第四章 第一節
赤い太陽こそが、私の所業を嘲笑う。
私の名前はセキラ。
シュルディンガの皮を被っていた。
私が如何なる姿であろうとも、声であろうとも、匂いであろうとも、温度であろうとも……他の誰でもない私だ。私は私であり続けている。
社会の諸悪であったシュルディンガを二回も殺せたなら、最早肉体の身分なんてどうにだってなると思えた。だって、私は……
誰でもいい。
物質として肉体があるなら、もう何だって良い。肉体の身分なんか、今の私にはどうでも良い。そもそも死は平等なんだから、身分関係なく訪れるんだから。
人間の愛も悪意もどうでもよかった。シュペルが生まれてくるような環境を無くしたいだけ。それができるように法を整備するだけ。
富裕層に入って、集団自殺させて、問題提起をさせようか、それか、貧困層を煽動して法の更生を求めようか、どっちにしろできる心算はあるし、そして、そのうちまた元に戻ってしまうのを知っていた。
外圧で変化した社会は、内圧によってまた変化するしかない。例え他群地に攻め立てられて、この体制が敗戦によって終わったとしても、人口が回復したらまた、この歪に美しい三角を造り上げるだろう。
だから、もう肉体の身分なんて関係なかった。
私はそこな大通りで人知って倒れていた、放置された幼子の肉体に入り込んだ。
シュペルよりは軽くないが、これまでの太った富裕層よりは動かしやすいほどに脂肪が落ちていた。おそらく死因は感染症の類で、この女児は幸いにして、早い段階で苦しむことなく死んだのだろう。免疫がなかったというのだ。
感染症の元凶たちは、最早この体では増殖できないと、さっきの大通りに去って行ったらしい。できることなら道行く人を感染させてやろうと思いもしたが、死んでから一週間ほど経っているらしい。なるほど、だから若干耳が遠いわけで、頭も鈍りやすいのだ。
いつものようにこの肉体に値踏みしていると、遠い耳から音を拾った。
「セキラちゃん!! こんなに細くなっちゃって……私だよ、セレラーシュお姉さんだよ!」
セレラーシュが近寄って、私の手を取る。そうすると彼女は自分の頰に押し付けて、硬い感触を楽しんでいた。
「やっぱり、冷たいね、セキラちゃん…… 私ね、これからお家に帰るの。 良かったらおいで? 暖かくしてあげる!」
ということは、私は女児の体か。
とりあえず、このままだと貧困の子と思われかねない、というより現状がそれなので、富裕層に聞こえるように服は欲しかったので、ついていくことにした。
セレラーシュの家は、簡素な造りの邸宅だった。広さは兼ね備えているが遊びのない家だ。フェアラカへに勤めている以上、どこかで息抜きをしなければならないはずなのに、そういった構造のものが無いように思えた。ならば外で茶でも、飲んでいるのだろうか。
それから、セレラーシュに手を引かれて、彼女の家を案内してもらったが、驚くことに説明もなく、無言で、ただ荒い息遣いが聞こえるだけだった。何かに興奮しているのは自明であった。
おそらく就寝室だろうか、備え付けの寝台に押し倒され
「ねぇ、セキラちゃん」
逃げられない。
彼女の興奮が激しく、私の方まで熱が伝わってきた。おそらく頰も溶岩のように熱いのだろう、フェウバの実より甘く酸味のある、セレラーシュの顔が、私の首の右を掠めた、そして、
「私のために生まれてきてくれてありがとう」
はっきりと、聞こえるように、セレラーシュは私の耳元で囁いたのだ。
気味が悪くなって離れようと、この細い腕で引き離そうとするも、そこにも金の差があって、私の腕の方が折れそうだった。セレラーシュの体型が肥えているわけではない、この体に筋肉が付いていないだけだ!
