第一話 チョーカー
「はあっ、はあっ、はあっ!」
俺たちは学校のグラウンドで走っている。こういう場所特有の、石灰が混じった土埃が舞い上がっていく。土埃が俺の口に入るが、俺にそんなことを気にしている余裕は無かった。目の前の男の背中に追いつくのに必死だったからだ。
「はっ、はあっ!」
だけど俺と『あいつ』の差は縮まらない。それどころか引き離される一方だ。
今に始まった話ではない。俺はいつも『あいつ』の背中を追いかけてきた。あらゆる分野で俺を引き離してきた『あいつ』の背中を。勉強も、運動も、社交性も、口喧嘩も、いつも俺は『あいつ』に勝てたことが無かった。
「……くそっ!」
諦めそうになる頭を必死に勝負に呼び戻し、俺は再度前を見る。俺の前を走る『あいつ』は、その黒く艶のある長い髪を靡かせながら走っていた。その姿はなんとしても食らいつこうとする俺とは違い、どこか優雅さすら感じさせる。
だが決して『あいつ』も手を抜いているわけではない。これが『あいつ』のスタイルというだけだ。これが『あいつ』なりの走り方というだけだ。
そのことを確認して少し嬉しさを感じながらも、俺は最後の直線で勝負をかけるために地面を蹴る足に力を入れた。
「おおおおおおっ!」
俺の雄叫びがグラウンドに響く。周りにいるギャラリーもそれを聞いて歓声を上げるが、それでも俺の体が『あいつ』を追い越すことは無かった。
「……ゴール!!」
そして遂に『あいつ』は俺に一回も自分の前を走らせることなく、ゴールにたどり着いた。その一秒ほど後にゴールした俺の目には、『あいつ』の姿は正に勝者として映った。
「あー、今回も盾二の勝ちか。流石だよなあ」
「すげえな……中学生の速さじゃなかったぞ……?」
「そりゃそうだろ、だってあの盾二だぜ?」
ギャラリーが呟く声が俺の耳に入ったが、その言葉を理解する余裕は俺の頭にはなかった。
200mを全力で走ったために、息を切らして両膝に手をつく俺に対し、『あいつ』――盾二はまるで疲れていないかのようにギャラリーの歓声に応えていた。一人の女子から受け取ったタオルで顔の汗を拭う姿は、どこか余裕すら感じさせる。汗を拭った盾二は女子に感謝の言葉とタオルを洗って返すことを告げた後、ギャラリーに大きな声で呼びかけた。
「皆さん、今日は僕と彼の勝負を見届けてくださり、ありがとうございました! 僕も彼も全力を尽くし、その手に勝利を掴むために走りました! 結果として勝利を手にしたのは僕ということになりましたが、決して楽な勝負では無かったということを言っておきます! どうか、今一度正々堂々と戦った僕と彼に拍手をお願いします!」
中学生とは思えぬ礼儀正しい挨拶をする盾二は、男にしては長い黒髪と白く美しい肌、そして長い睫毛の下にある二重瞼の目のおかげか男とは思えぬ色気を醸し出していた。しかしその声は力強く、彼のその容姿も相まって、ギャラリーの熱気を最高潮に上げる。
「そうだ! 二人ともよく頑張ったぞ!」
「あの盾二にあそこまで張り合ったんだ! 大したもんだよ!」
「今度もう一度勝負しようぜ!」
ギャラリーが盾二だけでなく俺に対してもその健闘を讃える歓声を上げる。しかし俺はそれをどうしても受け入れることが出来なかった。
『相手は盾二なんだ。仕方ない』
『張り合っただけでも大したものだ』
『むしろよく頑張った方だ』
これらの言葉がその歓声の裏から聞こえてきたような気がして、俺は必死に頭を振った。だめだ、俺はその言葉を認められない。認めるわけにはいかない。
俺は、どうしても盾二に負けたくなかった。どうしても勝ちたかった。だから今日も勝負を挑んだのだ。だが結果は俺の負け。どんなに健闘しようと、張り合おうと、その事実は変えることは出来ないのだ。
そう思いながら俺――鵠沼 剣一はたった一人の弟であり、『天才』である、鵠沼 盾二に今日も勝てなかった悔しさにその拳を握りしめた。
十月四日。盾二との勝負の翌日。俺は通っている高校の教室で昼飯を食べていた。
「あー、痛てえ……」
昨日の勝負で全力を出したせいか、俺の足に痛みが残っていた。これでは当分、盾二に勝負を挑むのは無理だ。
