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第7話 腕


特別、わんぱくな少年時代を送ってきた、というわけではない。

友達は少なく、校庭で遊ぶより図書室で本を読むような子供時代だった。

それでも、こけて擦り傷を作ったことや、切り傷を作った経験くらいはある。きっと誰でもあるだろう。


自分の体から流れる赤いものを見た時、かつての俺は何を思っただろう。


たぶん、直感的にヤバいと思ったはずだ。


血液とは、身体中に酸素と栄養を巡らせる、人体を構成する中で欠くことのできないものである。細い管を通り、体の隅々まで循環する命の水。体重のおよそ8%ほどとされ、その3分の1(およそ1.7Lほど)を失えば死に至る。

だからこそ大怪我をすれば、まず止血をするし、血液自体にも凝固作用がある。少しでも損失を防ぐためだ。一度失った血液を取り戻すには時間がかかる。街頭で熱心に献血を募っているのもそういうことだ。


――じゃあ、これはもう手遅れではないか。


動揺する俺の、横に立っていたフィオレットの影が大きく動いた。一瞬、鉄格子に駆け寄っていくのかと思った。しかし、そうではない。膝から力が抜けたのだ。

慌てて手を伸ばし、抱きかかえるような格好になる。


「――――!!」


声にならないほど高い悲鳴があがった。

口元を手で抑えても、その隙間から漏れ出てくるような抗いがたい悲鳴は、硬く冷たい床に向けて悲痛に響く。

ジョアンナがその様子を、小鳥を捕らえた猫のような表情で見下ろしていた。


薄暗がりの地下牢で、最後尾にいるノノは状況がまだ把握できていない。俺は彼女を背中の後ろに隠して直視させないようにした。反射的にそうしてしまうくらい、凄惨な光景だった。


「マル――、マ、マルドゥーク……ッ!」


石で囲まれた不気味な地下牢の最奥。鉄格子の向こうのマルドゥークは、右腕だけを繋がれた状態で、壁に磔にされていた。

右腕しか繋がれていないというと語弊を招くかもしれない。正確には、繋ぐべきもう一本の腕がないと言うべきだ。

二の腕の中途で切断されて、行先がないのである。


血が流れている元は切断された腕だけではない。顔や、首や、目や、とにかく身体中の至る所に傷ができていて、頭の上からペンキを被ったかのように血まみれだった。足元の床には特大の血溜まりの跡があり、壁や天井を汚し、鉄格子のこちら側にまで飛んできている。俺は思わず、切られた左腕を探したが、すぐに何の意味もないことに気がついた。


心臓が怖いくらいに早鐘を打っている。

痛めつけられているという事前情報があったとはいえ、これは完全に予想の範疇を超えていた。マルドゥークは、お世辞でなくマギア有数の実力者だ。当主の意向に反目したとして、ここまでするものか。もはや脅して言うことを聞かせようという次元ですらなく、別に死んでも構わないという容赦のなさだった。換気などろくに考えられてもいない地下牢は、むせかえるくらいに血の匂いが充満している。


ジョアンナは指で鼻を押さえるようにしながら近づき、硬いヒールで鉄格子を蹴った。


「マルドゥーク。アンタのお姫様が来たのよ。挨拶くらいしなさいよ」


返事はなく、影はピクリとすら動かない。

横に立っていた兵士に向かって、ジョアンナは問う。


「……生きてんのよね?」


「ええ、かろうじてではありますが」


「腕を落としてから何日経ったの?」


「3日です」


3日――。

信じ難い数字に目眩がする。普通ならあんな傷と出血量を、数分だって放置しておいてはいけない。捕えられ、腕を切られ、ろくに食事も与えられない状況で、3日。

いつ死んでもおかしくない。かろうじてでも生きているらしいのは、彼が鍛えられた軍人だからという以外に理由はないだろう。


しばらく放心するように俯いていたフィオレットは、水滴を散らしながら、バッと顔を上げた。


「一体、どうして、ここまでのことをするんです! 地下に幽閉というだけでも大問題ですのに、あろうことか彼の腕を……! マルドゥークが! 彼がグラスタークにどれほど貢献してきたかご存知でしょう?!」