たったそれだけなのに、いいや、たったそれだけで、こんなにも惨めな気持ちになるなんて。
彼女は私を組み敷くように配置すると、かつて彼女がしたように両腕を広げ、彼女自身の決して小さくはない柔らかい胸を開放した。
「いつだったか……セキラちゃんを抱きしめてあげようって思ってたのに、セキラちゃん逃げるように帰ってったじゃない?
だから、いいや、そうでなくとも、この日を待っていた。
セキラちゃんを、何度生き返っても愛し尽くせる日をね!」
私の思考にまで、セレラーシュの柔らかさに圧迫される……ああ、それはアヤだった時か、あの時の催促は、あの時の仕草は、そういう意味だったのか。
気づかなかった、いいや、こんなことになるくらいなら気づけたほうが良かった。そしたら、セレラーシュを避けて、私は私の欲求に従うだけなのに。
どうして、彼女は私を好きになったのか……
「シュペルのほうを好きになって欲しかった? 駄目だよ、セキラちゃん。だって、あなたは私にこうして愛されるために、シュペルに創られたんじゃないのかな?」
そんなわけあるか。そんなわけが……ないだろう?
もしかすると私が今も触れられている、このセレラーシュは、いつも接するセレラーシュとは別人なのかもしれない。フェアラカへで接していたセレラーシュは、いつも落ち着いて、私の話を聞いてくれていた。
セレラーシュだけが私が肉体の識別記号ではなく唯一の『セキラ』個人であることを証明してくれた。
こんな、押し付けがましい人間なんかじゃないはずだ……いいや、
兆候は確かに存在していた!
『そう言って、彼女は私を抱きかかえる。この柔らかい羽交い締めの前に、私は無力だった。年代の女子が、父親からの抱っこを求めるような、不可解な魅力だけが、私をここに括り付けて、離さなかった。恐ろしかった、そして同時に、求めていたことが怖かった。「もう演技する必要なんてないよ。少なくとも、私の腕の中ではね」』
『「あの子」「セキラちゃん。体を変えてから、真っ先に私の所に来てくれたの?挨拶に来てくれた?……嬉しいな。またあなたとは、お話がしたかった。」「セキラちゃん、私はあなたがいることが嬉しい、でも、もう自殺だけはやめてね」「セキラちゃんと話す分には、大丈夫……できれば、次も女の子だと嬉しいな」「セキラちゃん。もっといっぱいお話ししようね、そしたらあなたのこと、私も、勿論あなたも!解ってくると思う、から」「良い子のセキラちゃんならわかるよね?」「「良い子だよ」「やっぱり良い子だよ、セキラちゃん」声が近くから聞こえると思った。実際に、近づいていた。すぐ隣に。息を荒げている。そんなに、向かい側からここまで来るのに体力がいるのか?あちら側の椅子と、私の座っている方の椅子の間には、私一人分の距離しかないというのに。つい可笑しくなって、セレラーシュの頬を触ってみる。─熱い。最後に、セレラーシュは両腕を広げて、立ったままでいた。最初、両手を振るのかと思っていた、けれど振らなかった。私は不思議に思いながらも、ここを去ろうとすると、セレラーシュは、受付にいた人たちと同じように、俯いてしまった。「セキラちゃん、また……お別れになっちゃうの?私は待ってるよ……」』
すべて、すべて、すべてが。
彼女の血の全てが、私への愛だったらしい。恋だったらしい。そして性欲であったらしい。
ずっと、セレラーシュはこの日を待っていたのだろう……これ以上に掘り返そうと思えば掘り返せる。彼女の言っていた菓子の材料に、明らかに媚薬の材料が混ざっていた(ぺぺリー粉やキェーンの卵以外全て催淫作用のある香辛料や香味料と明らかな媚薬だった)し、おそらくこれは「そういうこと」にしか繋がらない。
私の体の冷たさに文句を言うくらいなら、生きている柔らかな女性と結ばれれば良かったのに、何を好き好んで私、セキラの魂を好きになったんだ?
