23.二日酔いの魔術師
「おはようございます、ロニー様」
「…………あ、ああ、おはよう」
廊下を歩いていると、すれ違った使用人が恭しく挨拶をしたので俺は驚いた。
自然、返事もたどたどしいものになってしまう。
昨日の件で、家族や使用人たちの態度が急に変わった。
まるで透明人間になる薬が切れたみたいだな。
俺はそう思いながら、朝も早い屋敷を抜け出して裏庭に出る。
折れた杖の代わりにちょうどいいのを探しに、プテリュクス湖に行かなければいけないのだ。
行って帰ってくるだけなら一時間強ほどだろうか。ダミアンが帰る時間までにはさすがに戻らなければならないと考えても、まあ間に合うだろう。少し曇模様が怪しいのでなおさら急いだほうがよさそうだ。
屋敷に戻ってからダミアンを見送り、その後にようやく氷魔法含む水魔法の応用についての取りまとめに移ることが出来る。
昨日までは魔法の練習や調整で、魔法科学基礎の資料作成にまで手が回らなかったのだ。
「――あらロニー様、どこかへお出かけですか?」
裏庭を抜けようとする俺に、またしても声がかかる。
黒いおさげに丸縁の眼鏡をかけたメイド服の女性だった。
「あ、ああ、ちょっと森の方へ…………」
と言って、俺は首をかしげる。
はて、こんな使用人がこの屋敷に務めていただろうか。確かに十数人はくだらない使用人がいるものの、さすがに顔くらいは一通り記憶している。
新入りだろうか? だがカーラよりあとに新入りが入ったという話を、少なくとも俺は聞いていないが……。
俺がそんなことを考えながら丸眼鏡のメイドを見つめていると、視線の意味を察したのだろう彼女がにこりと頬を持ち上げた。
「これは大変失礼いたしました。お目にかかるのは初めてでございます。私、ダミアン・ハートレイ様の秘書をしておりますマドレーヌと申します」
「……ああ! ダミアン様のお付きの方でしたか、どうりで」
「ほら、ダミアン様もご挨拶くださいませ、失礼ですよ」
「…………え?」
一瞬何を言っているのか分からなかったが、彼女はどうやら俺ではなく、傍らの木の陰に向けて話しかけているらしい。
俺が眉をひそめていると、木の陰から四つん這いの影がのそのそと姿を見せた。
案の定と言うかなんというか、ダミアン・ハートレイその人が。
「………………、ああぁ、ロニーじゃないか……。うっぷ。おはよう……、よく寝れたかな……?」
「おはようございます、じゃないですよ。どうしたんですか」
俺が思わず尋ねると、気分の悪そうなダミアンの代わりにマドレーヌと名乗ったメイドが答えた。
「昨晩、ワインをたくさんお飲みになったからなのです。本当は余りお酒が強くないのに」
「ば、ばかもの……。私は国王仕えの魔術師だぞ、酒は飲んでも飲まれることなどなうっぷ……!」
「王都最高魔術師の威厳もくそもありませんわね」
「く、口に気をつけろ、マドレーヌ……! あ、やばい、来てる。もうそこまで来てる」
「ダミアン様、よそ様のお屋敷の庭で吐かないでくださいませ。せめて敷地外まで移動していただけませんこと?」
「そ、そう簡単に言うがな……、うぷ。しかし大丈夫だ……。万が一道半ばで倒れても、そう言う時のために水魔法があるのだから……」
「いや、違うと思いますけど――!?」
そうツッコみながら、俺ははまるで生まれたての小鹿のように木の幹にしがみついているダミアンに歩み寄った。マドレーヌの毒のこもった台詞ではないが、本当に威厳もくそもない。
俺はなんだかもはや可哀そうになって、ダミアンの背中に手を当てた。
「す、すまない、ロニー……。こんな醜態をさらすとは……、ここまでは頑張ってきたんだ、部屋で吐くのはまずいと思って……。そこはいったん褒めて欲しい……」
「ロニー様、褒めてはいけませんわ。つけあがります」
「確認しますけど、本当に主従関係なんですよね?」
俺は歯に衣着せぬ物言いのマドレーヌに再確認した。
