第二話 剣一と盾二
俺と盾二は、二つ歳が離れた兄弟だ。俺は高校二年生で、盾二は中学三年生。普通の兄弟であれば、一人一人が別々の人間関係を持ち、兄の友人が弟の方とも親しくなるということは稀だろう。ましてや俺たちは現在学校も違うのだ。
だが俺たち兄弟は違った。それは弟である盾二が、あまりにも有名だからだ。あいつは多方面で優れた才能を持ち、数々の賞を取っている。もちろん勉強面でも成績はトップクラスで、通っている有名大学の附属中学でも、その存在感は異質なものになっているようだ。
さらに運動神経も抜群であり、大抵のスポーツであれば技術を直ぐに吸収して部活動でエースを張る生徒にも勝利することが出来る。本人は、流石に全国クラスの選手には敵わないだろうとは言っていたが。
おまけに盾二はその容姿も優れている。細身ながらも背が高く、二つ年上である俺と同じくらいの背丈だ。さらに首の辺りまで伸びている黒髪は艶があり、それでいて重たくない印象を受けるように整えられている。そして白く美しい肌と、長い睫毛に二重瞼の切れ長の目。そういった特徴からか、しばしば男とは思えない色気を出していて、怪しい人物に声をかけられたことも一度や二度でもない。当然本人はうまくかわしていたが。
そういう数々の非凡な特徴を持っているが故に、盾二の存在は俺の住んでいるこの町では有名だった。同年代であれば誰もが鵠沼盾二の名前を知っていて、その存在に憧れていた。
一方で、盾二の兄である俺はあまりこれといった特技の無い、普通の少年として今まで暮らしていた。盾二の存在は知っていても、彼に俺という兄がいることを知らない人間はそう珍しくもなかった。もちろん俺個人にも友人はいるが、その友人たちでさえ、俺を『鵠沼盾二の兄』として認識していた。
そんな環境で育ってきた俺が、盾二への対抗心を燃やし始めたのは小学校高学年の頃のとある出来事からだった。
当時の俺はやはり普通の子供としての生活を送っていた。一方の盾二は既に俺の歴史の教科書などを読んで、さらに自分で図書館に赴いて興味のある歴史上の人物を調べてその行動について子供ながら独自の視点で考えたレポートのような物を書いて親や教師から驚かれるなど、既に非凡な才能を開花させていた。
そんなある日のこと。俺は友人たちと共に校庭でキックベースをして遊んでいた。そこに盾二がやってきたのだ。
「兄さん、ちょっと僕も混ぜてもらってもいいかな?」
俺の友人たちは盾二の大人びた口調に最初は顔を曇らせたものの、彼が俺たち上級生にも劣らない運動能力を持つと知ると、直ぐに彼を迎え入れた。
「お前すごいな! 五年生になったらうちのクラブチーム入らないか!?」
「いえ、お気持ちはありがたいんですけど、僕は他にやりたいことがあるので……」
「もったいないなー。つーかお前剣一よりも運動神経いいんじゃないの?」
「まだ兄さんには及びませんよ」
俺の友人たちが次々と盾二を称賛する声を上げる。まるで彼が元からそこにいたかのように、それは自然な光景だった。
そしてその中に入るには、俺の存在はひどく不釣り合いのようなものに思えた。
悔しかった。友人を取られたことがじゃない。同じ親から生まれたはずなのに、俺と盾二にこれほどまでの開きがあることが悔しかった。
何であそこに居るのが俺じゃないんだ。何で盾二ばかりが褒められるんだ。どうして、俺はああなれないんだ。
今まで何回も考えた。どうして盾二はあそこまで優れているのに、俺はそうじゃないのか。『盾二の兄』である俺に期待の視線を向けた後、結果的に失望の視線を向けてくる人間を見る度にをそれを考えた。
そんな俺が盾二に良くない感情を抱き始めるのは自然な流れだった。
そしてその後にあったとある出来事が、俺が盾二に挑戦し続けるきっかけになったのだ。
「盾二、ちょっと来い」
「なに? 兄さん」
ある日自宅で俺は盾二を自分の部屋に呼び出し、扉を閉めて声が外に漏れないようにした。そう、俺は盾二を虐めるつもりだったのだ。
そして俺は油断していた盾二の後ろから殴りかかった。
「……っ!」
だが俺の拳は、素早く反応した盾二の右手によって遮られた。
「お前……っ!」
「悲しいよ兄さん。兄さんは僕をちゃんと見てくれていると思っていたのに」
「何言ってんだ! お前、俺を見下してるんだろ! 俺はお前みたいに天才じゃないもんな!」
「天才……?」
そう呟いた盾二は俺の拳を受け止めた右手を徐々に押していく。
「お、おお!?」
盾二に押される形で徐々に俺の体勢が崩れていき、俺は床に倒れてしまった。
「っ! お前……!」
「兄さん、僕のことを天才と言ったね? だけど兄さんは僕以上に努力をしたのかい?」
「……!?」
盾二以上の、努力?
