第三章
首よ! お前もまた敵だ。
私の名前はセキラ。アヤの皮を被っていた。私が如何なる姿であろうとも、声であろうとも、匂いであろうとも、温度であろうとも……他の誰でもない私だ。私は私であり続けている。
エレイディナを完全に破壊した私は、私の肉体もまた破壊した。それから次の肉体を探そうと思ったが、次の肉体自身が社会の諸悪の一角だったとは……
今回も成功したらしい。私の目的は果たされていた。そして、次のための私を探そうとして、疑問に思ったことがある。
アヤの下に誰かがいる。胎児ではない。大きな男だ。
男……か。
しかしこれは都合が良い。いいや、シュペルの死以外都合が良いことばかり起こっていた。いや、シュペルが死ねたからこそ、世直しをする私がここにいられるのだと思ったが、悪い想像だった。この考えは持ってはいけなかった。
前まで動かしていたアヤの体にはもう入れない。ならば下敷きになったこの大男ならどうだろうか?私の生の中で、ずっと女の体を選んできたから、慣れることができるだろうか、と心配もした。しかし呼吸もできない中、長々と考えるのは良くない。
いいや、それもまた都合が良かった。この男は、私が長々と考え続けたお陰で息を絶やし、意識を失い、心臓も止めた。
利用するしかあるまい。
起き上がった新しい私はまた、自分の体を確かめて、何か身分を示すものがないか探してみた。小気味の良い音と一緒に、人工石造りの道に名刺が落とされた。
周りに人はいないから、ゆっくりとでも確認できた。こういうところも都合が良いと思ったが……
─シュルディンガ=オ=スレーレ─
クレイフェンだったころに聞いた、議会長。それでいて、議会の中で意見を操作できる程の権限を持ちながら、自分の身を保つ為に貧困が拡大する社会を容認した、諸悪の一人。
なんてことだ、私が……そんな。
彼はここから家に帰ろうとしていたところを、アヤの余波に殺された。家に帰ろうと思うあたりに、家族がいるか、脅されているか、現状に疲れているか、それともただ単に帰りたいだけなのかの4つの考えに分かれる。この分岐点自体に私は干渉できないと思うし、真実を知ることはもうできないし、理由が違っていたとしても事象に変化はない。つまり知るだけ無意味だ。
彼の所持品を確かめてみる。彼には妻と、死んでしまった時のシュペルと同じ年の娘がいて、どちらも悠々と太っているらしかった。比較対象がシュペルなのは、あまりに残酷なことだったろうが、これまで経験したクレイフェンやアヤよりも、太っていた。それでいて健康的に触れた。
次の議会はいつだろうか?少なくとも今日ではないことは知っている。もし今日であったとしたら、シュルディンガは家に帰ってはいないし、こんな時間に議会があるなんて、想像が総辞職してしまう。新しい想像を再結成しなければならなくなる。解散総選挙はまだまだ先なようだ。
議会の題は「予算の分配、それによる経済活動の総合操作」であった。予算、これはクィアの政治に関わる費用なので、人民の生活には関わりようがないと考える。しかし、この予算が道路の修繕に使われていることを知っているので、無下にはできない。直接人民の生活に関わるのは、そしてこのような歪な社会を作っている根本の原因が議題の中に入っていたのだ。
シュルディンガが諸悪の一人なのではなく、あくまで諸悪は議会そのものであって、社会の空気そのものではないか、さらに言えば「自分さえ良ければいい」と考える民衆こそが諸悪の根源なのではないか、と考えるが、最終的に思考の紐が結ばれたのはセレラーシュの声だった。
……違うよな?
