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第十七話 決別


 僕はその時まで恋をしたことが無かった。しかしそれは僕から女の子を好きになったことがないというだけで、実はお付き合いしていた女の子はそれより前にも二人ほどいたし、告白されたことも何回かあった。

 しかし付き合ってみてわかった。彼女たちは僕を見ていない、見ているのは『鵠沼盾二の心を射止めた自分』であることを。

 結局の所、僕も相手もお互いのことにさして興味がなかったのだ。そんな状態で交際をしても長く続くわけもなく、いずれも短期間で破局してしまった。

 

 だけど今回はそうはならないと思っていた。なぜなら僕が楓さんに夢中だからだ。


 楓さんの何が僕の心を掴んだのかは自分でもよくわからない。だけど彼女の一挙手一動作が、僕の孤独を癒してくれた。楓さんは決して僕をもてはやしたりはしない。だからといって、嫉妬してくるわけでもない。まさに兄さんと同じく、僕を見てくれている存在だった。

 

 そして何より、楓さんには僕の誰にも打ち明けられない悩みを話すことができた。


「楓さん、僕は不安なんです。兄さんは僕に勝利しようと必死で追いかけてくる。兄さんだけは僕に勝とうとしてくれている。だけど兄さんに負けてしまったら……僕はどうなるのか不安で仕方ないんです」

「……ふむ」

「兄さんは僕を超えるべき存在だと考えてくれている。だけど兄さんに負けてしまえば、僕は兄さんにとって用済みになってしまうのかもしれない。心優しい兄さんがそんなことをするわけがないとは頭では解っているのですが、どうしてもその考えが離れないんです」

「……」


 楓さんは黙って僕の話を聞いてくれている。今までの僕にとっては、貴重な経験だった。僕は誰かの相談を聞くことはあっても、僕が誰かに相談することはほとんど無かったからだ。


「なるほど。お前は手を抜いて剣一に負けることは微塵も考えていないのだな?」

「……はい。全力で相手をするのが、兄さんに対する礼儀だと思っていますから」

「ならばそれでいい。いずれお前が剣一に負けたとしても、あいつはお前を見捨てはしないだろう。お前の方が、剣一を突き放したりしない限りはな」

「……」


 だからだろう。楓さんの興味が僕より兄さんに向かっているのを知っても、僕の彼女に対する好意は揺るがなかった。


 付き合った直後から気づいてはいた。楓さんはどちらかというと、付き合っている僕より兄さんの話をすることが多いことに。確かに僕としてはショックだった。だけど楓さんが僕との交際を承諾してくれたということは、まだ僕にもチャンスはあると前向きに捉えていた。いつか絶対、楓さんの興味を僕に向かせてみせると考えていた。


 ――あの時までは。


 僕たちが付き合い始めて九ヶ月ほど経ったある日のことだった。僕は楓さんから近所の公園に呼び出されたのだ。


「楓さん、話って何ですか?」


 僕はその時不安だった。楓さんの興味はまだ兄さんに向いたままで、僕とはまだ碌に手を繋いだことすらなかった。だから別れを切り出されるのではないかと不安だった。

 だけど楓さんの話は、別れを切り出されるよりもショッキングな内容だった。


「何、お前に少し頼みたいことがあってな」

「頼みですか?」


 そう言うと、彼女は懐から紙を取り出した。


「お前との交際を始めて九ヶ月。その間、お前はどんな気持ちだった?」

「え? それはもう、楓さんとお付き合いできて、毎日楽しいですよ」


 これは嘘ではなかった。確かに楓さんの心は僕に向いてはいないかもしれなかったが、彼女は僕のためにお弁当を作ってくれたり(ちょっと内容は乏しかったが)、何回かデートをしたりしてくれて、僕は楽しい時間を過ごすことが出来た。その間に楓さんの笑顔を見て、僕は幸せな気持ちになった。恋人と過ごす時間が、こんなにも楽しいものだとは思わなかったほどだ。

 だから僕は彼女にますます夢中になっていた。それこそ、楓さんのためなら何でもしたいと思うほどに。


「ふむ、ならば私の頼みを聞いてくれるな?」

「もちろんです。何でも言ってください!」


 僕の答えに満足したように頷いた楓さんは、手に持った紙を僕に渡してきた。僕はその紙を広げて見てみる。そこには……


「ならばお前に頼もう」


 僕と兄さんが、本当の兄弟ではないこと、そして楓さんと兄さんこそが本当の姉弟であることを証明する戸籍謄本のコピーが印刷されていた。


「『破滅』しろ。私と剣一のために」


「え……?」


 楓さんの言葉の意味がわからない。いや、それ以前にこの紙に書いてあることがすんなりと飲み込めない。

 

 僕と兄さんに血の繋がりはない? 楓さんと兄さんには血の繋がりがある? 


 それは何を意味している? 楓さんは僕よりも兄さんを気にしていた。そして彼女は兄さんの本当のお姉さん。そして僕と兄さんには血の繋がりがない。じゃあ、まさか……


「どうした、鵠沼盾二? 私の頼みが聞けないのか?」


 楓さんの目的は、初めから兄さんを取り戻すことだった?