「人間の女の子って、すぐに死んじゃうから。
私だってそうなのだけど、少なくともこれまで私が愛した、そして愛された女の子たちはみんな早くに死んじゃった。みんな病弱だったから。
でも、セキラちゃんは既に死んでるんだから、もうこれ以上死ぬこともないし、セキラちゃんが死にたいと思わない限り、ずっと私とお話ししてくれる。
ずっと私の胸で寝てくれる。私の胸の中を寝床にしてくれる。
とっても素敵なことなの、私にとって」
ゆっくりと、子供に言い聞かせるように私に語りかけた。私の頭を撫でながら、背中を撫でながら、拍子よく触られて、それから撫でて、セレラーシュの柔らかな唇を、私の頰に寄せて。
砂糖の海に溺れながら、肺まで砂糖を満たされて、循環する血液も、全身の細胞も、感じる全ても、意識も砂糖に変わっていくように甘ったるい世界に来てしまった。ここから逃げなければ糖尿病になってしまうぐらいに、いいや、もうなってしまっただろうか。私はまだ正気を保てているだろうか。
「いい子、いい子。
こうするの、ずっと夢だったよ……セキラちゃん、あなたは可愛らしいから、こんなお姉さんに愛されるしかないのよ」
もう限界だ。溶けきってしまう前に、何か手を打たなければならない。この力のない体では、セレラーシュを追い返すのは難しい。せめて何か刃物があれば……
右手に木のような感覚がする。箪笥のようだ。何かないものか。鋏でもいい。セレラーシュに気づかれないよう弄って、私は右手に鉄のような感覚を覚えるまで弄り続けた。気づいていないはずがない。もしかしたら、
私に殺されるのを、待っていたのではなかろうか?
「セキラちゃん。
私はね、ファーゼンって家の第二子なの。糞お……
兄が家督を貰ったから、私は富裕層とは言えないの。
だって、全名が『セレラーシュ=ファーゼン』。
富裕層の人には、姓と名の間に『オ』ってつくのは知ってるかな?」
刺してもないのに身の上話をし始めた。相当な変態だな……同性を愛することが問題なんじゃない、同意もないのに襲うのが問題なだけで、同意のあるならば恐ろしくなんかない。
「兄は、まあ、私と同じように、男を好きになって、
貧困層で気に入った男を拾ったら、自分の家に持ち帰って男娼にしちゃうの。
でも……セキラちゃんは知ってるはずだよ、私が男嫌いってこと。
だから別居したの。だから、家督だっていらなかった」
お前も同じようなものじゃないのか?
「私は媚薬を混ぜはするけど、ほとんどが持続しない、
一日限りのものだから。
それに兄は、持ち帰った男を皆、娼館に戸籍ごと売った。
つまり、血統書付きの物を売り買いするように、
人間を売っていたの。
私はそんなことしないよ?
いつまでもセキラちゃんは、私に囚われていてほしいから」
つまり何が言いたいんだ、普段のセレラーシュのように、明快に話してほしい。もうこの時間を続けたくなんかない……
「そっか。
……回りくどい言い方してたよね、
ずっとセキラちゃんと触れ合っていたいから、
ずっとセキラちゃんの魂の炎で燃やして欲しかったから……
いいよ、おいで、その護身刀で」
「私を、殺して?」
どうして。そんなこと……望まないで。
できるなら殺したくなんてない、私はこの柔らかな牢獄から出たいだけ。
この愛から逃げたいだけ。
刀でも突きつければ手を離すだろうとは思っていたが、まさかこの想像が甘いものだったなんて。離しもしなかった、いいや、むしろ強く求めていったじゃないか。
そういう今でさえセレラーシュは私を離そうとしない。私を最期まで抱きしめていたいかのように。私の魂に「欲する心臓」を深く刻み込むように。
「殺して。早く。
セキラちゃんの冷えた心を溶かせたかな?
でもセキラちゃんの魂は熱くて、私は燃やされちゃった。
だから私、セキラちゃんに、燃やしてくれたお礼がしたいの。
セキラちゃんを暖めてあげたかった。一緒に燃えたかった。
私の欲する心臓の音を聴いて。私の心臓はこう欲しているよ?
