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第十九話 楓と剣一


 今でも覚えている、幼い頃の記憶。

 当時の私は小さく、まだどこにも行けなかったが、目の前にいたのは私よりもさらに小さい人間だった。

 その小さな小さな人間が、まだ動かし方を十分にわかっていない手足を必死に動かしながら、こちらに向かってきていた。しかし、そいつは床にあった小さな段差も満足に越えられずに転びそうになってしまう。

 

 私はそいつが転ぶ前に、その体を抱きしめてやった。


 抱きしめてやると、そいつは嬉しそうにこちらを見て、心の底から安心しきった笑顔を見せる。そう、こいつは私より小さい。私より幼い。だから私が守ってやらないといけないのだ。

 だから私は、こう言った。


「私がお前を守ってやる」


 そう、それが私――町針楓の姉としての決意だった。


 しかし私がその小さな人間のことを『剣一』だと理解したしばらく後、夜中に両親が言い争う声が聞こえた。


「……もう……しかないんだ!」

「……んなこと、ゆる……ない!」

「このまま…………我々全員………潰され……」


 幼い私には、両親が何をしているのかは全くわからなかったが、何かただ事ではないことが起こっていたのは理解できた。だから私は眠っている剣一に寄り添って頭をなでた。


「大丈夫だ。何があっても、お前だけはこの私が……」


 幼い私にはまだ友達などいなかった。自分に近い存在は剣一だけだった。剣一は私が守らないといけない。そうでなければ、この小さな存在はあっという間に私の前から消えてしまう。だから私は姉として、強く生きる義務がある。言葉ではそう理解していなくとも、感覚では理解できていた。


 だが私が思っていたより早く、世界は私と剣一に牙を剥いた。


「楓、ここで大人しく待っているんだよ」


 両親が言い争っているのを見た翌日、私だけが保育園に預けられ、いつも一緒に預けられていたはずの剣一はそこにはいなかった。私は子供ながらに何度も剣一を探そうと外に出ようとしたが、大人の前では全くの無力だった。


「剣一、どこにいった? どうしてここにいない?」

「楓ちゃん、剣一くんは今日はここにいないから、中で遊んでようね」

「そんなこと聞いてない! 私の剣一はどこにいった!?」

「大丈夫だよ、お父さんたちが帰ってきたらまた会えるからね」


 保育士は私を宥めようとしていたが、私はただごとではないことが起こっていたことを予感していた。そしてその予感は確信へと変わる。

 

 両親が私を迎えに来た時には、剣一は一緒にいなかった。


「楓、さあ家に帰ろう」

「お父さん、お母さん! 剣一は!? 剣一はどこにいった!?」

「……剣一はお父さんのお友達のところに遊びに行ったんだよ。大丈夫、すぐ戻ってくるから……」

「嘘だ! 私の剣一、剣一を返せ!」


 だが、私の訴えは大人の力の前にねじ伏せられた。いくら両親を問い詰めようとも、剣一は父の友達の所に行ったの一点張りで、その行方を知る術は無かった。

 そして次第に私は焦りを感じ始めた。まさか剣一は、私が嫌いになってしまったのだろうか。私に何か至らないところがあったのだろうか。私が剣一を怒らせてしまったのだろうか。

 もしそうならば、私は剣一に謝らなければならない。いや、それだけでは足りない。私は剣一を守ると決めたのに、アイツは私を見限ってしまった。ならば私は剣一の姉として、もう一度全力でアイツを守るために成長しなければならない。それこそ剣一のために、私の全てを捧げる気持ちでないと、私はアイツの姉にはなれない。

 