「ええっ」


ジョアンナはわざとらしく驚いたような表情で答えた。


「アタシに言ってもしょうがないわよー。だってお父様がやったんだもん。ま、落ち着きなさい。怒ったって腕がくっつくわけでもないんだからさ」


あまりに軽薄な物言いはわざとなのか、狙っているのか。態度と身振り手振り全てが神経を逆撫でする。だとしても下手な素振りは見せられない。俺は今、この屋敷の使用人ロバートなのだ。


「文句を言われる筋合いないってか、むしろ感謝してほしいくらいよ。こうやって、まだ生きてるうちに会わせてあげたんだから。ねえフィオレット。そんなに大切なら、アンタがマルドゥークを救ってあげたらいいじゃない?」


「……どういう意味でしょうか」


ジョアンナの提案に、フィオレットが反応する。


「貴女とマルドゥークが、お父様に協力すると約束しなさい。もし今後2度と反抗せず言いつけに従うと誓うなら、アタシからお父様を説得あげる。ねえ、いい考えじゃないかしら。アタシにもアンタにも得がある」


元々こういう話を持ちかけるつもりだったのか、もしくはたった今思いついたのか、ジョアンナは面白くて笑いを堪えるのが大変だという風に言った。


「……こんな状態の彼に、一体、何を協力しろとおっしゃるんです」


「まあ、そんなにムゴいことを言うもんじゃないわ。マルドゥークは強い男よ。治療を受けて栄養を取ればすぐ元気になるでしょ。ねえ、マルドゥーク?」


「…………」


フィオレットはよろよろと立ち上がり、俺はその肩を支えた。

彼女の瞳がわずかに俺の顔を見て、視線だけで頷く。


――大丈夫、挑発には乗らないと。


しかし、とても大丈夫には見えなかった。

明らかに、彼女の心は目の前の光景にかき乱され、マルドゥークの命を救う方へ天秤が傾いていた。ジョアンナの言う治療が間に合うかは分からない。しかし、このまま放置すれば、待つのは死のみであることは間違いない。マルドゥークを思うならば、今とれる最善はジョアンナの提案通りだった。しかし……。


俺は内心、非情な判断を下す必要に迫られていた。

マルドゥークの協力を仰いで、ハイドラと合流する兵力を削り、王都侵攻の足止めを行う。その目算はもはや潰えたと言っていいだろう。であるならば、ここに留まっているだけ時間を浪費していることになる。


マルドゥーク(ひょっとすれば自動的にフィオレットも)を切り捨て、この土地を抜け出し、ただちにでも王都へ向かうべきなのではないか。


天秤の片側には【国の存亡】が乗っており、もう片側に何を乗せてもびくともしそうにない。仮に【弟の許嫁と、そのお付きの騎士の命】がかかっていたとしても……。


「どうなの? どうするのよ? ウダウダしてると大好きなマルドゥークが死んじゃうわよ?」


ジョアンナが歩いてきて、覗き込むように笑った。

フィオレットを支えている俺の鼻にも、ジョアンナのキツい香水の匂いが刺さる。ノノやフィオレットの纏う柔らかく上品なものではなく、自己主張の激しい強い香りだ。彼女自身の人柄を隠喩するようなそれは、血の匂いと混ざって、吐き気さえ催しそうになるほどひどく感じる。


「アンタがそうやって打ちひしがれている間にもマルドゥークは苦しみ続けてるのよ。どうして僕のお姫様はこんな姿を見ても助けてくれないんだろうって泣いてるのよ? ねえフィオレット。アンタは一体何を意固地になってるの? お父様に逆らって、ちっぽけな正義感を振りかざして、戦争の結果が変えられるわけでもない。その正義感に付き合った騎士までも死にかけてる」


