19.軽薄な笑みと不吉な書状
俺は家に帰ってすぐさま、部屋に鍵をかけた。
そして服の中に抱え持っていた紙の束を、床の上に広げる。
この紙に書かれているのが何なのか、正直ほとんど分からない。書かれている文章はやたらと小難しく、そもそも聞いたことのない単語が多い。
ただローレンの部屋でこれを見つけた時――、本能的に《《ヤバい》》と思った。
ざっと見たところ、とにかく魔術に関する研究資料であることは間違いない。
しかし、今まで読んだ魔術の教科書だったり、もしくは精霊教会の教典に書かれている内容とは根本的にモノが違う。なぜなら、普通だったら絶対に書かれてはいけない一文が、1ページ目に書かれているからだ。
『魔法とは精霊が生み出した神秘の力などではない。理論化可能な科学的な現象だ――』
カガクテキとかいう言葉の意味は分からない。
でも精霊の力をモロに否定しているこの一文だけで1発アウトだ。そこらへんにいる聖霊教徒が見たらひょっとすると卒倒してしまうかもしれない。
「…………」
あいつが隠れてこんなことを考えていた、というのはかなりヤバい事実だ。それをあのダミアン先生が匿っているという事実もヤバい。先生がどこまで知っているかはさておき。
だが俺はこの資料を見つけた時、なんとなく腑に落ちた気もしたのだ。
初めて見た時から感じていた、ローレンの謎めいた感じというか、得体のしれなさというか。たかだか16歳のくせに妙に落ち着いた感じとか、ダミアン先生にも変に気を使ったような距離感。あとは、あの日見たあり得ない大きさの魔法もそうだ。
なんとなくモヤモヤしていた色んなことに、この資料の存在が説明をつけてくれた気がした。
と、そんなことを悠長に考えている場合ではない。俺はよく分からない用語については読み飛ばしながら、《《一番の問題部分》》を探した。
そのページをちらっと見た瞬間、俺は自分でもほぼ無意識にこの資料を持ち帰ってきてしまったのだった。
どこだ、どこだ。
俺は細かい文字がびっしりと並んだ大量の紙の山から、あったはずの1枚を必死に探して――、
「カイル、なぜ鍵をかけている」
「!!」
ふいに、扉の外から声がしたので、思わず肩がビクッと震える。
ガチャガチャとドアノブが音を立てている。父だ。
「帰っているんだろう。開けなさい」
「ちょっと待って、今……、着替えてるから!」
「いいから早くしなさい。使用人からお前の様子がいつもと違ったと報告があった。なにか隠しているようだったと」
「ッ!」
「……図星か? もういい、鍵を持って来させる」
「あ、開ける。今開けるって……!」
俺は慌てて床に散らばった紙の束をかき集めた。
どいつだ、チクりやがったのは……。頭の中でそう毒づきながらも、俺は頭と体をフル回転させる。
これが今見つかるのはさすがにまずい。せめてもう少し時間がいる。これが今父に見つかってしまったら、問答無用で没収され、きっと俺の言い分なんて聞きはしないだろう。
「――――」
だが、そんな俺の思いなどお構いなく扉は開く。
紙の束を抱える俺を、父が無言で見下ろしていた。
○
「まずいことになったな」
ダミアンが俺の机に腕をつきながら、深刻な面持ちでそう呟いた。
かたや俺といえば、応対用のソファで頭を抱えている。
資料がなくなったと判明してから1時間。
ひょっとして思い違いで別の場所に保管されてはいないかと、俺は机の引き出しだけでなく可能性のある全ての場所をひっくり返した。
しかし結果はご覧の通り。
これだけ探して見つからなければ、例の資料は盗まれたと判断を下さざるを得なかった。そして、その犯人はまず間違いなくカイルだろう――、とも。
「やはり、まずいでしょうか……」
「気休めの一つでも言ってやりたいところだが、今回ばかりはそうはいかない。そもそもが屋敷の者たちにも秘密にしてきたあまりに先進的な魔術研究資料――、それがよりにもよって精霊教会幹部の御子息の手に渡ってしまったというのは、さすがにまずいと言わざるを得ない。
