33.予感
時間は遡り、晩餐会より1時間前――。
○
ロズヴィータとバルドーアの来訪からしばらく、俺は着替えも終わり、帰りの荷物を取りまとめながら時間を潰していた。
そこへ、またもやドアがノックされる。今度姿を見せたのはアニカだった。
「お休みのところ失礼いたします。ノノ王女様がお呼びでいらっしゃいます」
「――ノノ王女が?」
「ローレン様にしかお話しできぬことと、仰せでございました」
俺は首を捻った。
間もなく今回の遠征の集大成である、晩餐会が執り行われる。その直前のタイミングでの呼び出しとはなんの用事だろう。
俺はちょっと迷った末に、上着を抱えて部屋を出た。
ギィ――……
軋む音を立てる扉を開くと、窓際にたたずむノノが、ゆっくりと振り返るのが見えた。
日没も間近。地平に沈みかかる太陽が赤い玉となり、世界のすべてを染め上げる中、ぽつんと黒い影として浮かぶ彼女は、まるで切り絵の絵本のようである。
「…………急にお呼び立てしてしまい、申し訳ありません」
「いえ、時間を持て余しておりましたので。――なにか、特別にお話があると伺いましたが」
「お話……、そうですね……」
ノノはそこで一度言葉を切り、口元に手を添える。
そして申し訳なさそうに言った。
「何か呼び立てる理由がないと頼みづらかったのです。ただ少し落ち着かないので、お話し相手が欲しかっただけで……、ごめんなさい」
「そうでしたか。何かまた粗相でもしたかとヒヤヒヤしておりました。話し相手ならばお安い御用です」
「ローレン様ならそうおっしゃって下さると思いました」
ノノは安堵したように言った。
しかし、何故か立ったままで窓際から離れる様子がない。
ソファは二つ向かい合わせに並べられ、2人分の紅茶が置かれているにも関わらず、不思議な距離感を保ったまま、ノノは黙って俺を見つめていた。
なんだろうと不思議に思うが、逆光のせいで顔色を窺うことはできない。
その沈黙に妙なもどかしさを覚え、俺の方から口を開く。
「ドレスに着替えられたのですね。とても素敵でいらっしゃいます」
「はい、特別な機会だからと新調いたしました。この水色の生地が……、あら、夕日のせいでよく分かりませんね」
「大広間の照明にならば、きっとよく映えるでしょう」
「だといいのですけれど」
ノノはそう言いながら、スカートの裾を持ち上げる。
長く伸びた影が、同時に揺らめいた。
「――まずはお疲れさまと申し上げなければなりません。怪我をするなと言っておきながら何をと思われるかもしれませんが、まことに素晴らしい魔術試合に感動いたしました」
「そう映ったのならば幸いですが、実際のところ本当にギリギリでした。もう一度やれば試合の結果は逆になるかもしれません」
「たしかに素人目に見ても苛烈な試合でございました。ローレン様にそこまで言わしめるほどの相手がどれほどいるかを考えれば、騎士見習いさんの優秀さが分かろうというものです」
「ええ、まったく。あいつは、俺なんかよりよっぽど天才ですよ」
「……あいつ? なにか関係がおありなのですか?」
「――ええっと、まあ、そうですね。実はかねてからの顔馴染みで」
ノノ相手だからと言ってうっかり口を滑らせそうになるが、さすがに兄弟である事までは明かせない。
俺にとってだけでなくヨハンにとっても、消えたはずの長男が実は――、という筋書きは、面倒なことこの上ないのだ。
「とにかく、ご無事で試合が終えられたことを何より嬉しく思います。怪我がなくて本当にようございました」
「無論、王女様からの命令に背くわけにはまいりませんから――、とキザに言えればいいんですが。ギリギリだったと白状した後では格好がつきませんね」
「格好などつけなくてよいのです。命はなにものにも換えられないのですから……」
と、そこまで言って、ノノは不意に目を伏せた。
ちょうど同じタイミングで、部屋の中がふっと暗くなる。
太陽に雲がかかったのかと思ったが、そうではなかった。
夕陽が山際に落ちたのである。先ほどまで存在を強く主張していた太陽が沈んだ瞬間、背後に控えていた月がとってかわる。
瞬く間に、夜の気配が辺りを包んだ。
同時に俺は、逆光で見えなかったノノの顔が見えるようになったことに気付く。
一目見て、やはりいつもの様子ではないのが分かった。普段の穏やかな表情はなく、まるで何かを悲しんでいるかのように見えた。
「……どうかされましたか。どこか顔色が優れないように見えますが」
俺は思わず尋ねる。
しかし、ノノから返ってきたのは意外な答えだった。
「――――分からないのです」
「え……?」
「何故なのでしょう。どうしてこんなにも落ち着かないのか、自分でもよく分かりません。ローレン様はお分かりになりますか?」
ノノは困ったような笑みを浮かべて、反対に俺に問い返した。
その声は喉の奥から無理に絞り出したようにかぼそく、行きの馬車の中で寂しいと漏らした姿と重なった。
「……やはり、結婚のことをご不安に思っておられるのですか」