だがまあ、信頼関係あってこその物言いなのだろうことは雰囲気から察せられる。
「……まあ、別にここで吐いたって構いはしないと思いますよ。裏庭ですし」
「あああああ、手があったかい……。マドレーヌが冷たい分温もりが染みる……。で、でもここで吐くのは駄目だ……。プライドと言うものがあるんだからな、私にも……、あ、ダメ立ち上がれない」
「もうこの姿を見せてしまっている時点で、プライドなどあってないようなものですけれどね。
ロニー様、ご用事があるのでございましょう? こんな情けない魔術師にかまう事などございません、どうぞお急ぎください」
「え? いや、しかし……」
俺がダミアンを見下ろすと、少し潤んだ瞳でこちらを見上げ返してくる。
なんだろう、何を訴えかけている眼だこれは。
俺は少し逡巡した後、小さくため息をついて言った。
「ダミアン様。屋敷の外までならおぶりますから、背中に乗って下さい」
「……え? あ、あう、でも……」
「ほら」
俺がしゃがみ、背中に乗れという体勢を作ると、やがてダミアンがおずおずと手をかけてきた。
運動神経が凡人以下なこの体でも、さすがに女性一人おぶるくらいはできる。幸い俺とダミアンの身長差はほとんどない。
「うう、恥ずかしい……。偉いのに私……。年上なのに……。も、もう二度とお酒は飲まないと私は今誓った……」
「何度目ですの、そのセリフ」
ダミアンを背負った俺の横に並んで歩くマドレーヌが容赦のないツッコミを入れる。
「一度目じゃないんだ……」
「聞いてくださいませロニー様。この前なんて大衆居酒屋で飲み比べをして負けたあげく、朝起きたら路地裏で素っ裸だったん――」
「あー!! あー!! や、やめろ! 馬鹿か貴様! なぜその事を言うんだ! 秘密にしろとあれだけ言ったのに! 違うぞ、ロニー!? 断じてそのような事はないからな!」
「いやもう、否定が間に合ってないですけど……」
「も、もう死ぬ!!」
まるで漫才でも見ているかのようなやり取りの中、俺はダミアンを邸外までおぶっていき、差し当たりのなさそうな場所に下した。
5分後。
草むらの奥からげっそりとしたダミアンが戻ってくる。髪が紅い分、顔面の蒼白さが余計に顕著で痛々しかった。
「………………せ、世話をかけたロニー……。
もう大丈夫だ。だが、何と詫びを言ってよいか」
「別に要りませんよ、詫びなんて」
「そ、そうか……、優しいな。わがままを言うなら、この事はあまり言いふらさないでもらえると助かる……」
「お詫びをする立場でわがままを言うなんて、厚かましい」
「う、うるさいぞマドレーヌは……!」
「申し訳ございませんでした、ロニー様。これで少しは懲りたでしょうから、我が主になにとぞご容赦を」
「い、いや、だから俺は本当に大丈夫なんで」
うなだれるダミアンと、かしこまったお辞儀をするマドレーヌ。そして狼狽えながら手のひらを振る俺。
……どういう状況なのだ、これは。
俺が困り顔でそう思っていると、ややも調子を取り戻したダミアンが尋ねてくる。
「そう言えば何やら用事があるのだったな。どこへ行くんだ、こんな朝早くに」
「ああ、ちょっと森の湖の方に」
「ほう? 散歩かな?」
「いえ、枝を拾いに行くんです。昨日折れてしまったから」
「枝…………、ああ! あの枝か!」
ダミアンが突如大きな声を上げた。そう、彼女が昨日の試合で奪い取ろうと狙った魔法の杖である。
「あれは湖の近くとやらで用意したものなのか」
「そうです。プテリュクスと言う木の枝なんですが」
「ほお……。マドレーヌ、聞いたことがあるか?」
「いえ、王都の方では聞かない木の名前ですわね。この付近特有のものではないでしょうか」
「そうか。お前が言うならそうなのだろうな。
なあロニー、私もその用事に同行しても構わないだろうか」
「同行?」
「昨日の話では……、まあ、ちょっと半分くらいうろ覚えだが、ロニーが魔法を使えるようになったのはその枝のおかげなのだろう? 実に興味がある」
