1.朝帰り
チチチ――、
という音を遠くに聞いて、水面に浮きあがるように俺は覚醒した。
そしてすぐに自分がどんな体勢で眠っていたかを自覚し、「またやってしまったのか……」と呟きながら体に力を入れる。
頬が机と離れる際、ミチミチと名残惜しそうな音を立てた。
身を起こすと、目の前には案の定仕事机があり、開きっぱなしの本や数字の書き連ねられた紙束、書きかけのメモが煩雑に積み重ねられている。
振り返れば俺の他に誰もいない。頭上の採光窓から差し込む日差しから察するに、まだ朝も明けきらぬ時分のようだ。
俺はわが研究室を見回しながら、椅子から立ち上がる。
「…………いい加減、研究室で寝落ちする癖直さないとダメだ。また怒られるぞこれ……。あたたたた、あー……、首と腰とほっぺたが痛い」
とりあえず家に一度帰って、服を着替えて朝食も食べてからまた来よう。
2人の出勤時間を考えても、そのくらいの余裕はあるはずだ。
俺は机の上の資料を簡単に片づけ、鍵を手に取り、ハンガーにかかっている上着を羽織ってから研究室を出た。その瞬間、冬の朝の鋭い冷気が俺の顔を叩いた。
「――おわ、さむっ」
研究室の裏手の扉を開けると、建物の外を伝う階段に出る。
眼下には、かつて暮らしていたナラザリオ家とは比べ物にならないほど広大な庭園が広がり、その中で等間隔に生け垣を刈り込む庭師たちの姿はまるで機械人形のようだ。その庭園のさらに向こうに王族たちの暮らす宮殿があるはずだが、濃い朝靄のせいで朧げにしか見えず、なんとも現実味がない。
いや、この俺が仮にも王宮敷地内で毎日研究活動を行っていること自体が、現実味がない話ではあるのだが。
俺はコートを抱きながらいそいそと階段を下りた。その時――――、
「おっ、ローレンじゃないか!」
「!」
俺がちょうど階段を降り切ったタイミングで、真横から大声で呼びかけられる。
快活でよく通る声、振り向かなくても声の主は分かる。
黒の長髪を後ろに結い、犬のような大きく丸い目が特徴的なその男は、スキップでもするように軽快にこちらに駆け寄り、俺の肩をがっしりと掴んだ。
「おいおい、こんな朝っぱらに会うなんて珍しいな! お前も早起き派に転向か? いいよな、早起きは! 早寝早起き適度な運動、これで大体の問題は解決するからな! なあ、ローレン!?」
「こ、声が大きいんですよ、リーキースさん……。えーと、おはようございます」
「ああ、おはよう!」
俺はその音量に顔をしかめるが、リーキースは別に気にもしていない様子で快活に笑った。そして俺の装いを眺めて言う。
「朝の散歩もいいが、せっかくだからランニングに付き合うか? 何事も一人より二人のほうが楽しいに決まってるもんな。なに、心配無用。王宮の外周を三周ばかりするだけだ!」
「いやいや勘弁して下さい。ただでさえ、こんなに寒いのに」
「馬鹿者ローレン馬鹿! 寒いからこそ体を動かすんじゃないか。冬に温まる方法なんて体を動かす以外ないんだぞ? ほれ、1、2、1、2」
「やりませんって。家に帰って、暖炉に当たって、スープでも飲めば暖まるからいいんです。リーキースさんに併走できるほどの身体能力も、広大な王宮を周回する体力もな…………、ふぁあぁあ」
「帰る? おいローレン、まさかまたあの部屋にこもって一晩明かしたのか。なんと不健康な……。よく見れば顔に跡がくっきりついて、男前が台無しじゃないか。生活習慣から改善すべきと苦言を呈したはずだぞ、俺は」
「余計なお世話ですってば」
俺は太く長い腕を振り解いて、半ば逃げるように貴族地区へ抜ける通路へと足を向ける。リーキースは諦めたように嘆息した。
「友人の忠告は聞くものだぞ、仕方のないやつめ。ああ、そうだローレン。次、いつ演習場に顔出すんだったか?」
俺は首だけで振り返って応えた。
「えーっと……、たしか明後日の午前だったと思いますけど」
「少し早めに迎えをやってもいいかな? 手合わせをしたいと言う団員が何人かいるんだ」
「……出来れば手合わせとか模擬試合とかは、騎士団の中でやってもらいたいんですが」
「氷魔法を実戦レベルに仕上げるにあたって、お前の魔法を近くで見たいんだそうだよ。まあ、こちらは頼んで来てもらっている側。ローレンが嫌なら無理にとは言わないが」
「ああ、いや、そういう事なら分かりました。早めに行きます」
「助かるよ。先進魔術研究室室長様は何かと忙しくて大変だな」
リーキースは少し茶化すようにそう言ってから、くるりと身を翻して、早朝ランニングへと戻っていった。俺が「騎士団長殿も」と返すと、少し肩を竦めたのが見えた。