『セキラちゃんが最後に触れ合うのは私、セレラーシュでありたい』って。
セキラちゃんはずっと生きてられるんだから、
私のことを時々は思い出して、私の腕の中を思い出してしまえばいいの。
甘い欲を、全てが終わったら貪ればいいの。
私、あなたの魂に傷をつけたい。これが、私からのお返しだよ。
私の呪いがこれ以上増す前に、セキラちゃんは、
私を殺すべきだよ、これまでみたいに」
でも……怖い。
これまでは、自分に接点がなかったから、情を抱かずには済んだから、殺せていた。セレラーシュがいない世界なんて……鼻を色めかせる花がたちどころに消えてしまうように恐ろしい。
人を殺すのがこんなに苦しいなんて。それも、親しかった人を殺すなんて。
重荷に耐えきれなかった、けれど、言い訳になんかならない、私の意志のみで、セレラーシュの背中に護身刀を突き刺した。
途端、セレラーシュは絶頂したかのように喘いで、私にもたれかかる。私の手にセレラーシュの上気した血液がかかる。その実、セレラーシュはまさしく、快楽を覚えていた。
「これが欲しかった!
……なかなか死なないところを刺すなんて、
セキラちゃんも鬼畜だね……嬉しいな、セキラちゃんに入刀してもらうなんて。
セキラちゃんの刺した刀、とっても熱いよ……
大好き。私が死ぬまででいいから、抱かせて」
セレラーシュの締め付けも、声も、少しずつ力が抜けていくのがわかった。この時点で私は逃げられるのだろうが、セレラーシュを最期まで満足させたいからなのだろうか、体が動くことはなかった。
「最期に、聞いてくれないかな……?
私の兄、『ガレム=オ=ファーゼン』を……
私の仇のように、殺してくれないかな……?
あとは奴さえ殺せば、社会はどうとでもなる、から……」
セレラーシュの傷口を避けて、でも血は避けて彼女をそっと抱きしめる。この刀を抜けば、セレラーシュは出血多量で死んでしまうし、このままでいても刀そのものの重みで体を貫かれてしまう。
丁度、私のところには刺さらない、というのが、より悲しかった。
セレラーシュの呼吸も少しずつ弱まってくる。熱もどこかに去って行ったらしい。彼女の心臓も、遠くにあるかのようだった。力も弱まってきて、シュペルでも抜け出せるぐらいに緩くなった。それでもセレラーシュは、私を離そうとしなかった。私もまた、離したくなかった。
「セキラちゃん、ありがとうね……
愛してるよ……」
遠のきつつある声で、虫の息のような声を私の耳に残して、セレラーシュは死んだ。
彼女の柔らかい体ももう、主人はいない。できればもう少しそばに居たかった、けど、こんなにしてまでセレラーシュは、私に頼みごとをしてきたのだから、成し遂げなければならない。
悲しさを撒き散らして、主のいない家を歩き回る。少しでも裕福に思わせるために服が欲しかった。セレラーシュの、暖かい血を流すのは勿体無かった。
かつて会った時に、セレラーシュが着ていた服を選んだ。少し大きいが、むしろそれが丁度よかった。
それから、頼みごとのために、本当は残しておきたかったけど、武器は大切だから、セレラーシュの亡骸が大切そうに、傷口に咥えている護身刀を抜く。まだ、血は残っていたらしい。
そして私は護身刀についたセレラーシュの血を舐めた。……味覚を感じられないのが、こんなにも苦しいことだなんて。
私は主人のいない家を出た。
ガレム=オ=ファーゼン。
その名前を忘れないように、聞こえないように呟きながら道を歩いていた。そいつがどこに住んでいるかまで聞けなかったうちに殺したのが悔やまれるが、私なら殺せるだろう。
決意し、セレラーシュの護身刀を改めて持ったその時だった。
「お主……お主は、もしや同族か?」
明らかに老いぼれた男の老人が立っていた。
誰だ?