最終話 兄として、弟として
一瞬にして視界が移り変わった後、私の目に映ったのは星々が煌めく夜空だった。
半円の月が視界の端に映る。何が起こったのかを理解しようとした直後、私の左頬と背中に痛みが走った。
……そうだ。私は、敗北したのだ。
弟を迎え入れようとしていた私を待っていたのは、その弟自身による容赦ない鉄拳だった。私はそれほどまでに、剣一を怒らせてしまっていたのだ。
なぜ? その理由を今までの出来事から考える。思い当たる理由は、一つだった。
『俺の大切な弟の心を弄んだこと!!』
剣一の『弟』、鵠沼盾二。ヤツはそれほどまでに剣一にとって大きな存在になっていた。
なぜ? 実の姉である私ではなく、なぜ鵠沼盾二が?
だけどそれも考えてみれば当然だった。私はこれまでの人生、長きに渡って剣一を求め続けていた。だがそれと同じくらいの時間、剣一は鵠沼盾二との時間を過ごしていたのだ。
その時間が如何に長かったかは、私は身をもって体験している。剣一と鵠沼盾二がとどういう時間を過ごしていたかは知らない。だがそれでも、兄弟としての関係を築くには十分すぎる時間だったのだろう。
そう、剣一は剣一で、自分の人生を過ごしていたのだ。私は……それに気づいていなかった。
起きあがるのが怖い。まだ剣一は怒っているだろうか。私を激しく罵るだろうか。だけどいつまでもこうしているわけにはいかなかった。
「ぐっ……」
節々が痛む身体をどうにか起こす。剣一の顔を見るのは怖かったが、それでも心の準備を整えて、正面を見た。
「……え?」
しかし私は、剣一の顔を見ることは出来なかった。それもそのはず。アイツは地面に両膝を着け、両手も地面に着け、頭を深々と下げていた。そう、土下座の体勢をしていたのだ。
「け、剣一?」
「すみませんでした!!」
私が行動の理由を問う前に、大きな声で謝罪の言葉を口にしていた。頭の理解が追いつかない。さっきまで激怒していた男が、今度は私に向かって頭を下げている。何が怒っているのかわからなかった。
「何をしている? 何を謝っている? 私に対して怒っていたのではなかったのか?」
「さっきまではそうだった。だけど今はアンタに二つ謝ることがある。だから今、頭を下げているんだ」
そして剣一は、頭を少し上げて私の方を見た。その表情は確かに、自分の非を認めている顔だった。
「まず一つ目。いくら怒っていたとはいえ、女性の顔を全力で殴ってしまったことについて謝る。本当に申し訳ありませんでした!!」
「……」
この期に及んで、そんなことを謝ってくるのか。どうにもこうにも力が抜けてしまう。
「そしてもう一つ。俺のせいでアンタに寂しい思いをさせていたことについて謝りたい」
「なに?」
「アンタはずっと俺のことを気にかけてくれていたのに、俺はアンタのことをすっかり忘れていた。俺が少しでも、実の姉のことを覚えていたら、もっと早くにアンタに会えたかも知れなし、アンタにここまでさせることもなかった。だから今回のことは、俺の責任でもあると思う。だから、申し訳ありませんでした」
「剣一……」
そんなことはない。そう言おうとしたが、剣一はさらに言葉を続けた。
「アンタの行動は間違っていたかもしれない。だけどアンタはまがりなりにも、俺のために動いてくれていたこともわかる。さっきまでは、盾二の兄としてあいつを傷つけたアンタに怒っていた。だけど今の一撃でそれも終わりだ。俺はもう、アンタに怒っていない。だから今度は俺が謝らなければならないんだ」
そう言った剣一は、もう一度頭を下げる。
「今まであなた一人に辛い思いをさせて、本当に申し訳ありませんでした!!」
悔いるように言葉を捻り出すその姿を見て思う。剣一はもう、この十数年間で、『兄』として十分に強くなっていたのだ。自分の弟のために怒ることが出来て、自分の姉のために謝ることが出来る。既に私に守られるだけの子供ではなかった。
私は今の剣一のことを……何も知らなかったのだ。
「顔を上げてくれ、剣一」
そうなればもう、私が取る行動はひとつしかなかった。顔を上げた剣一に対して、視線を合わせる。
「もうわかったよ。どちらにしろ既に勝敗は決した。約束通り、もうお前を『町針剣一』に戻すことは諦める。私には、初めからそんなことをする権利はなかったのだ」
勝負に負け、剣一の心もわかった。結局は私一人が舞い上がっていただけだったのだ。剣一にはもう、『姉』など必要ない。
「これでもう、お前との関係も終わりだ。今まで振り回して、済まなかったな」
立ち上がった私は、剣一に背を向ける。これで本当に終わり――
「待てよ」
……だがそんな私を、剣一は引き留めた。
「……どうした? まだ何か言いたいことがあるのか?」
「アンタ何か勘違いしてないか? 俺は勝負に勝ったんだ。事前の約束には従ってもらうぞ」
「何を言っている? お前はもう、『鵠沼剣一』として……」
「ああ、『鵠沼剣一』として、盾二の兄となり、アンタの弟になる」
「……は?」
『鵠沼剣一』として、私の弟になる?
