野良猫と忘却の行方④
町外れにある宿屋の古びたドアを開けるとカランカランとドアに付けられたベルが音を立てた。
1階は食堂になっているようでいくつかのテーブルと椅子があったがまだ食事には早い時間だからか誰も居ない。
辺りを見回すと小さなカウンターの奥から人の気配と物音が聞こえてきたのでそちらへ向かって進んでいると背後からトントントンと階段を軽やかに下りる足音がして聞き覚えのある、でも今まで聞いた事のないような穏やかな声がかけられた。
「いらっしゃいませ。食事ですか?泊まりですか?」
探すまでもなくエプロンを着け頭に包帯を巻いたノアが笑顔で近付いてきた。
「…えっと、あの、お客さん?」
無言で佇む俺達にノアが不思議そうな顔をする。
「ノア。お前ホントに忘れちまったのか?」
ルドがノアの襟元に手をかけてグイッと顔を引き寄せて睨む。
「えっ?は?ちょっ…何するんですか」
ノアはルドと後ろに佇む俺を交互に見るがその顔に困惑意外の表情は見えなかった。
諜報活動は上手い嘘が吐けないと務まらないけどノアの顔は本当に状況が飲み込めていないだけのようだった。
救護所でノアの手当てをした医者の話によれば頭の怪我はそう酷くはなかったが自分がどこの誰なのかその記憶がスッポリと抜け落ちていたらしい。
自分の荷物もわからず身に着けていた物にも身元を示す物は無かった。
怪我の治りは良好で言葉や日常生活に不便はないし時間が経てば何か思い出すかも、と医者が救護所に食事の提供で出入りしていた宿屋の主人に話を付けて暫く宿屋に滞在するになったとの事だった。
「サク?どうかしたの?」
揉めてる気配を感じたのかカウンターの奥から若い女が出て来てノアの襟首を掴むルドを見てギョッとする。
「すみません、何かありましたか?この子はまだ働き始めたばかりで不慣れなので…」
女は青い顔で駆け寄って来てルドに謝りながら間に入ろうとした。
「いや、違うんです。実は…」
「…そうだったんですね。サク…じゃなかったノア?何か思い出せないの?」
小さなテーブル席に場所を移し俺が女、この食堂兼宿屋の娘ニルとノアに話せる限りの事情を説明してもノアの表情が変わる事はなく首を横に振るだけだった。
「とにかくノアは見つかったんだ、帰るぞ」
ルドはそう言って席を立ちノアの腕を掴もうとするとニルも立ち上がりルドとノアの間に入る。
「ちょっと待って下さい!サクは何も覚えてないし思い出せないって言ってるじゃないですか!」
そう言って強張った顔でルドを睨み付ける。
「…ノアが覚えてようがなかろうがアンタには関係ねーだろうが」
ルドはそう言うとニルを睨み返す。
「…関係は…あります!サクは父さんが預かってるんですから!大体サクはあなた達と行くなんて言ってないし、それに父さんに一言も相談しないで行かせる事は出来ません」
声も体も震えてるのにニルは一歩も引かずにルドをまだ睨み続けている。
ノアはそんなふたりの剣幕に驚き何か言葉を探してるかのように口を開けたり閉じたりしたが結局言葉は出てこず助けを求めるように俺を見た。
「ふたりとも待って下さい。とにかく落ち着いて話をしましょう」
俺はため息を吐いて立ち上がり、椅子に座らせようとルドの腕を引くとチッと舌打ちをして俺の手を振り払い乱暴にドアを開けると外に出て行った。
ガランガランと激しく鳴るベルの音が食堂に響く。
「…すみません。悪い奴じゃないんですがもう一人の仲間を亡くした事で苛立ってるんです」
「いえ。私こそ大きな声を出してすみません」
納得のいかない顔をしながらもニルが謝る。
「ニルさん、あなたの気持ちもわかります。ですがノアは本当に私達の仲間なんです。もし私達が嘘を吐いているとしたら一体何の為でしょうか?ノアは所持品も殆ど何も持っていなかったのでしょう?」
出来るだけ優しく言うとニルはぎゅっと眉根に皺を寄せ俯いた。
「心配して待っている仲間が居るんです。私も本当は一刻も早くもう一人の仲間の遺品を持ち帰り無事だったノアを連れて帰りたいんです。ただ、ノアは大切な仲間なので無理強いはしたくありません。…もしノアが王都に帰ってもこちらに戻りたいと望むのなら私も一緒に上に掛け合うつもりでいます。だけどその為にはノアの口からも事情を説明しなければいけないんです。わかってもらえませんか?」
ゆっくりと諭すように言うとニルはパッと顔を上げたがまた直ぐに唇を噛みしめた。
これ以上押しても頷くどころか却って頑なにさせてしまうだけだ。
直ぐにでもノアを連れて帰りたいのはやまやまだがここは一旦引くしかない。