例えるなら、憲兵団の目の前で血のついたナイフを落としたようなものだ」
「つまり、捕まってしまうかもしれない……?」
脳裏に数か月前に味わった冷たい鉄と石に囲まれた牢の情景がよぎる。俺がそんな最悪のケースを想像しながら尋ねると、ダミアンは悩ましげに答えた。
「本来であれば、罪に問われることはない。マギア王国の法律では個人の思想の自由が保障されている。だが、書籍などとして世に流通させようという場合にはその限りではない。危うい思想を民衆に広めようとした、と判断されて処刑が為されるケースはある。
それに照らせば、あの資料は君の個人的な書き物の範疇であり、むしろそれを盗み出したカイルの罪の方が重いはずだ。しかし――」
「しかし……?」
「精霊教会という存在がまた厄介なのだ。精霊信仰は深く歴史に根ざした文化であるゆえに、王宮内でも相当の発言権を持っている。特に教会トップの教皇ともなれば、王族ですら下手に口出しできないほどだ。つまり、精霊教会は半ば治外法権、法とは別の確固たるルールがあり、それを行使するだけの力があるのだ。
……嘘か本当かは分からないが、黒い噂は私も耳にしたことがある」
ダミアンの言っている内容は現代人的感覚からすると、かなりの暴論のようにも聞こえる。だが以前の世界でも宗教と政治は切っても切り離せない問題であり、政教分離というのは取り扱いの難しい論争の種であったはず。
他宗教の概念がなく精霊信仰一強であるこの世界で、教皇なる人物が多大な権力を得ているのは当然とさえ言えるだろう。
ダミアンは腕組みをして唸った。
「問題は……、カイルがあの資料をどうするつもりか、ということだな」
「この部屋に鍵がかかっていなかったのは数十分の限られた時間。カイルが俺の部屋を訪ねてきたのが、ダミアン様の言った要件だとすれば、彼はあの資料の存在を目にするまで知らなかったはずです。意図せず目にしたあの資料に、カイルが果たして何を思ったのか……」
「彼は口こそ良くないが、決して馬鹿ではない。むしろ年のわりに思慮深い方だと私は思っている。いかなる場合であっても、人の部屋に忍び入って私物を盗むのが悪いことだと自覚していないはずがない……、と思いたいところだ」
「カイルへの印象は俺も概ね同じです。資料を突き付けて俺を詰問するならまだしも、黙って持ち帰ってしまった部分には違和感がある。願わくば、最悪の事態は避けられるのではと思ってしまいますけど……」
「それは、あまりに希望的観測がすぎるな」
「その通りですね」
俺がうなだれるように頷くと、二人の間に重苦しい沈黙が流れた。
部屋の鍵を閉め忘れたことは言い訳のしようもなく俺の不注意。そしてこの屋敷に世話になっている時点で、俺個人の問題として済む話でもない。
しかしいくら過去を振り返っても後悔先に立たず。鍵を閉め忘れたことも、資料が盗まれてしまったことも、もはやどうしようもない。
肝心なのはここからの対処なのだが――、一居候でしかない俺に何が出来るだろうか……。
「よし」
俺がそう頭を悩ませているところへ、思い立ったように声をあげたのはダミアンだった。彼女は俺の側まで歩み寄ると、肩にそっと手を置いて言う。
「私が彼の家まで行ってこよう。何はともあれ、カイルには真相を尋ねなければならないし、次の魔術教室まで待つという悠長なことは出来ない。あの資料が人目に触れる前に、迅速に回収すべきだ」
「カイルの家に……? い、今からですか?」
「そうだ」
「それなら俺も一緒に――」
「いや、君はここに残ってくれ。精霊教会幹部のお屋敷を魔術教室の教師として訪ねるのだから、私一人の方がいい。不安だろうが、ここは私に任せてもらいたい」
「……! しかし、元々は俺の不注意が招いた事です。自分の失態は自分で償わなければ……!」
早速部屋の扉へと向かおうとするダミアンの背中を見て、俺は急ぎ立ち上がった。しかし彼女は手のひらを俺に突き付け、首を左右へ振った。
