10. 教会堂の少女
疲れた体は、馬車で横になる程度では満足できなかったらしい。
教会堂に用意された部屋のベッドに寝転んだ途端、私は朝の陽気に目を覚ました。こうも疲れていると夢も見ないようだ。
上半身を起き上がらせ、見知らぬ部屋を眺める。燭台に照らされるは、レンガ作りの壁、床と天井の木目、空っぽの本棚に、机の上のバゲット…………。
ベッドを降り、部屋を意味もなく歩き回ってみる。床に足をつけて気付いたが、私は裸足だった。素足が床に張り付く感覚を覚える。汗が拭けていないのだ。気にし出すと、全身のベタつきが一斉に呼吸を始める。
耐えられない。西の恒常風があの東の山脈にぶつかり、このあたりの湿度を高めているのだろうか。川の恵みも水堀も、今ばかりはクソッタレだ。窓を開けても、入ってくるのは微かな風だけだった。すぐにでも部屋を飛び出し新鮮な風を浴びたい衝動に駆られたが、今は起きたばかり、着の身着のまま寝室であろうこの部屋を出ていいという育て方はされていない。
布を被った姿見を見つけた。鏡の奥では、ボサボサの赤毛が寝巻き姿で眠気まなこを擦っている。当然、私の衣服ではなかった。
外行きの服は、クローゼットにあった。サイズの適当でない衣装に手間取ったが、姿見を何度も確認し、なんとか人前に出せる体をなした。腐っても貴族の娘だ、着難い服に袖を通すことなど幾度もしてきたのだ。私は培ってきた教養に確かな自信を持った。
クローゼットには司祭の着るようなローブも入っていた。私は教職者ではないのでこれを羽織る資格はないが、これはもしかしたら教職者のふりをしろとの指示なのかもしれない。
エレミアスとしても、連れてきた女が(自分で言うのもなんだが)見た目の美麗なだけの平民だとしたら立場もなかろう。
私は姿見の前で体を一回転させたあと、ドアの横にあるエンドテーブルに置かれたベルを鳴らした。
用意の良さから察するにこの部屋は、この地を訪れた要人──貴族や高位の修道者等──を泊めておくための寝室なのだろう。
野営用のテントなどではないのでそこそこの待遇と言えるが、体力が回復し次第、娼婦の街に放り出されることもないとは言い切れない。
ならば、まずすべき事は、この地で信頼のおける「友達」を作ることだ。運の良いことに、ここは教会堂だ。司祭に懺悔と言い張って苦労をこぼし、同情を買うことができれば、最悪ポルターガイストかブラウニーにでもなれるはずだ。
しかし、私はグラウスタイン領の内情について何も知らない。わかることは、その高い情報統制能力くらいであろう。これは諸侯間の強い同盟意識がないと成立せず、それはつまり、恐ろしいことに辺境伯領内はほぼ反皇帝派に染まっているといることだ。内情に切り込むなら、その原因についても知っておかねばならない。
…………。それにしても、誰も来ない。このベルはなんだというのだ。まさか元々この部屋に置いてあるもので、私の手にあっても一切意味を持たないというのか。
是非、体を水で流せる場所を教えて欲しいところなのだが……。
このまま待っていても仕方がない。そう思い立ってドアを開いた。
狭い廊下の壁の間に、ヒールの音が響く。明かりの少ない廊下には清澄な空気が流れていた。富と権力を手に入れてしまったスレイ教団のかつての清貧さは、唯一こういった廊下に残されているのではないかとも思えた。
ふと、声が聞こえた。聖堂に続く大扉から漏れ出している。大扉に耳を寄せると、それが少女のものだと分かった。内容は聞き取れなかったが、聖堂でひとり言葉を紡いでいるのであれば、それは聖書に記された祈祷文に他ならない。そう決めつけて声を聞いてみると、知っているフレーズが耳に残る。かつて司祭の娘だった従者から教えてもらったものだ。
祈祷文というのは、基本的に教職者から教わるものであり、これを神前で精読する事は、いくつかある主への祈りの内のひとつだ。日常会話とは縁遠い難しい文字が読め、その内容を理解していないといけないことから、教職者以外が取れる方法の中では最上位にあたる祈り方でもある。
この祈り方をすることは、「私は高度な教育を受けることのできる貴族です」と言っているのと同じだ。
つまり、"アタリ"だ。
私は表情が緩まないよう一度息を大きく吐き、重い扉を開いた。
聖堂はガランとしていた。神父らはひとりとしていない。きっと城下の街にある教会堂で活動しているか、そこで教師などの副業に勤めているのだろう。市民はこの聖堂に辿り着くために城門を越えなければならないので、よっぽどの物好きでなければわざわざ許可を取ってまでここには来ない。
声の主は、聖母像の前で跪いていた。そこにいるのは質の良い服を纏った黒髪の少女だった。両手を組んで祈りを捧げている。少女の周りには何か文字を記したものは見当たらない。見たところペーターと同じくらいの歳に見えるが、その歳で祈祷文を暗記しているということだ。彼女の信心深さが見てとれる。
私も彼女の隣で跪き、敬虔なスレイ教徒であることをアピールしておくべきだろう。そう考え一歩を踏み出すと、その右足の足首より先が、絨毯との間に見事な鋭角を描いた。
