第二十話 弟の顔も三度まで
既に日は沈み、病院の中庭には水銀灯の明かりが辺りを照らすのみだった。太陽の光が無くなったことで、秋の肌寒い風が私の体を震わす。
だが今、私が震えているのは決して寒さのためだけではないようだ。数分前、剣一から預かった携帯電話に着信があり、他ならぬ剣一自身からこの中庭に呼び出された。真実を明かしたことで剣一もかなり動揺してしまったようだが、やはり私の元に戻ってきてくれる。そう思ってこの中庭に来たのだ。
しかし今、私の目の前にいる剣一は、あきらかな怒りの表情で私と対峙している。
何故だ? ようやく忌まわしい鵠沼家から剣一を解放し、アイツを苦しめる鵠沼盾二とも、もう関わらずに済むというのに。そう、あれだけの事件に関わったとなれば、鵠沼家への世間からの追及は避けられないだろう。そして鵠沼家とは本来何の関係も無い剣一は、私と共に平和に暮らす。それで全てが上手く行くというのに。剣一は何を怒っているのだろう。
「どうしたのだ剣一? やはり全ての真相を知って戸惑っているのか? それならば心配はいらない。この私がお前を守ってやる。お前は何も心配しなくていい。さあ、私たちの家に帰ろう」
私は優しく微笑み、剣一に手を差し伸べる。
「……町針さん。俺がどうして怒っているのか、本気でわからないのか?」
だが剣一は、さらに表情を険しくして、私の申し出を拒否するように言い放った。
「怒っている? 何を怒ることがあると言うのだ。お前はもう、あの鵠沼盾二に対抗する必要も、苦しめられることもない。お前は鵠沼家とは何も関わる必要なく、これからは自由に生きていけるのだ。それの何が問題なんだ?」
「……やはり、俺がアンタをそこまで……」
剣一が小さくつぶやいたようだったが、よく聞こえなかった。だがその直後、今度は顔を上げて私を見据える。
「アンタは自分の目的のために、多くの人を巻き込み、そしてその人生を狂わせた。そしてその中には当然、盾二も含まれている。俺はそのことを怒っているんだ、わかるか?」
「わからないな。鵠沼盾二のことなど忘れろ。何度も言うが、あの男はお前とは本来何の関係もない……」
「『本来』とか、『本当なら』なんて言葉はもう聞き飽きた。そんな『もしも』は無かったんだ。今、この現実では、盾二はああして俺の弟になっている。それが全てだ」
……何故だ。
ようやく剣一を取り戻せたと思ったのに。ようやく失われた本来の姿に戻せると思ったのに。ここに来てどうして剣一は私を拒む?
私の剣一。私の弟。私の主。
ずっと剣一を取り戻し、二人で暮らすことを考えてきた。果たせなかった姉としての、下僕としての責務を果たすために動いてきた。それなのに……
……やはり鵠沼か。ヤツらは悉く、私の邪魔をする!
「剣一。お前は私を一人にするのか? 私にまだ苦しめと言うのか? 鵠沼盾二とお前の関係など、鵠沼武雄の暴走の結果に過ぎん! そんな浅い関係のことを、お前が気に病む必要など無い!」
「……父さんなら、死んだよ」
「……なに?」
「アンタの行動の結果だ。どうして死んだかは言わないが、確かに父さんの死の原因は、アンタが作った」
……鵠沼武雄が、死んだ? 私のせいで?
鵠沼武雄はもういない? これからヤツが崩壊する姿をもう見れない? いや、それ以前に、私が人を殺した?