「おう剣一。また負けちまったんだって?」
「うるせえよ」
クラスメイトたちが俺の肩に手を置きながら茶化してくる。一見俺をからかっているように見えて、こいつらが盾二に挑み続ける俺に対して敬意を抱いているのは知っている。
だが一方で、無謀とも言える挑戦をいつまでも繰り返す俺をあざ笑う人間、そして盾二の兄にも関わらず突出した才能を持たない俺を勝手に見下している人間がいることも知っていた。
しかし俺はそれについて特に文句を言おうとは思わない。俺が盾二に負け続けているのは事実だし、そいつらを黙らせるには勝つことが一番の方法だということがわかっているからだ。だから俺は近い内に再び盾二に挑戦しようと思う。今度こそ勝利を掴み、『鵠沼剣一』という人間を確立するために。
「おーい、剣一。お前にお客さんだぞ」
そう考えていると、クラスメイトの一人に声をかけられた。振り向いてみると、教室の入り口に声をかけたクラスメイトと、見覚えのない女子生徒が立っている。
「お客さん?」
「ああ、えっと……」
しかしクラスメイトが女子生徒の名前を言う前に、彼女が言葉を発した。
「なるほど、久しぶりに間近で見たが遠くで見るより頼りがいがありそうじゃないか」
女子生徒は少なくとも高校生には似つかわしくない口調で俺に言葉をかけた。なんというか、女性にしては堅苦しいと言うか、男っぽい喋り方をする人だな……
「あの、俺に何の用ですか?」
「そう焦るな。ここで話すのはまずいから、場所を移すぞ」
「は、はい……」
俺は女子生徒の言葉に従う形で教室を出て、屋上の手前にある踊り場まで連れて行かれた。
「三年四組、町針 楓だ」
「はい?」
「聞いてわからないのか? 私の名前だよ。お前にはきちんと自己紹介をする必要があるからな」
「はあ……えっと俺は……」
「知っている。剣一だろう? 私はずっとお前を見ていたからな」
「そ、そうなんですか?」
そう言われて俺は町針さんを見る。制服であるブレザーを着崩さずにきっちり着ている。身長は俺より少し低い位だから女子としては高めのようだ。長い茶色がかった髪は背中まで伸びているがハーフアップで纏められていて、身だしなみがきっちりとしている印象を受ける。前髪も自然な形で整えられていた。
だが俺の印象にもっとも強く残ったのは、その両目だ。こちらをじっと見据える町針さんの両目は、なぜかどこかで見覚えがあった。だがそれがどこでなのかは全く思い出せない。
だが彼女の方は俺のことをよく知っているようだ。俺たちはどこかで出会っているのだろうか。
「あ、あの、とりあえず俺に何の用なんですか?」
「そうだな、まずは質問させてもらおう。お前は鵠沼盾二に勝ちたいのか?」
「え?」
「鵠沼盾二に勝ちたいのかと聞いている。今すぐ答えろ」
「……はい。勝ちたいです」
いきなりの質問に面食らったものの、その質問に『いいえ』と答えるわけにはいかなかった。俺は盾二に勝ちたい。それだけは俺のはっきりとした望みなのだから。
「そうか……ならば」
納得したように頷いた町針さんは、俺に右手を差し出す。
「『提案』しよう、私はお前に」
「て、提案?」
「ああ、お前が鵠沼盾二に勝つための『提案』だ」
「い、いや、ちょっと待ってください!」
話が予想外の方向に飛んでいきそうだったのでとりあえず彼女を制止する。……彼女がどんな提案をするかはわからないが、俺にも譲れないことがある。それを先に伝えておこう。
「町針さん、言っておきますが俺は変な小細工や反則をしてまで盾二に勝とうとは思っていませんし、それでは意味がない。俺が、俺自身が、盾二に勝ったという実感を持った上で勝利したいんです」
「わかっている。お前はそういう奴だからな」
「え?」
「言っただろう? 私はお前のことをずっと見ていた。だから安心しろ。私の『提案』はお前が心配するようなものではない」
「はあ……じゃあ一体どんな?」
俺が困惑していると、町針さんは胸ポケットから何かを取り出した。あれは……黒い首輪? いや、ああいうのはチョーカーと言うのかな?
