第四節
扉は開かれた 高音の鍵により
衆知せよ 霊魂の秘密を
私の名前はセキラだ。大切な友人から、今は亡き親友から貰った名前だ。私が如何なる姿であろうとも、声であろうとも、匂いであろうとも、温度であろうとも……他の誰でもない私だ。私は私であり続けている。
全てを終わらせに参ろうか。今も私の背後には、赤い月が昇っている。
ガレム=オ=ファーゼン。彼の職業は戸籍屋。
戸籍屋というのは、要するに奴隷の斡旋だ。
金に困った人の名前を売り、それで生計を立てている。いいや、もしくは、彼の家系その血筋が。
かつて約束された金は、人格の保証とともに虚空に消えて、生きていけるかどうかもわからない、我が身を携えて、生きるしかなくなった成れの果てが私。先祖からシュペルへ、そして私へ受け継がれた身分の差。それを作り出すのは、富裕なる者どもの贅沢。底なしの欲。自己愛。自己保存。
働きもできず、かといって誰かと結ばれたり、学も持たず、家も持たず、そんな人々の所有物といえば、臓器か人権ぐらいになる。ただ、そんな臓器を欲しがる者がいるのだろうか?そして、腎臓の一つ失うだけでも、損害になるような人間に、売るという選択は果たして、できるのだろうか?
どちらを選んでも触れられない、未来という名の彫像のために、人は自身の権利即ち「人権」を手放す選択すらしてしまうのだ。買うのは、勿論富裕層。自尊心も何もかもかなぐり捨て、生存に走った人間を買い、飼い、殺すだけ。そこから逃れたとしても、最早何も持たざる身に、未来は重すぎる。結局は、土も手に入らず、道端で。歩道で。人の歩くところで。その他あらゆる場所で、人が死んでいる。
買う人がいる状況もそれはそれで困るが、そもそも売る人が存在しなかったならば、商売という概念は成立しない。売られたならば買う決断ができる。売られないならば、決断をする必要もない。答えは「買えない」からだ。
ならば、私のとるべき行動は、「売れない」と「買えない」の両立だろう。人権を売らなければ生きていけないような世界なんて、いらない。
これが最後の復讐になればいい。
赤い月がそう囁いてきた。
私も。私もそう思う。人間の血はもういらない。
血でできた社会より、笑顔でできた社会のほうが良いはずなんだ。けれども、誰もやりたがらない。笑顔で空腹は紛らわせれども、私欲は満たされない。だから、人は金銭という血液でできた、構成された社会を形成した。違うだろうか?
違うにせよ。違わないにせよ。他に道があるにせよ。どれだけの分岐があったとしても、どれだけの道があったとしても、私は彼を、ガレムを殺しに向かう。
赤い月が次に何と話すのか、私は気に留めないでおいた。
いいや、聞こえていた。
でも知らない。
私は私だから、私の意志を成し遂げるだけだから。
決心してその後。
私は、私の背後に誰かがいると気がついた。
老人ではない。クレイフェンの母親でもない。アヤの両親でもない。シュルディンガの妻でもない。ましてや、シュペルの親でもない。セレラーシュでも……ん?
足音がそっくりだ。言われて、後から思えば。
そう。足音の主は。
ガレムだ。戸籍屋ガレム。男色家。人身売買。血で血を洗い、血の風呂に入り、血でできた清涼飲料水を飲むような、あらゆる人間からあらゆる所持物を掠め取っては、常に自分のために、もしくは、誰か金銭でできた友人のためにしか使わなかったような、吸血鬼。
もしくは、人でなし。
「おおっと! これは若いねえ。
君はどこから来たんだい?」
気さくに話しかけてくる。いいか、私はおまえの劣悪さを全て、すべて知っているんだ。
私たちの頭脳が、心臓が、胃が、小腸が、大腸が、甲状腺が、声帯が、舌が、横隔膜が、肋骨が、大腿骨が、鼻が、肺が、指たちが、脚が、腕が、血液が、目玉が、霊魂が、ガレムを殺せと囁いている。いいや。訴えかけている!
だがまだだ。足音が似ているだけなら、同じ靴を履いている(靴を履いている時点でもう、私としては殺したいのだが)可能性も低くはない。
対話でもして、人物を確定しなければならない。しかし、常用の私のままでいられるだろうか?そもそも、彼と会話は弾むだろうか?もしくは、理解できる内容を話すであろうか?