「…………」
――おそらく剣一は、嘘は言っていない。この局面で嘘を吐くような男なら、最初から私もここまで剣一に執着していない。おそらく鵠沼武雄は本当に死んでいる。
……目を閉じて、深呼吸をする。落ち着け。例え私が人の道を外れようとも、剣一は必ず取り戻す。初めからそのつもりだったじゃないか。
「……鵠沼武雄がもういないのなら、尚更帰ってこい! これでお前が鵠沼家にいる理由は完全に無くなった! お前は『町針剣一』なのだ!」
私の叫びに対し、剣一は目を閉じて何かを決意するように胸に手を当てた。そして左腕に着けた腕時計を操作する。
「なあ町針さん、そこまで言うなら、俺と勝負しないか?」
「……なんだと?」
「アンタが勝ったら、俺は『町針剣一』としてアンタの弟にでも何にでもなってやる。だが俺が勝ったら、これからも俺は『鵠沼剣一』として、盾二の兄として生きる。これでどうだ?」
「何故我々がそんな勝負をしなければならない? お前が鵠沼に残れば、世間からの誹りは避けられないのだぞ!? 私と共に生きれば、何不自由のない生活を送らせてやる! 全てはお前のためなんだ!」
「……俺は正直、よくわからない。アンタの言う通り、血の繋がりの無い人間のためにここまでするのは間違っているのかもしれない。だけど、今の俺は盾二の兄として、アイツを守りたい。それは確かなんだ」
「剣一……」
覚悟を決めた言葉を放つ剣一を見て、悲しみが抑えきれない。剣一が遠いところに行ってしまう。ようやくこの手に戻るはずの剣一が、離れていってしまう。
いやだ、そんなのはいやだ。
「だけどアンタはどうあっても、俺を『町針剣一』と戻したいと言うんだろ? ここまで来たら、お互いの意見が合うことはないんだ。なら、戦うしかないだろう」
そして剣一は腕時計を外し、私の前に投げる。
「俺を『町針剣一』にしたいのなら、力ずくでしてみろ」
力ずく。
……どうやらそうするしかないようだ。私は何としても剣一を取り戻す。その障害が剣一自身だと言うのなら、戦うしかない。
「ルールは簡単だ。その腕時計は、ボタンを押してから一分でアラームが鳴るように設定しておいた。その一分間に、アンタが俺の顔を一回でも触るか、俺から逃げ切れたらアンタの勝ち。逆に俺がアンタの顔を三回触ることが出来たら俺の勝ちだ」
「……私は一回、お前の顔を触るだけでいいのか?」
「こっちから勝負を仕掛けているわけだからな。アンタに有利なルールにしないと、不公平だろ?」
「……」
どうする? 剣一のことだ、一度決めたルールを曲げるなどということはないだろう。一分の間に剣一の顔を触るか、逃げきれるかすれば私の勝ち。確かに私に有利な勝負だ。
しかし負ければ、私は全てを失う。ここまでの行動が、全て水の泡だ。それだけは避けたい。この勝負は絶対に勝たないといけない。
……だから私は、剣一から見えないように、腕時計のタイマーを一分から五十秒に設定し直した。
悪く思うな剣一。優しいお前は自分がイカサマを出来ないようにしたのだろうが、私はそこまで清い人間ではないのだ。
「いいだろう。その勝負、受けて立つ」
「よし、フィールドはこの中庭の中だけだ。スタートまでお互いに動かずにいよう。それからスタートのタイミングはアンタが自由にしていい。ただし、腕時計のボタンを見えるように押せよ」
流石に勝負の合図でイカサマは出来ないか。だが私は一回、アイツの顔を触るだけでいい。そちらの方が、五十秒間逃げ回るより勝つ確率は高いはずだ。それに剣一も私に顔を触られないように逃げる必要がある。大丈夫だ、勝てる。
「よし……それなら、いくぞ」
私は腕時計を手に持ち、剣一に見えるように掲げた。スタートのタイミングは私の任意。一瞬で終わらせてやる。
「……スタート!」
私はスタートの合図と同時に、剣一に向かって突進していった。合図が私の任意であれば、アイツの虚を突けると思ったからだ。
そして走りながら右手を伸ばし、剣一の顔を捉えた……はずだった。
「なっ!?」
だが剣一は一瞬のうちに、私の目の前から姿を消していた。横に動いたようにも見えたが、本当に消えるように動いたのだ。
「どこに!?」
しかし視界から消えた剣一を探す私の頬に、冷たい感触が伝わった。
「!?」
「町針さん、アンタの行動で、三つ許せないことがある」
頬を触られた。そう思った時には、私の後ろにいたはずの剣一は、遙か向こうにまで動いていた。
「一つ目は、さっきも言った通り、自分の目的のために多くの人間を巻き込んだこと」
「くっ!」
これで一回目だ。だがまだ向こうは二回私を触らなければならない。対して私は一回。まだアドバンテージは私にある。
「剣一ィィィィィィ!!」
これで勝てなければ、私は剣一を失う。そう思ったからこそ、思わず叫んでしまっていた。今度は私と剣一が、お互いに向かっていく。こうなったら剣一の動きを止めて、顔を触るしかない。
しかしその体を捕らえようとした私の両腕は、見事に空を切った。
「うっ!?」
そして次の瞬間には、今度は私の顎に、剣一の手の甲が触れていた。
「二つ目は、愛情はなかったとはいえ、俺の育ての親を死に追いやったこと」
「くそっ!」
今度こそと思って腕を振るうが、剣一は素早く後ろに跳び、私の腕を避ける。
これでアドバンテージは無しだ。だがあと時間は十五秒も無いはず。これならこのまま時間まで逃げきれる。
だから私は剣一に背を向けて、全力で走り出した。
「残念だな剣一! このまま逃げ切らせてもら……」
しかし私が勝利を確信した時、さっきまで後ろにいたはずの剣一は既に私の前に回り込んでいた。
「なっ!?」
「そして三つ目は……俺の大切な弟の心を弄んだこと!!」
剣一は右手を握りしめている。まずい! 早く方向転換を……
だが先ほどまで全力で走っていた私は足を止められない。止められないまま、剣一に向かっていってしまう。
「弟の顔も……」
そして剣一が怒りに満ちた表情で私を睨みつけた直後。
「三度までだ馬鹿姉貴ッ!!!!」
剣一の渾身の鉄拳が頬にめり込み、私の体は宙を舞った。