 そうだ、私は姉として至らなかった。だから剣一と離れることになってしまったのだ。剣一を取り戻すためには、今の私では足りない。


 剣一のために動き、剣一のことを第一に考える下僕でないと、私は剣一を取り戻せない。


 ……そして私は、自分が肉体的にも精神的にも成長し、剣一を取り戻せる状態になるまで待った。

 自分の周りで、兄弟の自慢話をするクラスメイトを見る度に、つらい思いをした。本来であれば私もそうして剣一と普通に暮らしていたはずだったのだから。

 だからその辛さをバネに、剣一のためにあらゆる努力をした。剣一が戻ってきた時に備えて、家事の技術や住むところの準備も怠らなかった。幸い、両親は剣一と私を引き裂いた負い目があったのか、私が一人暮らしをしたいと言ったら何も反対せずにアパートを借りた。

 それと並行して、私は両親と交渉する材料を探し続けていた。家の金に手を着けて、法外な料金で探偵を雇ったりもした。そしてついに材料となる情報を見つけたのだ。


 両親が、取引相手である鵠沼家の脱税に関わっていることを。


 私は以前から鵠沼には目をつけていた。両親の事業は剣一がいなくなってから持ち直していたのだ。そんなことが出来るのは、この町の資産家である鵠沼家しかいない。そうなれば、もう確信できた。


 鵠沼家こそが、私の剣一を奪った敵であることを。


 そして私は握った情報を交渉材料として、両親から真実を聞き出した。聞いてみれば、実にバカげた話だった。跡継ぎに困った鵠沼は、後継者の予備として剣一を私から奪ったのだ。そして両親に自分の脱税に関わらせることで、そのことを口封じしていたのだった。おそらくは脱税がバレたとしても、警察の捜査が及ぶのは両親だけになるように策を講じているのだろう。

 だが私にとって重要なのは、そんなバカげたことで私から剣一を奪ったことだった。鵠沼のような薄汚れた男が、心優しい剣一を育てる資格などない。剣一の隣にいるのは、私だけで十分だ。

 私は鵠沼家に剣一がいることを知ると、住所を突き止めて成長したアイツを確認することにした。そして、私は鵠沼家の玄関先で見た。


「あ、ああ……」


 幼い頃と同じく、安心しきった表情をした剣一を。


 ああ剣一。私の剣一。ようやく会えた。お前こそが私の弟だ。私はお前の下僕であり、お前の姉だ。お前は私が守るんだ。私にはお前が必要なんだ。お前がいなければ、私は一人だ。私を一人にしないでくれ剣一。

 感激のあまり、今すぐ駆け寄って、自分が姉だと名乗り出たかった。だがそこで、私はもう一人の男を見たのだ。


「兄さん、今日も走りの練習に行くの?」


 剣一の隣で、憎たらしい笑顔を浮かべる一人の男。そう、鵠沼武雄の『一人息子』、鵠沼盾二だった。

 お前さえ、お前等さえいなければ、私は剣一とずっと一緒にいれたというのに。それなのになぜお前はそんな顔で剣一の隣にいる。

 憎い。憎い憎い! 私と剣一の間に、お前らという障害がいることが許せない。認めることなど出来る筈がない。

 私と剣一を引き裂いた、全てが許せない。自分たちの保身のために、剣一を捨てた両親などいらない。私には剣一がいればいい、二人で過ごせればいい。


 そのためには、鵠沼家が邪魔だ。奴らを排除しなければ、私たちの望みは叶えられない。


 そして私は計画を立てた。だがその途中で、他ならぬ鵠沼盾二が私に好意を持っていることを知ったのだ。

 これを利用しない手はなかった。鵠沼盾二を上手く使えば、鵠沼家を破滅させることが出来る。そうなれば、剣一を取り戻すことが出来る。


 そして現在、計画は上手く運び、鵠沼家の名声は地に落ちて剣一も私の弟だという事実を知った。

 あと少しだ。あと少しで私は再び剣一を守ることが出来る。幼い頃に果たせなかった約束を、今こそ守るときが来たのだ。


 だが病院の中庭に呼び出された私を待っていたのは――


「……来たな、町針楓」


 一目で怒りとわかる表情で私を睨みつける剣一の姿だった。

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