「細い女の子は良くないね。あんまり痩せてても、良い男引っかからないよ?
お兄さんは心配だな。君のその体型が」
馬鹿野郎が。
おまえが、私達をこの地位に陥れたというのに。
いいや。
おまえの一族が。不当な商売を押し付けて。
だが、本当におまえはガレムか?本人がこんな辺境まで歩いてくるだろうか?
もし、これが誰でもない隠れ蓑のような人間で、ガレムがその後ろで笑って、私の踊る様を聞いているのだとしたら。罪人が断頭台の正面に立つ前にする、哀れな踊りの足音で、腹を抱えて笑っているのだろうか、と思ったら。
疑念なんてどうでもよくなった。
殺せば良い。
悪い人間どもを、皆殺しにしてしまえばいい。
生贄を救う必要だってない。
彼らは彼ら自身の意志の弱さで、自身を縛り付けているだけだから。
最早、躊躇なんて、必要がない!
戸籍屋ガレム。その血、おまえの穢れだ。
おまえの穢れを私は証明してやる。報復だ。報……
「持っておくべきは金の力だね?
愚かな愚かな痩せっぽちの、墓になるしかないお嬢さん?
ねえ?『忌まわしき空想』?」
なぜだ?
なぜ、私を知っている?
セレラーシュが、自身の立場をも投げ捨ててでも絶縁したかった兄に、なぜ私の存在を話すだろうか?信じたいのに。セレラーシュの言動を全て信じたいのに。
これが搾り取るという、男の生きる道だろうか。死してなお、誰かを追い詰めるために。誰かを自分の利益に変えるために。
呼びかけられた程度で立ち止まるようなら、とっくに復讐は成り立たなくなっていただろう。もう一度、刃に手をかけ
「人間が全て良い生き物だと思うから、みんな騙されるんだよね。
そうして疑わない馬鹿どもの集まりが、君の正体さ。
今思い知った?遅いね。
一万年前に知っていたなら、君は生まれなかったのにね!」
一万年前。具体的な数字が出たか、ようやく。
そうか。おまえの一族が、私たちの敵か。
ならば、とるべき行動は
「やっぱり君は馬鹿なんだね。お父さんやお母さんに教えてもらってないのかい?
君はもう、ここから逃れられない。
君の未来も。貧しい奴らの未来も。みんな俺様の手の中さ。
だから諦めて、全部、俺の所有物になれば良い。そうしたら、文化的でない最低限の生活は保証してやるぞ?」
……何を言っているんだ。おまえがこれまで私たちに、先祖に、かつて同等だった彼らに、行った所業と同じではなかろうか。つまり、私の権利だけ横取りして、対価として今までと同じ生活を強いようと言っている。
おまえの属する集団の中でなら、恥ずべき行為である。対価を与えず物資のみ受け取るのも、物資のみ受け取って金銭を支払わないのも、本来ならば恥ずべき行動である、いいや、そうでなくてはならない。そのような法則さえ無視される世の中に、期待しろと言われても、私は絶対にこの取引を飲まない。だって、同じじゃないか、これまでと!
私から考えるならば、ガレムの方が馬鹿だ。
彼は当然の法を無視して、自身の敷いた悪法に酔いしれている。おまえには適切な罰が下るだろう。
例えば、十回の生を受けてなお終わらない刑期の刑罰、またはその期間内の強制労働。
例えば、死ぬまで苛まれ続ける空腹感、喉の渇き、体の重みを体験し続ける刑罰、またはその期間内の強制労働。
例えば、生まれてから死ぬまでの全ての人生の時間で、聞いた言葉が全て自分の悪口になり、葬式では根拠なき誹謗中傷を受け、土の中に放送装置を埋め込んで、死んでからも永遠に、この世界がなくなるまで誹謗中傷され続ける刑罰。
これら三種の例の統合で、ようやく一世代分の重み。
それを少なくとも百回は、多ければ五百回は繰り返すだろう。
それでようやくおまえの罪はどうにか晴れる。ただし、魂の一点の汚れ以外は。
彼の先祖がまだ引き返せるうちに、どうして誰も咎めてやらなかったのか。早いうちに警告しておけば、シュペルのような恵まれない子供も、数は少なかったはずだ。
そのうえ、一族の末端で、責め苦を受け続ける必要もない。早いうちに罰してやれるなら、周囲にとっても本人にとっても良い影響しか及ぼさないはずなのに、周囲はそれを裏切った。
ガレムに対する返答を考えるうち、ふとシュルディンガの遺した言葉が通りかかった。
『議会は議会長ではなく、参加する皆が作るものなのだ』と、シュルディンガは書いていた。
議会という言葉を社会に変えたとしても、この言葉は鮮やかな意味を嗅ぐわせ続ける。
『社会はⅩⅩⅠではなく、参加する皆が作るものなのだ』と。
深く考え続けた。
粗探しをしすぎて、自分の存在自体が粗に変わってしまうところまで。
杞憂に過ぎなかった。ガレムはずっと粗でしかなかった。
考えるための力をも、こいつには使いたくない。答えは既に決まっていた。理論が必要だった、ただそれだけだ!
