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その日、神聖ファーノ帝国の帝都フィオーリアはいつになく活気に溢れていた。
それもそのはず。
今日はファーノ帝国初代皇帝エヴァンジェリスタの二十八歳の誕生日なのだ。
ファーノ帝国に従属を誓った世界中の国々から祝いの品を持った使者が訪れ、帝都中がお祭りムードに染め上げられていた。
しかも噂によると今日、偉大なる皇帝が花嫁を選ぶらしいのだ。
皇帝として即位して以来、数多送られてくる美姫たちに一切関心を持たず結婚を拒み続けてきた皇帝が皇妃を迎えるという噂は、国内のみならず世界中に広まり、帝都には世界中から美しい未婚の姫君が集まっていたのである。
* *
『ついにこの日がやってきたのだな。長く辛い年月だったが、ようやく約束を果たすことができる』
朝、ベッドで目覚めた皇帝エヴァンジェリスタは、清涼な空気を吸い込みながら喜びに打ち震えた。
窓から射しこむ太陽の光が、この世界で彼しか持たない金と銀の混ざりあった特殊な頭髪を輝かせ、まるで太陽神が現世に降臨したかのような印象を見る者に与えていた。
『ヤエ、あと少しだ。あと少しで、貴女に会える』
幼い日に別れた最愛の女性。
強大な魔力を持つエヴァンジェリスタの隣に立つに相応しい、大きな魔力を持つ女性。
目を閉じれば、すぐにその姿が脳裏に浮かび上がる。
八重が生まれ育った世界へ帰ったのは彼女が二十歳の時なので、エヴァンジェリスタの記憶ある彼女の姿は当時のまま、まったく変わることはない。
あれから十八年。八重はどんな女性になっているのだろう?
この世界にいたとき、八重は自分の容姿が人目を引くものであることにまるで気が付いていなかったが、彼女の容姿はここでは最上級の美少女だった。
艶やかな黒髪と同色の瞳。目も鼻も口も、見事な黄金比に配置され、多少胸がさみしくはあったが、成長すれば絶世の美女と呼ばれることになるだろうと誰もが胸の内で思っていた。
ゆえに召喚された当初は、彼女を狙う男も大勢いたのだ。
ただ彼女は幼いエヴァンジェリスタの変わりに勇者として召喚されただけあって、その身に秘めた魔力量が半端ではなく、一人また一人とその見えない力に圧されて身を引いて行った。
それを見ながら彼は、魔力を取り戻した自分ならば彼女の力の前で同等の存在でいられると確信していた。
当時、エヴァンジェリスタは子どもが秘めるには大きすぎる魔力を持っているということで、その力を封じられてはいたが、八重の傍に近寄ることに関しては何の障害もなかったからだ。
むしろ彼女の傍にいた方が、精神的に安心することができたくらいだ。
いや、彼女しかエヴァンジェリスタを落ちつかせることができなかったと言った方が正しい。
だが彼女は去った。
勇者としての名誉も、英雄としての名声も、そしてエヴァンジェリスタが訴え続けた愛の言葉さえも、彼女をこの世界に縛り付ける材料にはなりえなかったのだ。
彼女が去った後の紆余曲折とした世界情勢をくぐりぬけ、新たな国を建国して八年。
国情は安定し、五年前あたりからエヴァンジェリスタと姻戚になることを願う国内外の貴族・王族が花嫁候補を無理やり送りこんできていたが、彼の心を動かす娘は一人も存在しなかった。
どんな美姫も彼女には叶わない。
自分には彼女だけが必要なのだ。
美姫たちがあの手この手で自分の気を引こうとするたびに、彼はいつもそう感じていた。
* * *
「皇帝陛下、万歳! ファーノ帝国、万歳!」
皇帝となって以来、毎年の恒例行事と化している庶民への拝謁を終えたエヴァンジェリスタは、大歓声を背に受けながら拝謁用のバルコニーから奥に引き返す。
国民たちは“太陽神の化身”とも称される皇帝の姿を拝謁することができた喜びに沸きたち、彼が奥へと姿を消しても興奮状態で万歳を連呼し続けていた。
「陛下。本当に皇妃召喚の儀を行われるおつもりなのですか?」
エヴァンジェリスタの後ろをついて歩いていた宰相ガストーネ・ボネットが尋ねた。
「当たり前だ。皇妃召喚の下準備に思いのほか時間がかかったが、ようやくこの日を迎えたのだ。儀式を延期することなどあり得ぬ!」
言い切って、目的地へ向けて一直線に向かう。
普段の冷静沈着さとはうって変わった落ち着きのない姿に、ボネットをはじめとする若い重臣たちはどう反応を返していいのかわからなかった。
それとは反対に二十年以上昔から職に留まっている古参の者たちは、ニコニコと嬉しそうに後ろを歩いていた。
もともとエヴァンジェリスタは口数が多くない。
必要なことのみを口にし、必要のないことは何ひとつ口にしない寡黙な皇帝なのだ。
そんな彼が“皇妃召喚の儀”を執り行うという事実のみを、重臣たちの前で発表したのは半年前だった。
それを聞いた王国時代からの重臣たちは安堵の表情を浮かべたかと思うと、『ついに準備が整われたのですね。おめでとうございます』と祝いの言葉を口にし、若い重臣たちは訳がわからずしばらくの間驚愕して固まってしまった。
結局、帝国建国後に国に仕えるようになった重臣たちには、なぜ異世界人を皇妃として召喚する必要があるのか、誰がどこから召喚されるのか一切知らされないまま、召喚の日が訪れたのだ。
「さあ、はじめようではないか。私のただ一人の花嫁を、我が帝国に迎え入れるための儀式を!」
エヴァンジェリスタは逸る心を抑えつけながら、八重を召喚するためだけに誂えた特殊な魔法陣が床一面に張り巡らされている召喚部屋の扉を開け放った。