「痛っ──!」
捻った足首は体幹を崩し、私はドテンとみっともない音を立てて床に倒れ込んでしまった。原因は間違いなく、履き慣れていないヒールだ。祈祷文を読む声が止まった。小鳥の鳴き声のような祈祷文だけが静かに空気を震わせていた聖堂には、今度は気まずい静寂が流れた。
「……あなたは、昨日の……あの、大丈夫、ですか?」
「え、ええ、大丈夫……」
長椅子の手すりを掴み、右足を引きずりながら前進する。顔も痛みに引きつらぬよう、笑顔を心がける。これから仲良しになろうという歳下の女の子に気を遣わせるわけにはいかないのだ。
なんとか最前列の長椅子に座ることができた。祈るのに最善の位置ではないが、これ以上動くのは無理だった。
少女はこちらを不安げな顔でじっと見ている。いや、見ているのは、私の髪だ。私は珍しい赤毛を持っている。しかし、彼女が見ている理由はこの髪色が珍しいからではない。
スレイ教において、赤毛の者は忌避されることが多い。
とくに彼女くらいかそれより幼い年齢層が好む物語に登場する悪役は、たいてい赤毛で表現される。多くの聖典においても、スレイ神を裏切ったとされる弟子は赤毛であると解釈されている。
このことから髪色で差別を受け、改宗する者も少なくない。彼女は、どこから来たのかもわからない私がそういった異教徒である可能性を考えたのだろう。
不安げな表情からは、異教に対する恐れを感じ取った。
「ごめんね、途中だったでしょう?」
「えっ……あの、はい……」
「一緒にお祈りしましょう」
そう言って私は両手を組み、目を閉じて祈祷文を読み上げ始めた。
しばらくひとりで読んでいた。ちなみに「祈祷文を読む」とは慣用表現であり、実際に聖書の文字を追う場合も暗記した祈祷文を口にする場合もこの表現を使う。
何度も聞いたし言った祈祷文を読んでいると、長椅子に座る私のすぐ隣に少女が腰掛けた。不快でない程度の香水の匂いが広がる。糞尿の激臭を無理やり覆い隠そうとする強い香水とは大違いだ。
聞いたところによるとグラウスタイン家は、辺境伯家の広い土地に住うたくさんの人口を支えるため、人糞を発酵させ肥料として用いているらしい。エンフェルト領東部、グラウスタイン領との国境付近の農村でも似たようなことをしていると聞いた時は悪い冗談だと耳を疑ったが、視察に行けば今度は目を疑うこととなったのをよく覚えている。領都に戻って見た、道端に糞尿が垂れ流される光景もどうかと思ったが。
少女は遅れて読み始め、早口になってまで私に追いついたあと、合唱のように声を合わせて読んだ。最後まで一言一句違わず読み切ったところで目を開くと、彼女はまだ手を組み目を閉じたままで、しかし口元は少し緩んでいた。
さて、彼女を安心させることには成功したようだ。やはり、この長い祈祷文の暗唱が決め手となったのだろう。
もう一押しすれば、確実にこの娘が貴族とのコネクションとなる。
「もうその歳で暗唱ができるんだ。すごいね」
あなたもできているじゃないか、と嫌味にとられないよう言葉を選ぶ。
「あ、いえ、その……」
彼女は目を伏せた。これはきっと照れ隠しだろう。
「簡単にできることじゃないよ。何回も何回も読んだんだよね」
「あ…………はい……」
私もそうだった。暗唱ができるようになるまでに、三年は費やしてしまったくらいだ。それをそのまま伝えると、彼女はうんうんと頷いた。
「その、申し訳ございませんでした……私、貴女の髪を、変な目で見てしまって……」
彼女は小さな声で、必死に謝ってくれる。その様子に、なんだかこちらが申し訳なくなってくる。私も、彼女のことを貴族たちに顔を売るための踏み台として扱おうとしていることを謝った方がいいのだろうか、とさえ思えてくる。
「ふふ、気にしないで。私、この赤毛は自慢だから」
自然と口をついた言葉に、彼女の表情が明るくなった。この赤毛に、いい思い出なんてなかったはずなのだが。
「そ、そうなんですね。ありがとうございます、ギネヴィア様……。あの、私ユリアといいます……!」
「ユリアちゃん? 良い名前だね」
「…………!!」
彼女は笑顔を見せた。この可愛い笑顔を見るために、何でもかんでも褒めてしまいそうだ。それでは持ち上げるのが下手な商人のようになってしまうので、当然そんなヘマはしない。
「ねえ、エレミアスという人に会いたいのだけど、今どこにいるかわかる?」
「それなら、えっと……多分この時間なら、訓練所にいると思います……!」
よし、彼女はエレミアスと知り合いだ。それも、どこで何をしているのかを把握しているほどの。まさか、エレミアスがこの少女とそういう関係である可能性も……? …………。
「そう、ありがとう」
「はい。では」
「…………ユリアちゃんは? もうお祈りは済んだでしょう?」
「あ、あの、まだ、用がありまして……」
ユリアはそう言って、私にお辞儀をした。こうなれば、お辞儀で返すしかない。是非ともその訓練所までの道を案内してほしいところだったが、すでに手を振っているユリアに頼むのはなんだか気が引けた。