クレイフェン以来、私は最初に会う人をセレラーシュにしたいと常々考えていた。それだけ私にとってセレラーシュは特別な存在だった。肉体だけで判断しないで、私を「セキラ」として扱ってくれる人間は、セレラーシュの他に一人もいない。ただ、彼女の能力が特別な存在たらしめるのではなくて、それよりも彼女の話し方、接し方の方が重要だった。もし、ラヴァッセやクレイフェンの母親やエレイディナの上司が、セレラーシュと同じ能力を持っていたとしても、私は結局、セレラーシュを選ぶのだと思う。
これまで同性の肉体を選んできたから、異性の肉体を動かすのは初めてだ。私からの、セレラーシュへの思いは恋ではないと分かりきっていた。心臓を捧げる気にもなれないし、目玉を捧げる気にもなれないし。それ以外の不躾な恋の形も。十分だった。私は死体でしかいられないから、生殖なんてできない。セレラーシュが生殖に対してどのような思いを持っているのかは知らないけれど、でも生殖ができる方が彼女にとってはいいのかもしれないので、この際幻滅して欲しかった。
フェアラカへは慈善事業ではなくれっきとした商売なので、客を離すことは許されないんだろうけど。それで、セレラーシュみたいな接し方をして、引き留めようっていう魂胆なのだろうし。
このようなことをぼんやり考えながら歩いていると、セレラーシュのいるフェアラカへに辿り着いた。
「シュルディンガ=オ=スレーレ! こんばんは! 貴方がここにいらっしゃるとは!」
受付がやっぱり違った。
私の名前を大声で叫ばないでほしかった。この名前を聞くだけで、項垂れの頂点がさらに下になる人間なんて待ち受けに山ほどいたから。そして、ここで項垂れを増した人数だけ、シュルディンガは嫌われていたということだ。
辺りの息を聞くに、動いていないのは1、2人だけのようだった。セレラーシュは……この1、2人の中に入っていてほしい。
「指名ってできますか?」
「ああ、はい! できます。誰を選ぶつもりで?」
なんか、売春宿みたいな仕様になってきたんだな……。嘆かわしくも感じたが、私はセレラーシュを指名した。
受付の人が少し驚いて慄きながら、彼女を呼びに行く。
間も無く、セレラーシュがやってくると
「ひっ! 男! 男がいる……!」
私だ、セキラだと言おうとしたが、そんなことは御構い無しに時間は進んでいく。言えなかった。セレラーシュが泡を吐いて倒れたからだ。
受付が言うには、「セレラーシュさんはひどい男性恐怖症を持っているので、基本的に女性のお客さんとしか話させていない」とのことだった。ここにいるのは私、セキラなのに……。
誰しもが肉体の柵から逃れられないし、誰しもが認識を肉体に縛られていると言えた。結局、私の理解者なんて存在しないんじゃないかとさえ思うのだ。こんな推測に押されてはいけない。私は去ることにした。
しかし、これまでの人生で、シュルディンガの名前は知っていても言葉や行動までは知らなかった。このまま彼の家族の元へ帰っても、家族に不審がられるに違いない。何かしら手がかりがあれば助かるのだが。確か、情報機器か日記かに人格というのは現れるはずだ。自分の同一性を保つために人は言葉を発するものなので、言葉を使えない人はそれこそ狂っていってしまう側面がある。だから大抵の人は何かしらに自分の情報を残すものだ。
日記だ。目次や読み取りやすさを考慮しないところから、多少面倒臭がりか大雑把な面のある人物だということがわかる。内容は……いいや、何も言うまい。
これまで私が考えてきたこととほぼ一緒だったから。そんなことよりも、奇妙な一致に驚いていた。シュルディンガといえば、富裕層だろう?それがなぜ、私と同じような考えを持っている?確か無かったはずだ、彼が貧困に座したことなど。
全くの慈悲。それが彼の心情で、信条だった。
彼には家庭があるというのは知っている。彼らの前で、ちゃんと夫として、父親として、これまでと変わりなく接することができるのか、少し不安だった。だって私は、父親に触れたことがない。
シュペルの父親のことは何も覚えていない。けれど、娘の死に対して何も思わない人物ではないというのは分かっていた。それもそう、シュペルが死ぬことは知っていて、時間までは知らないまま、身を横たえたのだから。
クレイフェンの父親のことは話に聞くだけで、触れたことは一度もない。あの家庭には父性の匂いはなく、ただ母性の香りが漂うだけだった。クレイフェンの母親は、私を抱きしめて、そして型に当てはめていたのだ。
ならば父親とはなんだろうか?
ならば親とはなんだろうか?
血のつながりか?慈悲か?慈愛か?厳しさか?虐待か?暴力か?経済か?財布か?交通機関か?戸籍か?先生か?生徒か?玩具か?所有物か?
この暖かさを知らない私を、毛布のない私を、どうやって温めたと仮定すればいい?
