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第二節

百の掠手から逃げて、もう一度腹を聴く。

「お主……お主は、もしや同族か?」

 明らかに老いぼれた男の老人が立っていた。


 誰だ?

「もう、名前も捨てた世捨て人だ。そんなことより……

お主は、なんとも美しい」


 美しくなんてない。この老人は、私の声を聞いたわけでもない。私の魂が見えているわけでもない。そして、この「魂が見える」と言う感情が、また私にセレラーシュを思い起こさせた。私が殺した、私を好いてくれる人。私が殺した、私を欲した人。私が殺した……

 刻み込むとは、このことだったのだろう。


「名は、まだあるのか?」

 私は……私の名前はセキラ。今はこの通り、誰とも知らない幼子の体に入っている。私がどのような姿でも、声でも、温度でも、……私は……私だ。私は、私のままであり続けている……?


「相当、疲れているようじゃないか?少しくらいなら、飲み物もある。熱はわからないかもしれないが……こんな老人に付き合ってくれないか?」

 疲れてなどいない。確かに、シュルディンガの時から、今まで、休息は取っていなかった。けれど魂の熱があるから、私は……いや、そんなことはない。こんなに痩せた体を動かすには造作もないからだ。私は疲れてなんかいない。

「短期間で乗り移り過ぎるとそうなるぞ。

性格の違う他人を演じて、今までとは違う環境に移る、どちらかだけでも相当な負担なのに、どちらも背負っては疲弊どころじゃないだろう? お主は休むべきだ、セキラ」

 私の名前を言い終わるのと同時に、この軽い体を持ち上げて、どこかへ運んでいった。新鮮な風。そして、セレラーシュを苦しめた兄への復讐の刃が、鈍りかけた。


 質素な、とても質素な家だった。服もあまりなく、食器や調理器具、家具の類もそこまでなく、まるで宿泊施設のような様相をしていた。いや、そのものだった。

 老人は粉末状になったぺぺリーの袋を取り出して、先程から鍋で温めていた動物の乳に一振りいれて、渦巻きをかき混ぜて、私の前に置かれた。鈍く木材の音が鳴っていた。

 優しくふわふわとした匂いがする。確か、クレイフェンだった時、寝る前に良く飲んだものだ。時間はそこまで経っていないだろう、けれど私には……長すぎた。

 舌の上に乳が乗っているのだが、やはり味がない。セレラーシュ……忘れようとしても、彼女の名前を思い出し続ける。乳は血から作られるという知識があったせいか。本来はとても美味で、誰でも飲めるようなものなのに、どうしても私には、過去を思い出させる音叉にしか思えなかった。


「落ち着いたか? その様子だと……」

 ああ、全く落ち着いていないらしい。本当は、全てに対して悪く思った方がいいんだ、ラヴァッセのことも、エレイディナのことも、シュルディンガのことも。けれど、個人的な関わりがあったと言うだけで、セレラーシュのことだけを気に病み続けるのは違う……と思っている、私がそこに座っていた。老人は軽く私の肩に触れ、温厚に、拍子よく私を慰めるように、手を動かしている。

 話そうか、でも怖いな、ああ、

 また「私を殺して」と言われるのなら、もう誰とも会いたくない、誰とも話したくない、誰も殺したくない。二度と離したくない。この手から、まだ血の匂いがしている。ずっとセレラーシュの、あの血の鉄らしくぬめりける鮮やかな匂いが、鮮烈な湯気が、頭から離れない……


「殺すも何も……もう死んでいるから、これ以上に死ぬことはない。だから同族だと表現したんだ、セキラよ」

 つまり、私と同じように、別々の体を動かして、そうして生きてきた……先生。一体幾つの人間と出会ったことか、一体幾つの人間と話したことか、けれどなぜ、同族はこの老人以外にいなかったのか!