「あ、あああ……!」


 僕はその場にうずくまってしまう。そうだ、僕の中で全てが繋がってしまった。

 楓さんが僕と付き合うことを承諾したことも。彼女の興味が僕よりも兄さんに向いていることも。そして楓さんが九ヶ月もの間、好きでもない僕との交際を続けていたことも。

 

 全ては、兄さんこそが楓さんの隣にいるべき存在だったから。


「あああああああああああああああああああああああああ!!」


 気が付くと、僕は周りなど気にせずに叫んでいた。

 こんなの、初めから勝ち目が無いじゃないか。頑張れば楓さんの心を僕に向けさせられると思っていた。いつか楓さんと幸せに過ごせると思っていた。だけどそんな未来は絶対にないんだ。だって楓さんの目には、兄さんしか映っていない。

 どうしてだ。どうしてよりによって、ここで兄さんに負けてしまうんだ。僕はあらゆる勝負で兄さんに勝つことが出来た。それが嬉しかった。だけどその喜びを全てかき消してしまうほど、この敗北は僕の心を蝕んでいる。

 いやだ。いやだいやだ! ここでだけは兄さんに負けたくない。他のどんな勝利を譲ってもいい、だからこの勝利だけは譲ってくれ兄さん。ここで勝たないと意味がないんだ。やっと見つけた、僕の心の安らぎなんだ。

 いやだ、負けたくない。兄さんに勝ちたい。だけど僕がどんなに苦しもうとも、勝利の女神は僕を見てはくれない。


「ふむ、少しショックが大きすぎたか。使い物になるかは微妙なところだな」


 その証拠に、楓さんは僕を心配しようともしていなかった。


「か、楓さん……僕は、僕はあなたを……」

「好きだと言うのか? ならば私のために動いてくれるな? お前がそうするなら……」


 そして楓さんは、僕に言う。


「お前のことも、少しは見てやらんでもない」


 僕を決定的に縋らす言葉を。

 

 そう、楓さんが僕に提示したこの僅かな希望こそが、僕の行く先を決定した。わかってはいた。楓さんは僕を利用しているだけだ。僕を利用して、兄さんを取り戻そうとしているだけだ。そんなことはわかっていても、僕はその僅かな希望に縋らずにはいられなかった。


 だから僕は、楓さんの言う通りに地獄に堕ちる決断をした。


 それから僕は楓さんから計画を聞いた。僕が学校の人間を扇動し、校内全体を巻き込む事件を起こし、鵠沼家の名声を地に落とすことで兄さんを解放するという流れだ。

 だけど僕はそれだけでは不十分と考えた。兄さんは鵠沼家の評判が悪くなっても、僕を守るために動くかもしれない。彼を解放するためには、僕が兄さんと完全に決別することが必要だ。だから僕は独断で勝呂さんと接触し、兄さんを騒ぎに関わらせることを計画した。


 そして十月に入り、計画が始動した頃だった。僕は一旦実家に帰り、父さんがなぜ兄さんを鵠沼家に迎え入れたのかを調べるために、父さんの部屋を調べることにした。

 そこで見つけたのだ。楓さんの両親、つまり兄さんの本当の両親が自分の息子を差し出すに至った経緯を示す資料を。町針家の債権を子供と引き替えに放棄した書類や、僕が子供の頃に重病にかかっていたという診断書。そして父さんが昔の日記に兄さんを『予備』として扱っていたことを書いているのを発見した。そこまでは良かった。


「何をしている、盾二」


 その現場を、父さんに見つかるまでは。


「何をしている? 父さんこそ何をしているんですか!? こんな……人間を何かの備品のように扱うなんて……許されるはずがないでしょう!」

「ああ、剣一のことか。お前はそんなことを気に病む必要はない。あの『出来損ない』を鵠沼家に迎え入れたのは本当に失敗だった。だが今はお前が鵠沼家を立派に継いでくれるのだろう? そうなったら、あいつはもう本当に用済みだ。鵠沼家とは一切の関係を切ってもらう」

「そんな……勝手に他人の家から子供を奪っておいて、自分の思い通りにならなかったら捨てるというのですか!?」

「上に立つ者はそういう決断をする必要があるのだ。お前もいずれわかる。まあ……」


 そして父さんは、言ってはならない言葉を言った。


「町針のような、出来損ないの血にそこまで期待はしていなかったがな」


 その瞬間――

 僕の頭の中が一瞬、空白に包まれた。


 そして次の瞬間には。


「楓さんを……」

「ん?」


「楓さんをバカにするな!」


 父さんの頭を、そばにあったトロフィーで殴りつけていた。



 ……自分のしたことを理解したのは、その数分後のことだった。

 僕は、なんてことをしてしまったんだ。こんな、こんな恐ろしいことをしてしまうなんて。

 いや違う。僕も結局はこの人の子供だったんだ。好きな人に振り向いてもらいたいという理由で、何の関係もない他人を平然と巻き込む計画を立て、それどころか実の親すら殺してしまう。自分の名声を保ちたいがために、人間を物のように扱ったこの人と何も変わりはしない。

 こんな人間が社会にいてはならない……自首を……


 いや待て、そうなると兄さんはどうなる?


 このままだと、兄さんは殺人犯の兄という烙印を一生背負わないとならない。それじゃダメだ。兄さんは鵠沼の呪われた血とは何も関係はない。赤の他人なんだ。兄さんは、あの人だけは鵠沼から解放しなければならない。

 そうだ。そもそも僕は初めからそのつもりだったじゃないか。このまま計画が成功すれば、兄さんは鵠沼とは何も関係がないことが世間にも知れ渡る。むしろ被害者として扱われるかもしれない。そうだ、そうじゃないといけないんだ。僕も父さんも、心優しい兄さんのそばにいてはいけなかったんだ。


 汚れるのは、僕だけでいい。兄さんだけは、救わないとならないんだ。


 ……僕は本当に兄さんを救いたい一心だったのか、それとも尚も楓さんに振り向いて欲しかったのかはわからない。

 だけど僕は、兄さんが帰ってくる前に父さんの死体を床下に隠し、何食わぬ顔で兄さんと会話し、そして……


「やっぱり兄さんは、その場に座り込んでいるのがお似合いだよ」


 兄さんと決別する準備を始めていた。

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