「ルフリーネのした怪我が教師である君の責任であったように、この屋敷で起きた問題は私の責任なのだよ。そもそもこの屋敷における君の研究活動を支持したのは私だ。そしてあの資料がはらんだ危険性については、君よりもよく承知していたつもりだ。そういった意味で危機管理が行き届いていなかったのは私の失態なのだよ」
「ですが……!!」
「駄目だ。君はここで待っているんだ。これは家主としての命令だ」
ダミアンは最後に強い口調でそう言い残すと、部屋を出て行った。
閉ざされた扉の前で、俺は立ちすくむ事しかできなかった。
〇
ダミアンはどうやらマドレーヌと二人で出かけたようだ。
カイルが所属するのは精霊協会だが、普段暮らす住居は貴族地区にある。マギア王国全土に点在する精霊協会の総本山、そこの幹部ともなればさぞお金持ちであろう。
では逆に教皇はどこに住んでいるのだろうか。
同じように貴族地区に居を構えているのか、あの大聖堂の上部に特別な部屋が用意されているのか。案外どちらでもあり得そうだが、聖堂が王都の二段目に建てられている理由が、一般庶民も足を運べるようにだと考えると、聖堂の上階に教皇が暮らしていた方がありがたみは増すかもしれない。
何よりテラスの上から少年が降ってきたり、カイルが顔を出したり、ということがあったのだ。教徒しか立ち入れないエリアがあるのは確かだろう。
などと……、そんなとりとめのないことを考えていても、時間は一向に経ってはくれない。部屋で一人考え事をしていても、体がどうにもむずむずして落ち着かない。
せめてセイリュウが出てくれば多少なりきもまぎれるのだが、水晶の欠片の中で眠ったまま呼びかけにも応じる様子がなかった。
コンコン、
と不意にドアがノックされる。短く返事を返すと顔をのぞかせたのはオランジェットだった。
「ローレン様、ご夕食の準備が出来ましたので、お呼びに上がりました」
「……ああ、そんな時間か。でもごめん、今はあんまり喉を通りそうにないんだ。せめてダミアン様が帰ってきてからご一緒したいんだけど」
「左様でございますか。では一度下げさせるように致します」
オランジェットは特に理由を尋ねることもなく、一つ頷いてから部屋を去ろうとする。俺はつい何となく、それを引き留めた。
「あ、ちょっと」
「――なんでしょうか」
「なに、って事でもないんだけど……、オランジェットは今忙しい?」
「申し訳ありません。ご質問の意図が分かりかねます」
「……何というか、ちょっと話し相手になってもらえないかと思って」
「………………話し相手になれ、ですか?」
「そう。忙しいなら無理に引き留めるつもりはない」
オランジェットはおそらく予想だにしていなかったお願いに、あくまで無表情で少し考える素振りを見せる。
「特段忙しいわけではありませんが、そのご用向きには不向きだと考えます」
「不向き?」
「私はあまり雑談をしていて楽しい類の人間ではございません。よろしければそういうことに向いた者をお呼びしますが」
オランジェットの言った内容を飲み込むのには少し時間を要した。
一瞬お前と話しても退屈だと言われたのかと思ったが、どうやら楽しい類の人間ではないというのはオランジェット自身のことらしい。普段無表情で必要以上喋ることのないオランジェットがそういった自己評価をしていたことに、俺はすこし和んでしまう。
「いや、オランジェットでいい。そもそもこの屋敷で同年代と言えばオランジェットしかいないんだ。たまにはこういうのもいいんじゃないか」
「……ローレン様がよろしいのであれば」
オランジェットは僅かに頷いてから、部屋の中へと足を踏み入れる。基本マドレーヌとダミアン以外は入ることのない部屋なので、いささか探るように目線を動かしていた。
そしてオランジェットは俺から2メートルほど離れた場所で立ち止まる。
「………………」
「………………」
「……座らないの?」
「いえ、ここで結構です」
「今から雑談しようっていうのに、これじゃ話しづらいんだけど」
