爛漫な彼女だ。その光景に、私の屋敷で遊んだ思い出が蘇る。
しかし、精神的な逃げ道を見つけたように思い出に浸る私を、コンスタンツェが引き戻した。
「なんの用だ、貴様! あの場での言質、忘れたとは言わせんぞ!」
やはりコンスタンツェは別室から、会場での一部始終を伺っていたようだ。私が喪心から抱けなかった怒りを、コンスタンツェが代弁してくれる。
セリカは言った。『ギネヴィアのことが、大嫌いだった』と。けれども、今はどうだ。セリカは私をジェニーと呼んだ。親愛の表現たり得る愛称を使い、私に微笑んで見せた。
私はコンスタンツェの口を封じた。セリカが今でも私の友であると、そう信じたかった。
「殿下に、そう言えって命じられたの。ゴーセスラント家に良くしてやるから、って」
セリカは私に秘密を打ち明ける。信頼に値するかはともかく、ヨハンがクズであり、セリカが私の友であることに変わりがないという主張は、私の心を満たした。
「私は、多分殿下と結婚することになる。ねぇ、なんで? 殿下は、ジェニーと婚約してたんじゃないの?」
「エンフェルトは、もはや婚姻に頼らずとも従属させられる。だから、私は不要になった。そして今度は、ゴーセスラントを従えるために……」
貴族の結婚など、こんなものだ。どれだけ溺愛を受けて育った子でも、その瞬間、家財のひとつに成り下がる。家の代わりにお手手を繋ぎ、偽りの熱情を与えられ、そのまま冷えて、蝋で固められるのだ。
だからこそ、宮廷風恋愛とかいうのが流行るのだろうが、それに伴う不倫の文化は苦手だ。
「そんな……」
「皇妃は、マルガ第二皇女を産んだ時に亡くなった。皇家には今、隣の空いている男子がヨハンしかいないの。……ひ弱なヨハンじゃ両手を使わないと女子も担げないから、私は放り捨てられちゃった」
「じゃあ、公爵家は? ほかにも、シアハウゼン領には男爵がいっぱい……」
セリカは私のドレスを掴み、抗議してくる。でも、その表情は曇っている。初めから意味のないことがわかっているように言葉尻がすぼまる。もしかしたら、すでにヨハンに同じ事を進言したのかもしれない。
「ジェニー、これから……どうするの? 行く当ては?」
そんなもの、当然ない。自分のことのように不安気なセリカを安心させてやるため口角を上げると、セリカの顔の影は深まってしまう。無理をしているのが伝わったのか。
きっと嘘をつく度、セリカを不安にさせる一方だ。もう正直に言うほかなかった。
「行く当てはない。見つかるまで、どこかの修道院にでも匿ってもらおうかな」
作り笑顔のまま、冗談めかせて言う。ヨハンは帝国全土に留まらず、周辺諸国にまで目を光らせることだろう。そうすれば、私に逃げる術はない。
「グラウスタイン領」
「え?」
セリカは小声でそう呟き、今度は決心したように大声で唱えた。
「グラウスタイン辺境伯領! そこなら、皇家に対抗できて──!」
確かに反皇帝派の筆頭であるグラウスタイン辺境伯の下でなら、修道院よりもいくらか時を稼げるかもしれない。
しかしそれは、皇家に支配された両親やエンフェルト領民との決定的な断絶を意味している。
もはや私にはこれしかないが、「はい、わかりました」と素直に受け入れられるほど、私は大人ではなかった。
「そう。なら、セリカ。次に会う時は、敵同士、ね。ゴーセスラント令嬢」
「え……あ、あ。ご、ごめん……ごめん、なさい」
セリカは踵を返し、一目散に駆け、夜道に消えていった。
ごめんなさい、セリカ。貴女には感謝してる。私はグラウスタイン領に行って、なんとか生きながらえて見せる。そこで死んで、後悔させるようなことはしない。だから、不安も悲嘆も、貴女にぶつけてしまうこんな私を、どうか許して。




