雨乞いできない空
本日は晴天。空に雲が珍しい、青い空。
「どうした、物思いか」
空を見ている男に、そう尋ねる。
いいや、と男はこちらも見ずに答えた。もしかしたら横目で、話しかけた相手が誰か、という確認くらいしていたかもしれない。
「もし物思いだとしたら、もっと楽しそうな顔でもしているんじゃないかな、僕は」
男は目も合わさずに続ける。顔すらろくに見ていない男の声は、やけに低い音に感じた。
「なにも考えちゃいない。考えているのは脳に任せて、僕の心は空っぽだ」
男は深くため息をついた。
「こんなこと言っても仕方がないね。説明しようがないよ。こんな思考。僕の言葉は空回りするばかり。このままだと自己嫌悪のあまり、喋ることも出来なくなりそうだ。」
男は左腕の袖を捲って、見せる。
「説明しなくても、こうすれば分かりやすいだろう。他人にも」
「…どうしたんだ、これ」
「カッターの使い方を間違えちゃったんだよ」
空を見上げたまま、男は口元を歪めて笑った。
「こんな風に、苦痛は可視化できる。僕にはその方法が、問題の解決の糸口だと思えたんだよ」
男は捲った袖を元に戻した。
「例えば、空気に触れられないのが辛い、だとか。全く何もないところで心底怯えている僕の気持ちなんて分からないだろう。自分でさえ、本当に苦痛があるのか分からなかった。本当に生きていて辛いのか分からなかった。でも。確かに僕の呼吸は耳元で叫んでいて、心臓は体内で暴れまわる。間違いなくそんな苦痛があったのに、涙も出ない。なんの感情も湧いてこない。だから、本当に分からなかった」
「だから、目に見えるようにした」
男は低く笑っていた。
「こうしてやっと、自分の苦痛を認めてやれた。これを見たら、自分は本当に辛いんだな、と思えたよ。それと同じように、これを見せるだけで、伝わるものがあって、それを読み取った優しい誰かが助けてくれると思ったよ。…でも、僕はこれを袖に隠した」
「どうして?」
「きっと最初から分かっていたんだと思う。こんなものは孤独の象徴でしかない。そんなこと知っていた。他人からすればこんなものは、助けてくれ、という叫びじゃない。放っておいてくれ、という無言の暗号なんだよ。当然、こんなものが理解されるように世界は出来ていないし、善人過ぎるくらいの人が溢れている世界じゃない。他人が冷たいというわけじゃないけど、当然のように誰も助けてはくれない。どちらかというと距離を置かれるんだよ。隠すのが下手だと、他人の噂話にでもされてしまうのだろう。それだけで、やはり助けてくれる人はいない。それは何度も確認したから、何度でも思い知らされた。そうして何度も期待を裏切られ、勝手に期待した自分を恨む。自己嫌悪が酷くなって、傷が増えていく。そうするとついに、隠せない傷ができてしまった。それは通り過ぎる誰にでも気付かれてしまいそうなものだった。それでも、誰一人としてこの傷を癒そうという人は居ない。残念ながら、誰も助けてはくれなかった」
いや、と男は笑う。低く、面白くなさそうに。
「助けてくれ、って腕に書いたら良かったのかな。僕が間違えたんだ」
それを聞いてなんて言えばいいのか。そう考えるより前に、苦笑いが顔に浮いて出てきた。彼は一度も自分の方を見ないから、こんな表情をしても傷付くことはないだろう。
結局、かける言葉はでてこなかった。
「あなたもこのまま通り過ぎる人の一人だ」
男は小さく呟いた。が、自分にはよく聞こえなかった。
なんだって、と聞き返す。すると、男はようやくこちらを向いた。
「本当はね、猫にやられたんですよ。この傷」
男は横を通り過ぎる。立ち止まって呆けている自分に目もくれず、何事もなかったという風に足音を鳴らしていく。
ゆっくりと歩いている。今なら自分の声が届きそうだ。でも、なんと言えば良いのだ。
おい、と呼び止める。男は振り向いて、こちらを向いて突っ立ったまま、何も言わなかった。
「猫と遊ぶなら、もっと注意しろよ」
自分は笑いながら言う。
「そうですね。つい、度が過ぎるほど可愛がってしまって」
男は小さく笑った。自分にやっと見せた普通の笑顔だった。