17. ウソ
街道沿いの傭兵団および、エンフェルト領の司教シュヴァルツ卿の子女の回収に当たった兵士との連絡が途絶えてから一週間が経った帝都の執務室。失望の眼差しが床に視線を這わせていた。
「つまり、作戦は失敗に終わり、襲撃者の足取りも追えないと……」
「も、申し訳ございません。しかし、心当たりはございます……! ここで申し上げても……」
「必要ない。言わずもがな、エレミアスの奴だと見当はついている」
「……はっ」
近衛は押し黙った。自分の挙げようとした人物の名を先に出されてしまったのだからすでに口を開く大義は損なわている。
「代わりの任務を言い渡す」
膝まづく近衛の耳に、次期皇帝の低い声が響く。その声に期待が欠片も含まれていないこと、そして次に言い渡される指令に集中するほかに道がないことも近衛は承知だった。
「近衛の中に、エンフェルト領出身の者がいたはずだ。ここに連れてこい」
「はっ!」
近衛は執務室を飛び出した。
エンフェルト領出身の近衛はひとりしかいない。名をヴァーツェル・ホルン。かつてエンフェルト伯爵に仕える騎士だったが、ヨハンの婚約の際に主君を皇帝に変えることとなった。その男は現在、エンフェルト領の支配に対して難色を示したことから、期限付きで北部の公爵領の屋敷に軟禁されている。
シュトゥール帝国において騎士というのは、馬に乗って戦う騎兵という意味のほかに、国家、もしくは貴族諸侯の財産という意味も兼ね備えていた。一騎で戦局を変えられこそしないものの、騎士をより多く揃えた方が戦いを制するという考えが帝国には広く浸透している。
ヨハンに指令を受け公爵家に馬を走らせる近衛も、自身の馬を持っている兵士、つまり騎士である。いくら作戦の遂行に難がある無能や離反の恐れがある者だとしても、グラウスタイン家との戦争を前にして易々と懲罰を与えたり、暇を出したりはできないのだ。
どんどんと執務室の扉が叩かれた。ヨハンの眉間にしわが寄る。
ヨハンには、できる限り話のしたくない人物が三人いる。グラウスタイン家の嫡子、皇帝である父、そして武官の長たる軍務卿だ。この三人に共通しているのは、まず、ヨハンのエンフェルト領統治の計画を大きく狂わせた人物であるという点だ。そしてもうひとつが、扉を叩いた後に「失礼します」という文言を省く者たちであるという点。
ヨハンは深呼吸をして面倒事に備えた。
「お兄ちゃん!」
「…………入っていいぞ」
ヨハンは安心感からうなだれた姿勢を正し、しわの寄った顔を改めた。皇子をこう呼ぶ人間はこの世にひとりしかいない。シュトゥール帝国第二皇女カタリナ・ケーニヒ・シアハウゼン、ヨハンのたったひとりの妹だ。今年で二十五歳となるヨハンに対し、カタリナはまだ十歳。彼女と話す時だけは、ヨハンは政争から逃れることができる。
「セリカは? 遊んでもらってたんだろう?」
「うん! セリカお義姉ちゃんは、さっき領地に帰ったよ。お兄ちゃんによろしくねって」
「そうか。何をして遊んでもらったんだ?」
「ふふ、これ! 花冠! 今度プレゼントするの!」
「そうか。誰にあげるんだ?」
「ひみつ!」
「そうか、ああ、秘密だな」
ヨハンは不器用に、妹の話に相槌を打つ。
プレゼントの相手はきっとセリカだと、ヨハンは勝手に予想し、ゴーセスラント家との関係が妹の手によって良いものになると確信した。
シアハウゼン領の西に位置するゴーセスラント伯爵家の令嬢とヨハンは正式に婚約を果たした。これにより、東部のグラウスタイン領方面に兵力を集中させることが可能となった。ゴーセスラント家が、たとえば突然ヨハンとの婚約を破棄し、反帝国派に鞍替えでもすれば話は変わるが、一伯爵家にそのような力はない。皇家はほぼ完全に、西の安全と大穀倉地帯を手にしたのだ。
しかし、ヨハンの心中はあまり穏やかとは言えなかった。
「ギネヴィアお義姉ちゃんは?」
「……ああ、しばらく、こっちにはこれないって……」
「ふーん。そっか……」
誰に何を言いふらすかわからない十歳の少女に、内政の話はできない。そのため、妹がひとりの大事な友達を知らぬうちに失っていることを、未だ本人に話せていないのだ。
エンフェルト領の統治が安定すれば落ち着いて妹に話ができると踏んでいたが、ヨハンによる平定は足踏みの最中だ。
原因は、エンフェルト領に属する教会の信頼を勝ち取れていないことにあった。伯爵が皇家に従属してもなお、教会──特にシュヴァルツ卿という司祭のひとりが皇家の不信を熱心に訴えている。いわく、「娘の安否が知りたい。娘か、もしくは娘の仕えていたエンフェルト家の令嬢のもとへ私を連れて行け。エンフェルト家を従属させたのなら、そのくらいわけないはずだ」と。
エンフェルト家の令嬢とはギネヴィアのことであり、司祭の娘とは回収に失敗したカーヤの事を指す。その両者とも、グラウスタイン辺境伯およびその息子の手によってヨハンの手を逃れている。
「いつになったら会えるの? お兄ちゃん、ギネヴィアお義姉ちゃんと結婚するんでしょ? ねえ、いつ?」
「カタリナ…………セリカは、ギネヴィアの代わりにならないか?」
「うん。だめだよ。本が途中だもん。あと、絶対にまた会わなきゃいけないし。それにお兄ちゃんだって、ギネヴィアお義姉ちゃんの事、好きだって──」
突如、けたたましい音が執務室の内側から窓ガラスを揺らした。
「ひっ──ご、ごめんなさい」
ヨハンの握りこぶしが卓上にたたきつけられ、その拳には机から跳ね返った痛みが残る。
「すっ、すまない、違うんだ、カタリ──」
握りこぶしを解き、前に伸ばした手の先には、開かれた扉と静けさだけが鎮座し、軽い足音が離れていくのをヨハンはその場で立ち尽くしながら聞くのみだった。
執務室の床には、花冠から零れ落ちたピンクのサンザシが転がっていた。