「いえ、それはもはや今更なこと。覚悟は何年も前より決まっております。それになにも、今宵に婚姻の儀が取り交わされるわけではないのですから」
「するとやはり、先の魔術試合で気分を悪くされたのかもしれません」
「私が苦手なのは誰かが傷つき、血を流すことです。此度の試合の魔術のぶつかり合いにはむしろ心奪われました。何より、ローレン様はきちんと約束を果たしてくださったではありませんか」
分からないと言ったわりに、ノノの否定ははっきりとしていた。
今言った2つでないとすれば不安の原因はなんだろうかと、ハイドラへ来てからの事を思い出そうとしている所へ――、ふと目の前の影が動いた。
ノノが静かに、足を一歩前に出したのだ。
「――自分自身でも分からないことを、他の方に聞くなんておかしいですよね」
「いえ……、別におかしいとは思いません。言い表せない感情というのは誰しも抱き得るものだと思います。そのくせ放っておくと気持ちが悪いですから」
「本当にお優しいのですね、ローレン様は」
彼女はそう言いながらさらに歩を進めて、横のソファの背もたれをそっと撫でた。
そして今までのやり取りを一度断ち切るように、別の話題を持ち出す。
「先ほど、サバ―カ王に面会してまいりました。少しお話が許された程度ではございますが」
「――サバ―カ王に?」
「……ええ。ひょっとすると、私たちの婚儀には立ち会えないかもしれないと憂いておられました。此度の平和協定は、争い続きの両国の関係性を嘆いたサバ―カ王が多大な労力を払って実現されたものですから、実現したその後を見られないかもしれないというのは、さぞお心苦しいことでしょう」
「サバーカ王がご高齢であることは知っていましたが、それほどまでに……?」
「本日お話をした限りではお元気そうでしたが、先が長くないと繰り返し仰せになっておられました。ご自身のことは、ご自身が一番よく分かるのだと思います」
「そうなのですか……」
ノノの言い方からは、心底サバ―カを心配していることが伝わる。
マリオローク曰く、長らく続いていたマギアとハイドラの争いをおさめた立役者。
その生涯を賭してマギアとの関係性良好化を図り、平和協定を締結せしめたというのは偉大な業績に違いないだろう。
そう言えば、マギア王国の現王プロバトン王もまた病床に伏せており、政治のほとんどをヨルク王子が執り行っている。
病衰と老衰。両国の状況は、とても似ているように思われた。
「此度の遠征は、大成功と言って差し支えありません。かねてより強く要望されていたハイドラに技術輸入が叶ったにとどまらず、ローレン様のおかげでその有用性を大いにアピールすることが出来ました。必ずや協定締結の後押しとなるでしょう」
「関係性良好化に貢献できたのであれば何よりです。……政治的なことは俺には分かりませんが」
「かくいう私もそのような交渉事は蚊帳の外。それらはお兄様や賢人会方々の領分です」
「皆それぞれに役割というものがあります。ヨルク王子も、サバ―カ王も、その他無数の人が携わって初めて国政は成り立つのでしょう」
「役割……。そうですね、自分の及ばないところまで考えても仕方ありません」
ノノは『役割』という言葉を改めて確認するようにしながら、視線を落として言った。
「――しかしそれでも、彼らの会話は耳に入ってくるのです。平和のためと言えば聞こえは良いですが、その実、裏側には数え切れぬほど多くの策謀が潜んでいます。協定は国と国との綱引きのようなもの。お互いに自国により多くの利を引き込みたいだけなのですから」
普段ならばもう少し隠すはずの棘を、今日のノノは隠そうとしない。
しかしそれは、彼女が本音を吐露していることの証拠でもあった。
「……ノノ様は、そういったことがお好きではないのですね」
「好き嫌いで言えば嫌いです。ただ、政治においてそのような事柄が避けて通れぬものであることは承知しています。それでも…………」
そこでふとノノは視線を上げ、俺を見る。
「――ローレン様は、此度の協定について何も思われませんか」
「お、俺ですか?」
不意に白羽の矢が立ち、俺は驚いた。
「彼らは、ローレン様が心血を注ぎ発見した魔術を、交渉材料として売り捌いているのです。先ほど有用性をアピールできたというのは、商品が高く売れるからよかったという意味なのですよ」
「しかし、あれは俺自身の交渉でもあり、何よりヴォルーク王子からの提案だったではありませんか」
「マギアの政治家たちが喜べば同じことです。ローレン様は、このようなことの為に氷魔法を発見したのではないでしょう」
「このようなことの為に……」
ああ、そうかと、俺は思う。
何かひとつ腑に落ちたような感覚があった。
「…………ひょっとして、ノノ様は、怒っていらっしゃるのでしょうか」
その問いかけを受けて、彼女の表情がわずかに揺らぐ。
「サバ―カ王が締結を願った平和協定が、俺が発見した氷魔法が、利権争いによって汚されているとお思いなのではありませんか」
「――――」