何も理解できなかった。せっかく、仲間を見つけられたと思ったのに。せっかく、志を同じくする人間を見つけられたのに。あなたは……私の星ではなかった。
星にはなりきれなかったし、それは彼自身も望んでいないだろう、それもそうだ、叛逆を志す者ならば、今更地位なんてただの鎖でしかないし。退廃的なこの世界の中で、息をするのは難しい。
シュルディンガの家族は、いつもそうしていたように私の「肉体」であるシュルディンガを受け入れて、暖かく出迎えた。貧困さえなければ、シュペルと同じような環境だったかもしれない。
ここには全てがあったのだ。暖かい家庭、深い家族仲、学力、未来、そして……金。彼ら親子はあんなにも悠々と肥っているのに、ラヴァッセのようながめつさは持っていなかった。私は思わず驚いたが、シュルディンガとして外に表出させることはしないと誓った。
「今日のあなた、外行きのあなたみたいね」
不意に、シュルディンガの妻が言葉を発した。そうか、私、という言葉は、外でしか使わない人間だったのか。けれど、あの日記には、私、と書いていたので、完全に信用しきっていた。
とりあえず私は、頭を打って記憶が一部無くなったかもしれない、と言って、妻からシュルディンガの話を聞こうと思った。
「いつものあなたなら、家の中だと『俺』って言ってたわ。クラヒッサは『怖いからちょっとやめてほしい』って言ってたから、この期に方針転換しても良いのかもね」
クラヒッサ。娘の名前だろう。もしこの言い草が本当ならば、クラヒッサは怪我でもしていておかしくないのに、それはなくて、ただ単にクラヒッサが都会の垢にまみれていない、純粋な女児だということだ。シュルディンガは外面的には高圧的で、内面的には様々なことに気配りする人物で、でも家族には少し高圧的で……まるで一貫性のないような、捉えどころのない人物のように思うが、これはこれで一貫しているような気がした。
ここには全てがあった。少し圧の強い父親、柔らかく包む母親、二人の愛を受けた一人娘……どれだけ社会がおかしくなっても、この親子の世界だけは変わって欲しくなかった。世の全ての親子が、シュルディンガのような家庭であるなら、それこそ幸いでしかない。最初、富裕層とだけ、議会長とだけ聞いていた頃と、今とでは、おそらく感想が違う。いいや、確実に。後ろを向いたかのように、そしてそのまま歩んだかのように、感想は音を変えていた。
私はこれまでやってきたかのように、クラヒッサの頭を撫でて、昔話をしてやって寝かした。
棚には色々な板があって、この星の伝承や神話だとか、おとぎ話だとか、あとは詩や数学の彫られた板たちが押しあって存在していた。クラヒッサは「シュルストラヴィク伝承」を求めていた。何でも、生贄の習慣が隣群地によって流された嘘で、その嘘の支配から脱するために動いた人の子の話だそうだ。
私が板に彫られた文字をなぞって、触覚に従って読み上げるたび、その一言が発されるたびに、クラヒッサは安らかに微笑んだ。決して幸せな話ではないはずだ。未婚のままに生贄にされる女性二人のことや、妻を生贄にされた男のことや、呪いを受けて自身が最も望んでいたものを破壊された女王や、本来の伝承を求め旅をし紡ぎ直した女性や、本来の伝承を広めようとして処刑された女性や、そして、かつて助けられた他の民が、恩を返す。不幸せな結末ではないはずだ、けれど聞いていて心地良いものではないはずだ。
それを……クラヒッサは、眉もしかめずに微笑んでいる。
まさかとは思った。
この娘は、父親を真に愛していたのだ。異性的なそれではなく、家族として。
この娘は、父親の声が聞けるのが何より嬉しくて、内容なんてどうでも良いらしかった。これで教育として本当にいいのか疑問に思う面もあったが、かつての私が、クラヒッサからこの安寧を奪うことに繋がっていたなら、貧困とはここから来るものだとさえ思った。
金でさえ埋められない愛を欲する、そんな大人ばかりなのだろうか?だからどれだけあってもまだ足りぬとさえ言うのだろうか。