 私は疑問を投げかけた。もう、これ以上抱え込むには限界だ。


「大体は、お主と同じ通り……ただ、この世捨て人の老人の身では、最早誰も気に留めまい。要約すれば、社会生活のために、隠し通しているだけだ」

 自分の正体を意気揚々と自信ありげに語る者は10割が詐欺師である。クレイフェンだったころに教わった言葉が頭をよぎって、そして帰った。

 ともかく。私は同族と出会えた奇跡に悶えるべきなのだ。そして、同族だからこそ話せることを話すべきなのだ。例えば……そうだ。


「何でもいい。何も聞かなかったことにしておくから、何でも話していい」


 この刃が愛欲に鈍ってしまう前に、もう一度あの憎悪を呼び起こさなければならない。だから、遠い日の、近くにある私の根源を、話していった。



 私は、シュペルという最貧困の中の子供の空想だった。

 雨風凌ぐ家もなく、寒い時は寄り添って、暑い時は涼しさを求めて動いて、耳に聞こえるほどの血液もなかった。けれど、いつだって暖かかった。

 シュペルの父親が、たまにイテルフ札を見つけて、すぐさま拾ってから、市場に行って、たった一つばかりのフェウバをこさえては、ただシュペル一人に食べさせていた。最初はシュペルも、自分だけがと思って遠慮していた。けれど、あまりにも父親が、真剣そうな声で願うものだから、シュペルは罪悪感を抱きつつも、常に飢えている子供のことだ、一口で平らげてしまうのであった。

 この都市の中で、草や虫を探すにも一苦労な中で、家族は土くれですらご馳走として食べていた。最早、富裕層のような食事なんて、消化できなかった。この私でさえ、今までの人生の中で、クレイフェンの頃に食べたバイシューへや、キェーンの唐揚げや、フェウバの野菜盛りよりも、シュルディンガの奥さんの作る料理よりも、セレラーシュの菓子よりも、そして彼女の血液よりも……家族で探して食べた土くれが一番美味しかった。土だけが、私たちの味方だった。


 シュペルの父親が、柄の悪い大人共に蹴り殺された。シュペルを守ろうとして、細い足で立ち上がって、けれどすぐに崩れて、腹のあたりを蹴られ……腹も背中も変わりないような状況であったところを、肋骨を折られて、中にある、意味を成さない内臓どもが最期を奏でて、そして、消えていった。

 脆かった、あまりにも脆かった。それでもシュペルは逃げた。シュペルの母親と一緒に、まだ歩けるシュペルが、母親を抱えるように。


 シュペルの母親は、当たり前のように血の出ない股間と一緒に、いつもシュペルのために食事を探してくれていた。勿論、シュペルも精一杯になって探した。互いが手に入れた成果を味わった。時にどちらかが実らなかったら、どちらかが差し出す運命だった。けれど、シュペルが手に入れた食事を、母親は拒絶して、シュペルが食べた方がいいと、押し付けるのであった。もう、息も絶え絶えだった。

 そんなに遠くない。シュペルの母親が倒れた。もう起き上がることもできなかった。ただ、道の中に、骨そのものがあった。内臓の熱もどこかへ過ぎ去っていった。虫の一匹も湧かないほどに、母は骨になっていた。


 あの時食べたフェウバが忘れられなくて、シュペルはついに禁忌を犯した。

「市場のフェウバを盗むこと」。

 これまでシュペルの家族が、意地でもやらなかった行為。

 死ぬ前に一回だけでも、あの果実が食べたかった。その思いが私にも伝わったから、あの時は何も咎めることはしなかった。とうに限界なのを知っているから、最早意志通りに生きて、死ぬしかなかったからだ。

 何回かは成功して、シュペルは鮮烈な実を大事に大事に食べていた。私はそんなシュペルから、満足感や幸福感よりも、何よりも罪悪感があることに気づいていた。

「できるなら、盗みなんてしたくない。もっといいことでお金を手に入れて、お金でフェウバを食べたい」と。

 シュペルの儚い願いは、ついぞ叶わなかった。そのことを見えていて尚、私は応援していた。


 禁忌を犯して幾日かが経って、シュペルは刑罰を受けるようになった。最初の何回かは耐えれた。引き裂くような痛みも、私がいたからと、受け入れるように愛した。シュペルはもう、何かあるならそれが人間という生命に不快でも構わないとさえ思っていたかのようだった。