リーキース・フォールランド――。
マギア王国の抱える騎士団の中で、現在三名いる騎士団長という役職の一人。かつ、過去最年少で騎士団長の座に就いた武の天才である。
厳密には王国騎士団第一騎士団長と言うのが役職の正式名称であり、その上に騎士団総長、副総長と言う役職があるのだが、マギア王国の精鋭が選りすぐられた騎士団の上から三番目の座ということになるので、本来は俺がこんな気軽に話せるような相手ではない。
それがなんだかんだあって、こうして気軽に口を交わす間柄になっているのだから、人生とは不思議だった。
朝の冷気と、リーキースとの会話によって些か眼が冴えてきたのを感じながら、俺は王宮の敷地外へと通じる門をくぐった。
一応門兵が配置されているとはいえ王宮全体から見れば裏口の様な道だ。要人が使うような主要な通路ではないし、この早朝なので当然人通りは少ない。もちろん、俺としてもその方が気疲れがなくていい。
貴族地区の細路地を選びながらジグザグに十数分ばかり歩くと、茶色い屋根のレンガ造りの家に辿り着く。我が家である。
貴族地区に並ぶ豪勢な住宅と比べればこじんまりとして見えるが、以前の世界の感覚で言うと、二階建て一軒家サイズという十分に贅沢な家だ。むしろこれ以上大きかったら持て余してしまう。
「…………」
そこで俺は足音がしないよう忍足になる。
爪先立ちになり、首を伸ばした。塀越しに見る限り人影は見えない。
隙間から体を潜り込ませるように門扉を抜け、ダミアン邸ほど大きくこそないが、手入れの行き届いた前庭に足を乗せる。朝露の乗った芝生が、俺の歩みに合わせて静かに弾けた。
「……さすがに、まだ寝てるよな…………?」
そう呟きながら、玄関の扉に鍵を差し込もうとした瞬間――――、まるで自動扉のように内側に開いたので、俺の手は行き場を失って空を切る。
扉が開いた先にはメイド服姿の人影が立っていて、バランスを崩した俺は間抜けな体勢でそれを見上げる形になった。
「おかえりなさいませ、ローレン様」
「…………た、ただいま。オランジェット」
「……………………」
オレンジ色の髪が特徴的なメイド――、オランジェットは、無言のまま一歩退き中へ入るように促した。無言ではあるが、こちらを見る視線はじっと俺の顔を捉えている。
俺はしばし目線を逸らしていたが、やがて耐えきれなくなって言う。
「…………えーと、あの、すみませんでした……」
オランジェットは無表情のまま首を傾げて、俺に問い返した。
「すみませんでした、とは?」
「いや、遅くても日付が変わるまでには帰るって話だったのに、また約束を破ってしまったので……」
「お仕事なのですから長引くことはあって当然です。どうかお気になさらず」
オランジェットはそう言いながら俺の背後に回り、上着を預かってポールハンガーへと移す。
「そ、そう……?」
俺は感情が表に出にくい彼女の表情を、恐る恐る窺う。怒っているか怒っていないか、この見極めはいまだに難しいのだ。
「はい。ローレン様用の夕食をご用意して待っていたことも、いつ帰ってきてもよろしい様に一晩中暖炉を見ていたことも、大したことではございません。ローレン様はどうぞお仕事に専念いただきますように」
「――――本当ごめんて!!!」
やっぱり怒ってた。
こればっかりは俺が100%悪い。
しかもこれをやらかすのは初めてではないというのだから、ただ頭を下げるほかなかった。
オランジェットは平謝りする俺にしばらく無表情で冷ややかな目線を向けていたが、やがて小さく頷いてから、キッチンへと下がり温かいスープを持ってきてくれた。お許しが出たようである。
「一度お休みになられますか? 一応、寝室の用意はしてありますが」
「いや、机に突っ伏してだけど一応寝たには寝たから。着替えてしばらくしたらまた出かけようかと思う」
「左様でございますか。個人的な意見としては、あまり無理が続くとお体に障りますので、少し気を使っていただいた方がよろしいかと思いますが」
「ついさっきリーキースさんにも同じような事言われたなあ。分かった、今日はなるべく早めに帰って来ることにする」
「…………具体的にはいつ頃お帰りですか?」
「おお……、さすがにさっきの今じゃ信用されないか……。えーと、日暮れまでには多分帰れると思う」
「多分?」
オランジェットがわずかに目を細めたのを見て、俺はすぐさま訂正した。