クラヒッサは寝てしまった。すうすう、と柔らかい寝息を立てて。無防備だった。こんな寝息を立てていたら、居場所が知られてしまうから、貧困層の子供は寝息を立てずに寝る訓練をしていたというのに。これが子供らしいということだろうか。
そして、こんなにも心地良さそうに、大好きなお父さんの、お父さんの死体に体重をかけて寝ているクラヒッサの寝息を聞いて、思わず涙を零したくなった私がいた。
私が奪ったのだ。
そうだ、この私は議会長なんだ。だから次の議会までに、この状況を打破するための策を立てなければならない。例えば、ああ、けれども、もしこれでクラヒッサから夜の安寧を奪うならば、再考しなければならなくて、でもこれしかないのなら、ないのなら行うしかなくて。
妻が用意してくれた食物を前に、考え込んでいた。そんな私を、クラヒッサは撫でて、
「お父さん、大丈夫だよ、クラヒッサ、言いつけ守ってるよ」
と慰めてきた。クラヒッサは何も悪くないのだ。
かつての私なら、あらゆる富裕層を耳の敵にして、胎児でさえ殺しているかもしれなかった。けれど今はもうそんなことはできない。愛は、人を弱くする。その弱さに酔っているのが心地良いだけなのだ。
私はクラヒッサの頭を撫でながら考えていた。
私が自殺するべきなのだろうか。そうすれば、全てが社会のおかしさを自覚するだろうか。
いいや、票がどうなろうか考えなければならない。もし議会が貧困へ味方したなら、私は生き続けなければならない。
まるで自分のものではないと、議会長なのに議会すら自由にできないのかと言いたいのだが、シュルディンガの遺した情報には「議会は議会長ではなく、参加する皆が作るものなのだ」とあった。その考えに則るならば、私はもう一度死ぬ覚悟くらいできていた。
だって、他にも彼はこう残していた。「しかし、いくら議会が参加者に作られようとも、雰囲気を作るのは議会長の仕事だ」と。
決意をして明日、議会があるという。
周りの意見を聞いて、そして結果が喜ばしくないならば、と二面性の刃を併せ持って。
世論がどう出るかが問題だが、たかが知れているだろう。
「貧困層なんて金は出さんとです。そんな奴らから金を取るよりももっと効率のいい方法がありんす」
とは女議員の言葉だ。彼女は痛烈に、貧困など不要と言っていた。それも解決かもしれないが、切り捨てただけだろう。
「このお菓子は私たちだけで食べましょう? 別に見ず知らずの汚い野郎どもにやる滓は無いんだわ」
とは若干女性気味の男議員の言葉だ。見ず知らずの汚い野郎、とは見えてもいないくせによく言うものだ。こういう奴らが世の中を操作しているなら、世界なんていらなかった。
「現状維持でいいんじゃないのー? 良い暮らしができりゃ人民は満足なんだよ」
とは乱暴そうな男議員の言葉だ。お前の言う人民の中に、私のような者は入らないと言うのか。シュペルのことでさえ、無に返そうと言うのか。
「いや、現状維持だと困るのは企業だ!富裕層に穀潰しが増えている現状、少しでも切り捨てなければこの社会は維持できないだろ?」
とは思想の強い男議員の言葉だ。子供のことを穀潰しと表現するならば、そう表現するお前たちは畑潰しと呼ぶべきだろうか。
予想通りだった。最早、意見すらも疲れた。
「そういえば、エレイディナの構成がおかしくなって、飯が正常に届かないなんてことがあるらしいよ? どうするのこれ」
ああ。
私だ……と言うことはしなかった。シュルディンガとアヤは、死体を持ち寄り合う関係でしかなかったから。もうこの議論は私にとって不毛だった。ここにいる意味も無かった。
かねてより用意していた遺言を手に持って、私は私自身に刃を向けた。この男に、如何様に愛する妻がいて、愛される娘がいたとして、知ったことか!
議会長シュルディンガ。 その議題、おまえの世界だ。
おまえの世界を私は頂いてやる。 報復だ。 報復の時だ!
ーーーーー
議会長が突然失踪した。勿論議会は大騒ぎで、貧困富裕どうこう、予算どうこうどころでは無くなった。私たちは、警備員も含めて、議会長を探していた。
ふと一人の女性議員が声を上げる。悲鳴だったのだ。それに続いて私たちは、探し求めていた議会長を聞いて、そして叫んだ。
遺書にはこう書かれていた
「人道的判断にて、考え直せ」……