「へえ、君は馬鹿どもの中でも、特別に馬鹿じゃないらしい。
さしずめ……その思考能力。その言語能力。その空想能力。
例え神が微笑んだとしても、手に入りようもない、活かしようもないその能力で。
俺の食い扶持を否定しよう、とでも、言うのか?」
元より、そのつもりだ。誰かを犠牲にして得られる権利なんて、間違っている。
私の影がガレムを覆い尽くしている。土に反射している、赤い光を眩しく感じた。普段なら眩しく感じないはずなのに、いいや、光すら感じないはずなのに。
今なら見える。
赤い月の光に怯えて、カンプが閉じている。太陽と月の違いなんて、私には分からないはずなのに、カンプには分かっていて。彼らは大地の冷たさに身を閉ざすのではなく、月の光の冷たさに身を閉ざしているのだと。
鼓動が聴こえる。命が噂話をしている。私が討つべき悪の、謂れのある噂話。証拠のある悪口が。まるで、ガレムの一族に虐げられた先祖と、踏まれた大地の生き物どもが、私の感覚器官に置換されるように。全てがあった。
こんなにも五感が冴え渡っている。日常的に使わない機能すらも目覚めている。
ここが、私にとっての、決して逃してはならない、一種の━━
私は、刃物を振り下ろそうとした。
我慢なんて、とうに振り切った。
刃物を振り下ろす。
ガレム、おまえの急所を━━
「はーい!現行犯逮捕ー!!
このみみっちい、痩せっぽちの少女が犯人でーす!
国家の犬きれ共、捕まえてごらんなさい!」
何故、出会った瞬間に私を捕まえなかったのか。
何故、決意した瞬間に私を捕まえなかったのか。
全てが謎だったが、今にして思い知る。
誘っていたのだ。私の刃を。
証拠が必要だったのだ。私を追い詰めるために。
私を煽って、自分を殺させようと思わせて、その裏では警察を雇っておいて……
罠だったのだ。
確かに私は、大罪を犯してきた。通常の世界なら、このような……種子が芽を出し、双葉を出して、枝葉末節まで出して、蕾を持って、花を咲かせ、実を持ち、熟すまで待たずとも、枝葉末節の段階で、もしくはもう、種子の段階で間引くだろう。
確かに私は、諸々の件を隠蔽できるように進めてきた。ラヴァッセ、エレイディナ、シュルディンガ。どれもが、「私」、セキラを認識しなければ、犯人の特定もできないような手段。隠すならば、いずれの日にか明らかにされる必要がある。
それが今だと言うのだろうか?
だから、普段持たない感覚があったのか?
結局、私と言う自我は、社会構造には勝てなかったのだ。
打ち勝てなかった私では、誰かの心に熱を授けられない。
腕輪をかけられた瞬間、大人しくなった私自身が、あまりにも小さな存在に思えた。舌を噛み切って死ねないように、厳重に口枷までされて。
耳には栓を。鼻には炎を。
粘膜を焼かれる痛みはない。ただ、これまで家族のように慣れ親しんだ感覚と別れるのは、四肢を切断される絶望と同居していた。離婚して出て行った嗅覚は、失われた右太ももと幸せな家庭を築いていた。
狂っている、としか言いようがないほどに、私を無力化しようとする人間共がいる。
それだけ、私の存在は、彼らの社会構造に相応しくないらしい。
ごめんなさい、セレラーシュ。
貴女の願いは、叶えられなかった。
そして……ごめんなさい、シュペル。
私の、最初の、最高の友達。