「日暮れまでに、必ず、帰宅します」
「かしこまりました」
オランジェットは俺の返答に納得した様子で、ほんのわずかに唇の端を上げた。
元々はダミアン邸でメイドをしていた彼女が、この家のメイドに付いてくれるようになって久しいが、働き始めに比べると大分気兼ねが無くなったように思う。それは俺にとって嬉しい変化だった。
以前より表情だってずいぶん豊かに…………。いや、これは俺の観察能力が上がっただけかもしれないが。
それよりもどことなく感じられるマドレーヌさんの面影の方に震えつつ、俺はスープを啜った。
「では、朝食はいかがされますか?」
「夕食に用意してくれてたやつが残ってたら貰いたいかな」
「かしこまりました。では、少し温め直してまいりますのでお待ちください」
「ありがとう。……さて、じゃあその間に着替えて来るか」
オランジェットが再びキッチンへ引き返していく背中を見送ってから、俺は立ち上がり階段を上った。木製の階段がミシリと音を立てる。
先進魔術研究室室長という役職を任命されたタイミングで貰い受けた家屋だが、かつて住んでいたとある魔術師が亡くなって以降、長く空き家となっていたらしい。
急角度の階段を上ると、すぐ右手側に俺の部屋がある。
広さとしてはダミアン邸で借りていた部屋より一回り小さいくらい。それでもかつての東京一人暮らしのアパートと比べれば倍はあるのだからすごい話だ。
簡素なベッド、仕事机、新たに用意した研究道具、大した洋服も入っていないクローゼットが配置されている他は、全て本棚で埋まっている。部屋に人を通すとよく『面白みがない』と評されるのだが、タイトルに魔法とついた本ばかり並んでいるくせ、横に科学的な実験器具が置いてあるアンバランスさを俺は気に入っていた。
「ひぃ……、さみさみ」
俺は足元の冷える私室で手短に洋服を着替え終え、そそくさと暖炉のある一階の居間へと引き返す。
と――、玄関扉の前を通ったタイミングで、外の郵便受けに物が入る音がした。
俺は一度庭へ出て、一通の手紙を回収して中へと戻る。
「ん?」
その差出人を見て俺は首を傾げた。そこへ、ちょうどよくオランジェットが朝食を用意してやってきた。俺は届いたばかりの封筒を掲げて彼女に見せる。
「オランジェット、これ」
「……手紙でございますか?」
「珍しいことに、ダミアン様からだ」
「ダミアン様から、ですか」
「用件なら直接言ってくれればいいのに、なんだろう」
オランジェットはトレイを一度テーブルへと置き、俺の手元をのぞき込む。
封筒を開け、中から出てきた華やかな便箋に目を通して――、俺たちは同時に「ああ」と声を漏らした。
オランジェットは背後を振り返り、カレンダーで日付を確認してから頷く。
「そう言えば、もう来週でございました」
「……『当日、私の家で親しい者を集めて食事会を――――』 そうかぁ、完全に忘れてたけどもうそんな時期か。あっという間だな」
「昨年とは違い招かれる立場になりますので、新しいお召し物を用意しなければ」
「ありもので間に合わせられない? この前王宮のパーティに着ていったやつとかでさ」
「何をおっしゃいます」
オランジェットはそう言いながら、俺の手元から手紙をつまみ上げる。そして少し叱るような物言いで手紙の文章を俺の鼻先へと押し付けた。
「せっかくのローレン様のお誕生日――、しかもキリの良い20歳の節目なのです。シャローズ様ら王宮関係者もお越しになられるはず。そこへ主賓として招かれる以上、ふさわしい服を用意すべきです。今日明日中にも新調していただきます。よろしいですね?」
「は、はい。すみません」
無表情ながらもぷりぷりと怒るオランジェットに、俺は半ば強制的に頷かせられた。こうした時に限り、俺よりオランジェットの意見が優先されるのだった。
ダミアンからの祝いの言葉が載せられた手紙に目を落とせば、自然と感慨深さが湧いてくる。
時が経つのはあっという間――――、救いを求めるように王都にたどり着いたのがもう3年半前。俺が魔法に目覚めた時から考えると、ちょうど4年が経つことになる。
山田陽一の記憶を思い起こせば、二度目の20歳の誕生日祝いとなる訳だし、その数字に対してもさしたる思い入れはないが、俺などの記念日を祝ってくれる人々を得られたと言う事実は、ただただ嬉しかった。
俺は、うっかり通算で計算するとまあまあなおっさんになるという事実に目を背けるように、オランジェットの運んできてくれたパンをスープに浸してから、ぽいっと口に放り込むのだった。