第六章 第三節
柔らかな布が微笑んでいる。
誰も来ない、と思っていた。
誰も私を気にしない、と思っていた。
私はセキラ。
かつて繋いだ約束も知らずに、自身の欲だけで動いた、哀れな霊体人間。
もう何年が経ったのか、はっきりとしない。
ただ生命を維持するかのように、意識があるだけ。
息はできる。のに、動けない。
今の私に行えるのは、呼吸と思考のみだった。
まだ残っている私の骨に、音が響いている。
足の音。沢山の人間の音。軍靴。硬い音。金属の音。擦れる音。軍服。行進。剣。銃。火薬。爆発。破壊、そして誰かが近づく。
私は、何もされなかった両の目で、誰かを見た。
クラヒッサだった。亡き者にした、シュルディンガの娘。彼女は美しく育ち、そして今、焼け爛れたぼろ布のような私の前に立っている。
クラヒッサは両手に何かを持っていた。左手には人形を、右手には銃を。私の骨には響かなかったが、クラヒッサは何かを言っていた。空気の流れでも、何もわからないが、ただ、何かを求めて、返答を要していた。
何も言えない私にとっては、腹式呼吸で膨らむ腹だけが、返事の代わりをしていた。
撃たれた。
クラヒッサが、銃を撃った。
丁度一発しか入れていなかったらしい。
その一発が、私の心臓を容易く捉えて、撃ち抜いた。
やっと、死ねる。
けれど、クラヒッサは立ち去らず、銃を後ろにいる軍人に渡して、左手の人形を両手に持って、上に高く掲げた。
宿れ、とでもいうのか。
クラヒッサが何を考えているか分からない以上、私は目の前にある空気を吸いにいかずにはいられなかった。
これが最期だと信じて。
私は人形に乗り移った。
手足があるのが久しぶりだ。そして、声を出せるのも久しぶりだ。表情は動かないし、折角得た視覚も失ってしまった。
クラヒッサは、背後の軍人を追い払って、人形になった私を抱きしめて言った。
「さっきの、多分聞こえてなかったよね?ごめんね、何も分からせられなくて。
たった1日だけ、私のお父さんでいてくれた人。私のお父さん、覚えてる?」
覚えている。まさか、子供がいて、愛されているなんて知らなかった。
「私、色々調べてたよ。なんでお父さんが自殺したのかって。
そうしたら、あなたに繋がった。私のお父さんを殺したのは、あなた、セキラなんでしょ……?」
認めるしかない。汚れた手は事実しか書けない。
「……認めてくれて、よかった。
あのね、説明不足だったかな……その、お友達になって欲しいな、って、良かったらお腹を膨らませて、って言ったんだけど……聞こえてなかったよね。
お母さん、若干気が触れちゃって、今あなたが宿っているこの人形を、お父さんだと思い込んで、お喋りしているみたい。毎日ね。女の子の人形なんだけどね……
あなたには、おかしくなったお母さんに、お父さんとして返事をして欲しいし、ついでに私の友達にもなって欲しい。こんな、一方的に押し付けてばかりで……セキラちゃんが本当に殺したかった奴と、同じだ……」
理由はわかった。ところで、ガレムはどうなった?
「ガレムは死んだよ。他の郡地の人たちが殺したよ。何でも、フィスタフィラに残っていた記録から、あなたに、そして、クィアが抱える問題に繋がったって……」
なら、良かった。
私の願いは果たされた。
それならば、クラヒッサの願いを叶えてもいい。
「……本当?うれしいな……すっごく、すっごく嬉しい!
私、学校に友達がいなくて、周りにいる人たちは皆、私のお父さんを悔やんでいた。毎日、私のお父さんのお葬式をしてたよ。そんなに敬っても、帰ってこないって言ってるのに……
で、私ばかりセキラちゃんに押し付けても悪いから、セキラちゃんも2つぐらい、何か私に押し付けて欲しいな。そうしたら、お互い様でしょ?」
私が望むなら……
私が望むなら、クラヒッサが子供のうちは、クラヒッサを守る剣として。
クラヒッサが大きくなって、母親になって、子供を産んだなら……一家を守る剣として。
私を存在させて欲しい。
「……わかった。私の、素敵なお友達。
セキラちゃんの最初のお友達は、どう思っているか分からないけど……セキラちゃんを大事にするよ。だから、私を守ってね」
何日かが経った。
本当にクラヒッサの母親が、人形の私を、夫と思い込んで、色々な愚痴を話している。若干の苦痛を覚える。返事を適当に返してやると、母親は卒倒し、立ち上がっては、
「なんで通信器具で帰ってくるの!?他群地で変な女ひっつかんでる場合じゃないでしょ!ばーか、ばーか!!」と叫び始めた。正直、母親が馬鹿でよかった。
確か、自殺する直前に、秋津群地に行ってくる、と言ったが、本当に信じているとは思わなかった。報道の一つでも聞かないのか……。
そして、クラヒッサが帰ってきて、私に読書をせがんだ。これだけは、私がシュルディンガだった頃と一緒で、変わって欲しくない習慣の一つだ。
クラヒッサが要求したのは……グルケモールという、クィアに伝わる神話の神の話だ。
グルケモールは、自身の子供を人間に殺されて、怒り狂い、人間を滅ぼそうとしている女神だ。その女神が持っている武器が……なんという偶然だろうか、私の名前。「セキラ」なのだ。
しかし、本来のグルケモールは、穏やかで、優しく、温かな体温と、抱きしめたら柔らかく、そして、抱き返してくれるような、愛情深い女神なのだ。と、神話が語っている。
この神話の教訓としては……母親を怒らせると酷い目に遭う、という教訓。子供自身も例外ではないのだが、何よりも、他人が変に手を出したら危ないぞ、と、伝える意味での神話なのだろう。
武器は作った人よりも、それを持つ人に似る。例えば、私の持っていた刃は、悪意を感じるたびに、「早く殺せ」と囁いてきた。きっと同じなのだろうと、クラヒッサの求める音読に付き合って、強く思った。
そして、何よりもの偶然として。
グルケモールの殺された子供の名は、「シュペル」。
私の最初の友達。私を作った友達。私が助けられなかった友達。
本当は、シュペルは、私にグルケモールのような一面を求めていたのだろう。シュペルは自身の母親に気を遣っていて、甘えられなかったのだと。厳しい現実に、少しでも助けが欲しかったから、私を作ったのだ、と。
理解した。ようやく、鍵が全て外れた。
クラヒッサが眠ったら、私の時間だ。私はこっそり、眠っているクラヒッサの体に半分入っては、文章を刻んでいる。自分の経験を、こうして後世に残せるなら、誰かが追体験するならば、きっと誰も、私が生まれる原因を作ったりしないだろう。人間には悪意しかないと思っていたが、善意だって持っているはずだ。私はその、わずかな希望に賭けてみようと思う。
私の名前はセキラだ。大切な親友から、今は亡き親友から貰った名前だ。
私が如何なる姿であろうとも、声であろうとも、匂いであろうとも、温度であろうとも……他の誰でもない私だ。私は私であり続けている。
復讐の環から抜け出して、今は父親として、友達として、守護者として生きている。
私が歴史に殺されない限り、誰も犯罪を犯さない。
かつて繋いだ空想が根を張り、人々が幸せに生活し、子供が育つというのなら、私は喜んで土になろう。高音の鍵は、そこに眠っている。
私を、ここまで読んでくれてありがとう。