「…お互い少し考える時間が必要だと思うのでまた明日、ニルさんのお父様が戻られてから話しをしましょう」
そう言うとニルの顔から少しだけ力が抜けた。
このまま強引に押し切られると思っていたようだ。
「部屋は空いてますか?長旅で疲れたので休ませてもらいたいのですが」
「わかりました。先に何か召し上がりますか?その間に部屋の用意をします」
ニルはやっと重い口を開いた。
そう言えば今日は殆ど何も口にしてなかった事を思い出し、何か適当に食事を見繕ってくれるようにニルに伝えた。
硬めのパンと少し味の濃い素朴な煮込み料理で食事を済ませると慣れない長旅の疲労と心労もあって俺は部屋に着くなりベッドにドサリと倒れこんだ。
少し湿気てカビ臭いシーツに顔を埋めてため息を吐く。
明日は何としてもノアを説得して王都に発たなければいけない。
ルドではないが記憶があろうがなかろうが関係ない。
もたもたしていれば余計な疑いをかけられる可能性だってある。
ニルの父親も渋るかもしれないけど結局ノアが納得さえすれば引き止めはしないだろう。
問題はニルだ。
ニルがノアに特別な感情を抱いてるのは明らかだった。
ノアを渡したくないのもルドの強引さと父親の不在だけが理由じゃないのは一目瞭然だ。
はぁっ、ともう一度大きなため息を吐き食事を摂りながら見ていた生き生きとしたノアの顔を思い出す。
ここでニルと一緒に暮らす方がノアは幸せなんだろう。
だけど部隊を抜けるのは簡単な事じゃない。
前列が無いわけじゃないし本当にノアが望むなら一緒に掛け合うつもりでいる。
でもー。
色んな感情がぐるぐると頭の中を駆け回り俺は考えを振り払うようにシーツに顔を擦り付ける。
やっぱり俺は諜報員には向いてないな、そんな事を考えながら意識を失うように眠りについた。
気が付くと部屋は真っ暗だった。
暗闇の中で目を凝らしたけど隣のベッドは空でルドが帰って来た様子はなかった。
酷く喉が乾いて俺は重い身体を引き摺るようにして部屋を出る。
真夜中なので静かに食堂を歩いていると奥の部屋から灯りと囁き声が漏れていた。
そっと通り過ぎようとしたが声がノアのものだと気付き足を止めた。
「…だめだよ。今俺が居なくなったらニルにも親父さんにも迷惑がかかる」
「大丈夫。何とかするから。叔母さんの所は今から収穫期で人手もいるし暫く手伝ってあげて」
そっと中を伺うとニルがノアに大きな荷物を渡そうとしていた。
「でもわざわざ俺を探しに来てくれたんだし…」
「あの人達何にも覚えてないサクを無理矢理連れて行こうとしたんだよ?明日話し合うって言ってたけどきっと言いくるめられて強引に連れて行かれるに決まってる」
「……」
「今なら乱暴な人は居ないしラドって人のご飯に薬を入れたから…」
「えっ?ニル、ラドさんの食事に薬を入れたの…?」
ノアの顔色が薄暗い灯りの中でもわかるほど青ざめる。
「あ…薬って言っても父さんが時々眠れない時に飲むよく眠れる、ってだけの薬だから大丈夫だよ。ね、それより行くなら今しかないの。もし何か思い出したらその時帰ればいいでしょ?だからサクお願い…」
ニルはノアの顔色を見て慌てて弁解をする。
まずい、ニルは思ったよりノアに入れ込んでて話し合わずに逃がすつもりだったのか。
あの味の濃い煮込み料理は薬を誤魔化す為で意識を失うように眠ったのも疲労のせいだけじゃなかった。
ニルにではなく考えの甘過ぎる自分に腹が立った。
もしノアが逃げれば記憶がないからなんて言い訳は通用しない。
ノアを追い始末をつけなければいけなくなる。
『クソッ』と心の中で悪態を吐いてそっと近くの窓に近付き音を立てないように注意して外へ出る。
ここでこれ以上騒ぎを起こせば面倒だ。
おそらく裏口から出てくるだろうノアを待ち伏せてルドに見付かる前に捕まえなければ。
だが俺にノアを捕まえる事が出来るのか?
裏口の見える少し離れた物陰に隠れながら考える。
記憶がなくても身体能力はノアの方が遥かに上だ。
出来れば説得したいけど夜明け前の暗闇に潜んでいる時点で難しいだろう。
あの時強引に押し切ってにでもノアを連れてくべきだった。
いや、今は後悔なんかしてる場合じゃない。
どうノアを捕まえるかを考えろ。
そう思い直し頭の中で何度もシミュレーションするけどどれも上手くいかない。
「一体どうすればいいんだよ…」
そう小さく呟いた時、宿屋の裏口がそっと開きノアとニルが出てきた。
ニルはノアの両手を握って何かを話していたが手を離すと早く行けとノアに荷物をグイグイと押し付けて裏口のドアを閉めた。
ノアは何度か宿屋を振り返ったが意を決したのか歩きはじめた。