「ええ、それは……、別に構いませんけど?」
俺がぎこちなく頷くとダミアンは嬉しそうに、
「そうか!」
と言って俺と一緒に街の方向を目指し始めた。
あの裏庭はよくよく女性と出かける用事の起こりやすい場所だなと、俺は的外れなことを考えながら道を下って行ったのだった。
〇
「そ、そんなに老けて見えるのか、私は!」
草むらの中から悲鳴に近い声が響く。
「違います、そういう意味じゃありませんよ! 王都の最高魔術師だからそんなに若いはずがないと思ってたんです。まさか22歳だなんて」
俺は慌てて全身で否定を表した。
だがダミアンの横に立つマドレーヌが悲しげに首を振る。
「お気遣いは不要ですわよ、ロニー様。おっぱいに10代ほどの張りがなくなってきた気がすると、最近ぼやいておられましたから」
「マ、マ、マドレーヌ!! ば、馬鹿なのか貴様は!! 湖に沈められたいのならば望み通りにしてやる!!」
「まあ、パワハラですの?」
「その前に精神的セクハラを受けている……!! ロニー、断じてそのようなことはない。ぷりぷりのぱつんぱつんだ、私は」
「そこに関するフォローをもらって、俺にどうしろと……」
「本当に本当に、老けて見えたりしてないか? まだ当分大丈夫だと自分では思っているのだが、いかんせんストレスの多い職場だからな……」
「大丈夫ですよ、先入観なしで見れば年相応に見えますから」
「そ、そうか……? ならいいが……」
「しかしどうしてそんなに若く、そんな地位に?」
「ダミアン様は、幼い頃から神童ともてはやされ、飛び級に飛び級を重ねられましたから。今の地位にお付きになられたのは、もう4年前になりましょうか」
「ということは18ですか。それは、すごい……ですね……」
弟がまさに神童ともてはやされているタイプではあるのだが、18歳で国王仕えと言うのはさすがに尋常な事ではない。俺が素直に称賛の意を表すると、しかし当のダミアンはすこし困ったように笑った。
「別にそう大したものでもない。おかげで旧友と呼べるものもおらず、学校での思い出などもろくにないのだからな」
「…………」
その物寂しそうな横顔に俺はかける言葉を持たない。
それはきっと王都最高の魔術師ではなく、ダミアン・ハートレイという一人の女性の抱える寂しさだろうから。
昨日出会ったばかりの俺に彼女の何が分かるものか。
「ゆえにダミアン様は青春と呼ばれるものをろくに経験しておられず、魔術にかまけてばかりで女子らしい諸々もすっとばし、叱ってくれる人がいなかったばかりに生来のドジを助長させ、『魔術天才そのほかポンコツ』という残念な子となり果ててしまったのですわ」
「マドレーヌ!!!!」
「あ、それはさっきのでなんとなく察しましたけど」
「ロニー!!??」
木立の中にダミアンの悲痛な叫びが、またもむなしくこだました。
ともあれ、そんな雑談をしている間にも俺の用事はさっさとすんでしまった。
手に持った枝の束を紐でまとめて鞄にしまう。
前回来た時はまだ用途が不明だったので小枝を主に拾い帰ったが、今回は杖として差し支えないものに絞った。
そこに枯れ枝から若枝までバリエーションをもたせている形である。ダミアンも手伝うというので手を借りたが、そんなことをさせるまでもなかったようだ。
「――ふう。ダミアン様、もう結構ですよ」
「む、そうなのか? これなども使えそうだと思ったのだが?」
「ああ、本当ですね。ありがとうございます」
俺はダミアンから枝の束を受け取り、草むらから抜け出した。
さすがにこのまますぐ帰るのもあれなので、休憩という名目で湖畔の芝生の上に腰を下ろすことにする。
つい先日、ヨハンとカーラと来た日の事を俺は思い出す。
「もう少し天気が良ければ気持ちよかったでしょうけどね」
俺は灰色がかった、ピクニック日和とは言い難い空模様を見上げて言う。