「…………」


フィオレットは俺の腕の中で小刻みに震えたまま、言葉を搾り出そうとしながらも、答えられないでいた。彼女の視線は地下牢の足元に注がれ、鉄格子の奥はもうあまり直視が出来ないというようで、脆く、幼く見えた。それは4年前に見た溌剌な少女のそれでもない。


子供を人質を取られた親が犯人に金を差し出してしまうように、大切な誰かが傷つけられるというのは、自分がそうされるよりも辛いことがある。トゥオーノがマルドゥークを辛うじて死なない程度に拷問しているのは、同時にフィオレットの喉元にもナイフを押し付けたいからなのだ。


「いい加減、従順になりなさいよ。素直に過ちを認めれば、お父様は必ず許してくださるわ。ねえ、もうわかるでしょ?」


ジョアンナの顔の笑みが薄れ、呆れを含んだものに変わる。

妹にショックを与えようというジョアンナの嗜虐的な思いつきはすでに成功し、飽き始めているようにさえ見えた。あとは決まりきった「分かりました、お姉様」という文言さえ聞ければ、この場所に用はないというように。


フィオレットの唇が、ぱくぱくと力無く動きかけた、その時、




フォ――、




鼓膜が微かな空気の振動をとらえた。

つづいて肌にそよ風とも呼べないぬるい空気が当たり、ゆっくりと撫でて、どこかへ行くのを感じた。俺とフィオレットはほぼ同時に顔を上げた。


ジョアンナと脇に立っていた衛兵は、気づいていない。


視線だけで地下牢の構造を確認するが、やはり、風が吹き込むような通風口や隙間は存在しない。俺は思わず鉄格子の奥を見つめ、目を凝らした。


マルドゥークは右手を吊られ、生気なく項垂れたままだ。ポーズもさっきと変わっていない。もう止まっているが、地面には、途方もないほど大きな血の跡が……。

いや、血飛沫があまりにも、派手すぎじゃないか?


鎖に繋がれ、身動きを取れない状態で拷問を受けたのであれば、足元に血の跡が集まっていて然るべきだ。しかし、鉄格子の向こうの独房の中は、床も壁も天井も、わざとホースで散らしたように血で汚されている。やや時間が経った今、その光景には作為的な演出が仕組まれているようにも見えた。


果たして、同じことをフィオレットが考えたかは分からない。

だが、彼女は「……彼が本当に生きているか、確認させていただけませんか?」と返信した。ジョアンナは露骨に眉をひそめた。


「扉を開けろってこと? ダメよ、どうせ何か怪しいことを企んでるんでしょう」


フィオレットは首を振った。


「まさか――。

 この石だらけの地下牢では土魔法も役に立ちません。今の私は丸腰です」


「……それは、まあ、そうかもしれないけど、マルドゥークは未だ罪人なのよ。軽々と扉は開けられないわ」


「しかし、まだ息があることを確認できなければ、お姉様の提案は意味を為しません。彼を救う余地があると確信できれば――、その時は言う通りにしますわ」


「…………」


ジョアンナはあくまで不服そうだったが、フィオレットの言葉に納得したのか、もしくは正論を捲し立てられると分が悪いと思ったのか、小さく顎をしゃくって、鍵を開けるように指示した。

金属を叩くような解錠音がして、鉄格子の扉が内側に開く。


「寛大な計らいに、感謝いたします」


フィオレットは白い顔色のままで言った。しかし、そこに先ほどまでにはなかった役者めいた雰囲気を感じる。ジョアンナは「早くしなさいよ」とぶっきらぼうに言った。


俺とノノはフィオレットを支えるようにしながら、牢の中に歩み入った。じっとりとした湿気が肌にまとわりつき、一段と濃い臭いに息が詰まりそうになる。


ここまで近づいても、マルドゥークからは生気というものが感じられない。呼吸音も聞こえなければ、胸の上下さえ確認できない。しかし、胸の内には確信めいたものが湧き始めていた。