 私と笑いあっていれば、シュペルは何でもなかったように振る舞えた。


 それから解放されて、少しずつ頭が回らなくなっているシュペルに、私は

「また盗みに行こう、今度は成功する」と呼びかけた。

 ここで呼びかけずとも、死ぬのはわかっていた。だから、最期くらい甘酸っぱい味をしっかり、味わっていて欲しかった。


 なのに、味わったのが苦しみの味だったなんて。誰よりも救われてほしい子供が、どうしてこんな仕打ちを受けなければならないのか。

 私はそれから、シュペルから分離してから。クレイフェンとして生きてから、アヤとして生きてから、シュルディンガとして生きてから、そしてここまで来ても尚、原理はやっと掴めたのに、理由だけはどうしても、知ることができなかった。

 どうしてシュペルが苦しまなければならなかったのか。貧困に、雨風に、暴力に、差別に、飢餓に、規則に、そして自分の罪悪感に。

 そのくせ当のお偉い様方は何に苦しむこともなく、何に喜ぶこともない。ありふれた喜びの中で、まるでありふれた苦しみを娯楽にするように。


 そして、一つ思い出すことがあった。

 別に、私は……今の富裕層を貧困に陥れて、シュペルの気持ちをわかってもらいたいわけじゃない。それでは結局私もシュペルも無駄死にだし、結局社会も流転するだけだから。

 私は……ただ、もう二度とシュペルの苦しみを生みたくない。シュペルのような、生まれることでさえ呪うような子供をこの世から消し去りたい。折角生まれてきたのだから、自分の意志を実行して欲しい。


 富裕層への個人的な復讐ではいけないのだ、もっとこう、この社会構造を形成させた、人間の本能のようなものに刃を向けるぐらいでないと、私の意志は実現できない。

 本当に、セレラーシュの言うように、彼女の兄を殺すだけでいいならば、あまりにも楽すぎる。あまりにもできた話すぎるのだ。だから、最終的には、人間全体に意識の改革を起こす必要があって……


 いや、そのために有用なのだ。

 ラヴァッセ、エレイディナ、シュルディンガ、そしてガレム。

 彼らに向けた刃は無駄になんかなるはずがない。だって、それを聞いて少しでも救われたような気持ちになる人がいたなら、私の存在意義が果たされるのだから。



 話している間、老人は質問をすることもなく、ただ私の存在を受け入れるだけ受け入れて、何も言わなかった。セレラーシュは質問を私にすることもあったが、今は老人のようなやり方の方が気が楽だった。

 それもそのはずだ。


「ところで、セキラ」

 開かれないと思っていた、老人の口が開けられて、中から思いがけない言葉が飛び出した。


「お主は、知らないようだが……思想警察につけられているようだ」

 思想警察?

「社会の変革をもたらしてしまうような人間に対して、尋問のために駆り出される哀れな公務員どものことだ。……なに、世を捨てた老人が、お主を捕まえるはずがあるまい」


 恐ろしさよりも嬉しさが優った。

 だって、私の理想を思想であると証明したも同然だったから。その割に私の体は立ち竦んだままだ。嬉しいはずなのに、どうにも体が言うことを聞かない。

 さらに老人はこう言うのだ。


「セキラや……しばらくここで暮らすが良い、お主のおかげで、これ以上罪を重ねずとも、社会は流転するはずだ……だから、もういいんだ、ゆっくり休んで……」

 それで、本当に、社会の変革は成り立つだろうか、もっと消さなければならない人間がいるのではないか。老人は私を気遣っているように思えるが、実際のところはどうなのだろうか。


 いいや、どうしても、どうしてもでもガレムは殺さなければならない。思い出した。

 彼の先祖が、シュペルの先祖たちを、今に陥れたことを。清貧に暮らしてきた先祖が、なぜあのような仕打ちを受けなければならなかったのか。証人はもう誰一人としてこの世にいない。

 私がただ一人いて、その復讐を果たすだけ。

 セレラーシュの願いなんて今はもうどうでもよかった。私は私であるだけなんだ。

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