「そうだな。しかしここは魔力が濃いので気分がいいぞ」
「…………魔力が濃い? そんなことが分かるんですか?」
「うむ、それでか知らないが体もやや軽い気がする。なあマドレーヌ」
「私にはあまり違いは感じられませんが、ダミアン様は魔力の流れに敏感でいらっしゃいますから」
「ふむ、だそうだ」
「へえ……」
俺はそれを聞いてふと思い出したことがあった。
「そう言えばこの湖には、病がちな王子がここに来たら体が軽くなったという昔話がありました」
「つまり、そういう事だろうな。まあどんな昔ばなしにも所以があるということだ。そして拾っていてわかったが、あの樹の枝は特に魔力が濃く強く流れているようだな。それが君の魔法能力の目覚めを助けたというのはやはり驚きだが、一旦納得は出来たよ」
「……ダミアン様にそう言ってもらえると、説得力が増しますね」
「ただ、私が少し魔力を込めてみた限りでは特に変わりはないようだったがな」
「まあ、元々魔法が使える人には影響がないということでしょうか」
初めに、落ちる木の葉を見て抱いた違和感。
それはプテリュクスの樹に流れている強い魔力が重力と別方向の力を働かせたものだった。だから砂時計の計測結果にも差が生まれた。
それだけの魔力が流れているゆえに、俺の体の中の魔力の【出口】ともなりえた。
――そういうことで間違いないらしい。
だがこれは本にも書いていないし、この土地の者も知らないことだ。
それに気付けたのはひとえにセイリュウのアドバイスのおかげなのだが、逆に言うとセイリュウは何故この事を知っていたのだろうか。
祠の中から出られないはずの精霊が、何故……。
「せっかくだ、ロニー。君の魔法をもう一度見せてはもらえないだろうか」
「………………」
「ロニー?」
「――え? な、なんですか?」
「魔法を見せてもらいたいと、お願いしているんだが」
「魔法を? ここでですか?」
「魔法を使うために枝を拾いに来たんだろう? それにここは湖だし、人目もない。水魔法を君に使ってもらうにはうってつけじゃないか」
「まあ、別に出し惜しみするようなものではないのでいいですけど……」
俺は予想外の申し出に驚きながら、一度しまった枝の一本――、新たな魔法の杖となるべきものを取り出した。
俺が言われた通りにそれに魔力を込めようと力を入れる。すると、
「あ、その前にちょっとそれを貸してくれないか」
と横槍が入った。
「……魔法を使わせたいんですか、使わせたくないんですか」
「馬鹿者。ただの枝では見栄えが悪いという私の気遣いではないか」
そんなよく分からないことを言いながら、小さく頬を膨らませたダミアンは俺の手から拾ったばかりの枝を摘み取る。
彼女は顔の前にそれを掲げ、水魔法を発動した。
それは例えるならば薄く伸ばしたバネのよう。らせん状を描いたか細い水の糸が、彼女の持つ枝を包み込む。
何をするのかと思って見ていると、シュルシュルという鋭い音が聞こえ――、そして気付けば木の枝の表皮部分が足元に落ちた。
「いいぞ」
「す、すごい……。なんだか一気に魔法の杖と言う感じになった……」
「魔法の杖?」
灰色の表皮が取り除かれたそれは神々しささえ感じる様な真っ白い一本の杖となっていた。前回使っていたものよりも曲がりが少ないこともあり、より様になっている。
「じゃあ、行きます」
俺はややも湧き上がった胸のわくわくを抑え込むように、杖を振るう。
せっかく目の前に大量の水をたたえる湖があるのだ、せっかくならそれを操ってみよう。そう思った。
「――――――」
「は?」
その声を漏らしたのが、3人のうちの誰かは分からない。
もしかしたら全員が一斉にそう言ったのだったかもしれない。だが、そんなことに考えが及ぶはずもなく、俺は目の前に浮かんだ【それ】をただ見上げるしかできなかった。
一切が干上がった湖の上に浮かぶ、巨大というにはあまりに度が過ぎた【湖の水だった巨大な球状の塊】を――――。