「私はメイドでございますので、ローレン様と対等に向かい合って座るなどということは許されません。絶対に」
「…………もし俺が座れと命じても?」
「出来ません。どうしてもと言われるなら、頭を打ち付けて死にます」
「おかしなところで頑固なんだなあ。マドレーヌさんとか、普通に座ったりしてたような気がするんだけど」
「出来ません。はじめにそう教わりましたので」
「……それは誰に?」
「この屋敷の用遣いに拾っていただいた、マドレーヌ様にです」
「そのマドレーヌさんが座っているのに、オランジェットはだめなのか?」
「駄目です」
「……そうか。よく分からないが、なにかオランジェットなりの基準があるんだろうな。ならそのままでいいか」
「はい」
俺はオランジェットの頑なさに思わず苦笑いをもらす。
そしてやはり、一人で鬱々としているよりもこうして誰かと言葉を交わしていた方が精神衛生上よさそうだと再確認した。
と――、そう思った矢先である。
目の前に姿勢よく立っていたオランジェットが、突如として扉の方向を振り返った。しかもただ振り返ったのではない。目を大きく開き、眉間に深い皺を寄せている。
俺はその様相に驚きつつも尋ねた。
「ど、どうかしたか?」
「…………少し、表を見て参ります。来客かもしれません」
「来客? しかしそれにしては、番犬が不審者でも見つけたみたいな……」
「どうもぉ、こんばんは。君かなあ、ローレン君って。そうだったら、そうだって言ってほしいんだけど」
聞きなれない声がしたかと思った瞬間――、部屋の扉が開かれて黒装束に身を包んだ長身の男が立っていた。
身長はゆうに2メートルを超えているだろう。絵具を被ったような不自然な銀髪と、場にそぐわないヘラヘラと緩んだ口元、緊張感の欠ける話し方は、逆にこちらの警戒心を触発する。
しかしおかしい。この男が入ってくる時、ドアノブを回す音も、扉を開くわずかな軋みも聞こえなかった。
突然のことに硬直した俺と、お構いなしにズンズンと歩み寄ってくる男。さらに奇妙なことには、その男は足音さえさせていなかった。
すると、俺と男の間にオランジェットが身を素早く滑り込ませた。
「そこの者、止まりなさい。誰の許可を得てこの部屋……、この屋敷に入ってきているのです」
オランジェットは両拳を握り、俺にも分かるほどの殺気を放つ。
「おおっとお、顔こわ。そう睨まないでよ、ちゃんと許可は得てるってぇ」
「誰の許可かと聞いています」
「あっはっはっはっはぁ」
しかし対する男の方はその威嚇の姿勢に物怖じする様子もなく、無遠慮に距離を詰める。
するとオランジェットが耐えかねると言った様子で、地面を強く踏み鳴らした。
部屋がわずかに揺れる。
「止まれ。それ以上近づけば、敵意ありと見なす――」
オランジェットの口調が低く鋭くなり、口調も変わった。
そこでようやく銀髪の男の歩が止まった。
「敵意ありってみなされると、どうなるのかなぁ」
「武力的手段を取る。これは脅しではない」
沈黙が流れ、しばし2人は目線を交わし合っていた。
緊張感が肌にひりついてピリピリと痛むほどだ。俺は事態を飲み込めないまま、ただそれを傍観していた。
やがて男が一歩後ろに下がり、両手を掲げて笑った。
「武力的手段かあ。あはっはぁ、そりゃあやだねえ。血生臭いことはやだよ。天下の大魔術師様のお屋敷を血で汚すなんてそんなことしたくないさ。いくら僕でもさ」
なんとなく本心で言っていなさそうな軽薄なセリフを述べた後、男は懐から一枚の紙を取り出す。妙に豪奢に縁取られたその書状には、誰かの判が押されているようだ。
だが文言の内容まではよく見えない。
「――――!」
しかしオランジェットからはその名前が見えたのだろう。息を飲んだ彼女は、横目で俺に視線を向けた。
銀髪の男が言う。
「読み上げるよぉ。えー、
かの者を、精霊教の教義に反する危険思想を抱く可能性ありと判断し、審問会への召喚を命ずる。これに従わない場合、即刻異端者として捉えることを許可する。
マギア王国精霊教会本部」