「アンタが勝ったら、俺は『町針剣一』としてアンタの弟になる。俺が勝ったら、『鵠沼剣一』として盾二の兄になる。そう言っただけだ。別にアンタの弟にならないとは言ってない」
「なんだと? じゃあ、お前は初めから……」
「言ったろ? 今回のことは、俺にも責任がある。その責任を放棄して、アンタのことを放っておくなんてことはしない。どちらにしろ、俺はアンタの弟としても生きるつもりだった」
「お前……」
なんということだ。初めから剣一は、私のことも……
「俺は兄として、弟として、よく出来た弟も甘えん坊の姉も、まとめて守ってやる。だから、これからよろしく……『姉さん』」
「……はは」
そうか、そうだったのか。
私はずっと、『弟』とは姉が守ってやらないといけない存在だと思っていた。だがそうではないのだ。『弟』は、守られるだけの存在ではなかったのだ。ようやく、それがわかった。
剣一は立ち上がって、私に右手を差し出している。もしかしたら、随分と遠回りをしたのかもしれない。だけどようやく、私はその右手を手に取れる。
差し出され右手を両手で覆い、私は改めて剣一に宣言する。
「私はお前を守りたい。だからお前は、私を守ってくれ。……『鵠沼剣一』」
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数週間後。
俺は自宅近くの市民グラウンドにいた。入念にストレッチをして、これから始まる『勝負』の準備をする。
横には今回の勝負の相手、俺が一人ににさせないと誓った相手、鵠沼盾二がいた。
当然のことながら、盾二の怪我は完治している。そうでないとお互いに万全を出し切れないし、何より意味がない。
……これから盾二はしばらく遠い所に行ってしまう。その証拠に、俺たちの勝負は制服を着た大人たちに監視されていた。今回の勝負は、俺が無理を言ってどうにか実現した。だからこのチャンスを逃せば、次の勝負はいつになるかわからない。
今回の勝負には、ギャラリーはいなかった。監視役の大人たちの他には、今回の顛末を見届けたいと言ってくれた勝呂さんと、俺が守ると約束したもう一人の家族だけだ。
だけどギャラリーに見届けられなくてもいい。俺はここでどうしても勝利したい。盾二と姉さんと一緒に過ごすために。彼らを一人にしないために。
それさえ決意していれば、俺はこれからも走り続けられる。
「準備できたよ、兄さん」
隣で同じくウォーミングアップをしていた盾二が声をかける。どうやら勝負の時が来たようだ。
スタートラインには姉さんが、ゴールラインには勝呂さんが立っている。この二人なら、公正な審判をしてくれるだろう。
多少の鼓動の高鳴りを感じながら、俺たちはスタートラインに立つ。
「さて、スタートの合図は私がさせてもらおう」
姉さんが徒競走用のピストルを上に掲げる。
……これから始まる勝負は、俺たちの今後を左右するかもしれない。それでも盾二は全力で相手をしてくれるだろう。だから俺も全力を出せる。だから俺も困難に立ち向かえる。
「位置について、よーい……」
姉さんの合図の後、快音がグラウンドに響きわたる。
俺たちの本当の勝負は、その瞬間に始まった。
弟の顔も三度まで 完