ノノは口元を結び、考え込んだ。
少なくとも、先ほどのように否定は返ってこない。
「正直なところ、俺は今まで氷魔法の商品価値を意識していませんでした。ましてや、自分自身で実演販売してみせたなど、思いもよらないことです。
しかし――、科学における発見とはむしろそうあるべきだと考えます。
知識の独占に意味はなく、他者と共有されて初めて価値を持つのだと」
「……価値、ですか?」
「世界に変化を生むことこそが科学の価値です。氷魔法はこれからさらに多くの人の知るところとなり、扱える者が増え、日常へ溶け込んでいく。そこからさらに、新たな魔術が生まれるかもしれない。あるいは無用なものとして廃れるかもしれない。それは時間に任せなければ分からない。しかし、そこにはきっと善も悪もありません」
ヨルク第一王子に今の役職を与えられた際、俺は『好きなようにやらせていただく』という交換条件を付けた。利益云々、損得勘定は勝手にやってくれ。俺は俺の研究を進める、という意味だ。
だから今日の魔術試合も、研究に必要な手段だっただけと思っている。
ノノは俺の言葉を飲み込むのにしばし時間を要したようだが、やがてゆっくりと頷いた。
――コン、コン。
そこで、ドアがノックされる音がしたのでハッとする。
晩餐会の用意が出来た旨が、扉越しに伝えられた。
しかし、ノノは返事を返さず、俺の顔をじっと見つめて言った。
「……私が怒っているのか、と仰られましたね」
「え? ええ、はい」
俺は振り返り、答えなくていいのかと視線で訴える。
だが、ノノの瞳は俺を捉えたまま微動だにしない。
「たしかに、それに近いモヤモヤを抱いていたのは事実だと思います。でも、今私がどうこう出来るような類の話ではありません。それよりももっと、身に迫るような……、何でしょう、うまく言えないのですけれど――」
再度ドアがノックされる。
しかしノノは続ける。今ここで言わなければいけないことを、必死に言葉にするように。
窓の外で、月がやけに明るく光っている。
水色のドレス姿のノノは月明かりを背に受けて、また一歩前に出た。
2人の距離は、もう手を伸ばせば届くほどに近づいていた。
「――――とても、嫌な予感がするのです。言葉では言い表せませんが、何か恐ろしいことが起こるのではないかという、嫌な予感が」
「予感……、ですか?」
俺は思わず眉根を寄せて問い返した。
一体、何に対して言っているのか分からない。だけれど彼女の言葉に相当な切実さがこめられていることは理解していた。
「そ、それは今から行われる晩餐会で、ということでしょうか」
「分かりません。本当に、ただそんな気がするだけなんです。ごめんなさい。こんな漠然としたことを言ってしまって」
「そんなことはありません。そんなことは決してありませんが、ただ……、その予感の正体が知りたいとは思います」
俺はまっすぐにノノの目を見返して言う。
「――――ノノ様、なにか俺に出来ることはありますか」
「!」
ノノは一瞬目を見開いた。
そのあと、困ったように眉を寄せた。
一瞬目の端に光るものが見えたのは、気のせいだったろうか。
「どうして、ローレン様はそんなにもお優しいのでしょうか……。どうして、こんな私の根拠もないような戯言に、そんなに真剣な言葉を返して下さるのでしょう。……どうしてですか――?」
ノノの白い手が、俺の前に伸びて来た。
触れるまでもなく、その指先が震えているのが分かる。
俺の心臓がにわかに拍動を大きくした。
「どうして……、とは……」
我ながら野暮なことを問い返していると自覚する。
しかし、他に気の利いた言葉が出てこない。
ただ、目の前で不安に押しつぶされそうになっているノノの助けになりたい。解決してあげたい。ノノには安寧の中で幸せにいて欲しい。
そう思う事に、何か理由があるのだろうか。
柔らかで冷たい手が俺の胸板に触れた。
そしてノノはそのまま、そっと倒れこむように俺の胸に額をくっつけた。
「!!」
心臓が跳ねて喉から飛び出すかと思った。
こんな場面を見られたらどのような誤解を受けるか分からない。一刻も早く身を離すべきだ。
しかし、その時の俺はどうしてもそうすることができなかった。
「ごめんなさい、こんなことをして迷惑ですよね。ごめんなさい」
「い、いえ………………」
情けなく裏返ったような声が出る。
「答えていただく必要はありません。ただあとほんの少し、このままでいさせて下さい。もう二度と、こんな我儘は申しませんので……」
背後から聞こえるノックが遠ざかり、やがて自分の心臓の音で聞こえなくなった。
普段の彼女ならばこのような行動に出る訳がない。彼女は婚約済みの王女であり、俺はただの研究者だ。
きっとノノの背中を押したのは、漠然としながらも確実に存在する嫌な予感なのだろう。果たしてそれは何だ――?
脳内を色々な考えが駆け巡る。駆け巡るだけ駆け巡って、何の役にも立たずにはじけて消える。
俺は結局、間抜けにその場で直立することしかできなかった。