そして彼女はいきなりそのチョーカーを首に巻き始めた。
「え、えっと……?」
「よし、これで準備は整った。それはここに宣言しよう」
そう言うと彼女は俺の右手を手に取り、顔を近づける。
「私、町針楓はこれより鵠沼剣一の下僕となる」
……はい?
「そういうことだ。これからよろしく頼む、我が主」
そして町針さんの唇が俺の右手の甲に触れた。女の人の唇が俺の体に触れるのは初めてだなあ……
……いやそうじゃないだろ! 待て、待て、待てよ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
あまりの事態に敬語を使うことも忘れ、俺は数歩退がって町針さんと距離を取った。
「意味が分からないんだけど!? え、何で!? 何がどうなってそういう話になったこれ!?」
「どうした剣一。この程度で怯むようでは私の主にはなれんぞ」
「ならないから! 俺はあなたの主にはならないから! あと説明して! なんでこうなったかを説明して!」
どんな説明をされても納得できる自信が無かったが、とりあえず話を聞かないと混乱が収まりそうに無かった。
「ふむ、お前は鵠沼盾二に何か一つでも勝ちたいのだろう? 現状、ヤツに下僕がいないのは調査済みだ。これまでもな。そこで私がお前の下僕になれば、お前はヤツより一歩先んじたことになる。それは勝利したとは言えないか?」
「……」
やばいやばいやばい。
この人は絶対やばい。発想が常人のそれじゃない。どんな人生送ってきたらこんな人間が出来上がるんだ。
「動揺しているようだな」
「当たり前だろ!」
「だが剣一、お前はそんな悠長なことを言っていられるのか?」
その言葉と同時に再び町針さんの両目が俺を見据える。
「……どういうことだ?」
「お前は何か一つでも鵠沼盾二に勝ちたい。そしてその実感を得たい。だが鵠沼盾二はこれからますますその能力を伸ばしていくだろう。それこそ誇張でなく、ヤツの下僕とも言える存在も出てくるかもしれない。そうなったとき、お前はますますヤツとの差を広げられるのではないか?」
……この人の言っていることはめちゃくちゃだ。この国で他人の下僕になろうとする人間がいるはずがない。
そう、普通の人間の下僕には。
だがもし盾二の下僕だったら? あいつにはもはやカリスマとも言っていい魅力がある。もしかしたらもう、あいつの学校にはそれこそ下僕とも言えるほど盾二を信奉している人間がいたとしても不思議には思えない。盾二はそれほどの人間なのだ。
そして、そうなったら盾二はますます俺から遠い存在になるのではないだろうか。
俺が不安を感じていると、その動揺を突くかのように町針さんが言葉を続けた。
「安心しろ。私はお前の下僕でいる。私だけはお前のものでいる。私は、ずっとそれだけが望みだったのだから」
「望み……?」
「既に事態は動き出した。これからお前は少し苦しむことになるだろう。だが私はずっとお前の隣にいてやる。私が護ってやる」
「どうして、そこまで……」
町針さんは何も言わずに、両手で俺の手を包み込んだ。
「町針さん?」
「……今は言えない。だが近い内に知ることになるだろう」
正直言って、彼女の言っていることはさっぱりわからなかった。しかしこの言葉通り、俺は近い内に知ることになる。
自分の、正体を。