「マルドゥーク――?」


フィオレットが、慎重に、問いかけた。

石の牢の中でフィオレットの声が空虚にこだまする。やはり気のせいだったのかという考えが過りかけた時、かすれた呻き声のような返答が返ってきた。


「………………お嬢……様……」


「マルドゥーク!」


言葉が返ってきたことにフィオレットは、本心から安堵と喜びを示す。

彼女はマルドゥークの乾いた顔を両手で包むようにして、額を頬へ押し付けた。マルドゥークは薄く開いた瞼の奥から、フィオレットと、俺と、ノノの顔を順番に見た。

その目の奥にはまだ光が残っていて、もっと近くに来るようにと訴えていた。


俺とノノは膝をつき、フィオレットの影に隠れるようにしながら、マルドゥークの傍へ寄った。


「……よくぞ……ご無、事で…………」


かすれて、声を出すことさえも辛そうに見えた。

しかし、その「ご無事」にノノも含まれていることがはっきり分かる。

ジョアンナはこちらの会話に聞き耳を立てようと鉄格子のすぐ向こうに立っているが、汚れたくないのだろう、それ以上中には入って来なかった。


ジョアンナや衛兵の死角を通して、俺とマルドゥークの目があった。

唇が1ミリだけ開く。


(どうなった)


マルドゥークの問いは端的だった

俺も端的に応えた。


(ベルナールさんが死んだ)


もっと交換すべき情報はあっただろう。

しかし今はもう、それだけで十分らしかった。


牢の扉間近に立った2人の衛兵と、地下牢への入り口付近に立つ1人の衛兵が、俺たちの一挙手一投足を見逃すまいと睨みつけている。しかし、3人。ジョアンナを入れても4人だ。場所は地下牢で、よほど大きな音を立てなければ上に異常は伝わらない。


俺は銃の撃鉄を起こすように、袖の内側にある杖の存在を確認した。

問題はいつ、誰の合図で、引き金を引くかということだった。


「感動の御対面は、もういいでしょう」


ジョアンナが苛立ちを含んだ大きな声で言った。


「安否は確認できたわよね。そこから先は、フィオレット。アンタの態度次第という話だったわよね?」


ガン、ガン、と鉄格子が蹴られる。衛兵たちが肩に力を入れ、俺たちを牢の外に引きずり出そうと近寄ってきた――。




「ええ、もう結構ですわ。……お兄様」




「そうか、分かった」


俺は立ち上がり、右腕を前にかざして、遠慮なく魔力を込めた。視界にある四つの人影は使用人だと思っていた男の予期せぬ挙動に、あからさまに動揺をして身構えたが、ほとんど何の意味もなかった。

何せ、光魔法の盾すら意味をなさないのだ。原理を理解した上で、膨大な魔力量で空間全てを埋め尽くす、闇魔法には。


まずは衛兵二人。そしてジョアンナ。そして地下牢入り口の衛兵。

人影が、俺に近い順番にぐらりと揺れて、倒れていった。

声を上げる暇もなく、まさに一呼吸でバタンである。


数秒前まで鉄格子を蹴っていた者は沈黙して、床に顔を埋めている。辺りは途端に不気味なほどの静寂に包まれた。それを打ち破ったのは、ガキン、という金属が割れる音だった。


「大変なお手間をおかけいたしまして申し訳ありません。お嬢様、王女様、ロニー殿――、いえ」


拷問によって片腕を失ったとは、あるいは、3日間身動きを取れず拘束されていたとは思えない動きで、彼は立ち上がった。

4年でいくらか身長が伸びたが、それでもなお見上げるほど背が高く、美しく鍛え上げられた体躯。俺が知る中で、最も「騎士」という言葉が似あう人物。



「――今は、ローレン・ハートレイ殿でしたか?」


マルドゥークはそう首をかしげて、微笑んだ。


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