「……自分で言うのもおかしいけど、確かに僕は他人より優れた才能を持っている自覚はある。だけどそれに頼りたくはなかった。生まれ持ったものに寄りかかりたくはなかった。だから勉強も運動も頑張ったんだ」
「そ、そうなのか?」
「でも兄さんは僕のことを羨んでいるみたいだけど、僕以上に何か努力をしたのかい? 僕に勝とうとしたのかい? それをせずに僕を羨むのは筋違いだよ」
「う……」
……確かにそうだ。俺は盾二を羨むばかりで彼を超えようとは思っていなかった。盾二からしてみれば、逆恨みもいいところだ。
「兄さん、弟である僕が自分より優れているのが悔しいのなら何か一つでも上回るところを作ればいいじゃないか。それが出来ないなら一生そこで座り込んでなよ」
見下すように俺を見た後に盾二は部屋を出ていった。そして扉が閉められたと同時に俺の両目からは涙があふれ出ていた。
「ぐ、うう……」
悔しい、悔しい、悔しい……
どうして弟であるあいつに兄である俺が負けているんだ。どうして弟であるあいつに兄である俺が説教されるんだ。
だけど同時にわかってもいた。これは盾二なりの俺への喝であることに。そう、盾二に負けて悔しいのであれば何か一つでも彼に勝てるように努力すればいいのだ。盾二より優れているところを作ればいいのだ。
俺が、『盾二の兄』でなく、『鵠沼剣一』であるということを証明すればいいのだ。
そしてその日から俺は盾二への対抗心を燃やすようになった。
何かと盾二に勝負を持ちかけてはその度に負けた。負ける度に勝負の内容を変えた。しかしある日友人にこんなことを言われた。
「剣一って足速いんだから、走りで勝負すればいいんじゃないか?」
足が速い。
今まで意識したことがなかったが、確かに俺はクラスでも足が速い方ではあった。そこで俺は盾二への勝負の内容を短距離走に限定した。当初は流石に二歳下に短距離走で張り合うのはどうなのかと周りに言われもしたが、盾二との最初の勝負で完敗したことで、その声は無くなった。
盾二はやはり運動神経も抜群だ。クラス内で少し足が速いくらいの俺が敵うはずがない。だけど俺が盾二に勝つとしたら他に無かった。というより、この分野で盾二に勝ちたかった。もしかしたら唯一俺が他人より優れているものかもしれないのだから。
高校に入っても俺は相変わらず盾二に挑み続けた。互いに成長期に入ったことで盾二も足も以前より速くなったが、俺もスポーツトレーナーに指導を受けるなどして努力を続けていた。
そしていつしか俺たち兄弟の勝負は俺の通う高校の名物になっていた。『完璧超人の弟に挑み続ける凡才の兄』。これだけでも他人の興味を惹く内容にはなっていたようだ。
そして多数のギャラリーが見守る中、あの日も俺は盾二に負けた。しかし何度も勝負を重ねる内に気づいた。
盾二は決して俺との勝負では手を抜いていないことに。
彼もわかっているのだ。手を抜いて勝ちを譲ったところで俺が喜ばないことに。そして全力で相手をして、完全に負かすことが俺への敬意となることをわかっているのだ。
それでこそ俺が超えるべき価値がある。それでこそ勝つ価値がある。そんな盾二を俺も尊敬していたが、その高潔な精神に対してみっともなく勝負を挑み続ける自分が惨めでもあった。
そして現在、俺は再び盾二に挑むべく朝から校庭で走りの練習を続けていた。
「はっ、はっ、はっ……」
一昨日の勝負が原因で足に痛みを感じていたので、今日はゆるやかに走ることに専念した。ここで焦って怪我をして、盾二に挑戦できなくなるという事態だけは避けなくてはならない。
そうなると、やはりしばらくは盾二への挑戦はおあずけだ。それを自覚したことで、俺の思考が他の事案に向く。言うまでもない、昨日の町針さんの『下僕宣言』だ。
『私、町針楓はこれより鵠沼剣一の下僕となる』
普通に考えればたちの悪い冗談か、思いこみの激しい人間の妄言のように思える。しかし俺には気になることがあった。そう、昨日も感じた、町針さんへの既視感だ。
彼女は以前から俺のことを知っているようなことを言っていた。俺は全く覚えていないが彼女と俺はどこかで会っているのかもしれない。しかしそれがなぜ『下僕宣言』に繋がるのかは全くわからなかった。
『下僕』か……
どちらかと言うと、そういう存在を従えていそうなのはやはり盾二の方だ。あいつの中学ではそれこそあいつの『信奉者』もいるそうだし、盾二に憧れて行動や格好を真似する生徒までいるらしい。
仮に盾二が他人を従えようと思ったら、いとも簡単に出来るのだろう。もしかしたら、将来は本当に政治家にでもなって、国を動かす存在になるかもしれない。それほどまでの器が、盾二には既に存在する。
もし彼がそれほどまでの存在になったら、その時俺はどう思うのだろう? それでも盾二への挑戦を続けるだろうか? それとも自分では敵わないと考えて、彼と関わるのを止めてしまうだろうか?
願わくば、俺は前者の行動を取りたい。もし後者の行動を取ったとしたら……
俺はもはや、『盾二の兄』ですらなくなってしまうのではないかと感じた。